平成13年1月31日(水)〜
わきを引っ越し便のトラックが走り去っていった。
あれだったか、と振り返った。
手伝いに遅れた。
部屋まで上がって、ドアノブを回すと鍵はかかっていなかった。
螢光灯は外されているが、カーテンもないので、そこそこ薄明るい。
からっぽのキッチンに残った一つの椅子に、女は座っていた。
「なんだ。まだいたのか」
女は無言でうなずいて、わりとさばさばした笑顔を見せた。
これからではなく、すでに他人のものだ。
立ち退きを、午後、不動産屋が確認に来る。
「お昼は?」
おむすびが残ってる、という。
「じゃあ、もらおう」
ひび割れ模様の輝くアルミホイルに盛られた握り飯そして漬け物を、女は尻の乗っていた座面においた。床にじかにすわって、二人で食べた。
前に逢ったとき、言い合いをして別れた。電話で話して、納得はしてくれたから、このように引っ越しも済んでいる。
派手好きで、のろのろして、受け入れがたいことを受け入れる訓練ができていない女なのだろう。もちろん、そんなことを求めて暮らしたわけではないから、しょうがないのだが。
俺としては、てっきりこちらで身の振り方を考えるのかと思っていた。電話で女は、房総に帰るという話をしだした。
あらためて尋ねると、兄ちゃんに頼んでアパートは確保したそうだ。仕事も見つかりそうだという。
「東京はきついね」
「え、ああ。まあな」
三十前なんだから、お前の人生これからだよ。
良い縁もあるさ。
女は自分のおむすびを食べ終えると、水道で指を洗い、ハンカチをとりだしてその指を拭いた。
拭いたその布きれを、自分の顔のそばで遊ぶようにひらひらさせた。
「何をしてる」
「さようならってこと」
それで、出ていった。
何もかも失うかもしれない。
なまじ、贅沢を覚えたから、きついのだ、とは考えた。
しかし、再スタートするには、俺は歳をとりすぎている。
怖いよな、やはり、貧乏ってのは。借金取りってのも。
飯がふやけてくるような気がする。食べ切ろう。
俺が、裏切られるとはよ。
ヤキがまわったよ。
やけにおいしい話に思えた。
善良な心を罠にはめてきたんだから、いつかは自分ではまるということか。
それにしても、このヘタウチはつらいわ。でかいわ。
と、そんなことを愚痴りながら、溜息と飯と海苔とをかきまぜてのみ下していた。
玄関で物音がして、不動産屋、やけに早いな、と立ち上がろうとしたら、女が顔を見せた。
手にはまだハンカチを握っている。
口元を甲でぬぐった。気圧されて声は出なかった。
女が膝をついて、俺の禿げ頭を抱え込んだ。
「パパちゃん。元気でね」
息を吸い込んでいた。
この女の匂いも嗅ぎおさめか、と。
「ずいぶん、てかっちゃった。いつのまにかさ」
「はは、ばかやろう」
にっちもさっちもいかなくなったら、おいでよ。
今度はあたしが世話してあげる。
ばかやろう、とくり返した。
今度こそ、出ていった。
ベランダから見おろしていたら、気づいてこちらのほうへ白い手を振った。
俺は何度もうなずいて、大通りのほうに消えるまで見送った。
不動産屋を待ちくたびれて、室内を見回っていると、風呂場の鏡にアップで映っている。
どことなく気色の悪い、えびす顔だった。
ご丁寧に、口紅が頭頂部に着いたままだった。
俺は、その鏡の中の道化野郎を指さして、しばらくのあいだ、あざけりののしってやった。
それから、拳を打ち出した。
右左と意識して気合いを入れ、何度も。
ばかやろう。
お前の世話になんかなるかよ。
俺が迎えに行ってやる。
眼を見すえながら。
負けるか。
ふん、ふん、としまいに息切れするまで。
(了)