こんにちは!
新入生、新社会人の季節ですか。
九月始まりにするという案が、浮かんでは消えます。桜のためというよりは、始まりは春、という農耕民族の血が簡単には許さないのかもしれませんね。
哀憐笑話(五) 『捨て猫』 (Re:1363)
自作解説を忘れていました。(^^)
でも、まあ、どうということもなく、あのまんまのお話です。
わけ知り顔の「おじさん」を、少女の存在が超えていく、そういう構図が最初に頭にあって書き出したのではないかなあ、と思います。
が、読み直してみると、少女の魔の純粋というよりは、おじさんが観客としていたから最後の行為までなしえたのかもしれない、という気もしてきます。
4章小説『桜の樹の下で』の内容と重なりそうなところもあって待った方がいいかどうか迷いました。燐華さんの「転の章」を読んでこれとは離れていくようなので投稿してみました。
それに、あの位置にあれば、一変奏という味も出るかなあ、と。
(市原さんには想を練る上で少々邪魔っけだったでしょうか。すいません)
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未来と過去、清と濁、女と男、こういうコントラストの詰まった配役なんですよねえ・・、少女とおじさんというのは。
最近私の知っている中で最も成功しているのは、映画『レオン』でしょう。
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男は年齢とともに完成に近づき、女は年齢とともに完成を超えていく。
ううむ、こういうことを書くときついお叱りを受けそうですな。^^;
でも、女性が早熟であり、男性が晩熟であるというのは、ある程度真ではないかと思います。
男はいつまでも少年。これはよく言われます。
では、早くに成熟した女性は、次に何になるのでしょう?
れいむさん (Re:1371)
> RE:れいむ作。友情論。
同じにしてはいけないとわかっているのですが、どうしても「立野」を探してしまう・・(笑)
> 付属高校であったにもかかわらず、成績に問題がなかったにもかかわらず、
> 4人のうち2人しか大学に行かなかった。一人は東大へ。一人は家庭へ。
4人のうち2人しか「その」大学に行かなかった。
ということでしょうか。
残る二人が、その大学以外へ、かな。
四人それぞれの道を歩きだしているのでしょうね。
湿っぽいことにほとんど触れない。実際にそれほど無いのかも。
若駒たち、の壮快を感じます。
私と、私のまわりの友人の場合は、もっとめめしいところ多かったです。
(類は友を呼ぶということなのかもしれません ^^)
花島賢一さん (Re:1372,1387,1389)
> ・・・・・
> さて、ながなが書くときりありません。
> もし作品を書いたら必ず見て貰いましょう。
> なんでと言うとあなたは自分の顔が見えませんね。
> でも鏡を見ると自分の顔を見ることができます。
> ・・・・・
おっしゃるとおりです。
「鏡」という点もありますが、一番大切なことは、読者を得て初めて作品は完成するということだと思います。
ある人の心の中にあったものが、別の人の心の中に流れ込む。場所も、時間も超えて。
これがあるから、楽しい、力が湧く。
その喜びが、また次の作品を産み出す。
そういう無限連鎖する発熱構造が、文芸の(あるいは芸道一般の)実相ではないでしょうか。
> 最後の運動会 6
この作品は、私にとっては、どちらかと言えば「退屈」なものでした。
対象年齢が違いすぎるので、致し方ないところでしょう。入り込めないのです。
私が楽しむためには、せめて、絵が欲しいです。
または、アニメのようなもの。
ですから、アニメのシナリオということなら、これに色なり動きなり音なりを肉付けしていくうちに花島さんの求めていた命が動き出すのでは、と思います。
あくまでも文章で、ということでしたら、半分ぐらいに短くしたらいかがでしょうか。
まだできたばかりの形、ラフ書き、未完成の印象を強く受けます。
私でしたら、運動会の具体的な場面を大幅に削ってしまうかもしれません。心が枯れきっているのでしょうかね、やっぱし・・ ^^;
ところどころ、おや、ちょっと面白いかな、期待が持てそうだなというところがあっても、文章が冗漫なためにすぐしぼんでしまうのです。次にそれが点滅するまで、我慢ということになってしまいます。
または、散文で描写するのではなく、要所で「詩」や「歌」を載せる。ずいぶん違うと思いますが。
キャラの中では光太郎がやはり生き生きしている、と感じました。
キンタは、なにか足りない感じ。あるいは余計な感じ。
動物たちの浮かれ具合は平板です。立体感を出すためには、なにかしら「陰」をつけるべきではないかなあ・・
ラストの哀調はいいと思いましたよ。
キレもありました。
ただ、中盤では、こういうラスト以外にも色々想像することはできました。
次作は、もう少し「冒険」があっても良いのではないかと思います。
それから、文章を磨いていく努力、具体的な精進を忘れないで欲しいです。
文章を読んでもらうためには、当然ながら、誤字誤用のない、正しい日本語がまずスタート台だと思います。・・自分の口語、漢字変換システムを過信せず、まめに辞書を引くべきでしょう。花島さんの文章は基本的に陽性で魅力的なのに、日本語がつっかえるたびにしらけてしまうのです。非常に損をしていると思います。もし花島さんが書いたとは知らなかったら、半分以降は読まないでしょうね、私は。
花島さんが、瑕疵なく自在に文章を操れるようになったら、表現の隅々までご自身の血が通うようになったら、当フォーラムの中では一番ユニークでしかも愛される文章、作品が生まれるのではないかなあ・・・
> 自分の物語りを読んで文章力はないが話がまとまってればいいかな?。
> それからこの前、残したお話の続きで文章力があること。
> これは和香さんが小説工房一でしょう。そう、BGMで好きな映画音楽がかかっていて
> 何かきなげなく聞き流される様な音楽。文章力があることもこれに似てて、
> これがあるとさあ〜と読んでいけます。
過分に褒めていただいて、ありがとうございます。
ご自身で十分お分かりになっているのですから、諦めないでくださいよ。
ROOTECさん (Re:1375)
> 自分でも歯がゆいので、先程 chaos さん宛、メールにて直接補足させてもらいました。
> 何故せっかくのフォーラムで補足をしないのか?
> 一つにはボケはじめている論点が、ますますボケるおそれが大きいと思ったことが
> あったのですが、あとのことは chaos さんの発言にお譲りしましょう。
ははん・・?
なんか、謎っぽいですね。
「フォーラムのことはフォーラムで」が、ここに限らず一般的な原則です。お客様に疎外感を与えるのは、好ましくありませんので。
ROOTECさんのことですから、ま、十分承知の上なのでしょう。
いずれ必要と判断されましたら、欠落部の説明などよろしく。(^^)
> いずれにせよ、あまりに追求しすぎると「芸術」か「娯楽」かの選択が迫られる
> ことになりはしないかと、ちょっと心配でもありますが……(笑)
ここら辺、どういう論旨なのか、もうひとつすとんと落ちなかったのですが、「芸術」と「娯楽」は、照明の当て具合というだけで、別物とは言えないという気がしています。
一方を追求すればもう一方が凹む、のではなく、両者は、ともに増進するのが本来の姿ではと感じますが。
つまり、芸術が凹んでしまうのならそれは娯楽ではなく、娯楽が凹んでしまうのならそれは芸術ではない、という関係。
理想に過ぎますかねえ・・?
↓
ROOTECさんも、みなさんもくれぐれも勘違いなさらないでいただきたいのですが、私は「批評」「感想」等を述べる場合、自分のことは棚に上げる、ということを信条としています。
そうしないと、遠くのことが述べられませんから。
(あるいは単に、傷を舐めあうようなことになってしまいます)
つまり、上のような芸術についての考えを述べたからといって、私がそれを実現している、実現しそうだという自信の表われとはまるで別物です。お恥ずかしいですが・・
↓
とはいえ、めざしてはいますので、空論でもないつもりです。
よろしく。
雪花さん (Re:1380)
> 相方の月花は、
> 「小説を書いてみると自分の語彙力の無さが分かる」
> 「自分のを読み直すと、これはホントに自分が書いたものなのか!?って思ったりする」
> といいますが、他の皆様もそうなのでしょうか。
> 書いてみて初めて知った、自分の一面というか、内面にしかいない自分というか。
ずう・・・・・っと、小説を書いていると、本当の自分というのは小説の中にしかいない、なんて感じ出すらしいです。
ありそう、という気がします。
NONTANさん (Re:1381)
> 「桜の樹の下で」〜感想〜
> みなさんはさすが百戦錬磨の強者だけあって(^-^;)
> 表現に幅がありますよね。。。
「4章小説」は生まれてまだ一年経っていませんので、初心者ということではみな一緒です。
伝統が固まっているわけでもないので、遊びながら可能性を探っていってください。
もちろん、4章小説に限りませんで、新作(or新作情報)なども待ってますよ!
平松高太さん (Re:1382,1385,1386)
まとめレスが板についてきましたな(笑)
> しかも2ヶ月ほど前に24歳になったばかりですよ!
> 四捨五入したらまだまだ20歳なんだから!
「四捨五入」を言い出したら、もうやばいっす。(^O^)
残りの五年などあっという間でしょう。
> 哀憐笑話(五)『捨て猫』読ませていただきました。
> ブラックですね。
> 子供の無邪気さの怖さと言うか。
お、ありがとうございます。
今後も、地味で暗めが続く予定です。(あはは・・)
それでもあの程度の短さなら許されると思うのですが、このごろ、長文でそういうののストックリストを眺めながら、迷っています。(やばい傾向。このごろ慎ましさというのを忘れがちです)
> 『挫折』 by「こうたろう」
締め切りに間に合いましたね。『挫折』に挫折してしまうのか、な〜んて思いました。
語り口のかわいらしさが、光ると思います。
言えることは、この坊やが話題にしていることは、坊やの年代が関心を持つこととはズレがありそうだということです。連が進むに従い、この坊やは一体だれ、という疑問が湧いてくるのです。
ただ、これは欠点ではなくて、面白さになり得ていると思います。というのも、表面上の擬態が成功しているので、それが作品をコーティングしているという風なのです。手触りがいいので、それだけでも、もう不満はないと思います。この程度の短さなら、読者は。
しかし、そこから先の面白さ、深みというものを味わおうとすると難解を覚えます。
各連の結の行にある疑問文の答えも、読者はあらかたは知っている。見当も付く。ですからそれを伝えたいということではなさそうです。
良い手触りの内側にあるけれど、文章の内容そのものではないところに、この作品の眼目があるのだろう、とまでは感じます。
最後の二行でしょうか。
> ぼくも将来挫折するのかなぁ。
> でも挫折って何だろ?
成人している作者の内なる不安、遠く「死の重さ」までを感じているそれが、擬態の奥に隠れて自問している。
その暗い光が、この作品の命かもしれないですね。
にしても、難解だあ〜
> であと考えたことは「最後の行の1文を入れるかどうか」です。
> ハッキリ言って最初に考えたときはあの文章はなかったんですよ。
> でも一応最後まで書いてみて、
> 思いついたんで、
> 入れちゃったと言う感じでした。
> 今回は最後から2行目の1文からまず書いて、
> あとは挫折ネタを書くという感じでした。
なるほど。
最後の一行がなければ、ずっとすっきりします。
でもうすっぺらか・・
最後の一行によって、読者に考えるきっかけを与えている、ということなのかなあ・・
引っかかることは確か。
◇
それでは!
# お、発言が増えてますね。続きは次回に!