平成10年7月7日(火)〜

缺けてゆく夜空

その三 ナオ君

18 ナオ告白(1)



 
 性病について、付しておく。
 間宮らが夏を過ごしているこの昭和五十九年当時、エイズについて一般にはあまり知られていなかった。あったとしても、アメリカの特定の趣味を持つ男性だけがかかる風俗病、という程度の認識で、報道もせいぜい興味本位のものだった。日本では昭和五十八年六月「AIDSの実態把握に関する研究班」というのを設け、病気の侵入に備えていたということになっている。昭和五十九年七月に「我が国も汚染国に入った」という新聞記事が出、翌年の昭和六十年になって国が患者を初認定したり「輸入米血液で感染」とか「エイズ患者? 福島で死亡」とか多少話題になってくる。昭和六十一年、松本でのエイズ抗体陽性者(フィリピン女性)発見あたりから騒動になり、昭和六十二年になるといくつか耳目を引く報道が続いてかまびすしさが本格化する。
 しかし、非加熱血液製剤による感染はすでに昭和五十八年には少なからず存在していたらしい。前記の厚生省が設けた研究班というのがどうも人命尊重意識に欠けていたのではという実態が、現在ではかなり明らかになっており、薬害エイズ事件として研究班班長らが国会に呼び出されている。
 けしからん、とは思うが、横道に過ぎるのでこれ以上深入りしない。何が言いたいかと言うと、だから、そのころの日本の男性は(女性もかもしれないが)、性病はいやだとは思っても、例えば癌ほどに恐れてはいなかった。なったらなったで何とか治せるのではないか。命までは取られやしないさ。一部には、軽度の性病の罹患歴ならむしろ男の勲章とみなす風潮まで残っていた。コンドームは純粋に避妊具と考えられており、男なら、自分の身を守るものという意識はまずほとんどなかった。かったるいけれど、ときにはしょうがないか、特に青年たちの間ではそんなところだったと思う。
 佳子さんとの再会を果たせた日の翌日である、八月二十四日金曜、その佳子さんは一日中来なかった。
 ナオ君は昼の出社だった。
「きのう、電車が一緒だったので、ボーリングしました」
 と、しゃあしゃあと言う。
「でも佳子さんは、八時から用事あったんでそれで別れました」
 夜八時に仕事が終わった。
 意気が合って、間宮はナオ君と中野へボーリングしに行くことになった。
 駅までの街路で、ナオ君はときたま咳き込んでいた。まだ風邪が残っているらしく、間宮は薬でも買ってあげようか、という気をふと起こした。どこかに薬屋は、と思い、それの連想で、薬屋行くならついでにコンドーム買おうか、と考えて、その通り口に出した。
「ええ、どうしてですかあ、急に」
「来週、昔の彼女と会うんだ」
 と間宮は答えた。嘘ではない。耳にやさしい声の女性と約束をしている。が、嘘でもある。いくら間宮が佳子さんとのことで刺激を受け、少々発情気味になってきたとしても、あの人とそういうことになる可能性は大変に低い。いまさらコンドームの準備のいる間柄にはなれそうもない。半月前の間宮なら、またはもう少し冷静になれれば、分かったはずだ。だめでもともと、この歳になっては買うのが恥ずかしいということもないし、準備するだけなら悪いことでも無駄なことでもないし、という気がした。それに、そういう単語を平気で言い、ナオ君を(実体は嘘でも)うらやましがらせたいという感覚もあっただろう。
 間宮も純粋に避妊具と考えた。今後佳子さんを孕ませることを、でも間宮はどうしても避けたいとは感じていなかった。それならそれでしょうがない。産ませちゃえばいいのだから。佳子さんとなら、かなりいいかげんでもどうにかなりそうだった。が、耳にやさしい声の女性を一時の勢いでそういう目にあわせるのは申し訳なかった。ふってわいた感じで、いやもおうもなく結婚になってしまいそうだし、間宮もまともな勤労世界に戻らなければならないだろう。
 今まで間宮は悲しいぐらいもてない人間であると自覚していたから、たとえそんな進展に恵まれることがあってもいきなりなどありえるはずはなく、そんなものを常備するという考えに思い至ったことがなかった。ささやかな進歩と言えるかもしれない。以下、これら夢幻妄執の園に暗雲がたれこめるのだけれど。
 ナオ君は、ヘー、楽しみですねー、と言っていたが、こう続けた。
「実は先週、僕も女と寝たんです」
「ほんとかよ、ほー」
「声を出さない女っていますよね。うんうん黙ってるだけなの」
「おお、いるなあ。奥ゆかしいんじゃない」
「そうでもないけど。……間宮さんは、来週のいつ会うんですか」
「そんなこと、内緒だよ」
「教えてくださいよう」
「邪魔する気だろう、お前」
 間宮は、このときもう何か引っかかるものを感じていた。そのナオ君が寝たという女のことをこう尋ね返した。
「それって、佳子さんじゃねえの」
「ちがいますよう、何言ってるんです」
「なんかそんな気がする。先週っていつのことなんだよ」
「うーんと、あれは、金曜の晩ですね」
 間宮は頭を瞬間めぐらし、はっとするものがあった。とっさに顔に出るのだけはおさえて、
「いや、やっぱりそれは佳子さんだ。おれって勘がすごい鋭いんだ」
 と決めつけた言い方をした。
「ちがうって言ってるのにィ」
 先週の金曜、芝君とボーリングをした、つまりナオ君とも佳子さんともその夜遊んでいないのをまず思い出した。すぐ、佳子さんからあの電話のあったのは、それに続く土曜の未明だったのではないか、と気づいたのだ。(思いついたこの事実は、注意深く、まだナオ君に明かさなかった)
 間宮がしつこいので、ナオ君は、じゃあいいです、と言った。そんなにそう思いたいなら、佳子さんということにして話しましょうか、という意味のことを言った。間宮はうながした。
「いいですか、シナリオですからね」
 そう念を押して、室内やベッドの描写をした。
「冷房効きすぎぐらいですごく寒かった。風邪引いたのあそこでかもしれません。シーツなんかくしゃくしゃんなっちゃって」
「佳子さんとだな」
「はいはい、そうです。佳子さんにしときましょっ。彼女とコンドームしないでやったんですけれど、抜くときに出ちゃってまわりについちゃった。佳子さんがこんな(腹ふくれた仕草)になっちゃったら、あはは。……間宮さん、これシナリオですよう。信じないでくださいよう。僕シナリオ学科出てるんですから」
 薬屋が見当たらなかったので、風邪薬もコンドームも買うことはなかった。
 ボーリング場で順番待ちの間、間宮はナオ君と応酬をした。
 ナオ君が、しんみり、
「実は何もなかったんです」
 と、いまさら言った。間宮は笑って、
「そうか。ならおれも言うと、実は、来週会うのは二人なんだ。一人は会う日決まってるがそれはゆわない。一人は電話があって決まる」
 これも嘘ではなかった。一回り上の思慮深い先輩も人数に入れてしまったが。
 間宮はナオ君の何もなかったという言葉の方は全くの虚言と踏んでいた。このまま逃がしたくなかった。尻尾をつかむヒントになるかと、今までに女と寝た回数という質問をした。
 ナオ君は「二十回ぐらい。東京に来てからは二回か三回ですね」と答えた。
 間宮は「くろうとさん入れれば二十人。しろうとさんだけなら十人ちょっと、かな」と答えた。
 間宮の方は、大嘘である。しかし年齢差から言ってナオ君がこれを疑えても小嘘程度まで、と計算した。知ったかぶり合戦は、年長者原則有利である。
 ナオ君は上の通り答えてしまったので、その真偽はともかく、関連するいくつかのことは知らないとか分からないとか応じづらくなったはずだ。つまり、慣れ熟知していることとして述べなければならない。元の嘘が大きいほど、心の余裕を失い、隙が生じるだろう。
 ゲームは賭けることにした。

 《ボーリングスコア》

  一回目 間宮 112
  ___ ナオ 116

  二回目 間宮 138/250
  ___ ナオ 139/255

 




[18 ナオ告白(1) 了]




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