平成10年8月14日(金)〜
缺けてゆく夜空 その三 ナオ君
八月二十五日は最後の土曜日のため、通常の出勤日だった。 この日は前々から、社員の早川さんの意見で、ボーリング大会の予定日になっていた。しかし「大会」と自称はしても課の幹部ら承認の公のものではなかった。参加が確定しているのは、早川さん、間宮、ナオ君のみで、人集めはこれら三人の私的な努力にかかっていた。社員勧誘については早川さんに任せていたが、数日前には早川さんの方から念押しと打ち合わせに来るなど積極的だったのに、その後どうも色よい返事が揃わないらしく、情勢は下向きだった。間宮らの側でも、あと来てくれそうなのは佳子さんぐらいだった。これをどうしても盛会にしなければ、そんな義務感や思い込みはなかったけれど、うまく行かないと何か大損をするという利害もなかったのだけれど、早川さんの意欲を生かしてあげたいという思いやりと、下手なりに連夜腕を磨いていたのでお披露目をしたいというささやかな見栄は、間宮ナオ君ともに多少あったかもしれない。 一昨日の二十三日昼休み、間宮が佳子さんをボーリングに誘い、その日は断わられても「明日かあさって」と続けたとき、二十五日のこの予定はすでに間宮の頭にあった。 佳子さんは昨日二十四日、仕事を休んだが、この日、十時頃に出てきた。 ほどなく午前中の休憩時間になった。 「ボーリング大丈夫?」 と間宮は尋ねた。月曜未明の凌辱の念にゆうべのナオシナリオが上塗りされており、何も消えていないが、本人を前にしても、少なくとも今職場でどうのと話せることではなかった。顔色は変わっていないはずだが、瞳はどこまでも真っ直ぐとはいかなかった。 「いいわ。でも土曜日なんだし五時で帰ろう」 と佳子さんは言った。彼女の方もなんら屈託のない態度に見えた。 朝礼で課長が六時と言っていた。出社したバイトは、間宮、ナオ君、佳子さんだけだった。それぞれ遅刻や欠勤があり、最近は間宮まで例外ではない。仕事量から言っても必要と思えた。つまり、三人そろって五時に帰ってしまうのはやはりまずいと考え、六時から、決まっちゃったから、と半ばお願いして抑えた。 佳子さんは、きのうは歯に注射して休んだの、と言う。まだ麻酔が取れていなくて、体調も不良で、とても六時までできない気がする。 歯医者のことをこう話した。 「彼はへたなんですよね、注射しても、血が出ちゃうし痛いし。麻酔がまだ効いてて、顔のかっこがおかしいもの」 「外からはそうは見えないよ」 「そうお」 昼休み、十二時半、間宮が一人で食堂に向かうとき、食後の佳子さんと廊下ですれ違い言葉を交わした。依然「間宮さん、五時にしてほしいな」と言っていた。 食べて二課に戻ると、ナオ君と佳子さんが寄り添い話し込んでいた。鐘が鳴るまで、間宮にとっては視界から遠ざけたく思うほど仲むつまじく、そうしていた。 仕事が始まってからナオ君が、 「六時、オッケーですって」 と間宮に教えた。 櫛田みさはこの週の初めから連続して欠勤だった。理由は、食中毒ということになっていた。ただ、どうもそうではないらしい、心の問題、という噂もあった。彼女は、この土曜日になって出勤していた。 午後、通りかかった早川さんから、その櫛田みさを誘うのに失敗した、という小声の報告が入った。早川さんは期待していたようだが、欠勤のため、前日までに約束を取れなかった。首を落とし、かなり見通しが暗いという雰囲気も、早川さんは表現した。 どうやらかわりばえのしないメンバーに落ち着きそうだった。となると、また帰りの電車は三人で、となるのか、と想像が進んだ。ただし「殺し合いになるのは嫌なので三人泊まりはもうよそう」と、役者としてのせりふだけれど昨夜どこかでナオ君に言ったはずだ。間宮が駅で降りるとき、一緒に降りるか(そのまま間宮の部屋に来る)、降りないでナオ君についていくか(二人は電車とともに去る)、佳子さんに決めさせよう、という案が浮かんだ。悪くないと思った。どちらが選ばれても三人の間で後戻りの利かない結論となるだろう。そこまではっきりすれば、あきらめる場合でも思い切りがつくというものだ。 間宮は、ちょっと身震いした。おれは本当にこれをしてしまう、という気がした。 ナオ君が、自分で佳子さんに六時と言っておきながら、なんと五時で帰った。 「君ねえ、裏切る気か」 そう呼び止めると、ナオ君は、違いますよう、と間宮に弁明した。 急遽他部署に配属となっている鹿野君が、 「たぶん五時で終わるはずなので誘いに行くんです」 四時退社だったり一足違いで会えなくても、鹿野君のアパートまで行ってみるつもりです。こういうことがあったらぜひ声かけてほしいって言われてたんです。ということだった。 「遅くとも六時四十分までには僕かならずボーリング場に行きますから、間宮さん、みんなをしっかり連れてきてくださいよ」 そういう殊勝な理由なら文句はなかった。 佳子さんは、五時で帰らなかった。間宮はまずは安心した。上の通り約束はしたが、ナオ君がすっぽかすおそれがないとは言い切れなかった。佳子さんさえこっちの手の内にあれば大丈夫だろう。二人が一緒に五時で帰ったりするとそのまま一緒にどこかへの心配まであった。(ナオシナリオが嘘である可能性をまだほんの少しは考えていたかもしれない)。それに間宮は、早川さんも誰も来ず、ナオ君にも裏切られて、一人でボーリング場でまちぼうけという悲惨を、このときすでに怖がっていた。 ところが、五時をいくらか過ぎてから、佳子さんが間宮の席近くに来てしゃがみ、 「櫛田さん誘えたの」 と訊きに来た。 「だめだってさ」 と答えた。 少ししてまた来て、 「女の子、誰も行かないのなら、今日はパス」 と佳子さんが言った。 「えー、パスぅ?」 と声をつりあげ、素早く戻ってしまった彼女を振り向いていた。 間宮は正直驚いたが、内心では重ねて安心もしていた。夜、ナオ君と取り合うというのはやはりしんどかった。今日のところは回避できた、と思い緊張が解けたためだ。また、佳子さん、先に出たナオ君が二人ともボーリング場に来ないでどこかで落ち合う、という疑念は、こんな手の込んだしめしあわせをする必要がないと思われて、浮かんだが反故にした。 六時になり、二課は皆、終業となった。 「三日前から約束してたのに、一時間前になってパスなんて」 と間宮は佳子さんに文句を言った。最後の勧奨でもあった。本当に怒ったというより、ここは、ひとことぐらい言っておかないと冷たいかなと思われたからだ。残念無念だというのがこちらの本心だと思わせないとかわいそうだろうという読みで、これは嘘ではなかった。しかし、どうも間宮は演じる役柄に影響されやすいタチらしく、声には角があり表情はこわばっていた。完璧に近い静かにいきどおる人だった。自作自演なのにあまりに、あるいは演技であると余計にと言うべきか、感情を表出できる男であるようだ。嘘を演じているのではなく、本当が隠れている嘘を演じるためだろうか。この場合なら、表情こわばるほど文句を言いたい理由が、別に彼の胸の中にあるのだし。 佳子さんは、 「五時に帰れていればやったし、誰か女の子が来ればやった。めぐりあわせが悪かったのね」 と抗弁して帰った。 間宮の芝居を真に受けたので漏らしたのかもしれないが、なんだか大仰なせりふだ。深読みしたくなる。 ロッカーで「男だけになっちゃいましたが」と早川さんに確かめると、櫛田さん行かないからなあ…、とまさかと思った彼まで迷い始めている。ナオ君との待ち合わせのことを説明し、僕はどっちにしろもう行かねばならない、もしよかったら来てくださいよ、と、お願いした(この日の発起人、責任者と言えるのは紛れもなく早川さんのはずだった。間宮は昔からこういう役回りにはまってしまうことが多い)。 階段を降りていると(人専用エレベーターもあるのだが保安上の理由で五階に停まらなかった。階段の降り口もID錠である)、後ろから早川さんが追いついた。帰宅しない間宮も駅に向かうわけで、結局帰り道は一緒だった。すぐ前を真っ白いドレスの櫛田みさが歩いていた。並びかけ、行きませんか、と間宮が誘ってみた。 この様子をもし、後ろから佳子さんが見ていたら「櫛田さん、ほんとは行くんじゃない」と誤解はしないかと、間宮は二度ほど振り返った。 間宮は歩いて行き来できる自宅のため、路上で彼女と話したのは初めてだった。いつかナオ君の評にあった通り、ひらひらのある半袖、小柄できゃしゃで細っこい感じが実に幼かった。 地下鉄駅まで三人で行く。櫛田みさはそこまで気に病まなくていいのにと思えるしおれた調子で弁解した。ボーリングへたっぴい。後ろにとんだり、玉が途中で止まったりする。一課の飲み会が今日で、そちらにも誘われたけど、断わったんです。彼女は地下二階の上りホームへさらに降りるので、そこで別れた。 国電との乗り換え駅に着き、 「やりたいけど、九時に部屋に電話あるんだ。またの機会に」 と早川さんもここで降りて、さよなら。どこかしら気の弱そうな人だが、この言い訳はちょっとひどい、改めて考ると。櫛田みさが行かないから、とはいえ。 昨晩と同じ中野のボーリング場で間宮は一人待った。なかなか、ナオ君たちが来ない。ああ、あ、悪い予感が見事に的中かと自分にあきれつつコーラを飲んでいた。ほかの日はいいから、今日だけは約束を守ってくれよ、と願った。 飲みほす頃、六時四十分よりは少し遅れたけれど、ナオ君だけが来た。 互いを指さした。え、ひとり? そっちもだめか、と。 鹿野君は二三日前に、土曜は暇だから退社後はアパートにいると言っていた。一回、間をおいてもう一回阿佐谷のアパートに行ったが部屋は暗かった。と、ナオ君。間宮もこちらの顛末を説明した。 二人じゃあおもしろくない、このまま帰るかということまで話すも、帰る元気もなかったのか、せっかく来たのだし、二ゲームだけやろうと申し込んだ。 ナオ君はもともとだろうが間宮も、あの職場できたえられて相当お行儀が悪くなっていた。階段や床に座るなどなんでもないし、人のいないベンチなら斜め座りをして片足を上にあげないと損をした気分だ。ソファがあればそれは寝転がるものとしか見えない。ここにはもう慣れてもいた。で、間宮は赤紫の革張りに片手枕でくつろぎ、たまたま見つけたほころびに指を突っ込んでほじくりながら、猥談をしていた。ナオ君のおっ立ちぎみの髪などから、ボーリング場の係員も眉をひそめるけれどさわらぬ神にと感じていただろうか。 しかし、待ち時間が長かった。 どうして、強引にでも佳子さんを誘わなかったんです、とナオ君が言った。文句言って、けんかっぽくなったよ、と話した。 しばらくしてのち、話題尽きてから、 「ああ、なんだか、全然やる気がない。間宮さん、そういうことありません」 「ときにはね。君、どうしたの、佳子さんが来ないから」 「……ええ、そうですね」 「なんだ、君の方がずいぶん入れこんでるじゃないか」 「そうですね」 そしてまた退屈が続いてから、ナオ君が、佳子さんと間宮のけんかっぽい最後の会話を細かく聞かしてくれ、と言った。 「おれ、頭きちゃって、しつこくぶつぶつ言ってやった」 という具合に、ほとんど嘘になったが教えてあげた。 ナオ君は、思いめぐらすふうがあって、 「間宮さん、本当のこと話しましょうか。もう落ち込みません?」 「ああ、どうぞ。大丈夫だよ。……どうしたの。もったいつけるなら、言わなくていいんだぜ」 「じつは、……きのう言ったことは、全部本当なんです」 びくりと心の芯を打たれた。が、それは金槌ではなく木槌というところだった。悲嘆はあらかた済ませていたらしく、間宮は笑顔でいられた。 念のため、夜中の三時までやってたんだよな、そのあと、おれのとこに電話した? と訊いた。そうだ、と答えた。ナオ君は、佳子さんの後ろにいた、と打ち明けた。 これで決まった。 「それじゃあ、おれも、今だからこそ言おう」 と、ナオ君の顔をじっと見た。 「……おれが、昔の彼女と会うのは来週の木曜なんだよ」 なんだ、ああ、とナオ君は口もとをゆるめていた。 「もうボーリング全くする気ない、飲みに行きましょう」 間宮もその気分だった。申し込みをキャンセルし、むらさとへ向かった。 ボーリング場の入っているそのプラザビルの、石柱の並んでいる薄暗くひとけない一階ホールから、外へ出るあたりで、 「彼女とは結局、何回ぐらいあったの」 とにやついて質問した。 細くうなって、喉で止めて考えていたが、 「一回だけです」 訳すと、その金曜だけですとナオ君はつぶやいた。
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[20 間宮告白(1) 了]