平成9年12月13日(土)〜

年うつり 第五日



 
 昼に起きてみだくさんのおぞうにをつくりました。分厚い元旦の新聞を読みました。ジャンボ宝くじははずれです。たまっているマンガ雑誌の二冊目を読みました。それから決算の続きです。ラーメンの夕食をはさんでようやく終わりましたけれど、惜しいことに昨年はきわどく八万六千七百五円の赤字でした。競馬宝くじ麻雀合わせて二十四万四千三百円の負けが痛かったようです。年賀状が何枚か来ていました。マンガ雑誌の三冊目を読みました。今日は昼過ぎに雨が降っていました。あなたは今、雪の中ですか。
 夏休みよりも前のことです。係の皆は普通七時まで仕事をしていましたが、あなたは新入社員でしたから六時で帰っていいことになっていました。でもそのうちにあなたは六時で帰らなくなり皆と同じ時間まで仕事をするようになりました。私が帰ってもいいんだよと言うと、別の係にいる寮の友だちが七時まで仕事をしていていっしょに帰りたいから、とあなたは言いました。また何日かして私が同じことを言うと、あなたはお金が欲しいから、と答えました。この頃でした。仕事が終わって私がいつものコンビニエンスストアに行くと、おそろしくきれいで長い素脚の若い女性が、雑誌を立ち読みしていました。まずその脚が見えて、ひゃあ最近の若い子はすばらしいなあ、と思うと、短い髪型や背中の感じに覚えがあります。あなたでした。のぞきこむようにして、やあ、と挨拶しました。あなたも、家はこの近くなんですか、と少し驚いた風です。場所は正しく知りませんが女子寮は会社から十分ぐらいにあるようですね。私もあの会社のアルバイトに応募した最初の理由は近いからなんです。会社では女子社員は淡く明るい黄色のトレーニングウェアのようなユニホームを上下とも着ています。朝出勤するあなたに一度会ったことがありますがその時は黒っぽいシャツとジーパンに野球帽をかぶっていました。後ろからでは背の高い男の子にしか見えませんでした。だからこの時の、おだやかで入り交じっている不思議な色あいの上着と短いスカート姿のあなたを見て、驚いてしまい、本当はこんなに大人びた女の人だったのかなどと感心してしまいました。中身はみんな変わらないはずなんですけれど。動物ではない人間にとって衣服がその人の一部だというのは当たっています。職場でのつい先程までのユニホーム姿とは違って、これがこの前青森から上京して来た娘だろうかと思うぐらいあなたの服装はセンスが良くてまた体型にも合っていました。いや、あなたのもって生まれた外皮のように似合っていました。何か硬質な先進性のあるオリジナリティーまで匂うのです。(ついでに言い添えますと、たかが十分程度の会社の行き帰りにどうしてあんなすばらしい格好をするんだろう。不合理である。などと後で考えました)。もしかしたら、これは私にとって、俗に言う羽衣効果をもたらしたかもしれません。羽衣効果とは、普段たいしたことのない姿をしていた人が突然別人かと思うぐらいきれいになって目の前に現われると、その落差に人は恋をしてしまう、というものです。一方私はといえば、トナーの黒いしみのあるさっきまでと同じ作業ズボンのままで、上着を青いユニホームから白いワイシャツに着替えているだけといういでたちでした。いつもは、たぶん普通の人たちが変人だと思うぐらい私は服装のことを気にしていませんが、この時は悪いことをしているような気分で、とても恥ずかしく思いました。会社では私が先生であなたが生徒でした。今、強弱が逆転して私はこそこそ逃げるようさよならを言いました。その日だけでなく、その後何回もそのコンビニであなたと会いました。推測するに、あなたも入社して間もなくからこの便利な位置にあるお店を利用して仕事のあと寄りたくなる習慣ができていたのでしょう。帰る時間が同じになって私の同様の習慣と息が合ってしまったのです。あなたが長々と立ち読みでもしていない限りほんの数分ずれただけで私たちは会えませんでしたけれど、私は今日は会えるかなと思うと夜会社を出てからの足どりがなんとなく浮き浮きして楽しみでした。終業の時、お先に失礼します、お疲れ様、またあした、とあなたと私は一応挨拶をかわす訳ですけれども、その後で会社の外でもう一度顔を合わせるかもしれない。約束をするのではありませんが、それは二人だけが知っている、秘密めいた感じがありました。それにあなたに会うときはいつもあなたは全く新しい服装をしていました。今度こそ前に見たのを着ているぞ、と思っても必ず裏切られるのです。そしてそのどれもがすばらしく似合っていました。私は不思議でした。どうしてどんな服でもあんなにうまく身につけられるんだろう。要するに中身が本物ということだろうか。寮暮らしの娘さんなのに、あんなたくさんの安物とは思えない衣装をどうやって集めたんだろう。給料を注ぎ込んでしまう着物道楽かもしれない。青森の実家は実は衣料品店ではないのか。などと勝手なことを考えていましたが、あなたのそれは存分に私の眼を楽しませてくれました。私はもうほとんど観客でしたから自分の救いようのない格好のことはそのうち忘れました。そのコンビニで私たちは会っても、またあしたの挨拶をもう一度繰り返すだけで、よくて二言三言話すだけでしたし、あなたには秘密でもなんでもなかったし通勤着を日替わりにするのも常識に過ぎなかったのかもしれません。あなたが会社でのさよならのあと更衣室などであまり無駄をしないで帰途につくのがしだいにはっきりと測ることができてきましたので、そんな大人気ないことすんなよと自分を止めるのですが私も煙草など切り上げててきぱき帰るようになっていきました。少なくともあなたに絶対会えない時間まで会社でのろのろしていることはなくなったみたいです。あなたに会いにいくのではない、夕食とかを買うためにいつものコンビニに行くのだ、と、足が早まらないように、むしろだらだらと自分が気のりしていないことを自分に示すように夜道を歩いたりしました。でも、時計を見ながらです。店内を眼で探してもあなたがいない晩は(その方が多かったのかもしれませんが)、寄らなかったかもう帰ってしまったか他の所で用事があるのかもしれない晩は、あなたと私は会社での仕事仲間にすぎなくてプライベートな時間のことを干渉しあう仲ではないのだから、これはなんでもないことなんだなどというふうに心ではどう思おうと、落胆しました。でも明日があるさと思いました。その明日になると、あなたと私は何でもないのだから私が寄らない日があっても不思議ではないと思い、気まぐれでそうしたいのだと自分のことを外から見ながら、別の店に行ったり大幅に遅れて行ったり、ということもありました。どうやら、いつのまにか重傷になっていました。
 夏休みの始まる週の一つ前の週、連続して五日か六日、あのコンビニであなたと「めぐり会った」ことがありました。かなり仕事の忙しかった頃で昼間はあらゆる神経質でめんどうなことで私の頭はいっぱいでした。週の終わりの日の仕事場での最後に、あなたと例のさよならの挨拶を交わしましたけれど、私は上の空でした。週明けに何から手をつけるべきかなどと悩み考えていたのです。気がつくと帰りかけたあなたが何か言っています。小さな声なのでわかりません。え、なに、と私は言いました。あなたは繰り返しましたが私には聞こえません。片手を耳につけてあなたの方へちょっと寄りました。二三歩ぐらいの距離でした。三度目をあなたは口早に言いました。声はきこえましたけれど私には何を言っているのか聞き分けられませんでした。大事なことなのかと思い、え、もうちょっとはっきり、と頼みました。が、あなたは「もういいです」と言って(これはわかりました)顔の所で手を振って行ってしまいました。係の部屋にある女子の小物入れ用のロッカーに向かうあなたの背中、黄色いユニホームを数秒間見つめていました。いいのかな。大切なことじゃないのかしら。すると突然言葉が理解できました。あなたはかろうじて私にだけ聞こえるぐらいの声で「あそこでまた会うかもしれませんけど」と言っていたのです。同時に私は大声で「ああ、わかった」と叫びました。あなたに聞こえるようにです。つなげれば私が「またあしたね」とか言ったことに対する返事なのです。私はこの日はまじに急いであのコンビニに行きました。「ああ、本当に会ったね」と私は言いました。あなたはうなずいて笑顔でしたけれど、待っていたあなたや私のせりふは芝居じみていてあの晩は互いにきまずかったみたいですね。
 もっと先まで書きたいのですがそろそろ時間です。初夢はこの後のでいいんですよね、確か。

 



[第五日 了]




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