平成10年5月5日(火)〜

缺けてゆく夜空 その二 佳子さん

13 狂恋(2)



 
 八月十三日月曜。ナオ君は約束を守れなかった。ボーリングはしたが、参加者は、間宮、ナオ君、鹿野君だった。
 深夜、間宮は書いた。


  外なる夏が終わるころ
  内なる夏をいつまで保てるか
  はたまたそれは
  保つべきなのか


 八月十四日火曜は、またもボーリング大会。ただし、昨夜の男三人に、この夜は、佳子さんが加わった四人で遊ぶことができた。盛り上がった。間宮はそれだけでもう、充足を感じていたが、最中に、何を思ったか、佳子さんが突然、間宮の膝に座った。脚をそろえた白いチノパンのおしりがしばらく静かに上にあった。
 両手を前にそうっと回し佳子さんの腿あたりに近づけたが、だめ… という風に彼女が手首をつかんで止めた。それで「席」を離れた。他の男が見ているのだから、いい呼吸と言える。
 中野の軽食屋で皆で飲み、間宮はカツ丼も食べた。
 駅で、反対方向の鹿野君に、三人で手を振った。手を振られてちょっと淋しそうな目をしていた。
 鹿野君は、前髪も目もおとなしそうな青年だった。浪人生だった。一番年下ということもあるだろう、控えめで、大声を出しているとかはしゃいでいるのをほとんど見たことがない。ナオ君らに比べたら十倍はまじめな奴だった。社員の信もあったが、この数日後、他部署から応援を頼まれたとき、白羽の矢が立ち、八月一杯ということで引き抜かれた。そして、約束は守られず(向こうでも気に入られてしまったらしく)ついに戻らなかった。
 こちらの三人は誰も何も相談はしていなかったのだけど、みな間宮の部屋で夜更かしするつもりだった。電車の中でだれが口を切ったか、勝負、ということを言った。ページワンである。残る二人が手を挙げて決まった。
 二十回戦。弟子たちはもう一人前で、スリリングな戦いが続いた。
 その後、また毛布を配って寝ることとなった。前回と異なり、翌日は仕事である。間宮は早めにお開きにした。灯を消してからも、ナオ君と佳子さんはなにごとか話していた。
 今日はちゃんと寝るんだぜと念を押して、目をつむり、毛布の中で横向きになった。
 佳子さんが言うことを聞かなかった。真ん中に寝ていたが、五分もしないうちに、男二人にちょっかいを出し始めた。夜はまだ長いのにつまらないよう、ということらしい。ぺたぺたと佳子さんの汗で湿った腕を叩いたが、ゆするからだでいやいやをし、間宮のパンツの中に手を入れてきた。
「こら、だめだってば」
 と、腰を逃がして大事なところを握られるのは防いだ。
 しばらくすると、ついに、ナオ君と抱擁した。
 ぺちゃ、ぺちゃ、……
 隣から聞こえた。顎を両手でささえ黒い影をじっと見ていた間宮は、こっちが寝てしまったと思ったのだろうなと、かすれ声で、おさえて、と注意し、服地をひっぱったり、さわったりを始めた。
 蝋で固めたみたいに二人は離れない。よく濡れた舌の音だけが薄闇のなか続いた。片手で自分のひたいを支えながら間宮は、苦しい笑みを浮かべ、人差し指で佳子さんの背中を幾度もついた。もうよせってば、と囁いた。間宮は根負けしそうになったが、地獄絵図だけはごめんだという意地がかろうじてまさったのか、ようやく途絶え、沈黙のあと二人はそれぞれ息を継ぎ、割れて転がった。
 長い時間、誰も何も言わなかった。
 間宮からは見えなかったが、二人は手だけはまだつなげていたかもしれない。
 彼らからは寝息に似たものも聞こえてきたが、間宮はそれから一睡もできなかった。
 やっと朝になった。体力は強行に耐えられるかもしれなかった。しかし、頭がもう無理だった。仕事をする以上、いいかげんはしたくなかったので、間宮は決断した。八時前に二課に電話した。課長が出たので、
「すいません、おなかが痛くて」
 と嘘を言って、休みをもらった。遅刻もしたことがなかった。初めての欠勤だった。だから課長も、たぶん嘘と見抜いただろうが快く受けてくれ、その後も何もなかった。嘘をついたという点、前日までにあらかじめ断わっていなかったという点、どちらでも前の会社の八年を含め最初で最後である。
 佳子さんは、私も寝足りないと言って、起き上がる気配がなかった。
 ナオ君だけがなぜかその気で、九時前には身仕度を終えた。間宮さんもどうしても会社行くんだ、としつこかった。
「佳子さんは残していけばいいですよ、ね、行きましょう」
 腕を引っ張る。間宮は、
「もう電話しちゃったもん。ほんとに、おれ今日もう、だめ。休むときは休む。じたばたしたってしょうがないわ」
 と、振りほどいて、行っておいでとうなずいた。心配するなという意味も込めて。ただ、約束だから夕方来いよ、と重ねて言った。
 給料日なので、ナオ君は休むわけにいかず、休まないなら余り遅く出るわけにもいかないという事情らしい。佳子さんと違い、彼がそうすると計良班長が皮肉っぽい小言を降らすのだろう。にらまれている弱みがこんなところで足かせになった。
 それに、間宮は自分の部屋に佳子さんだけを残していくという案に、不安を感じた。彼らはまだ気づいていないだろうが、ただの一分間でも、今まで間宮は、部屋が他人だけになる時間を作ったことはない。
 ナオ君は、出社した。険のある沈んだ顔つきのまま、と見えたのは、間宮の色眼鏡だろうか。
 カーテンは閉めたままなので、電気スタンドを畳に置き、買ったけれど読んでいなかった漫画雑誌数冊を消化し始めた。あぐらで黄色い光の輪にうつむき、たまにぐすぐす笑っていたら、
「間宮さんて、変。なんかおかしいよ」
 と佳子さんが言った。
「そっかあ。自分ではそんなつもりないけど」
 佳子さんは、隙間の輝いているカーテンの下で赤だいだい毛布にからまり横になっている。天井を見ていたり、こちらに寝返りを打ったりする。漫画を読みながらときどき言葉を交わした。
 二人だけなのだが、不思議なくらい、佳子さんという女をどうにかしようという気が起きなかった。それぞれ好きなことをし、違う姿勢であっても、二人だけで存在している空間が、いい気分だった。こういうのでいいんだよな、と間宮は感じた。疲れや、昼間ということもあっただろうが。
 佳子さんは中学生のころ、愛人バンクの斡旋をしていたと話した。簡単に言えば、売春をしたい同級生と買春をしたい男の中継ぎということらしい。誰か大人が仕切る組織のはしくれを担っていたのか、友だち仲間だけのこぢんまりしたものの中でということなのか、そこまで詳しくは言わなかった。
「今、友だちにそそのかされて、少し書いてる」
 ほんとかよ、と内心間宮はうなった。
「すごいな。小説家か」
「そんなおおげさじゃないよ。ワルしてたころとか、そんなこと」
「そのうち読ませてくれよ」
「うん。そのうちね。時間かかるかもしれないけど。エへー」
 いたずらっ子の照れ声だった。見ると瞳がうるんでいた。
 不意にこうも言った。
「二年ごしの彼とは別れようと思いつつ別れられないの」
「うらやましい。どんな奴なの」
「彼、妻子持ちなんだ。優しいのよ」
 ほんとに、と尋ねると、今度は声なく笑って間宮を見た。頭の位置をずらし、顎をちょっと突き出す仕草をした。
 佳子さんが、こういうことまで話したのは、昨夜のこともあったのだろう。私はそんな女なんだから、と正体を見せてしまって楽になりたかったのかもしれない。間宮は「なんかおかしい」男だから失望よりも、感激した。
(作り話という可能性はいつでもあるだろうけれど、真実を話そうと思っても完全にはできない、といういつぞやの間宮の考察を反復させていただきたい。これを裏返せば、あるとしたら真実は話の中にしかないというところに行き着くはずだ。突き詰めれば、本人にとっても真偽の不確かなものを、材料もない他人がどうこう決めつけたところで、あまり意味がないかに思える。他人にとって、その人の真実は、とりあえず不都合がないならばその人の話とみなす、ほかにどうしようもない。−−要するに、見せかけの真実ではある。他人にとってその人とは、その他人の心の中にしか生きていないわけで、その人にとってのその人でさえ、その人の心の中にしか生きていない。筆者にも間宮にも佳子さんの心の中はのぞけない。佳子さんの心の中に名残りをとどめる佳子さんの過去など、なんとはるけき園であることか。真の真実は、ふつう知覚不能なのだから、見せかけはいやだというだけでいちずに追いかけても、きっと虚しい。−−佳子さんが休み時間などに、イラストの透かし絵のあるレポート用紙冊子に下敷きをはさみ何やら書き込んでいたのを間宮はたびたび見かけている。あれがそう? と訊くと、うんと答えた。これは事実である。が、あらかじめ断わっておくと、間宮はとうとうその書き物を、完成したものも下書きも目にすることはできなかった。今となっては痛恨事である。よって、残念だけれど、皆さんもご覧になれないのだ)
 こういうやり取りもあった。
「間宮さん、美人てどう思う」
「レッテルだね」
「え、どういうこと」
「ファイルの見出しということ。面白そうな、興味のある見出しなら、人は引っ張りだして中を見たくなる。ここまでの意味ならある」
「ふーん」
「だから大事なのは、中身さ。いくら美人でも、からっぽじゃ、いずれ飽きるだろう、誰だって」
「なら、わたし、どう思う」
「とってもいいと思うよ。中身もね」
 佳子さんはトイレに行くと、水は流すが、手はそこで洗わない。出て、台所の流しで蛇口をひねり、戻ってトイレのドアにさげてあるタオルで拭く。これは間宮の癖と全く一緒だった。それがここの作法とでも思ったのか。部屋の主にそこまで気を遣わなくてもいいのにと、かわいらしかった。
「もう昼になるよ、そろそろ仕事行ったら」
「間宮さんも行こう、ねえ」
「おれは電話しちゃったからな。ゆっくりするときはするの。あ、そうだ」
 と、間宮は部屋の電話番号を教えた。
 短大生を誘えなかった責を負い、夕方ナオ君がおごりに来るはずである。しかし、これから死んだみたいに寝込むつもりなので、ドア叩かれても起きられないおそれがある。その時は電話で起こしてくれ、と佳子さんに理由を言った。
 ナオ君はそらで覚えてしまっているはずだった。だからこれは佳子さんに番号メモを渡すための方便だった。
 工場では昼休みの時間帯に、佳子さんは出社した。
 同伴で昼出社、というのもオツかもしれないが、間宮とてまだ稼ぎ場所を大事にしたかった。佳子さんほど悟れない、とも言える。
 間宮はやっと安心して、眠った。
 午後六時半頃、ドアをどかんどかん叩く。もう覚めていたから、壊れちゃうよと言いながら鍵を開けた。間宮は上は裸で、首にタオルをさげていた。ナオ君が、来ましたよ、と見上げ、佳子さんが笑顔でからだをひねっていた。
 国電の駅前まで坂を下り、間宮がここらでいいだろうと決めて、中華料理屋に入った。
 メインはチャーハンで食べた。ビールを一本ずつ頼んで、やや飲み残した。佳子さんの分はおれが出そうかと言ったが、ナオ君は男らしく三人分払うと言った。でも、咀嚼している最中の口を開けて何度も見せびらかしたのは紳士ではなかった。
 二人は今夜もまたページワン、そしてざこ寝というつもりがあったのかもしれない。間宮は連続欠勤は避けたかったので、あしたは会社出たいんだ、と主張してここで二人を帰した。もし、そうしなければ、生活が崩れ始めると直観した。雑踏を駅へと並んで歩くナオ君と佳子さんを見送りながら、あいつらがあのままホテルに行くのだとしても、もういいか、という気が湧いた。物理的に他人の行動を束縛できない以上、心でつなぎとめるしかない。ナオ君や佳子さんが、友情や愛情ていどで自分を矯める若者でないことはもうわかっていた。
「好きにしてくれ」
 夜、無題の詩を書いた。


  若い娘に
  暗い話で圧倒される
  その驚きに
  今を感謝する
  余裕もなかった

  もう詩は書けないのかな
  君、それは君? それとも君。

  夏はやって来て
  去ろうとしない
  どうしても去ろうとしない
  今を
  うっとうしさの快さや
  不透明な存在感の中で
  有難いことと
  見る
  かつての目も疲れていた

  何だろう君は
  年齢がよくわからない

  が、年齢ですべてが見えるなんて
  信じても知ってもいないくせに
  君、君は、
  見てる、どうして?

  すずやかな朝よ
  新しく汚れない朝よ
  必ずやってくるかは
  いくらか不安になってきたとはいえ
  ねがう
  心の合掌に
  涙泣きしぼらせ
  ねがう


 明けて、八月十六日木曜、間宮は定時に出社して、七時まで労働した。
 一人で部屋に帰ったが、夜、ナオ君が、初めて見る青年を友だちだと言って連れてきた。なかなかのやさ男だった。
 夕食は、パンとミルクと玉子野菜炒めだった。
 食べさせてもらっているのにナオ君は、
「間宮さん、ニンジンの皮は剥いてくださいよ」
 こんな文句を言う。
「えー、ニンジンに皮なんてねえじゃん」
 ナオ君の友人に、君は、と尋ねると、
「僕も剥くと思いますけど、でもこれおいしいですよ」
 と答えた。
 彼らは夜も朝も器をなめんばかりに平らげた。
 十七日の朝食は、御飯と味噌汁と野菜入り玉子焼きだった。ニンジンをどうしたかの記録はない。

 




[13 狂恋(2) 了]




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