平成10年1月12日(月)〜

缺けてゆく夜空 その一 間宮

3 新居



 
 バイトなら夜時間できるだろう。昼働き、夜書く。二重生活が可能かもしれない。精神的には正社員の比でなく楽だから(それがバイトのはずだから)まず大丈夫。問題は体力が残るかどうか。昼も夜も書く、あるいはどちらか書きどちらか遊ぶ、そういう働かない生活は永続性がない。
 今年投稿作を書く。働きながら書いてみる。まずは、夢も追えるし衣食住にも不自由しない理想的な生活の型から試してみるのが頭いい。それで行けるならそれで十分だし、もし二重生活はきつくて書けないならそのときまた考え直せばいいだけ。困ることが生まれても工夫すれば方法は浮かぶものさ。
 投稿作がいきなり認められる。つまり売れる。稼ぎで黒字となる。自身不勉強と思っておりそっち方面の修行も苦労もほとんど積んでいない若造に、世間はそこまで甘くないとは思うが、そうであるなら一番良い。
 というのが、間宮の当面の人生戦略だった。若さと七百万の資金があるのだから、もう少し冒険的なあるいは破天荒なだけど肝心な一点だけは賢い図抜けているという発想があっていいのだが、そうであるのが望ましいのだが、しょうがない、人の個性というものだろう。
 人は時の旅人、という観点からすれば、東京で暮らすのも世界をかけめぐるのも冒険であることに変わりはない。終身雇用に身を捧げるのも手技一つに一生をあずけるのも、札束で思い切りよく注ぎ込むのもちびちび出し入れするのも、周りの人々を巻き込んでいくのも自分の内側とたわむれるのも、生き方としてどちらが上位かなど言えない。あるのは選択とそれぞれの道なのだろう。
 五浪の友人は引っ越し当日、トラックに乗ってきた間宮とは別に、ブラジルにフィアンセのいる友人の車で駅まで送ってもらいあとは夜学の定期で東京まで来て、荷物の搬入も手伝ってくれた。午後は秋葉原や、日本橋の百貨店への買い物にも付き合ってくれた。昼、夜と飲んだ。
 ブラジルにフィアンセの友人は荷物の少なさに拍子抜けして三人も要らないと千葉だけでやる気をなくした。搬出の前までは、トラックに載り切らない分を彼の車に載せ、五浪の友人がナビをして(=地図を見て指示を出し)やってくるという手筈になっていた。朝ナビをする話を聞いて五浪の友人が定期あるから電車で行くと言うやら、それはまずいと一方は言うやら、荷物は小さなトラックだったのにぴったり収まってしまうやら。万一の事故が心配だったし終わったあとみんなで酒も飲みたかったので間宮はどうしたものかと始まる前から悩んでいたが、ブラジルフィアンセの友人が最初そういう希望で結果そういうことになり、残念ではあったが内心ではまあいいかな落とし所として、と思った。打ち合わせその他に不備があったのは間宮の落ち度である。手伝ってももらいたかったが、本当は別れの酒を飲むことの方に間宮の真意があったので、労力や設備が余るというのも問題を生むとは考え及ばなかった。
 ブラジルフィアンセの友人は混み合う電車にはどうしても乗りたくない車ならいくらでもという奴であり、五浪の友人の方はごみごみした東京の道路ではどうしても車を運転したくない(だからナビも勘弁)という奴だった。ドライバーの心理は、間宮にはよくわからない。
 転入の翌朝、やけに寒いと思ったら、表面がでこぼこで不透明な、鉄線も入っているサッシ窓の内側に薄氷が張っていた。指でさわりぱらぱらと落ちるのを見て、とんでもないところに来てしまったか、と思った。真相は、昨日買ったカーテンをまだ付けていなかったためと、新しい入居者が来るからと大家さんが内壁を塗り替え、それが乾き切っていなかったことによる。ついでに言えば、畳も青々まあたらしく匂うほどで、間宮は経験がないのでこういうものかとあまり気にとめなかった。
 二月十日に電話が入った。まず実家に電話番号を伝えた。父親が出た。すぐ母親からの電話が鳴った。
 五浪の友人は一週間ほどしたらまた来て、ドアの鍵が回りにくいと言ってたからと、それを滑らかにするというオイルを持参し、さしてくれた。
 間宮はせっせと書いて三十枚、転居通知を出した。これは年賀葉書を出し合う知人とほぼ重なる。十六日に投函した。
 中学以来顔を合わせていない友人から、転居ということは結婚したのか、という電話があった。
 ブラジルフィアンセの友人とは、外国暮らしもあり居るときは近所でもあり彼の性向もあり年賀葉書は何年に一度というやり取りしかなかったが、出しておいた。向こうから電話があって、馬鹿話をし、引っ越しの日のことは何ら気にしていない様子で、気にしてると思われる方が恥ずかしいとも聞こえた。
 消印二月二十日で、前の会社の同僚である、世話好きで清明な女性からの手紙が来た。あの会社の人事異動などをからめたこまやかな可愛らしい文面だった。冒頭家事に関しては先輩ですよという自負を匂わせ、羽根はのばし過ぎないようにと笑んで締めている。……少しは今までと違った気持ちで仕事が出来そうです、なんてカッコいいこと言ってるけど、本当のところ、今から新しい仕事をすることはとっても不安です。気持ちの整理がつく迄けっこう時間がかかったのだから。そのうちゆっくり間宮さんに話を聞いてもらわなくては。お酒を飲みたくなったら会社にでも電話して下さい。いつでも飛んで行きますから。……と、彼女は言う。
 アパートの住人たちへひととおり挨拶し、買い物も一段落し、自炊もどうにかこなせることが分かり、炬燵も機能し、転居通知も上の如く済み、夜は書き物をしていたが昼間はぼうっとしてることが増えた。新宿へ映画を見に行ったりもした。自分ではないが、一人暮らしで頭がおかしくなる青年のことをノートの上で検討してみたりした。
 引っ越しはようやく終わったらしい。
 間宮は、働くか、と思った。
 通勤に時間を費やすほどばかげたことはない。なにしろ二重生活だ。歩いていけるぐらい近いところに勤め先が見つかればいいのだが。
 間宮はいくつか選んで、仕事内容よりも時給よりも一番近いものから当たっていくことにした。金はあるんだ、何週かかってもいいんだ、と自らを奮い立たせ、頬に張り手を食わせたが、その一番最初に電話したところに決まってしまった。歩いて行けた。
 二月二十二日水曜。勤務初日。押印した雇用契約書は六ヶ月だった。五時までの約束なのに七時まで残業があり、帰宅して夕食にシチューを作っていると、電話があった。それはやはり前の会社の、先輩で、間宮より一回り上の思慮深い細身の人だった。間宮より半年早くあの会社を辞めていた。今から遊びに行くよと言う。間宮はどてら姿で地下鉄の駅まで迎えに行った。一緒にシチューを食べた。
 この人はものしずかな人で声もその通りの声なのだが、間宮はそれでも大きすぎる気がして、お願いです、もう少し落としてください、と頼んだ。この一回り上の思慮深い先輩は少し驚いたふうでそれほど気にすることはないよと言ったが、うなずき、間宮に従ってくれた。この人は間宮の競馬の師匠でもある。独身だった。
 二月二十六日の日付で母親より手紙が来た。仕事先が決まったのをこちらから電話しており(電話は下の妹が取った)、それに応えてのものだった。五十九才の誕生日を迎えた父親が息切らして雪掻きをしたこと。味噌汁と御飯と三度の食事。お金が不足と思った時はいつでも電話をしなさい、ただし、嫁さんをもらって一家をかまえてからの生活は自分でするつもりで仕事について下さい。風邪をひかぬ様に。
「アルバイトでも何でも、一所懸命にやり、自分の持ち場は責任をもって、一日、一日をすごして下さい。一生に於ける二十才台の生活は、人生のうちで、もっとも活溌に働ける時期ですし、何んでもやれる輝かしい日々になります。こればかりは、お父さんやお母さんの様に、今ふり返る時に到った者でなくてはわからない事です。悔いのない日々を祈ります」
 最後に深い意味はないのだろうが、二・二六事件の日です、とある。
 それはペン書きだったが、母親がここまで流麗な筆づかいをする人とは知らなかった。内容もさることながら、間宮はしばらく見惚れていた。
 翌月になるけれど、三月二十七日火曜、飲み会をしている。間宮から連絡した。世話好きの清明な女性。耳にやさしい声の女性。巻毛の優秀な後輩だが年上の青年、つまり大卒。それと間宮だった。三人ともあの会社の在職。引越祝い、再就職祝い、くわえて間宮さんの創作活動を励ますという名目だろうが、とりあえず飲むのが皆の目的。ただ、そういうことだからと間宮は払わないでよかった。安心できる実によい雰囲気で、間宮ははしゃぎすぎた。
 世話好きの清明な女性は子供は欲しくないと言い、耳にやさしい声の女性は子供だけは欲しいと言う。「ハンバーグはパン粉を入れればふくらむから。お好み焼きにならないよ」これは前者。
 間宮の新居は、二階建てアパートの一階で、車一台通れる路地にドアが開く。壁一枚隣は大家さんの自宅。六畳と三畳程度の台所、トイレ。家賃は四万円。予算計画では二万、無理して三万と思ったが、それは人間の住むところではありませんと不動産屋が言うので、そういう気になった。押入は半畳で二段、上に天袋だけで、この収容能力のなさも気がかりで迷った。とうてい間宮の私物すべてを持ち込めないと思われた。しかし何も押入におしこむだけしか方法がないわけでなく見栄えなどどうでもいいのだから部屋の隅にでも段ボールを押しつけておけばいい、と考えた。
 なぜ気に入ったのかはよく分からない。初体験で弱気だったのか、不動産屋のその若い男に妙に説得力を感じたか。もう歩き回るのが面倒で、何もかも希望通りはどだい無理だし、多少のことは我慢すればいいだけだし、少なくともぼられるみたいな馬鹿さえ避けられるなら、そんな訳だったか。それとも、初めての土地と街、家並なのに、不思議な懐かしさを感じてしまったのだろうか。部屋の中まで見たのはこれが最初の物件である。そして、間宮はここに十年以上住むことになる。結果オーライとしよう。
 間宮が運んできたのは、段ボール十五箱と、卓袱台、座机、椅子、クッション、螢光スタンド、屑入れ、薄べり、リュックサック、ショルダーバッグ、紙袋、ビール木箱二つ、合計二十七個である。すべて番号がふられ内容のリストも残っている。くだくだしいので簡単に書くと、段ボールのうち五箱は文具や本や原稿類、三箱が衣類、三箱が食器と靴、炬燵と炬燵板で二箱、布団で二箱だった。四角い卓袱台は中学頃自分の体重で脚を一本へし折ってしまい自分で修理したものであり、座机は祖母の親が祖母のために大正時代に求めたものらしくお前で三代になるからと食器とともに母親に持たせられた。食器は、どうも、もらい物があふれて困っていたらしい。椅子はそれ用の机は持ってこなかったので踏み台兼衣服掛となった。金、通帳、印鑑、筆記具、地図、バインダー式のノート、挨拶の品々、すぐ必要な日用品や工具などを例のリュックサック、ショルダーバッグ、紙袋などに入れた。ビール木箱は食器棚にするため持ってきた。段ボールは自分で集めたので全くの不揃い。茶っ葉屋が家業であるブラジルフィアンセの友人のくれた数箱が、丈夫で運びやすくこの用途に最も適していた。
 前述の理由により間宮が実家に残してきたのが、物置に段ボール十九箱。他に、ステレオ一式とレコード、頑丈な木製机も。段ボールのうち十二箱が本。あと七箱は前の会社や学校や子供のころの物、アルバム、古いノート、受信文書、望遠鏡などだった。
 いずれマンションを買い、残してきたものもすべて東京に引き上げる、おれの引っ越しはそのときにこそ全うされたと言えるだろう。という、計画というよりは夢だけがあった。
 間宮は丹念に家計簿をつけている。大は電話新設、冷蔵庫、炊飯器、カーテン、キャスター(脚輪付きチェストのことを間宮はこう呼ぶ)、吊り下げ螢光灯、ガスレンジから、小は台所洗剤、爪切り、缶切りまで懸命に買いそろえている。
 長期間保存するなど愚かな食料の買い方をするつもりはなかったので、冷蔵庫購入の予定はなかったが、夏に冷えたビールが飲めないというのはどうも、という五浪の友人のひと言に負けた。
 テレビは魔性の女であり、そんなもの抱え込んできびしい修行がなせるはずはない。これは引かなかった。
 引っ越しがあると目ざとく一部放り込んでいくものだが、間宮はそれよりも早く販売所に電話をしおめあての新聞の申し込みをした。背広を着た青年が来て平身低頭判をもらっていった。このあと他の販売員が来ても一時間口論しても頑として間宮は折れなかった。夜、口のうまい小男が今度から××新聞を読むことに国会で決まりましたと言い、うしろでボクサー崩れみたいな傷男がうなっている。うちは永遠に○○新聞です、と十回は繰り返して対抗した。
 とりあえずあるおれの現実的な力はこれだけなのだから、無駄金は一切遣わないと強く心を律していたが、間宮の家計簿には引っ越し直後の二週だけで集計すればおおよそ八回四十品目二十万三千円の購買記録が綴られた。一人暮らしだ、やはり買いすぎではないのか。心配症の両面が自己衝突した答えなのだろうけれど。

 暫時、話は跳ぶ。
 実家に残した段ボールは、つまりあらかた書籍であるそれは、数年後、親からほかのものが置けないからどうにかしなさいのキツイ催促があり、…その他…その他の文字の見える手元リストだけで決めるのは無謀に思え、一旦戻って内容をよく吟味しようとした。間宮の思い出そのものであり変色しつつあるどの一冊とて手放すにしのびなかったが、東京の部屋の狭さを思えば選別しなければならなかった。と言って手に取りなつかしむ以上の利用価値はどの傑作にも今はないと思われ、当分真摯に再読する気が起きないだろうことも正直なところだった。時間が経っていたのだ。母親はなんであれ三年しまいっぱなしなら一生使わないと言った。場所というのは金であることがもうよくわかっていた。どうしてもまた読みたければ本屋で買えばいいだけのことと気づき、選別を中途でやめ、みな元に戻し、下の妹に、すべて古本屋に引き取ってもらうよう指示した。万歳である。捨てるよりはましだろう、だれか人に読まれるなら救いがある、と間宮は割り切った。たしか、その比較的新しい数冊の厚い文庫本、あのフランスの長大な小説を奨めた高校の先生も(東大国文卒だったはずだが)本は自分と古本屋を循環するものだったと述懐なさっていた。開かなかった段ボールにとんでもない本があったかもしれない。忘れるしかない。(本以外のものは許してもらえたので、物置に埃をかぶったままうずもれている)。
 一二ヶ月してこの妹から手紙が来、郵便為替が入っていた。一万円少しだった。どうしても残したい漫画があったのでこれとこれはもらいましたと断わってあった。あれが全部で一万円か、信じられん、と間宮は思った。
 また何年かして東京の部屋にも本があふれてきたので、危機を感じ、間宮は今度は自分で売りに行った。本がありすぎるというよりも間宮は閉塞感に弱いのだ。で、わかったのだが、千葉の古本屋は気前がよく、としわかい妹にも彼女がする必要のない難儀をさせていた。
 ある友人にこの話をすると、本というのは棚に並べてそのタイトルや著者名をながめているだけでも十分に意味があるのだ、と諭された。信じられないと縁を切られそうになった。彼の自室兼書斎は二階にあり、真下に老いた父君が起居しており、その天井はたわんでいるはずで尊属殺をしそうな状況なのだが。
 ステレオについて言うと、転居後、レコード鑑賞の習慣は絶えた。置き場所の問題のみではない。これは集合住宅の宿命である。引っ越し先を探すとき不動産屋に言った再優先の条件は静かなことだった。これほど良心的でいいのかというぐらい、全く嘘はなかった。となるとこれを守っていく義務がこちらにも生ずる。ヘッドホン利用の方策もあったけれど、どうしてもいやされない不満が心臓の奥の背骨あたりにひっそり積もっていくだろうと思われ、ハンパをするぐらいならと、間宮は忘れることにした。離れから運び、実家の応接間に残してきたこの瀟洒かつ重厚な宝物。いかほど待ちあぐねても主人は迎えに来てはくれなかったのだ。
 あの下の妹の結婚式に実家に帰ったおり、間宮のスピーカーが配線から解き放たれ母親の花瓶立てになっているのを発見した。不快は微塵も感じなかった。少なくとも何かしら役に立てていたのか、とほっとする思いだった。

 




[3 新居 了]




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