ねっとCafe/nc:小説工房談話室


タイトル  :『うたかた』 結の章
発言者   :和香
発言日付  :1999-05-31 11:58
発言番号  :1579 ( 最大発言番号 :1679 )
発言リンク:1577 番へのコメント

[次の発言|前の発言|最後の発言|先頭の発言|発言一覧|会議室一覧]


お題   れいむ

     う た か た
 

起の章   カオス




 黄色と赤の小さな縞模様が、僅かに揺れながら水面をゆっくりと流れている。
 その川の水は墨を流したように濁り、幅十メートルほどの両岸はコンクリートで固めてある。
 所々に点在している黒く小さな瀬には、雑草が溢れるように覆い茂り、 水際には投げ捨てられた空き缶やビニール袋がしがみついていた。

パァーーーン!!

 川岸のコンクリートの上に並ぶガードレールに、張り付くようにして釣り竿を手にしている男のすぐ横を、 砂埃をあげながら大型トラックがホーンを鳴らして通り過ぎていく。
 だが、男はいささかも動じることなく、川を流れていく黄色と赤で彩られたウキの行方を目で追い続けていた。
 ウキは下流へと流れていき、やがて、竿先へとつながれた糸がその動きを強制的に止めた。
 男は手首を返して竿を上げると、餌の確認もせずに、そのまま上流へ向かって竿を振った。
 今日は何度こうやって竿を振っただろう・・。
 昨日は・・・。
 もう何日。いや、いつからこうやってここに来て、竿を振っているのだろう。
 未だに魚が釣れた事はないのに・・・。
 道路脇の歩道を歩く人々は、釣り糸を垂れる男をいぶかしげに眺めては通りすぎていくのが殆どだが、 嘲笑の笑みを浮かべる者や、男に聞こえるような声で「頭がおかしいんじゃねえのか・・・」と話しながら通り過ぎる者もいた。だが、 一番たちが悪いのは、子供達だ。数人で、或いは大勢で、男に向かって石と罵声を投げつけては、走って逃げていく。

 ウキは相変わらず、何の変化もないまま、ただ静かに流れている。
 男は、ずれかけた眼鏡を指で押し上げると、空を見上げた。
 昨日の灰色の空とはうって変わって、何処までも続く蒼が広がっていた。
 4月の終わりだというのに、日差しは既に夏のようだ。シャツの裏側にじっとりと汗が滲み、 日光にさらされた皺混じりの手の甲はうっすらと赤い。
 男は、よれた布製の帽子を指先でつまんで、深くかぶり直した。
 帽子の端からは、白くなった髪がのぞいている。
「何が釣れるんだ?」
 不意な質問が男の背後から投げかけられた。
「さあ?」
 質問の主に振り返ることなく、男は抑揚のない声で答えた。
 水面のウキに、じゃれるようにして、いくつもの小さな泡がまとわりついていた。
 



 

承の章   花島賢一



 
 質問の男は黙ってバケツを覗き込む。水に満たされて何も入ってないのを確認すると  
 「ふ〜ん」  
 愛想ない返事を空に投げかけ、黙って去っていった。    
 帽子を取り、照れるように頭を掻く仕草は昔からの癖だが、会話のつながりを上手く話せなかった  
ことへの慰めかそれともその逆か男にも分かっていない。  
 「はい、お弁当」    
 花模様のハンカチに包まれた小さな弁当を指でそこに置けと指図して釣りに没頭してるふりをする。  
 「どう、釣れた?」    
 「さあ?」    
 彼女はいつもの杓子定規の言葉で今日は機嫌が良いことを感じた。  
 マスカラを薄く塗り、深紅の口紅、顔の大きさに合わない大きなイヤリングにピンクのワンピース。  
 若々しく見せているがもう三十路を過ぎてることはその出で立ちからは想像できない。  
 側に腰を下ろして子供っぽく愛想を振りまく。それが本来自分が持ってる性格よりも男の娘であることを  
見せるためである。    
 「今日は何の魚が釣れる?」    
 「さあ?」    
 「鮎には早いね。鯉?。いしもちは海だし」    
 「さあ?」    
 「けっこう、イカとかタコが釣れたりして」    
 「・・・」    
 こんな、何でもない親子の会話は何処でも見かけるが、ただ者でない親子とは誰でも気づくはずはない。   
 娘はハンカチをほどきながら父親に話しかける。    
 「たかイ、クぬぎ、まだあるヨ。今日にでも。ヨル?」    
 「さアア」    
 帽子のひさしに手をやり合図とも思える仕草をこなす。    
 「はイ、おべんとう、いツモノおトうふ、コんぶにきゃロっとと明かり用のデんち」  
 「アア」    
 愛想ない返事を返した。    
 ただ、彼の目だけは異様に輝きだした。    
 



 

転の章   市原勝美




娘が釣りに没頭している男に薄ら笑いを浮かべて土手に止めてある自転車に乗り立ち去ると、
男は娘に振り返ることもなく、ぎらぎら照りつける日差しが男の身体を灼くのを気にも留めずに目深にかぶった
帽子の庇から秀でた鼻梁をのぞかせながら黙々と日の暮れるまで釣り糸を垂れていた。
黄昏時、男は魚のいないバケツと竿を抱えて帰途についた。
男の行く先は自分の家ではなく昼間、娘と交わした会話の中に秘められた場所に向かって歩いている。
世間の人は男を変人扱いしているが、その娘だけは彼のことを一番理解している存在だったのである。
外界というものとあまりに無縁に暮らして来たため、人に理解されないということが逆にその男を無垢で
気兼ねなく自由気ままに、男を内面世界の王者にさせ静かな諦観に満ちた空想を楽しんでいるかのようでもある。
男は口ずさむ。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
久しくとどまりたる例なし。朝に死に、夕に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける」
あれから男は小一時間近く黙々と歩き続けている。
辺りはすっかり闇となり、月明かりが男の行く手の頭上に聳える朴の木を妖しく照らしその白い花の香りが男を優しく包んでいた。
闇が男の前に自在に道をひらくかのように、男は暗闇の道を何かに惹かれるように黙々と歩き続けている。
まもなく道がひらけ、暗闇に混じって大きな杉に囲まれた御堂が影絵のように男の前に現れた。
杉木立を縫うように百八段の苔むした石段がそびえていて御堂はその昇ったところにある。
男は御堂に向け合掌すると、お経を唱えるように長い石段を一歩ずつ昇り始めた。
「空不異色即是空・・・」
男は石段を中程まで昇り足を止めると石段の下方は闇に包まれているが上は月明かりが妖しく照らしている。
ときどき、日焼けした皺混じりの男の手が、ずれかけた眼鏡を押し上げながら男は昇り続け最後の石段に足を着いた。
御堂の塀のやぶれた築地の上に薄が生い茂り、その銀色の穂が夜目にも艶やかに見えた。
月光を浴びた御堂は妖しくも見え、なまめかしくも見えた。
御堂の側の杉の大木が月の光に照らされて黒いシルエットの尾を引いている。
そのシルエットに動く人影があった。
月明かりに照らされて夜風に揺れる黒い髪の間に美しい横顔だけが妖しいほど白く見えた。
その白い横顔はレリーフのように、本当に生きている女かと疑われるようだった。
その女の細い手が月光の加減で白骨のように見えた。
月光と闇と静寂な時間の支配するなかで男の眼鏡の中の瞳が異様に輝きだした。
 



 

結の章   和香




「いかがです、ご決心はおつきになりましたか」
 女は闇の中からまっすぐ、男に問いかけた。
「ああ。もう飽きたよ」
 短く息をつくと、
「あとはお前にまかせた。好きなようにしなさい」
 そう告げた。
「なにか言い残すことはないのですか」
「無いな。みな、むなしかった。なぜこんなことをしたのか、もうわからない」
 では、と女がうながすと、男は立ったままむなしくなった。

 男のいたところには、深い海の色のものが漂っていた。
 この上のほうを両手ですくうと、女は全身に浴びた。
 飛び散る水泡がいくつもゆらめいては消えたけれど、一番大きなものが煮えたぎる溶岩の色に変わった。
 脈打つうちに、少女の姿になった。
「はじめまして。お母さま」
「お生まれになりましたね。ようこそ」
「からだが熱くて、少し苦しいの。どうしたらいいですか」
「あなたには使命があります。お父さまがつくった世界だけれど、もうだいぶ古びて汚れてしまいました。あなたが気にくわないところを、なんであれすべて壊してしまいなさい」
「はい。それをすれば、苦しいのがやわらぐのですね」
「そうよ。さ、お行き」
 少女は、火の粉をまいて、飛び立っていった。

 深い海の色のものの真ん中あたりをすくって、また浴びた。
 今度は、さんざめく若葉の色の水玉から、姿が現われた。
 挨拶を交わしてから、その娘が尋ねる。
「お母さま、なんだかさびしくってしょうがないの」
「安心なさい。お父さまのつくった世界を、お姉さまが壊していきます。あなたは、そのあとの世界に、あなたが気に入るものを、なんであれ生み育てていきなさい」
「ああ、それが私の仕事なのですね。大変そうだけれど、やりがいがありそうです」
 二人目の少女も、芳香を残して、去っていった。

 深い海の色のものの残りをすべて浴びた。
 夜明けが近かった。
 涼しげなせせらぎの色から、ころんとまた生まれた。
「こんにちは。お母さま」
「あらあら、まだ生まれるのね」
「ええー、あたしは余計なのかしら」
「そんなことはありませんよ。 ・・お姉さまたちがこの世界をつくりかえていきますから、あなたは遊んでいなさいな。たまに、お姉さまたちのお手伝いをしたり、その様子を私につたえに来たり、それでいいですよ」
「わかりました、お母さま。でも、最初はなにをしようかな」
「そうねえ・・、二人で一緒に、歌でも歌っていましょうか」

 
 終末の始まりのその朝、かすかな歌声が、空のどこかのあたりから聞こえた、という。
 



 



(了)







 


 4章小説第十九作の「お題」は、

 平松高太さん

 にお願いいたします。お忙しいでしょうが、よろしく ☆

 


[次の発言|前の発言|最後の発言|先頭の発言|発言一覧|会議室一覧]