平成10年1月27日(火)〜

缺けてゆく夜空 その一 間宮

5 薬師丸



 
 五年たっても十年たっても、間宮がこのころのことを思い出してしまう、ある名前がある。それは、本名をそのまま使った女優さんの芸名だ。
 デビューするのはこの時点より半年は先のことで、いっとき皆の話題になった。本人もまだそういう未来のことはまるで知らなかった。もちろんそうだろう。芸能界のことは無知だが、仕事がある、テレビに出られる、そういう人間が時給六百円のところには普通来ないはずだ。
 ある日、数名の新人アルバイトが間宮らの課に配属となったが、その中に、いきうつしとはこのことかというぐらい「薬師丸ひろ子」にそっくりな娘がいた。人によっては、誉めるつもりでその通り言った。間宮はそれに乗り深くうなずいて微笑んでみせた。体型がやや太めなので別人であることは間違いないのだが、顔だけだと有名女優と見分けがつかない。似ているのではなく、同じなのだ。テレビや映画でしか見たことのない「薬師丸ひろ子」に間近に会っている、そういう感覚がした。
 彼女は、気にしていないのか、耳にタコで慣れているのか、素直に作業の仕方など説明を受けていたし、女の子たちと一緒に食堂に行ったりしていた。三日目ぐらいからは表面上は、もう普通の美人程度にしか男たちも扱わなかったと思う。
 少ししたある日、盗難騒ぎがあった。課の男たちには室外の廊下のはずれ隅にロッカーがあるのだが、女子らにはこの工場の南門そばの別棟に社員もアルバイトも他部署の女子も全部まとめて使う更衣室があった。人数から言ってだだっ広いか幾部屋もあるかだと想像はするが間宮は詳細を知らない。事件もそこでではない。これでは女子たちは不便だろうという配慮らしく、各部署には女子専用の小物入れ戸棚があった。間宮らの室内にもあって、この中から一人の女子アルバイトのバッグが紛失した。出入り口はIDカードだから、大げさに言えば密室犯罪、常識で言えば内部犯である。
 事件は午前中に生起し、午後遅くに解決していた。あまりにくだらないのでうやむやにされたらしく、課の幹部だけで納得していたらしい。間宮は翌日教えてもらった。結局バッグは、ここ五階の女子トイレの窓の下のでっぱりに置かれているのが見つかり、内容物は何も盗られていなかった。女子間のいたずらまたはいじめだった。
 まだバッグが出てこないときだが、女子の小物入れ戸棚の前に課長が女子アルバイトを集めて、今後こういうことがないようにするためにという注意事項を言い聞かせた。仕事内容から言っても盗難などあるまじき部署なので、ね、タイムカードから指紋を取るってよ、警察を呼んだらしいぞ、と無責任な噂も流れていた。薬師丸ひろ子にそっくりなその娘は間宮と組んでマッチング作業を一心にしていたのだが、気づいて、
「私も行った方がいいのかな」
 と尋ねた。
「うん、いちおう行ってみたら」
 彼女は立って皆の方へ行き、まぜてもらった。間宮は戻るまでしばらく手を休めそっちを眺めていた。
 これが、この未来の女優と交わした中で間宮の唯一覚えているせりふだ。
 この娘は二週間いなかった。向こうは当時のことを忘れ果てているだろうが、間宮は新聞のテレビ欄芸能欄などで名前を見かけると、あそこにいたやつらのなかでは出世がしらだな、と懐かしく思う。と言って、だからその番組を見るとかチケットを買いに行くとかはないのだが。
 名前の並ぶ順番から見てヒロインではないが端役でもない。たとえば浮気相手だとか途中で殺されてしまうとか、そんなところなのではないか。劇団育ちだから「演技派」という定評でも持つのかな、と、しばし考える。とても有名ということはないけれど、息長くTVタレントをし、本職の舞台でも主役を踏んでいる。顔立ちは、有名女優と似ても似つかなくなる。不思議なくらいに。
 この盗難騒ぎの日は、間宮のノートを見てみると、五月三十日水曜だった。まだダジャレ好きの上司のいるころだ。だれもまだ面と向かっては口にしないうちに、この上司が「おまえ、やくしまるに、そっくりだなー」と感に堪えないふうにゆっくり頭を落とし、座っている彼女の顔を覗きこもうとした。肩には肉厚の指の手を置いていた。「よく言われるだろー」「すこし」そしてしばらくしてからもこのいい歳の上司は、自分の席から「なんか俺、仕事、できねえよー」と皆に聞こえる声で彼女に話しかけた。間宮は(あの人の悪い癖が、また)と苦く笑ったから、女の子好きの上司でもあったか。彼も知ったはずなので、やはり思い出しては人に語っていることだろう。(一応書くと、ダジャレ好きの上司はある事情があって、一年しないでこの職場に復帰することになる。ただし、彼女の場合と同様まだ誰もそういう先のことは知らない)。
 替わって、計良班長がここを仕切り始める。
 その七月ごろの記事を、ノートからいくつか引いてみる。

 7/15(日)
 困ったことだが、酒が飲めなくなってきた。というより、その時は飲めるのだが、夜か、次の日に残る。
 12日にナオ君と12時まで飲んだとき、次の日の午前まで残った。
 昨日、ゆみちゃんと8時前まで飲んだあと、風呂行ったら、心臓ドキドキして、怖かった。2時まで起きてて、やっと普通に戻った。

 7/23(月)
 ゴキブリ三匹殺してしまった。(約40分間の戦いののち)
 一匹は独り者。あとは交尾中の二匹(動き鈍い、せまい所にも逃げ込めなかった)。
 皆、スリッパのパン! パン! という音のもとに。
 静かな気持ちで詩を写したり、物書くこと、とてもできず。

 7/28(土)
 今日、夢の中で、すれちがう荻原さんに声かけたけど、完璧に無視された。

 ナオ君と荻原さんは、ここで、間宮のノートに初めて名前を見せる。
 十四日土曜に会ったゆみちゃんというのは前の会社の女性同僚。ただし人妻で、以後この一文には登場しない。なぜなら、ゆみちゃんはこのとき初めての出産から程なく、このあと子育てにかかりきりとなるためだ。
 二十三日は、台所の電気をつけるとゴキブリ、という光景だろう。間宮は、初めて見るつがいを殺り、そのあと敏捷な奴を追いかけ回した。もぐり込んでしまったのではなく、陰にじっとしているだけのことが意外に多い。そばをはたくととたんに走り出す。死屍累々、ある感興がわくものだ。
 最初のつがいは、雄と雌がお尻をくっつけたまま反対方向に逃げようとするので、いとも簡単にぺっちゃんこ。煙がたつみたいに静まった。
 十二日木曜は午後九時まで、十三日金曜は午後十一時までの残業をしている(十時以降は時給五割増し)。かなり忙しくなっている。夜九時のあと遅くまで飲み、翌日深夜まで勤務、さらに翌日、休みとはいえたぶん午後早いうちから飲む。それで多少残ったとしてなぜ弱くなったことになる。あるとしたら寝不足ではないのか。若い奴は信じられない。
 また、十二日十二時まで飲んだなら、ナオ君は工場に近い間宮の部屋に泊まっている可能性が高い。それなのにその記事が書かれていないのは、べろんべろんだったためか、あるいは数日しても間宮がさして重要事とみなさなかったということだろう。事実なら間宮が部屋に初めてバイト先の人間を泊めた日なんだが。
 家計簿やカレンダーから、次のこともわかる。
 七月二十二日日曜、テレビ購入。内金一万払う。夕食、秋葉原にて外食。将棋初段の部、トーナメント優勝。
 七月二十四日火曜、ナオ君、芝君とボーリング、飲み会。
 七月二十九日日曜、テレビ来る。残金払う。
 七月三十日月曜、ナオ君、芝君と飲み会。
 当時一世を風靡したアイドルである、『めぞん一刻』という漫画の中の響子さんという女性が、一人ぐらしにはテレビはいいなぐさめになるのに、と、つぶやいていて、間宮はずっと頭の隅で覚えていた。これをまた思い出して、やはり彼女の意見はもっともである、と、一つ拠り所を見つけた。先々月の自分との約束(第4節参照)、オリンピック、間宮は半年前にした宗旨がえ(第3節参照)から再び転向した。
 ヘッドホンで聴けるテレビというものはなかったので(厳密にはあったかもしれないが間宮の買った廉価な14インチの仲間にはそういう接続がなかった。店の人に聞いても首を傾げちょっと笑っていた)、では両耳で聴けるようお医者さんの聴診器みたいなと説明したが天下の秋葉原にこれもなかった。中学の視聴覚教室にはあったのに。普通にイヤホンを買った。
 オリンピックは七月二十九日、ロサンゼルスで開幕する。が、あとで述べる通り、オリンピックどころではなくなっていくが。
 「響子さん」が本当にそういう発言をしたかどうか調べてみた。昭和五十九年の春から夏にめぼしをつけてである。筆者の時間のうちでは同一のせりふは見つからなかった。
 やっぱりテレビあった方が楽しいですよね。
 こういうのが単行本の第三巻にある。彼女が一人でつぶやいているというイメージとは違い、これは対話の中のせりふだ。第三巻は昭和五十八年五月発行であり、連載はさらに一年は先だろう。つまりこの時点より二年以上昔だ。蔵で寝かされているうちに記憶が変容したのかもしれない。よって、つぶやきは最近になされたのではなく、過去のことであったとして、本文を改変した。間宮が、春頃の、世話好きで清明な女性の意見あたりと頭のどこかで混同している、という場合もありそうだ。
 ただこれは良い作品だから、まだの方はご覧になってはいかがか。少なくともこの物語よりは断然楽しい。間宮の勘違いがどの程度のものか確かめていただけるとうれしいし。

 もう登場しないと言っていて嘘になるが、誤解されるといけないので付け加えると、ゆみちゃんはひとでなしの男に孕まされこころならずも夫婦になったのだが、呪われたしるしがやっとおなかから消えたので、つかのまの数刻、想い出の彼との逢瀬をたのしむため抜け出てきた、というわけではないのだ。
 昔あの会社で詩や小説を見せ合いましょうという、ゆみちゃんの言いだしっぺで始まった会があり、間宮はメンバー四人のうちの一人だった(あとは一回り上の思慮深い細身の先輩と、本の重みで尊属殺をしそうな友人)。原稿を三人分コピーなどして真面目にそれらしきことをしたのは一二回というはかないサークルだったが、ゆみちゃんとは同志という連帯感、これは残った。
 前年の暮れ、ゆみちゃんはおなかが大きくなり、退職ということになり、本人から間宮に送別会のおさそいがあった。その時(つまり間宮が家出をしようとしている時だが)どんなの書いてるのという話になり、千枚のことも言ったがもっと短いもののことも出た。その百枚程度の作品を、ゆみちゃんはどうしても読ませて欲しいと言ったので、送別会に持っていって見せた。少しめくってから、時間ないから貸して、一月頃には返すから、と言う。それは翌年初めてする投稿作の切り札的候補のつもりだったので、かならずだよ、と固い約束を交わした。
 が、一月が過ぎるころ手紙が来て、……途中で主題(?)が変ってしまった様で、主人公が替ってしまった気がしますが、(その他細い点で、変と思う所があった−−失礼!) なんといっても、あの枚数を書きこなしたということが、私には実に感動的でした。……という具合の読みようによってはまことにてきびしい感想と四月には返せるという内容だった。出産予定日が四月ということらしい。間宮も引っ越しであわただしくそればかり考えていたのではないが、その年の最重要目標は梅雨どきが締切りの新人賞投稿だったし、他に書けそうもなければ切り替えてこの作を余裕をもって手入れするというもくろみなので、たしか二月の転居通知で少し触れ、その後一回電話もした。ゆみちゃんはおなかがどれだけ大きいかを言い、もう少ししたらと言い、受話器の向こうで手を合わせて謝った。
 この応答についてだが、弁解になるかもしれないが、間宮のを読ませてもらいケチをつけた以上、自分のも読ませなければならないと彼女なりに義理堅く頑張っているらしく、間宮の舌足らずで遠回しな電話は、返して欲しいよりも、読ませて欲しいに聞こえているのではと疑われた。
 そこで妊婦には勝てないと悟り、間宮は返らないものとあきらめ、写しをとっていなかったから、年初あたりにメモ書きを始めた新作一本で勝負せざるを得なくなった。せめて郵送する手間を掛けられないのかと思ったが初産でいろいろ心労もあるようなのだ。(あきらめたと決めてもなお、ゆみちゃんの好意の郵送をじりじり待っていたのかもしれない。また一方では、ゆみちゃんの指摘が的を射ておりその作については気分が削がれたという面もあったはず)。
 それでも、塞翁が馬と言うべきか災い転じてと言うべきか新しい環境がいい刺激になったのか、ゆみちゃんに人質となっているものよりだいぶ幻想的で大人びたのが仕上がって(主題の一貫性とか細部もこだわっていて)締切りにも間に合ったので間宮は得をした気分になり、二人の間柄は破局には至らなかったが。
 そして七月、渋谷の店でグラスを前に、いつもいつも間宮さんに返さなきゃとばかり考えていたと告白されたが、もともとうわばみだった女が、晴れてやっと思い切り飲めるとたがを外しに出張ってきたというのが本心のはずで、間宮はそれに付き合わされたのだ。
 ゆみちゃんがどういう子を産んだか知らないが、ほどよい胎教により、借りたものは必ず返すということに関しては人後に落ちない立派な大人となるであろう。

 




[5 薬師丸 了]




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