平成10年8月22日(土)〜
缺けてゆく夜空 その三 ナオ君
居酒屋むらさとの腰掛けに落ち着くと、 「まあ、がんばってください」 などと、含み笑い付きで間宮は彼ら二人への祝福を言った。 注文を出し、ビールを注ぎ合いながら、こうも言った。 「僕、ナオ君にまだ一つ秘密があるけど、それわかっても、僕を殺さないで」 どういうことです、話してください、と言う。 「そのうちわかるよ」 「それって、佳子さんのことですか。ねえ、言ってくださいよう」 「何がなんでも知りたいって言うなら、彼女にきけばわかるさ」 「……やった?」 「そう……でもないかなあ」 「お願いです、言っちゃってくださいっ」 「やっぱりやめよう。二週間ぐらいしたら話そう。うん、それがいいや。時間あいた方が、ね、お互いのためにも。約束する。男と男。決めておくよ。ええと、九月の何日かだよな。カレンダー持ってないか」 「今話してください。頼みます。間宮さん、こうですから」 ナオ君は、胸に拝み手を押し当て、すり合わせた。 「笑い話だよ。ただのさ」 こういう風に間宮はじらした。ナオ君のいちずな不可知焦躁がそろそろ辛抱をはみだすと見て、 「どうしても? いいの?」 と幸せな笑顔で質すと、 「絶対です。かまいません」 と断じるので、間宮は条件を出した。 ショルダーバッグのジッパーを開け、バインダーノートを取り出してページを一枚外した。そして、黒の水性ボールペンを持たせて次にある通りの「念書」を書かせた。できる限り近くなるよう現物を電子文字に移し代えてみる。 ねんしょ. S59.8.25(土). 僕は.佳子さんを.ぜったい泣かすような. 行動は 全文本人の筆跡である。歪んでいるがユーモラスでもある(つまり内容にそぐわない不真面目そうな)丸文字。これだけだと後で冗談半分にしてしまえるようにという気持ちがあるかに見えるが、仕事中などナオ君のふだんの筆記も大差なかったはずだから言い切れない。拇印は赤の水性ボールペンを朱肉代わりにしているので、指紋とは別の線状の模様がある。念書本文二行目と三行目の間に意味不明の横棒があるが、これは松崎サインの書き出しではないかと推測できる。サインしようとして間宮より異論が出て、次の三行目四行目を加えたものと思う。「つつしむ」の訂正も、間宮の指導だろう。 ナオ君は、拇印の赤をおしぼりでぬぐっていた。 間宮は紙面を見渡し、バインダーに綴じ、ショルダーバッグにしまった。 話を、おもむろに始めた。 まず、二度目に三人泊まりとなった翌朝、ナオ君だけ出勤し、間宮と佳子さんは部屋に残った十五日水曜の午前中のことを言った。二人はいろいろ話したが、そういう関係はなかった。 「いいチャンスだったのに、そういえば。指も触れなかったな」 間宮は思い浮かべていた。また、その週末の土曜、日曜は静かに過ごした、ともさらっと加えた。 「それだけのことで念書なんかとったのですか」 「まあ、前置きだよ」 ビール瓶の口で、ほらあけろって、とうながし、空になったグラスに注いだ。 「金曜の晩、と言うか、土曜の朝早くの電話だけどね、おれの安眠を破ったやつ。その二人になった水曜のときにさ、佳子さんに電話番号教えたことは教えたんだ。でも確かあれは、包装紙のきれっぱしに走り書きで渡しただけだった。それもさ、夕方ベルで起こしてもらおうかと思ってだから、一日で用無しになるメモだ。佳子さんがそれをちゃんとアドレス帳かなんかに転記してくれることは期待薄だよねえ。彼女のことだからそんな几帳面はらしくないだろう。だからあの三時四十分の電話のとき、佳子さんが僕の番号覚えていたことに驚いたし、よく考えれば、なんだか不思議なんだ。金曜日、君と佳子さんが示し合わせたみたいにあせって六時で帰っただろ、そんなこと思いあわせると、電話できたのは君がいたから、それもそんな、まだ暗い朝に二人が一緒にいた、と推理していたんだ。電話のあとすぐはさ、どこか男のところからと思ってたけど、一日ぐらいしてはっと気づいたんだ。ありえるって。もちろん推理だから、かなり黒に近い疑惑、までだったんだけどね」 嘘である。夜更かしして髪でも梳かしているとき、そのきれぱっしをバッグの底に見つけていたずら心を出した、としか間宮は一昨日まで考えていなかった。 なーんだ、という顔のナオ君に、 「君がその時、教えたんだろう」 と尋ねると、 「ええ」 と頷く。確定と言える。 「その電話の次が土曜で、その次の、ええと十九日の日曜の朝だな、久しぶりゆっくり休めて、おれ気持ちよくオナニーしたんだ。ええぞええぞって感じで、な」 これも創作である。日曜の朝だったかなど真偽は覚えていないがどうでもよく、伏線として必要なのだ。(と言って、五分十分前から練り上げていたというわけでもない。瞬間瞬間に方針がたち言葉が生まれる。誰もがしていることだ) 男は多分、性交をしたことより自慰を明かすほうを恥ずかしがる。ずばりオナニーしたなどと言い切れない、普通。まして間宮はそれを一番言わないはずの人間なので、ナオ君は(えっ)と微小な驚きをよぎらせただろう。後ろめたい所に刺さり印象強い上に、それを相手が口にしてしまう以上、次に続く話題に比べれば何程のこともないから、という予感も与えただろう。もちろんこれらまで間宮は意図しなかったが。 「それで、これからが本番。料理が来ないなあ……」 「いいですから、早く話して下さいよ」 「でも、これからのこと話すのは佳子さんに対して不実なことだ。君のきのうの話が嘘だったら、申しわけのしようがないんだ。はは。だから君らのことが本当なら、もっと詳しく話してくれなきゃな」 そこで誘導されるままナオ君は、金曜の晩の叙述にまた次のことどもを補った。 江戸川までは息切れるぐらい長い道のりでした。江戸川の堤防で暗がりの中、佳子さんをずいぶん怖がらせました。彼女がおしっこしたいと言うのでそこでさせましたが、逃げちゃう真似したりしてね。ナオ君、ナオ君って呼んでました。彼女がホテルで上位になったとき、うれしかった。終わったあと、あそこ拭いたときもろ見てしまって、それにシーツに大きなしみ二つありました。今日昼休み彼女と話してるときそれ思い出して、気分悪くなりました。 で、料理も来る。自分の話にやや酔っていたナオ君が、思い出して、間宮の話を催促した。 「……うん、じゃあ、続きな。あの日曜日は気分いい一日だったけど、まあ、だらけていたとも言える。夕食の後になって、そろそろ有意義なこと始めようかと、本読んだりしてた。だんだん熱中して、寝る時間が近づいてくるのが惜しいくらいだった。そしたら、夜中になって、静まり返っているところに、こん、こん」 右拳で真似をして、ふうーと息を継いだ。 「ノックの音がしてさ、午前零時ごろだったから、こんな時間に来るのは君ぐらいだろうと思った。だけど開けたら、佳子さんだったんだ」 ナオ君が鼻をすすって咳をした。 佳子さんとテレビを観ていたことを話した。 「次の日会社だろ、遅くまでトランプなんかできないし、はやばや寝ることにしたんだ。でも、電気消してから、どうも心が騒いでね、眠れない。……」 「……それで」 「これでも一時間は迷ったんだ。でも男だな、やっぱり。おおいかぶさってそれから脱がしちゃった。もっと抵抗されるかとおもったけどな」 そして、朝までの出来事を事実に沿ってかなり露骨に話した。間宮は指先の仕草をまじえ、一つ一つどういうふうにしたのかほぼ察することができるようナオ君の前に展開した。それでも、さすがに話せないと思い、正直思い出せない時間帯もあって、実際にした行為のうち半分は省いてだが。 昨夜の復讐はあった。ただしこのことについては写実を基本にし、傷つけるためにする嘘は加えなかった。月曜、火曜、佳子さんのことを心配していたこと、出勤してこないので狂うぐらい好きになってしまった、とも言った。 「だからあやしいとは思ってもずっと信じたくなかったんだ。……きのうの君の話で、あそこのかっことかの話、入口せまくて中がひろい話なんか、みんな一致して、これは間違いないって、ショックだったよ」 ナオ君の様子は、目をおおうばかりに変わっていた。さっきまで発散していたものがしぼみ、失せてしまい、首は肩に沈み気味で、何もつかまないまま手も腕も机の縁で縮み固まっていた。照明がもっと自然なら、顔色は青黒くまでなっていたのではないか。口を結び、瞳だけでやっと間宮を見ていた。濡れているようにも見えた。 それは演技には見えなかった。 (何か壊した気がした) しかし、僕はインサートしなかったこと。君はしたこと。僕は愛されなかったこと(協力されなかった)。君は愛されたこと。僕はほとんど強引に襲ったこと、等、間宮がその違いを何度も念押すうち、ナオ君は徐々にビールに口をつけたりを始めた。 「もう彼女とは終わりました」 「最後に笑うのは、間宮さんでしたね」 「入れなかったにしろ、男の部屋に、それも僕と仲良いと知っている身近な間宮さんのところに夜一人でいったの許せない」 などと言った。 僕と佳子さんが金曜の夜、間宮さんと佳子さんが日曜の夜、−−ああ、そんな女だったのか。 愚痴っぽい呟き声だったのが、再び押し黙った様子に凝集していくらしく見えて、そしていつかはじける、その前兆のようだった。昨夜の間宮の比ではなさそうに思えた。先刻の念書はただの遊びであって一片の誠意もなかった、というわけでは決してなかったので、それに、意外なくらい傷つきやすいこの若者がかわいそうになってきて、間宮はこう付け足してあげた。 「でもね、彼女、僕の部屋に来たとき、ナオ君がいるかと思って来たみたいだぜ。ナオ君いないのねえ、とか最初挨拶みたく言ってた。君、金曜のあと、冷たくしたんじゃないの。君の電話番号も家も知らない。そうだろう」 ナオ君は一つ頷く。 「彼女、やられちゃって、少し不安定になってて、とにかく、彼女が知ってて、ナオ君が休日の間いそうなところは僕の所だけで、ふらふらっと来ちゃったのかもしれない。東京を、君を探してふらふらしてたのかもしれない」 これは作り話である。(が、こういう雰囲気が全くなかったかと言うと、間宮は自分で話をこしらえていながら、このあと時間が経つほど自信が薄れていった) 皿や小鉢が音を立てた。 「うああ、どうして襲ったんですかあ」 間宮はうそぶく風に、淡々と、 「男一人の所に好きな女が来たんだ。これはしょうがない、−−いくらおれだって、金曜の電話で君らのこと確信できてたら、そりゃ何もしなかった」 とあらためて繰り返し、いなした。 「でも、笑い話だろ。結局のところはさ。男としてこんな恥ずかしいことない。今みたいことにならなかったら、もう一度と必ずチャレンジしていた」 再挑戦を誓っていたのは間違いなかった。それは真相がかいま見えた昨夜で終わったのでもない。この日、ボーリング場でナオ君が「きのう言ったことは全部本当です」と言う前の段階でも望みは崩れ去っていなかった。記した通りである。なにしろ、あのときから一週間、射精は控えていて、たまりにたまってときに苦痛なほどだった。 男として恥ずかしい、という理屈、一度目は慰めととったのかナオ君は聞かず、二度目ぐらいで、ようやく笑い声をたてた。が、どこか調子がはずれていて、ずっと粘ついていた喉を無理に震わせて、自分がうれしい面白いというより間宮へのさげすみを乗せて、ときこえたのは、単に風邪引きで咳で荒れていたためかもしれないのだが。 ナオ君は、その晩の二人のさらに過激を物語り始め、そっちの方が上だったことを示そうとまでした。 しかし、間宮も言わせておかない。 「さっきの大事なところ、嘘だって言ったら信じる?」 そう、あとに残るような針も刺すし、 「今度また佳子さん来たら、その時は必ずやるぜ」 とも脅した。 「絶対、間宮さんのとこに行くなと釘刺しておきます」 なぜ知ったかは、話を聞いたのではなく、間宮さんのノートを見てしまった、ということで、佳子さんに話すことで合意した。 「ああ、首に縄付けておけよ。今度こそへましないように、ちんちん磨いて待ってるから」 「くっ。……でも、あの子にどうやって縄つけるんです」 他の所に男、百人はいると嘆き、 「今度したら許しません、殺しますよ」 「とにかく遊んでやるんだ」 などと吠えた。 「バイトの中では僕だけかと思っていたのに」 「君だけだよ、したのは」 「同じことです。もし、間宮さんエレクトしたら、やっていたんでしょう」 「ああ、していた。でも、エレクトしなかった。これは救いだった本当に。神様がちゃんとしてくれたんだ。さもなくば、今は地獄だよ、殺し合いだよ」 間宮は笑った、ほがらかに。 まだ飲む、まだ遊ぶ、というナオ君。 金もうないからと嘘ついて、中野の駅で別れた。
(どうも彼との飲み会はこれが最後らしい。ボーリングも以後していない)
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[21 間宮告白(2) 了]