ねっとCafe/nc:小説工房談話室


タイトル  :芸術家と大志
発言者   :和香
発言日付  :1999-02-16 11:52
発言番号  :1154 ( 最大発言番号 :1254 )

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 こんちは〜




ぱられるさん (Re:1145)

> 多少変な事を書いても大丈夫。ここは変な人の集まりですから、1人くらい
> 増えたってぜーんぜん。

 くくく〜 (笑)
 て感じですね。かえって怖がっちゃったりして(^^;
 うむ。Justで一番の変なところを目指しましょうか!

 # ハイビスカスが助かりそうですな。




平松高太さん (Re:1146)

> でもプラトンのイデア論が好きって言ってましたから!

 おお。また哲学談義。
 ideaの対語は何でしょうねえ。realかな? eros?
 大昔議論したような気もしますが、忘れ果てました。
 気が向かれましたら、教えてください。




市原勝美さん (Re:1147)

> 時間に流される現代人の代表M君を風刺している気がしましたが・・
> エリートO氏は社会の規範にあてはまらない器であるがゆえに画一化された
> 社会集団から阻害されてしまう哀しさ・・・

 ご感想ありがとうございます。
 種明かしをするようなところも特にない掌編です。
 三者三様、それぞれの地獄かもしれません。
 オチらしいオチのない空虚な終結ですが、負であるからこそ吸い込むような力があるかもしれない、そういうふうな気がして載せてみました。

> O氏が誰かさんのように思ってしまいました・・・・・

 「誰かさん」て、私かな? ・・
 淋しいひと、卑しいひと、救いがたいひと、・・これからも登場すると思いますが、みなが私です。哀や憐、たまに笑、そしていつかは・・ そんなシリーズにしていきたいと思っています。




花島賢一さん (Re:1148)

> 自分の心に嘘ついてるとやがて人生が嫌になってしまうよ。

 嘘もつき通せばほんとになる、というのもまた真理かも。
 どうせなら、前向きな、上向きな「嘘」、というのが味はよろしいでしょうか。

 私は、「欺瞞」を抱えて、でも生きていけるのも人間と思います。
 「清濁」という言葉があります。私は好きなんですけれど、やはり平松さんみたいな若い人には「清」を望んでしまう。勝手に聞こえるでしょうけどね・・

 そういえば、高校の書道の授業で、一字作品を書いてパネルにしたことがあるのですが、私の選んだ文字は「濁」でした。^^;;

> ”素直な心は芸術家の良き友”天災花島賢一曰く。

 ううむ。名言です。

 大成する芸術家は、この通りなんだろうと想像できます。
 一方、「悲劇の」と冠せられる芸術家もまたいます。自分の心に素直に従ったが為に排斥されていく、という場合もあれば、他の執着はすべて捨てて芸術にのみ捧げ尽くして、という場合もありそうで、掘り下げていくと深そうです。




カオスさん (Re:1150,1153)

> 皆さんは、一ページの容量はどれくらいなんだろう?

 画像こみで一頁100KB以下に抑えて、というアドバイスをよく聞きます。
 50〜100KBでも多少負担を感じますけどね。
 (ま、私のHPでも、ちと重めかなあ、というところ少なからずです)

 流れとして、これからは通信事情が向上するだけでしょうから、しだいしだいこの制約もゆるくなっていくと思います。ということは、それにつれて派手なのも増えていくということでしょうか・・


>PS 和香さんの哀憐笑話(二)を読んで、ピート・ハミルのニューヨーク・スケッチブックを思い出しました。
> 日常の断片をさりげなく書き、読み手に何かを渡すのは難しい事だと思っています。
> 私には、不得手な分野です。同時に読むのには好きな分野です。
> いいなぁ。ああゆうのが書けるって・・・(←少し、嫉妬)

 いや〜
 最高の賛辞をいただけたようで、こころ躍ります。
 調子にノッテしまいそうです。^^;
 『ピート・ハミルのニューヨーク・スケッチブック』というのは存じ上げていないのですが、今度本屋で見つけたら手に取ってしまうでしょう!

 えへへ、月一ではなく、もっと頻繁に発表しちゃおうかな・・
 ストックはうなるほどあるんですが、この中から玉を選り分けるのが大変なのです。(ほとんど残りません。ああ・・)

 続けていくうちに、すこしずつ新作で、ということになるかも (^^)


> あれ(幸せの糸)・・・著作権法にひっかかるかな?
> 文中に出てくる「あの話」とは「蜘蛛の糸」の事というのは、容易にわかることだし・・・
> 内容と云いたいことは違うけれど、下地になっている話だしなぁ。
> うーむ・・・どうしよう。
> この程度なら、許されるのかなぁ?

 芥川龍之介が自殺したのが、1927年。著作権は切れてますので、そのことは元からないと思います。
 問題は、文芸上の良心、あるいはカオスさんの自負心、ということでしょうね。
 その点でも曇りはない、と私は読みとりました。

1) 下地になっていることは、自明です。本歌取りとしてあることは、みなさん承知で読み進むと思います。
2) 姿は借りていても、述べている筋立ては全く別のほうへと導かれる。芥川はこうだったけど、俺は、・・・そういう(まだ至らないと謙遜なさるでしょうが)気概を、読者は楽しみながら、「なるほどね」と微笑む。
3) 芥川の作品は、人の「業」ということを考えさせるものだと思うのですが、カオスさんの作品は「あの話」を亡者たちが知っている点などコミカルな味付けの果てに、どこか土俗風なあるいは魔の色合いの「宗教性」まで匂わせて終結する。「地獄」の物語ならむしろふさわしいという展開ではないでしょうか。比べれば、芥川の筋立てのほうが教訓的で平板と見えなくもないです。(文章の差、というものは、さすがにあるかもしれません。でも死んでしまった人には、そのつもりがあれば、いずれ追い付けるはず)
4) 捨てがたい一品と思います。

 よって、「はずそうかな?」なんて言わないで。(^0^)/


☆ 「本歌取り」について。
 パロディ、とくくってしまうと軽めの語感ですが、私は「時を超えた贈答歌」とでも言いたいです。芥川だって、全てを一から作ったのではなく、仏教説話等を下地にしていたのだと思います。いにしえの先達が積み上げたものの上で、やはり無数の先達が励んでいる。さらにその上で、私たちは今日も遊べる。喜ばしいことと思います。
 そしていつかは、「本歌取りをされる」ような作品を産み落とす。これはひとりカオスさんだけの大志ではない、と思料いたします。








 では〜


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