構造美、つまり、四章の構造上の調和がとれている、ということです。
視点、執筆者ともに、男女半々であり、しかも、前半では同性を書き、後半では異性を書いている。
章の色合いも、上にあるとおり、静的な起と承同士で照応し、動的な転と結同士で照応している。
ストーリーについては、起と承ではほとんど対句となっていますし、転と結では出逢いと別れが想像できます。
これらが複数の人が打ち合わせもなくつなげたリレー小説で実現しているのですから、うれしくなってしまいます。息が合いすぎている、という感じも ^^)
◇
お題
「夢」というのは、物語や小説、ロマン、フィクション等の縁語と言ってもいい言葉ですから、広いですよね、これでお話を書くとしたら。
自由すぎて難しい、というお題でしょう。なにごとも人に押しつけたくない、という平松さんの性格が出たのかもね。
私が単独で一話創るのでしたら、ひらがなで「ゆめ」でしたので、「湯女」と漢字を当てて、かなりエッチなのを書いたかもしれません(笑)
→ 冗談ですが、でも、まだしもこのほうがしぼられていて書きやすいですよ、私は。
起
夢を、「将来の希望」「宇宙飛行士」と受けましたか。
> 子供の頃は、宇宙飛行士になりたかった。それがかなわないと気付いたのは、
>小学校4年の時だった。
いきなり暗いですよね。
あとで種明かしがあるのでしょうが、塾の講師をしているれいむさんが、そういう受験勉強をかなり否定的にとらえている。裏腹、皮肉という言葉だけでは頷けない根の深さか、なんて、私もいきなり「作者=登場人物」にしてしまって読んでました。
> 馬鹿らしい。それがぼくの全てだった。
でもここら辺で、いやいやそんなはずはない、術中に陥るところだった、なんて思いました。ある程度はれいむさんなのでしょうが、立野では部分を肥大化させている、そうでしょ?
> ぼくの中には、ぽっかり空いた穴がある。その暗い虚空の深淵に潜む獣が、ゆめを喰っているのだ。
難しいですが、一言で言ってしまえば「虚無感」なのかなあ・・
虚無に対面するということでは、最前線は宇宙飛行士かもしれませんよね。彼が暗黒の宇宙を「虚無」と感じるか「夢」と感じるか。紙一重でしょうか・・
目を凝らしてよく見ると、「暗い虚空の深淵に潜む獣」が、ぼろ切れに変わり果てた宇宙服を着ている、なんて絵も怖いか。
単なる作り話とも思えない、重石がごろごろしてるような一章と思いました。
承
立野の裏返し、いずみ嬢が登場して、この作品全体の運命が決まったかと感じます。
見事なバランス感覚!
> 中学生の時出合った、一冊の童話。あたしに新しい夢を与えてくれた。
> 童話作家になりたい。子供達に夢を見る素晴らしさを教えてあげたい。
> あたしは夢を見続ける。現実になるその日まで。
すがすがしいです。
ですから、あまのじゃくという鬼は、このままでは「お話」にならないよう、なんて悩むんです。
> あたしが一方的に見つけてしまったのだ。
> あんな人、今まで見た事がない。
これはすでに、「恋」ですよね・・
私はそう思いました。
桜の樹の下で、すれ違うだけで、二度と会わないというシュールな展開もあったでしょうが、起、承の双極の磁場があまりに強力で、転でぶつかり合わなければ納得できないところまで来ている、そう私はこのお話の流れを感じました。
ま、そこで、転の前半ではぱられるさんに乗せられて、後半ではこれに逆らってというつなげ方にしてみました。
以前、明るいお話しか書きたくない、というようなこと、ぱられるさんはおっしゃったことありますよね。この承の章には、意地みたいものまで感じましたよ。う〜ん、芯がしっかり通ってる、ほんと。
「彼女を生み出して、全てが終わったって感じ。」という先日の感想は、ここら辺に関係するのかな・・?
「立野」は、荒野に立つ、そのような名前でしょうか。
そして、そこで巡り会う「泉」という命名。
ニクイぐらいです。
転
二人の恋の進展、という形を書きたく思いました。
が、二人は明と暗、水と油、すぐに理解し合えるわけもない。となると、
>「いい頃だよね、今がさ」
>「俺は覚えているけど、そのうち毛虫がわくのさ。竹竿の先に油しみこませた布を巻いて火をつけて、じゅうじゅう焼いたよ。大人たちが。
> ほんとうに、今だけだな」
>「意地悪な言いかたする」
他人から知り合いに移る最初、その会話は、こういう風かなあ、と思います。
立野と少年とのキャッチボールですが、なんとなく思い付きました。小難しいことを言う人間には立野はきっと心を許さない。もちろん(立野からすれば)おしゃべりないずみも、一瞥する程度。・・でもこれではいつまで経っても接点がないので、少年に仲立ちしてもらって、という思案です。
といっても、少年が二人を引き合わせてとかそういうこっぱずかしいことではありません。
立野はその(どこか孤独な)少年とたまたま(ボールを投げてあげたかして)知り合う。なんとなくある時間帯になると同じ場所に行って、もしいれば少し遊ぼうかという程度のつきあいを始める。たぶん、お互い様でしょう。
そしていずみは、少年と立野の遊びを眺めているだけ。
でも、この奇妙な三角形には、淡いものですが、愛が生まれるような気がしました。疑似家族、とでも言うのでしょうか・・
いずみは高揚し、「書けるのでは」と感じます。
でも、その高揚は、別の感情を取り違えただけだったかもしれない。
本当に創作意欲だったとしても、実際に「書ける」まで結びつくとは限らないという辺りは、みなさんご存じのところかと思いますが ^^;
お話はここで、場面転換しますので、次に立野の部屋の二人となれば、書き上げた童話を読ませるために、という流れが直観されるかと思います。
これを罠として、「夢」を語るという趣向です。
夢の内容の描写ですが、今は、もう少し書き込んだほうが良かったかというほうへ傾いています。・・・本文は、人によっては物足りなかったかもしれないという懸念のためなんですけれど、迷うところですな。一種の約束事、あるいは暗喩みたいものとして納得くださるなら、あれでもいいか、という気はするのですが、少々ありきたりなので。
転を発表する前に、結はどうしたらいいか、つなげることが可能だろうか、とは考えてみました。
私の目論見では、これはもう「芸道小説」にすべきであろうというところに落ち着きました。つまり、いずみの「童話」が重要な小道具となっていく。それを書き上げて、というのは転の夢ですでにほのめかしているので、では現実は「書き上げられなくて」と進める。
そして、立野に、この未完の童話につなげて書いて欲しいと願う。
という風に、リレー小説の中の二人がリレー小説を始めるということにしたらどうだろう、などと考えました。(^o^;
そして、十数年後・・ という展開。「ゆめ」を実現したのが誰かという答えで、エンディング。
でもまあ、keitoさんにおまかせしたので、上のような展開にはならなくても「童話」については何かしらとりあげるだろうなあ、と予想しながら、待っていました。
もしかしたら、劇中劇として「童話」そのものを書いちゃうかも、などとも思いましたよ。
結
一読しただけでは分からなかったのですが、何度も読み直すと、じわじわ効いてくる文章ですね。
私の予想はほとんど外れましたが、不満はありません。多くを述べすぎていないところがカッコいいです。
「外に出るぼく」ということを、電話のベルの鳴りやまないうちの短い間を使って、なんということもないふうに(しかし劇的に)提示している。
> いずみかもしれない・・・
> 『ゆめを喰われてしまった』
> もう書けない、なにも書けなくなったと泣かれたあの日から。
いいですねえ。転からのこの跳躍が。
そして、以下、気高いくらいの若者の口吻が続いて、その言霊の力によるかのように新しい未来が開かれていく。開かれていくような予感がする。
> 手にしたのは、どこかで聞いた物語にふさわしい、一枚の挿絵だった。
リレー小説ではなくて、いずみの物語を絵にしているですね?
なるほどなあ・・
終わりの四行の、響きあい。
そして、こまごましたことは振り捨ててしまういさぎよいエンディングに感心しました。
◇
飛躍と交叉
ものごとを文章にする場合、ものごと全てを文字に移すことは不可能です。ほとんどのことは省略するしかないでしょう。ぽつんぽつんと文字があって、その隙間は読む人に想像してもらう。それが、文章ですから、つまりは、文芸とは、「文字を操っている」のではなく、「文字と文字の間を操っている」のだと私は思います。
目に見える文章が真の対象なのではなく、「読む人の心に生じるもの」を相手にしている、と言い替えてもいいでしょうか。
ストーリーでも似たようなことが言えて、物語の内容を細大漏らさず述べつくすことはできません。語らずとも分かるところは、できるだけ省く。そうすれば、いわゆる「キレ」が生まれるのでは、と思います。
物語の進行が、突然大股に跳ぶ。これは、一面では不親切ですが、それが適切な到達をしていれば、あるいは、あとになって妥当だと納得できる足跡なら、えもいわれぬ快感が走ることがあります。「飛躍」と言っていいと思います。強弱はあるでしょうが、まさに「飛翔感」を味わえます。
本作でも、お題「ゆめ」から起の立野へ、立野から承のいずみへとテーマや視点が気持ちよく飛躍しています。
転では、外での明るい風景や交流から、いずみの私室や秘めた内面へと。
結では、いずみの変容や立野の心の移りゆくさまを、大胆に後方におしやって、遠く着地してみせる。
それぞれ、さすがではないでしょうか。
みなさん、かなり手慣れてきた、というのが正直な感想ですよ。
『ゆめ』全編の流れから、魂と魂の交叉ということを考えました。
ぱられるさんもおっしゃっていたように、ほぼ同じような生い立ちをした男女が、しかし、一方はすねたような暗がりを持ち、一方はけなげで前向きの眼をしている。
この二人が出逢って、相手を想い、または相手の光を浴びて、それぞれが変異していく。そういう物語なのだと思います。
いずみは恋に沈んで、創作という魔法を失ってしまう。
立野は、ようやく窓を開けることに目覚めていく。
同じような生い立ちをした二人が交叉して、私はたぶん二人はまた離れていくのだと思うのですが、その交叉した瞬間、魂のなにがしかを互いに受け渡してしまった。似たような二人であったために、受け取ったものがあまりにしっくりと心の入れ物に収まったのだと(勝手に)想像しました。
立野にとっては幸運、いずみにとっては不運、という解釈をしてしまえば、どこか非情ですけれど、そうであればこそ、小説、文芸としての興趣を持ちえていると感じます。
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