平成11年12月18日(土)〜

姉がとばされた話
 
 
 

 幼稚園生の頃、眠っている姉の唇に、接吻した。

 私の姉は、四月一日生まれだった。
 三月三十一日二十四時で、年齢を満たす。よって、四月二日以降に生まれた子どもたちとは学年が異なるのだ。
 ということは、生まれるのが一日遅れていただけで、私より一学年上でしかない、ということになるか。

 家業の役にも立つということらしく、小学校に上がってすぐから、毎週土曜日、お習字に通わされた。
 お習字の大先生がうなずき唸るほどの墨跡を、姉の筆先は生みだした。
 私の字はあまりにみっともなかった。並べると、涙がにじんだ。
 お習字の行き帰りには、楽しい夢やとてもちいさなことや、なぐさめてくれたりとか、手をつないで色々な話を姉はした、という気がする。
 内容はまるで覚えていない。話をしてくれたけれど、それは声であやしていただけかもしれない。話はほとんどなにもしなかったのだけれど、二つ上のおねえちゃんの温もりが私をいつも抱擁していた、そういうことかもしれない。

 道草をして、川に浮いた何かを一緒に追いかけたこともある。
 橋の上から、
「わかちゃん、早く」
 と手招きする。
 半ズボンの、あぶなっかしい足運びで、それでも走っており、まってよ、おねえちゃん、と呼び応える。

 小学二年生の梅雨だった、と思う。
 雨が降っていた。
 傘を二つ並べての帰り道だった。
 新駅の前のまっすぐな通りに大きな交差点があって、土曜の午後、人通りはあまりなかった。
 横断歩道のはじめの所のアスファルトにへこみがあり、そこに水がたまっていた。
 ぱしゃんと姉は降りた。
 弟は、逡巡した。
 姉は長靴をはいていたけれど、こちらは足首までないうすっぺらな運動靴だったから。
「わかちゃん」
 ・・さあ、つかまって。跳んで。と言うように姉が片手をさしのべてくれた。
 足元の水たまりの幅を見ていて、それから心細くそちらを見た。
 車道上にすでに降りている姉の、肩に柄をおいた桃色の傘の背後に、左折してきた路線バスの巨きな顔が迫っていた。
 路線バスは赤い横縞をしている。減速はしていたと思うし、かろうじてブレーキも踏めたはずだ。
 さしのべられた手をつかめなかった。姉はかき消えた。

 お習字の道具やら傘やらがまわりに散らばっていたかもしれないが、離れたところで、ただ雨にうたれ横たわっている、姉の白い顔の辺りを見ていた。
 すると一台のタクシーが横付けした。姉の肩と膝の下に腕を差し入れ、そのまま運び入れて、走り去ってしまった。
 集まりだした人々は、轢かれた子がいなくなったので興味が薄れていったようだ。
 路線バスの運転手が降りてきて、あるいは大人たちの誰かが、何か問いかけたはずだ。
 が、なにも言わず、泣くでもないので、知らない子の事故を目撃しただけの少年と納得したのかもしれない。
 気がつくと一人、傘を差して、家への道をぽつぽつ歩いていた。おねえちゃん、と幾度もつぶやいていた。
 家に帰って、たまちゃんはどうしたの、どこへいったの、と、だれかが問うたと思うけれど、首をかしげたり横に振ったりして、知らないと伝えた。

 夕暮れあたりになって、家に連絡が入った。
 当然騒ぎになったが、弟はどこか家の隅で、ぼやんとしていた。

 姉がいなくなってしまったこと。
 なにも助けられず、家族への報告もできない無力な自分。
 数日するうちに、胸が圧しつぶされるようになった。

 父母に連れられて病院に見舞に行った。
 ベッドで上体を起こして、姉は静かにしていた。
「だいじょうぶ、おねえちゃん」
 手をにぎった。が、ほほえんではくれず、にぎり返してもくれなかった。

 外傷はなく、骨折もない。内臓、脳波の検査をしても当時の医療水準では、どうしても異常が見つからなかった。これら検査のためと、気持ちを落ち着けるというために、二週間程度の入院となった。
 結局、後遺症は無い、とは言いきれない、というところらしかった。




 姉は高校生のとき、貧血気味と自分で言っていた。
 普段は、物静かな、匂うような、読書好きの娘だったけれど、機嫌が斜めなときにちょっかいを出すと、まれにものすごく怖ろしくなった。
 しかし、長い髪を切ってまでうちこんで、卓球の選手としても、長距離走の選手としても、好績を残している。




 姉は、東京の短大を終えると、しばらく家業を手伝っていた。
 弟は、高卒後実家から通って、東京で勤め人をしていた。家業は継ぎたくなかった。
 飲んだくれて背広のまま部屋で倒れ朦朧としていた真夜中、姉がそばに座った。
 小言でも言うのか、と思ったら、
「わかちゃん。おねえちゃん、お嫁に行くよ。家のことは頼んだからね」
 そんなことを言う。
 家族の中でいつのまにそういう話が進んでいたのか、早朝から夜中まで仕事と遊興と通勤電車で塗りつぶされていたので、知らなかった。
「ああ、いいよ。 ・・好きにすれば」
 と、横になったまま答えたが、これではかわいそうな気もして、
「とにかく、姉貴の望むとおりにしろよ。俺もそうするだけさ」
 と付け足した。
 短大のとき、知り合った青年がいたらしい。
 数日して、荷物を持って、白昼、家出した。青年のいる北陸へと。
 父が、おい、待て、と追いかけた。姉は走って逃げ、父は追いつけなかった。
 この様子は、実際に見聞きしたのではなくて、叔母が後で事情を教えてくれた。

 両親は体面を重く考える人たちだった、かもしれない。
 真相は、本来家業を継ぐべき長男のていたらくにあきれ、ほぼ非の打ち所のない長女に期待をかけていたためではないのか。
 母は後援会の幹部だった関係で、代議士に話をした。陳情のような無理じいのような愚痴をもらした。
 代議士は同志である北陸の代議士に相談する。
 その北陸の代議士の後援会幹部である社長の会社に、姉が夫と決めた青年が入社したばかりだった。
 で、この経路で話が進んで、青年は入社後半年でその会社をやめることになった。
 青年も長男だったので、親兄弟ごと、こちらの地まで、遠く引っ越してくることになった。
 まず若い二人のみ実家の離れに仮住まいして、華燭の典。
 目と鼻の先に新居が落成して、義兄が家族を呼び寄せた。
 こうして、両親は、姉を奪還した・・
 これも、裏筋は叔母が教えてくれた。

 姉はいつも安産だった。
 目と鼻の先だが、産後だけ実家に戻り、お乳をあげたりおしめを洗って干したりしていた。
 聞くところによると、産んでその日のうちに歩き回る人らしい。
 三度目の出産が近づいたが、どうもお腹がとがっている。
 双子だった。
 こうして、すべて男子、四人の母となった。

 家業は、姉夫婦が継いだ。
 甥たちは、のびやかな少年、頑健な青年へと育ち上がっていく。
 たとえこれから、あの後遺症が出るようなことがあっても、姉は本望なのではないか。
 子どもを産んでいた時期に、姉は車の免許を取った。義兄の車があったし、子どもたちの送り迎えにも重宝ということで、溌剌と活用していた。

 すでに相当ご無沙汰しているが、ある年、事情があって数日実家に帰ったことがある。
 用向きの所まで、姉の運転で助手席に座った。初めてだった。
 スピードが出過ぎているような気がした。
 出過ぎて、走行がぶれているような感じもした。
 私の顔のすぐ下を隣車線のサイドミラーがよぎった。
「ひええ・・」
 姉を見ると、
「あらあら」
 と言った。
 こいつと心中なんてごめんだ、二度とこいつの運転には乗らない、そう決めた。

 そういう精神的な意味でも、後遺症はないらしい。
 私は、車の免許を取らなかった。人を轢くのが怖くて、というのが理由の一つである。
 弟がなぜ、取ろうとしなかったのか、この姉は気づいていないようだ、と思う。

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
作品記録:
 1999-06-29 小説工房談話室 #1621 にて、「哀憐笑話(十)」として発表。初稿。
 1999-12-18 本頁に掲載。初稿のまま。