平成10年1月4日(日)〜

缺けてゆく夜空 その一 間宮

2 家出



 
 会社を辞めた月、思うところあってか、間宮は自分の金を生まれて初めて真面目に計算している。
 
《貸借対照表 58・4・23》
資 産 負 債
現    金   500000 小 計       0
郵便貯金普通  1360633  
千葉銀行普通        0
千葉銀行定期A  500000
千葉銀行定期B 1000000
京葉信組定期  1000000
定額郵便貯金  2700000 資 本
小 計 7060633 小 計 7060633
合 計 7060633 合 計 7060633
 
 現金500000は端数をこの日以前の経費(小遣い)として一旦簿外にしているため。これを入れると547500。
 全額、間宮が八年かけて稼いだものだ。これをどう遣おうが、自分の自由である、と信じて疑わなかった。しかし意地悪な見方をすればそうとも言えない。間宮は前記の会社に勤めていた間、あまりにもよく遊んだ。賭事に、酒に、旅行に、もろもろの娯楽に。若い体力が許容できる限り、盛んな欲望が命ずるままに、遊び尽くした、と言うとまあ少々大げさになるが、それほど金を遣った。この七百万はそれでも遣い切れなかった残りなのである。しかも定額貯金二百七十万は四五年前に預けていたから少なくない含み益もあるはずだった。そしてここが要点だが、間宮の稼いだ金の遣い道はほとんどがこの遊びに関するものだけだった。住居費も、光熱費も、朝や休日の食費も、彼はついやす必要がなかった。三年目ぐらいから家にかたちばかり一万か二万入れてはいたが実際そんなもので賄えるはずはない。間宮の稼ぎからは生活費相当が払われていない。どうやらまるまるその分ぐらいが残っていると言えないだろうか。だから、この七百万は、当然含み益も、全部親がくれた金である。と、もし指摘されて、当時の間宮はどこまで抗弁できただろう。
 六月の選挙の投票日。たまたまなのか向こうがそうしたのか、間宮は父親と並んで(間宮の母校でもある)小学校へ歩いていた。父親と連れ立ってなどいったい最後はいつだったか思い出すのもむずかしい。高校入試の発表のときだったか。
 よく晴れて街路は白っぽかった。
 理由も言わず勤めを辞めこの三ヶ月職を探そうとせず、かといって親の仕事を手伝うでもない二十六歳の一人息子に、父親はこう言った。
「ゆっくりあせって、自分がなにをしたいか決めなさい」
 間宮がこの父親にぶたれたことは一度だけだ。それも本当はぶたれたのではないかもしれない。風邪で小学校を休んでいるとき、せがんで父親が大事にしていたコンパクトテレビを貸してもらい、布団に寝ながら見ていた。映りを調節するため手を伸ばしてアンテナを動かしていたら、ぼきり折れてしまった。夜、父親は発見して、間宮の頭に手をのせた。少年は泣き出した。
 ふだん、間宮は何をしていたかと言うと、つまり「家事手伝い」だった。朝は雨戸開けから始まって濡れ縁のモップかけ、神棚にお供え、朝食後の食器洗い、洗濯機を回して干し、居間や応接間に掃除機、暑い日は水撒き、夕は洗濯物を取り込んで各人別に畳むとか、風呂掃除や風呂沸かし、雨戸締めなどなどをさせられた。食わせてもらってるんだからしょうがないかと、毎度同じことを母親に言いつけられるときやや反発を覚える以外特に不満はなかった(言いつけに漏れがあると、間宮はわかっていてしないので母親にはあまり罪はない)。昼間、妹二人は学校だし、両親と住み込みの人たちはみな、道路一つ隔てた職場へ出仕していた。幾部屋もあり庭も離れもある家なので本気で保守管理しようとすれば、じゅうぶん大人一人一日つぶれるとは思うのだが、間宮にその気はなく、みんなが出払ってしまえば最低限のところを手早く片付けてあとは好き勝手に過ごした。
 漫画、読書、昼飯作り(ほとんど味噌汁ぶっかけ御飯、しばらくするとものすごく濃厚な味の中華風定食屋を近場に発見)、昼寝、昼メロ、昼酒、FM、レコード、ノート書き、麦藁をかぶって数時間じっと蟻の巣を観察。
 フランスの長大な小説を数ヶ月かけて読み進めながら感激した章句をノートに転記した。高校の先生が奨めたものでずっとその量感に気圧されて手が出せなかったやつだった。影響があったのか並行して、原稿用紙になおせば千枚近い小説を自身のノートに綴って完成させもした。まれに、前者のほんものとの落差に底知れない気分を起こさせはしたが、いちおうは、間宮としては快挙だった。
 門に鍵(身内ではワッカ。輪環)かけてあっちこっちに外出。頻繁にパチンコ、たまに映画、しょっちゅう本屋、気が向けばゲームセンター、将棋道場などなど。あるいは、とにかくどこまでも歩き歩き歩き通し二時頃になったら引き返す。友人の家に遊びに行ったり、そいつらが遊びに来たりもしばしばであった。ただし、おわかりだと思うが、彼と同年代で平日のひるひなかぶらぶらしている男はそれほどはいないのだ。
 一人は、中学時代の友人で、彼は五浪して大学に行かなかった。夜、東京の専門学校に通いながら、いくつかアルバイトを試していたが、汗をかくのが基本的には好きではないらしく、そういう体型もしており、数日から数ヶ月で嫌になると辞めて次が見つかるまで悩んだり考えたりする(つまり暇を持て余す)という暮らしだったようだ。間宮が無職になったと知らせるとうれしそうにやってきた。
 同情すべき点はあって、高校三年の冬、肺に穴が開いてしまいどこの試験も受けられなかった。段ボールいっぱいの漫画本を自転車の荷台にくくりつけて見舞いに行き、間宮は「おれも就職することに決めたから」と慰めた。もちろん彼が肺に穴を開けたからではなく、間宮がそう決心したあとに知らせ(この友人の姉からの葉書)が届いたのだが。
 四日連続で遊びに来たときの四日目、トランプのページワンをしながら、バイトを探しているけどどうもという一昨日からの似たり寄ったりの話を彼はする。「代わりに電話してくれ」「夜考えてるときはなんでもしようと思うが昼間になると」「僕、からだ弱いから」「二十六歳まで何をしてたかって言われるから」などと弱気は深まるばかり。バッグから情報誌を出すので、水割りを飲ませ二人で母屋に行き、立て続けに四件電話をさせた。
「案ずるより生むがやすしだな、はっきりしちゃった」
「そうだよ、良かったじゃないか。とにかく絞られた」
「絞られたんじゃなくて、ゼロになった」
「何言ってるんだ、いくらでもある」
 もう電話したくないと言うのをあと一本だけとどうにか説得して、彼の希望からは多少ずれるがただし彼の夜学に至近というのを見つけそうさせたところ、少し長話になり、とりあえず来てみてくれということになったらしい。
「まいります。ええ、これから行きます」
 間宮についてきて欲しいと言うのでこれは、ひとのことなど知らないねと笑って断わった。
 十一月の末に来たときは、大規模遊園地のバイトを四日間したがいやんなって、明日からの別のバイトを決めちゃった。でも家に電話があって辞めるにしろとにかく手続きに一回出てくるようにと遊園地から言われた。母親がそうしますって言っちゃった。お願い、つきあってくれ。
「大学生や短大生は同じバイトやっていて時給が高いんだぜ。そんなのやっていられる?」
「かまわないじゃないか、そんなの。いい励みになるよ」
「そいつらはまだ在学中で、高卒ということじゃ同じなんだよ」
「いやだったってしょうがねえじゃん、世の中そうなってるんだから。……世の中がそうでないとしてもさ、その遊園地のルールがそうなってるならしょうがないじゃん。誰かと比べるんじゃなくて、それなりの時給ならよしと割り切るのが、なんつうか、かしこい対応じゃないかなあ」
 彼の車で往復するだけ、間宮は駐車場で待っててくれるだけでいいと言うので、このときは折れてつきあった。
 別の一人、間宮が英語の赤点克服のため(つまり高校を卒業するため)一晩泊めてもらい徹底指導を受けた高校の時の友人は、その年東大に落ちて有名私学に受かった。間宮の方は学年末試験に最低限の点を勝ち獲って晴れて高卒となれた。
 その友人は一浪して翌年も東大を受けた。今度は自信があるのか間宮を引き連れて発表に臨んだ。しかし落ちてしまい、この年も受かった有名私学の方に進んだ。
 彼は大学に四年行っただけでは不満らしく、アメリカに留学し、南北アメリカ、アフリカ、インド洋と各地でやった女の話をみやげにこの年の秋、日本に帰ってきた。ブラジルで病気になったときの看護婦と結婚することにした、とも言った。彼の親は大反対だそうだ。このフィアンセには妖精かと思えるほどの、ロシアの小説から抜け出てきたと言ってもいい娘がおり、その父親になることもうれしいのだそうだ。
 フィアンセの写真を見せてもらったが、誉めてはおいたが、映画で見る白皙女優とは隔たりがあり、すさまじいおばはんだなというのが正直な感想だった。
 親戚が塾をしてるので、その講師にでもしてもらうと言っていた。彼の家に遊びに行くと毎回、直輸入の無修正ビデオのもてなしがあった。内容は、正視に耐えず目をおおいたくなるばかりであった。飛行機を降りるまえ農協のばあさんらに頼んで袋に入れてもらうのだそうだ、彼の知り合いが。
(文通などしていたらしいが、再び現地に行くこともなく呼び寄せることもなく、気持ちはさめたらしい。後年、彼は日本人娘と結婚した)
 間宮は、辞めたあの会社の同僚おもに女子に電話して東京まで出かけ飲んだりもした。自分の送別会関連が済んでからは、未練だと思うからずっと我慢していたのだが、十月になって電話をかけてしまった。例の千枚というのが前の会社と非常によく似た所を舞台としていたので懐かしさがあふれてきたのだ。元同僚との縁がこれ以降途切れ途切れながらまたつながることになった。
 間宮は十二月になって、関西方面へ結局あしかけ十一日間になった旅行にでかけた。新宿駅午前零時前の発車。鈍行乗り継ぎ北陸回り途中福井一泊で、京都と奈良。寺社あさり歩きづめと二都の博物館、飽きたので大阪で映画やゲームセンターや動物園。鈍行東海道、大垣で時間待ちで早朝戻ってきた。四宿で八泊、行き帰り車中泊。ふらつくぐらいのリュックサックに登山靴だったから福井と奈良のホテルでは前金を取られた。これは「ひとりで行く」予行演習でもあった。おおむね固まった。十月頃、もっと前会社を辞めた直後か、さらに一年前退職を申し出たときはもうそのつもりだったのか、いずれにしても、すでに決めていた方針を実行に移す覚悟を決めた。
 家業を継ぐつもりはない。僕は小説が書きたい。自分の好き勝手をするのだからこの家の世話にはもうなれない。よって家を出る。仕事を探しやすいよう、また通勤に苦労しないためにも、東京で暮らす。
 こういう完璧な論理展開で両親に宣言するはずだったのだが、冒頭で母親が泣いてしまい、修羅場の様相となり、相互理解も容認も十分には得られなかった。父親はせめて仕事を決めてから引っ越せないのか、と言い、母親は涙声で思いつく限りのけねんを並べた。なかば喧嘩別れという形。
 ま、最後だし、と間宮はその年末年始の数日だけ家業の手伝いをした。
 十二月下旬の山手線南辺探索行は空振りだったが、新年昭和五十九年一月また出かけて中央線沿いにほどよいアパートを見つけ手金を打った。一週間後にもう一度行って本契約を結んだ。
 二月五日朝、引っ越し。五浪して大学に行かなかった友人とブラジルにフィアンセのいる友人が来てくれた。家族はだれも見送りに出てこなかった。一分後、忘れものしたからと頼んで運ちゃんにトラックを戻してもらい、縁側から食卓の皆に、
「じゃあね、行くよ」
 と手を振った。
 
《貸借対照表 58・12・29》
資 産 負 債
現    金  649469 小 計       0
郵便貯金普通  573244  
千葉銀行普通   86393
千葉銀行定期 2500000
定額郵便貯金 2700000 資 本
小 計 6509106 小 計 6509106
合 計 6509106 合 計 6509106
 
 ちなみに間宮は、雇用保険に加入していたが、失業後、給付金の申請をしていない。この年、間宮は働くつもりがなかった。求職していないのだから、僕は「不完全失業者」である。よって受給資格はない、と、ほんとうにそう考えたからである。心の中はそうでも貰える方法がありそれを知っていたけれど、そういう卑しいことをする気がしなかった。

 




[2 家出 了]




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