平成10年10月17日(土)〜

缺けてゆく夜空 その三 ナオ君

23 動物園(1)



 
 八月二十七日月曜。
 午前十時すこし前、背中のずっと向こうでタイムカードの音がした。佳子さんかなと振り向くと、ナオ君だった。それから十分もせずに佳子さんが来た。
 ナオ君は起き抜けに見えるくらい疲れ力ない目をして、しきりに咳こんでいた。どうやら悪化している。
 佳子さんもやつれたふうでこっこっと咳をしていた。
 咳の質は同じに聞こえた。
 ……もしかしたら、と間宮は思ったが偶然が重なることもあるさ、と留保した。なんと公平だろうと感じた。彼らは互いを見ようともしないし、話もしない。だからこそ演技の疑いあり、と感じた。
 午前の休憩のときに、はげ紫に並んでナオ君と話した。
「土曜日は、あれから遊びましたよー」
 と言っていた。社員の早川さん(すでに登場の早川さんとは同姓の別人。だいぶ年配)もいたので、体力のことや、風邪ひいても出勤して松崎君えらくなったなあ、という話になった。
 ナオ君がポロッと言う。
「きのう、上野動物園に行ってきました」
「パンダ見た?」
「見ちゃった」
「はじめて?」
「そうなんですよ」
「僕、まだ見たことない」
「でも安いですね、三百円だった」
 一分前の話題のとき、夜になると僕元気になる。風邪だろうとなんだろうと遊びますよ。ただし、日曜は二時まで寝てますけどね、と言っていたにしては自家撞着である。
 作業を再開すると、動物園・男一人で行くわけない・デート、という連想が生まれた。さらに、先週末のいつか佳子さんに、日曜は早くから用事あるようなこと聞いていた気がした。
 で、ひらめいた。前に約束していて(たぶん電話番号は互いにまだ知らない)日曜にデートをした。いろいろ行ったかもしれないが、とにかく上野動物園に行った。今のあの二人がSEXしないわけないのでするのだが、先週ナオ君もようけ遊んでるしで金ないためもうホテルではなかろう。つまりナオ君の部屋。泊まりになり、朝、うだうだしながらも一緒に出勤した。ひらめきの数秒後には、間宮はこう紡ぎあげた。
 佳子さんは白系統のロングスカートだった。
 有力だが仮説である。また鎌かけて聞き出してやるか、と決めた。
 昼休み、ナオ君は走って階下へ行ってしまった。まあ、追いかけずとも彼が来たらと、間宮はのんびり五階の喫煙所にいた。どうしても確かめなければというたぐいではなかった、すでに。ベンチはいっぱいではげ紫にすわっていたら、ナオ君がマイルドセブンを買ってやってきた。間宮は依田さん(定年延長中のおじいさん社員)と話していたので、ナオ君は依田さんの向こうにすわった。灰落としに立ち上がったついでに、ナオ君の隣に移った。
 この五分ほど前。昼休み始めの混雑の中、平林さん(パートの奥さんで彼女とわりと仲良い。細くて軽そうな人)と佳子さんが並んで通りすぎた。しゃがんでる間宮に気づかなかったとしても気づいたとしても不思議はない、というところだった。前をほんの数秒だったが、二人のおしゃべりの中で佳子さんが「すごく混んでたのォ…」云々と言うのが聞こえた。間宮はひとりにたついた。
 そこで、まずナオ君にこう尋ねた。
「動物園、混んでた?」
 少し思い出すふうにしてから、
「ええ、すごい人でした」
 と言う。
「おサルの前で写真も撮りましたよ」
 つふふふ、と唇の端をひろげ歯でわらい、ナオ君に耳打ちして、
「きのう彼女と行ったんでしょう」
 ナオ君は否定した。
「ちィがいますよォ」
 しかし、追及はゆるめなかった。写真は誰が撮ったんだ。そりゃ、友だちと行ったんですから。動物園みたい女子供の行くところに男だけで行くか。女の子もいたんです。それならと、朝のあの二人の出勤時間、様子、同じ咳をしていたこと、そこらへんから推理をぶつけた。
「君たち、もう恥も外聞もなくなっちゃったんじゃない。あからさまだわ。少し考えた方がいいんじゃないか。あれじゃあ、すぐわかるよ」
「そんなにはっきりしてましたァ?」
 と言うかと思えば、
「間宮さんにはそう見えたんでしょ」
 とも言う。
「君たち同じ病気を分け合って、うらやましいね。今に、計良さんも津久井さんも続いて武藤さんも、それに課長もゴホンゴホン言うんじゃないか」
 と間宮は大笑いした。(初出の名は若い男性社員のもの)
「俺だからわかったのかもしれないけど、勘の鋭い人なら朝の二人見ただけでピンと来るぜ」
 しかし、ナオ君は認めようとせず、考え過ぎですよ、と言う。
「僕はあれ(土曜日の間宮さんの告白)聞いてもう彼女のこと考え変えたんです。もう全く関わり合いたくない」
「あははは、ほんの数時間前にしたばかりだから、今は顔も見たくないだけだろ」
 ナオ君はただ、苦笑。
 そして、佳子さんを拒む語を重ねるので、
「君、ずいぶんひねくれた考えに変わっちゃったんだね。……僕もきのう一日でちょっと考え変わったよ」
「どう変わったんです」
「……そうだなあ、人のいる所ではちょっと話せないなあ」
 その頃にはもう社員やアルバイトは食堂へ行き誰もいなかったが、修理会社の背広が二人、通路で機械を直していた。
「そのうち話すよ」
 と間宮は言っておいた。
 これは人のいるところでは話せない内容だからではなく、内容が無いからだった。考えが変わったという自覚が元々無いので言葉にできなかった。ナオ君が間宮の考えがどのように変わったか気にするだけでもうけもの、という作戦らしきものだった。勘だけの発言、つまり、気にしたからどうなるという読みが入っていないため、目的なき作戦ということになる。
 ナオ君の否認におかまいなく、間宮は続ける。
「ただし、……もう佳子さんにしゃべっちゃったのか」
 と告白の応酬のことを言った。
「話してません。だからあ、土曜日からけさまで会ってませんもん」
「まあいいよ。今となっては話しちゃってもいいが、今週の僕のことだけは彼女に言うなよ」
 これは木曜の、耳にやさしい声の女性とのデートを指す。
 ナオ君は、今聞くまで忘れてました、と、一応はほころばせて受けた。あきれているふうでもある。
 これも、数日前からと同様の表向きだけの、知られると困るというふりだった。木曜の晩、僕の方の彼女をアパートに連れ込んだとき、お前らに来られると困る、という理屈だ。しかし、可能性はないとは言い切れないかもしれないが、実際にはほとんどないだろうことで、本当は間宮の弱みでもなんでもない。それを、それらしく見せようとしているのだ。

 少なくも僕にとってはほとんど痛くもかゆくもないし、彼にとっては、僕が「痛いかゆい」と思っているように信じたなら少しは意味あった程度。まあ、一つ僕の弱み持ったつもりかもしれない。
 彼の告白重かったので、同じぐらいか、足りなくても十分重い告白と誤解したかもしれない。ずるい僕!

 と、この夜間宮は書いている。ナオ君が十分重い告白と解釈するとは思えない。そんなにぶい若者ではない。間宮もよく分かっているはずなのに。
 佳子さんについては、他に女がいると知れると僕のあの行為が不誠実なものだと悟られてまずい、ということになるが、誠実であれだということの方がたまらないのだ。だから「このことだけは彼女に言うな」には「言ってくれ」という期待がこもっていると思われる。あわよくば、かすかであれ嫉妬をいだいてくれたら、これだって皆無ではなかろう。ノートの字面にはないので、間宮の心にもどこまで書かれていたか不明だが。
「一つ気づいたんだけど、君たちって……」
「なんです」
「なんて言うかなあ、少し、メルヘンタッチだね」
「どういうことです、たとえば」
「たとえば……君の話が全部本当だとしたらさ。そうたとえば、夜の江戸川なんてさ」
「−−それに動物園て言うんでしょ。ちがいますよ、もう」
「あはは」
「それに、江戸川は、ほら間宮さんが佳子さんによく怖い話して、彼女もおもしろこわがっていたでしょう。だから怖い所ってことで」
「怖い所か、……動物園は怖くないもんなあ」
 十二時二十五分前後、めしに行こうと歩き出した。
 ナオ君が言う。
「少し、離れてるふりをしましょう、喧嘩してるように佳子さんに見せましょう。そうすれば気づく」
「え、彼女に知らせちゃうのか」
「そうですよ」
 歩きながら、
「これから食堂でも別々に食べましょう」
 と言う。
 間宮は彼が何を考えてるかよく見えなかったが、そんなことはどうでもいい。
「僕を見捨てるのか」
 と眼鏡をとり、おどけて泣き真似をした。
 すぐ真顔に戻って続けて、
「実は、さっきのこと言う前に一つウラを取った」
 ナオ君は、興味ある顔つき。そして、雑踏を通りすぎる平林さんと佳子さんのおしゃべりから「とても混んでたのォ」という声を耳に入れたことを話した。
「これだ、と思ったね。だから君に最初に、動物園混んでたって、きいただろォ」
 と、もう、ふきだしながら言い、そして、からだ反らし狂ったかという奇矯な声で笑いこけた。
 ナオ君は愛想が尽きましたという具合に首を振りつつ笑い、間宮の背中にパンチ数発でふざけ、
「もう一人で食堂行って下さい」
 間宮は(とりあえず先程の提案、了承したという形で)階段の方に向かった。ナオ君がトイレに入ろうとしてるところへ振り向き(まだ互いにげらげら笑いが残っている)、
「かはは、これで少しは僕の本性わかっただろ」
 と声かけた。
 話しちゃっていいと言ったり、知らせちゃうのかと驚いたり、これは間宮の自家撞着である。
 食堂では別々に食べた。先に帰るナオ君が見えた。昼休み終了五分前に二課に入室すると、佳子さんとナオ君が楽しげに話していた。
 佳子さんが間宮にまた、水曜日に短大生二人誘うことを言うので、
「あ、ああ、あれね。あれは彼と(ナオ君を指し)話し合って、ペケ(指でバツ印つくる)ということになった」
「えー」
 ナオ君も、もうあんなのまるで興味ないと言う。佳子さんは、せっかくわたしが仲をとりもってあげたのに、などと言う。
 間宮は彼らの前の椅子に背向けてすわっていたが、鐘が鳴る寸前、後ろに半身を向けいっぱいの笑顔で佳子さんに、
「もし、君が興味あるならこれ(指でマル印)でもいいよ」
 と言った。
「どういうことよ」
 と佳子さんも笑み。
 この日、佳子さんは六時で帰った。間宮もナオ君も七時までだった。ロッカーで着替える前、トイレに行き、出てきたら、ナオ君が帰るところだった。手振って、互いに意味ありげに笑顔をつくって、別れた。
 帰宅後、間宮はまたノート。五ページ以上。

 しかし、あの昼休みの会話、二十五分間だぜ。それを思い出し書いてるわけだが、もう一時間か二時間は経ってる。なんちゅうことや。テープにとっておく方がベターのように思える。(まだ一つ大きなこと忘れてるような感じあり)
 しかし、人生あるいは現実生活の実感や魅力や重さは、時計の針じゃないんだよね。二十五分間であれ、何時間もかけて、味わい返し、まだおつりくることもあるさ。今回のそれがそうかどうか知らないけど。

 佳子さん、今日、やけに色っぽいと見えなくもない。
「今日はやけに色っぽかったね。アンニュイと言おうか、デカダンスと言おうか、世紀末と言うか……とにかく、ぐっと磨きがかかったみたいだ」
 と、話す機会あれば言おうと思うも、なし。

 などと書いていた午後十時四分、電話が鳴った。
 受話器を取ると、雑音と人声が遠く小さくしていたが、なんなのかよく分からない。再生音とはすぐ気づき、少しして女のあえぎ声と見当がついた。辛抱し待っていたら、ナオ君だった。いきなりエロテープ(またはビデオの音声)を聞かせて、いたずらのつもりらしいが、
「よく聞こえねえよ、なんのこっちゃだよ」
 と手並みの悪さを指摘した。友だちのところからのようだった。
 間宮さん好きそうだから、と言う。
 昼間のことをむしかえしたが、ナオ君はまだ認めない。
「僕たちは会ってません。彼女は日光へ行ったみたいですよ」
 と言った。

 なんか、ここ二三日、毎日がおもしろくてしょうがないぜ!

 その後、午前零時十分頃、ナオ君が泊まりに来た。
 佳子さんや女の話を寝る前にした。
「僕と君はいっしょに銭湯に行ったことがある。ということは、僕ら三人は三人ともあとの二人のすっぱだかを知っている。普通の間柄ではないと言えば言えるけれどさ、三人泊まりはもうやめにしようよ。かんべんしてくれないかな」
 と、前にも言っていたことがらを繰り返した。
「ああ、いいですよ」
 とナオ君は請け合った。
「君だけが来る分にはかまわないからさ」
 間宮の思惑はこうだ。僕はもうおりた、三人泊まりがつらいという気持ちは察してくれ、佳子さんにもちゃんとけじめを言って一人で間宮さんの部屋に来ないよう責任持ってくれ、と、あの晩からここまで重ねて態度表明し要請もしたのに、ナオ君の抑えもきかず佳子さんがその意思で僕のところに来たなら、その時はなんの気がねもなくおれのものにする、必ずする、お前も文句は言えない。そのあと、そう言うための冗談ではない警告の一つのつもり(前段も嘘ではないが。君たちが睦まじくなるための手助けはもう何もしない、馬鹿くさいや、という気分もあろう。触媒にされた無念)。
 多少形を変えながらだが、上の論理は既述の通りもう何回かナオ君との間で確認されている。同じ証文が何枚もないと安心できないのか、間宮はしつこい。しつこいほど、恋敵は不安になるとでも言うのだろうか。……逆ではないのか。
 これや、木曜のデート、佳子さんをレズ扱い、などなど、実質はほとんど無意味だろう。距離を置けば、うわごとを口走っているとしか思えない。間宮の核心を表わす言葉や物があるとしたら、それを表わしていないことだけは確かそうな空疎なダミーをばらまきたがっている。一次的には煙幕なのだろうが、それで隠せるかもしれないものを誰も知りたがろうとしていない。
 例えるなら、ただの石ころを結んで釣り糸を垂らしている。魚は食いつかない。君たちを釣り上げようとしているのに石ころのはずはないじゃないか、変だと思わないか。やはり魚は見向きもしないだろう。よく分かっているに違いない釣人もむなしい。少なくとも満たされるわけはない。
 翌朝は寝坊して、朝食抜きだった。

 




[23 動物園(1) 了]




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