山口和明さん。
こんにちは。
御発言の論旨とは、ずれていってしまうかもしれませんけれど、私なりに。
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占いについて
占い。賭け事。宝くじ。
これらは、起源は一緒だと推測しますが、ほどほどに楽しむ、というのが大切だと思っています。
例えば、宝くじですが、「宝くじが当たったら、あれをしよう、これを買おう」と想像する。ここまでは、全然問題ないでしょう。いっときの夢なのですが、ニタニタもの思いにふけることができれば、そして発表となってドキドキ数字を目で追うというスリルを味わえれば、元はとれたと言えます。
しかし、宝くじが当たったら弁済すればいいからと、あちこちから借金して「あれをして、これを買ってしまう」。
または、「どうせ宝くじが当たるのだから」と、働かない。朝起きて、求人広告を見るのではなく、宝くじの袋を見て、よし大丈夫と、また布団に入る。
などという状態になったら、すでに「ほど」は超えているでしょう。
「これから銀行強盗に行くけれど、俺の責任じゃない。宝くじが当たらなかったのがいけないんだ」
(・・・これを今お読みいただいているお若い方の中には、そんな馬鹿な奴らがいるわけない、そうお思いの人もいるかもしれません。でも、強盗さんは無理としても、長く生きていればそのうちに、会うことができると思います)
私は、「占い」もまたしかり、と考えます。
筮竹(ぜいちく)、トランプ、水晶玉、そして、掌紋など。これらから未来が導き出せる、ということは、あり得ません。少なくとも、なんの理屈も通りません。
そして、これを一番よく知っているのが(知っているべきなのが)、占う人たち自身だと思います。
これらの小道具になんらかの霊力が宿る、という「見立て」をして、そういうフィクションの世界を、占う人、占われる人がともに楽しむ、そういう遊戯だろうと思います。「占い」とは。
(いわゆる共同幻想ということでしょうが、これは、映画でも、演劇でも、そして小説でも、当たり前のことです)
ちまたにある、料金をとって、お客さんを占う商売の場合、これらの小道具によって素人以上のレベルで、雰囲気をショーアップしてくれるものと考えるべきでしょう。
実体は、人生相談でしょうね。
短い間に、相手の様子、片言などから、その人を読みとっていくという技が必要でしょうが。小道具の方に、お客さんの気を惹き付けながら、冷静に観察しているのだと思います。
競馬の場合(私は大変好きでした)、勝った、儲けたという話は、大きな声で人に伝えたいものです。逆に、負けた、すってんてんという話は、あまり積極的には口にしないようです。早く忘れてしまいたいですからね、たいていの場合。
「占い」の、当たった、外れたということにも、同じ法則が当てはまるのではと思います。
占いが当たった場合、おお、すげえ、などと思って、人に吹聴すると思います。話題としても面白いですから。
占いが外れた場合、馬鹿なことで金を遣った、と後悔するでしょう。こんなものに頼ろうとした自分がみじめに思えるでしょう。やはり忘れてしまいたいし、あまり人には言いたくないこととなります。
というわけで、競馬は勝ったという話が広まりやすく、占いも当たったという話が聞こえがち、ということになるのではと思います。
その人の記憶の中に、という観点で言っても、「勝った」や「当たった」の方が、長く残るのではと思います。
「占い」が、遊戯であったり、人生相談であるうちは、ほどほどのうちだと、私は思います。
しかし、中には、他人から金をむしり取るための手段としか考えていない、そういう輩(やから)がおります。
大昔の話で恐縮ですが、上の妹が学校から帰ってきて、私の部屋に来ました。
「お兄ちゃん、聞いて。駅前で、易者さんに呼びとめられたの。いけない相が出ているって。見てもらったらやっぱりいけないみたい。大切なところで時間になっちゃって、明日また来てくださいって言われちゃった。・・やっぱり、行った方がいいよね」
初日の分として、五千円払ったそうです。妹は、不安で顔色が悪くなっていました。そして背後霊とか、前世とかそんなことを色々、兄に説明するのです。
「お前、おかしいんじゃないの。五千円あったら、漫画本が十冊買えるじゃんか。だまされたんだよ」
「そんなこと無い。ほかにたくさんの人が歩いてたもん。その中で、私にだけ声かけたんだよ。私をじっと見て」
「だからあ、そのたくさんの中で、一番心が素直そうで羊みたいに扱いやすそうな人間を選んだんだってば。そういう眼力だけが、プロなんだよ、そいつらは。お前、いわゆるカモだよ。・・まったく、兄は恥ずかしいぞ」
「こんな危険な相は、ずいぶん見てないって、・・だから特別な、さ」
べそかいてました。
「よっぽど客が来なくて、夕飯代もなかったんだよ。その易者さん。人助けしたと思えよ」
妹は、次の日に行ったのか行かなかったのか、もう記憶はありませんが、どちらにしろ、五千円か一万円の授業料で済んだはずです。
盗られるのが財布の中身だけならいいですが、ときには、「これは極上のカモ、千載一遇のチャンス」と見れば、際限なく容赦なく、奪う。そういう「人の皮をかぶった悪魔」がいます。
そういうのに見込まれると、財産も、身体も、未来も、むしゃむしゃと美味しく食べられてしまうでしょうね。
食べられた人はどうなるかというと、そのまま沈んでしまう、だけでなく、あるいは今度は自分が悪魔になって次の犠牲者を食べる、・・・そんな連鎖もありそうです。
(背後霊も、前世の因縁も、お化けも、怪物も、こういう悪魔人間たちに比べれば、愛らしいおとぎ話に思えます)
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「易」について、付け足しておきます。
太古から並べるといくつかの段階、種類があったのでしょうが、現在、原典とみなされているのが『周易』 * です。
六十四卦 ** についての解説書ですが、上で述べてきたような占いやその手練手管、こういうものとはまた別と考えた方がいいと思います。
乱暴に言ってしまえば、今で言う物理学、社会学、政治学、数学、こういうものを融合したような、中国古代の思想書、でしょうか。
この世界はどういう原理の元に成り立っているのか、どういう力学によって動いているのか、そういう疑問はなにも、近代以降の人間だけのものではありませんでした。
昔の人は昔の人なりに考えたのです。自然科学の実験や推論とはかなり違って、亀の甲羅を焼いたり *** 、生け贄をささげてお祈りしてなどという手段によってでしょうが、気が遠くなるぐらいの年月を費やして研究したのだと思います。未来を予測するために。
そして、亀の甲羅を焼いたり生け贄をささげてお祈りしても、たぶん、明確な答えは現われなかったのではと思います。せいぜい、いくつかの暗示や兆候というところでしょう。
古代の哲人たちは、そこで、ほとんどの部分を己の直観によって、体系を構築していったのだろうと思います。
長い歴史の果てに、集大成として編まれたであろう『周易』には、ですから、そういう哲人たちの直観や智恵が、かなり純粋に残っています。これが、実に読ませます。
手法は大間違いだったかもしれないけど、結論は、大外しどころかそうとう的を射ている、という書物です。
(妄想に妄想を掛け合わせた産物、などと片付けてしまうのはかわいそうでしょうね。古代人なりにちゃんと実践かつ探究したのだと思います。なぜなら、その頃はたぶん、いつ雨が降って作物が助かるかとか、王様が戦争に行くときの吉凶だとかを占ったのでしょうから、ミスれば首が飛びます。軽くても、指がなくなったり目がつぶされたりでしょう。そこで、できうる限り現実の先を読むために、彼または彼らは、その国の中でもっとも深く冷厳に、現実のことわりを見極めようとしていたでしょう。敵の国情まで調べに行ったり、農作物の出来不出来や天候のことも知り尽くそうとしたり。何人も、何世代も、首を飛ばされながら、むごい仕置をされながら、これが一番原理に近い、これがもっと現実そのままだ、と練り上げていったのではないのか、削り書き加えまた削りと純化させていったのではないのか、などと私は想像します)
私が読んだのは、
中国古典選1、2 『易 (上)』 『易 (下)』という文庫二分冊のものです。
著者 本田 済
監修 吉川幸次郎
朝日新聞社 昭和53年第一刷
ただし、根気がいるでしょう、読み通すには。
序盤で「易」の理法についてだいたいを読みとったなら、中間は飛ばし読みでもいいと思います。終結近くで、巴投げを食らい、鳥肌ものでした。古代人もあなどれん。と感じました。
『周易』を読むと、
三月三日とか五月五日などの重陽の日は、おめでたいから祝うと言うよりも、運気が強すぎてあぶなっかしいからそれをお払いしたり大事をとったりするらしい。
とか、
一陽来復の意味。
とか、
現代人には、あまり役立たないかもしれない知識が身に付きます。
でも、せいぜい五十年百年程度、これ以前の昔の書物を読んだり楽しんだりする場合は、しばしば助けとなります。その書物の生まれた頃にはじゅうぶんに息をしていたはずの常識をあらかじめ心得ておくことができる、ということになるでしょうか。
そういう基本書(西洋なら聖書辺りに該当か)の一つです。
* 『周易』とは、周(前十二世紀〜前三世紀)の時代の易(の書物)の意です。周の文王や孔子によって大成されたといいます。
** 「卦」は通常「か」と読みます。一つの卦は六つの位で成り立ちます。位それぞれが陽であるか陰であるかによって卦の種類が決まります。つまり、六桁の二進数と同じです。よって、卦は全六十四種類となります。
*** 亀の甲を焼いてできた割れ目で吉凶を判断したそうです。「卜」とはこの割れ目を指す文字。「占」は、卜に口を加えて、その吉凶の判断を述べることです。(参照 『角川漢和中辞典』昭和三十四年)
「口」は、口の象形ではなく、神に奉る「のりと」を入れる器を指す、という説もあります。この場合「占」は、この聖なる器に割れ目の出た亀甲を載せた形となりますか。(参照 中公新書『漢字百話』白川静 昭和五十三年)