こんにちは!
寒暖はありましたが、はぼ八分咲き。東京は見ごろです。
ネットに飽きて午前四時、そばの公園で花見をしました。
誰もいません。
妖艶が過ぎて、長居が怖いです。
『桜の樹の下で』の感想
お題
『桜の森の満開の下』 坂口安吾 でしたっけ? ・・・
私は原作は読んでいないのですが、映画は観た記憶があります。
あまりに昔で細部は忘れてしまいましたけれど、やはり「狂気」「死」ということに関わるお話ではなかったかと思います。
当然、カオスさんは、そういう方面へと誘っている、とは感じましたが、・・・
起
上のようなことはあっても、NONTANさんは新参加でしたので、もう少し「かわいい」顔見せ披露で来るのかな、なんて思ってました。
正面から来られましたねえ。しかも、次は私を指名。
なやみましたあ ^^;
NONTANさんが最初の質問でおっしゃっていたとおり、それぞれの人の「カラー」がよく出た、そういう作品になったと思いますが、それもこれもやはり、この不思議な導入部に因るところが大きいのではないでしょうか。
> 何もかも忘れ、そして何もかも投げ捨ててどこかへ行ってしまいたかった。
> 今までもこんな感覚は何度もあった。が、しかし、本当に実行したことはなかった。。。。。。。。
> ふと我に返り、自分の周りを見回した。海岸に立っていた。
> よくよく記憶をたどるが、どうしても覚えがない。
ここの解釈、ここの呼吸をどうするか、どう承けるか、というところで、大きく分けて二通りあるかと、しだいに見えてきました。
主人公は、どうも道を見失って、疲労、虚脱を感じている男らしい。
仕事はできるし、家族もいるのだけれど、醒めやすい気質かと思います。または何事にも懐疑的で、「生命」と「虚無」の境界膜が非常に薄くて、ちょっとした動作ですぐ向こう側に踏み込んでしまう。
普通の人は(または凡人は?)、もう少しこの膜が厚いし、色々な緩衝体が挟まっているという気がします。(悪く言えば、凡庸な人ほど面の皮が厚く、不純物に取り巻かれているということでしょうか)
主人公の造形が、力みもなく自然に綴られていましたので、NONTANさんの一面が投影されているのかも、などと想像しましたよ。
起の終わりに登場する少女が、彼にとっての救いになるか、そういう「きざし」「つぼみ」を書き込まれていましたが、承ではうまく生かせませんでした。
承
二通りというのは、構造で承けるか、内容を深めるか、という選択でした。
起の構造は、なんといっても文中にある「断絶」が特徴でしょうから、これを承けて、第二第三の「裂け目」をこじあけていく、というのもあったかと思います。単独作なら、こちらを選ぶかもしれません。崩壊がエスカレートしていく様子など、触手が動きます。
でも、もともとが4章小説で、章と章の間には断絶があるようなものなので、モザイクみたく細かくしていかなくてもいいか、と最後は勘で決めました。
内容を深める、と言っても、要は、起にありました「海岸」「砂浜」「月明かり」「少女」などをキーワードに気ままにあそばせていただいた、というところです。
そして、承の章全体で、「桜の樹の下」にふさわしい絵が描ければ、という風に進めて、あとはお読みいただいたとおり、私にしては濃いのが残りました。
塗り込めていくように描写をするというのは、久しぶりでした。こういうのも面白いですね・・
転以下をどうするか、ということは、全く考えませんでした。
もうおまかせ、好きにあそんで、燐華さん、というノリです。
↑ 「承」としては正しい態度、という気がします。(^^;)
転
燐華さんは、「少女の変貌」ということに集中して書かれている。
起や承では、さまよい落ちた異界の観察者としての男のがわに、少女は寄り添っていたと思うのですが、意外にもというか当然というか、男は裏切られる。
> ランドセルの中に手を突っ込むと異次元の世界に吸い込まれていきそうだ。
男の懐疑を、聖なるもの、うぶな心が救ってくれるというのは、虫のいい話よ、と言われているみたいです。「少女」とはそういう単純な生き物ではなく、懐疑に憑かれた大人の男ですら寒気を覚えるような虚空を抱えている、そういう場合もあるという比喩でしょうか・・
「怪しくも狂おしい声に変わっ」て行くのですから、それはもう少女ではない。
つぎに魔物が立ち上がるのか、あるいは、男の意識が崩れだしたのか、そんな幕切れでした。
短い中に述べたいことを置けたのでこれで良しと割り切る。悪い「転」ではないでしょう。
が、起、承、転と、みなさんも私も、好きなように引っぱりあってる跳びはねているという風なので、正直、結には指名されたくないなあ、なんて他人事ながら思いましたな。
だれであれ、まとめきれないのでは、と・・
では、(まとめられないとしても)どう終結させるのか、なども少し考えましたが、気のきいた案は浮かびませんでしたし。
う〜む。見事です。市原さん。
十五作目から、一つ飛びですぐまた「結の章」で、ちょっとお気の毒かと心配までしたのです。杞憂でした。
結
着想が凄いと思います。
小手先のアイデアではなく、力技、ということです。
一気に先の大戦までとばすとは、ふつうは思い付かないです。思い付いても、たいていの人は書くことに逡巡するでしょう。重すぎる、知らな過ぎる、私もとうてい無理です。
労をいとわない描写に頭が下がります。
市原さんだって、体験したわけではないと想像しますが、ここまで書き込めるというのは、少なからず下調べ、あるいはすでにそれなりの蓄積があってのことなのでしょうね。
平松さんではありませんが、記憶、経験、勉学、観劇、読書等々の重層を感じます。
空襲の炎と、月と、桜。
この取り合わせが、不謹慎なほど美しいと思いました。
炎は人を焼いているのでしょうが、(そういう人たちが転以前に述べられた異界に降っていくのでしょうが)、爆撃機とおびただしい焼殺、一方、月光とちりゆく桜、この天と地の対比が息をのむようです。
愚かしい人為、阿鼻叫喚。
これらの内側の小さな隅で、あるいはこれらの遠い圏外で、悠久の自然が彼らの静謐をあたりまえに守っている。楚々と笑んでいる。
花びらが散ることと、それと、どれほどの差があるの・・、そんなふうに。
そういう「絵」が、かいま見えました。
> 娘の呼びかける声に気を取られ、再び後ろを振り返ったときには既に彼女の姿は無かった。
> 春の明るい陽射しに桜の花びらと娘の無邪気で陽気な声が宙に舞っていた。
最後の行、これもまた、一種の「諦念」ではないかと感じました。
明るくあまりに軽やかな、虚無でしょうか。
若い人の、そのシンボルのような少女の、姿は、ときに「救い」とは正反対の感情を呼び覚ますこともある、とそっとささやかれているのかもしれませんね・・
千年以上前から、私たちをとらえ、くるわせる、桜という神霊。
しかしこの神は、転以前にある「懐疑」を突き抜けた先でようやく真に立ち現われる、つまり、生半可ではうけとめきれない霊威を持つのでは、そんなことを、いつしか考えていました。