『病』の感想
おつかれさま。
あっさり、こぢんまりの小品かと思ったのですが、後半、波乱がありましたか・・
お題
生老病死の四苦の一つですから、広いです。
私がもし全編を書くなら、重苦しい長編でいくでしょうか。私にはそうとしか書けないか、という感じ。入り込むたちなのでその重さにたえられなくて、難渋しそうで、つまりはこういうテーマに着手する気力は、当分ないでしょうね。
いやあ、ですからちょっとつらかった。後ろのほうで指名が来なければいいけど、と思ったのですが、いやでもおうでも降りかかるのが4章小説の宿命、どうにかしのいだというところでした。
起の章
keito さんの愛機、そのクラッシュから奇跡的に生還した、とも。
さすがに強靱な、いわゆる立っているキャラでした。
ふらふら離脱は許されないような、そこまでの生命力をすでに起は持っていると感じます。
姉弟、転がしている雪玉、行き先はゆうき。
この設定が意外なほどしっかりしてました。私も転を書いて初めてこれほどと思うほど、芯棒がすっくと揺るぎないのです。
> 今ごろ寝ているゆうきの、のどがヒューヒューいう病気
> 雪だるま、みせてあげたら喜ぶかな
起ではまだ、下の弟とは決まっていませんが、三人目の「ゆうき」という少年の名前が、単純ではありませんでした。表の意味は「勇気」なのでしょうけれど、しかし、・・
承の章
文句のつけようのない承ですよねえ。
雪玉転がしは継続しながら、わずかに変化も芽生える。
とってつけたような変化ではなく、転がせば当然雪玉は大きくなり、進みはのろくなる、自然です。
起の「人、情、景」の輝きを、逃れようもなく確固と継承した、のではないかしら、と思うのですが。または、keito さんとカオスさんに通底するとても近しいもののためでしょう。この二章によって、すでにもう作品の姿勢は完成と言ってもいい、手強いと感じました、さらに続けなければならない者としては。
> ともは、胸がドキドキしてきた。
なぜ、なにが、・・
ここは、私が転で生かし切れなかったところ、と思うのです。
でも、かっちり理屈をつけてしまうよりは想像の余地を残して却って良かったのかもしれません。
雪がっせん、続く雪玉転がしで少女ともは身体がこたえてきているから、・・という表の意味のまま、とりあえず素通りしておけば、裏の意味、どちらかと言えば心理的な動悸の意味になるでしょうが、却って読者のどこかに引っかかるような、つまり。
転の章
頃合いとして、ゆうき、彼のやまいを描かざるを得ない、と私の物語の構成感覚が言うのです。逃げたかったんですけど、ここで逃げると全編きれいなだけのお話で幕になってしまうかもしれなくて、それは嫌でした。
> シーツをつかんで、ぶりかえす発作を何度もたえて越える。
雪玉を転がしてともたちが家のそばまで帰ってきている、ちょうどそのとき、その家の中では、・・という設定です。
華麗な文飾を着せられるような事柄ではないのですが、かといってこのような凡庸な書き方しかできなくて、恥ずかしいです。どうも五体満足人間なものですから、過去の経験、見聞きしたあの子たち、あの人達のことを一日か二日よく思い出そうとしたのです。それ以上は無理でした。つらくて (^^;
> 白い息をついて、びくともしない雪玉をたたいた。
ともたちの場に戻るのですが、とうとう雪玉は進みを止めるということになります。
動が静に転じる、転の章というのも、妙な陰画(ネガ)的構図ですけど、あっていいと思いました。
> ゆうきばかり
> お母さん、仕事でつかれてるのに
弟思いの姉という表の姿を、掘り下げておくべきと、ここでも感じました。
「ゆうきばかり(かわいそうに)」
流れから読者の心に生起するだろうこの意味を、続くお母さんの行が、
「ゆうきばかり(かわいがられて)」
という裏の意味へ転じる。
家族に病人がいるのですから、その弱者をいたわり、なにかと気をつけてあげるというのは当然です。
病人がいることによって、健康なわたしがなくてもよいはずの迷惑をこうむる、負担で人並みの生活ができない、ともたち子どもでいえば、みんなのように芯から自由に遊べない、笑えない楽しめない、・・などと罪のない病人を恨んだり怨嗟を棲まわせるのは、悪魔のなすところでしょう。
でも、私にはそういう心がありました。
大人にも、子供にも、少女ともにも、あると思います。
光の当たる意識はこれを抑えつけるのでしょうが、抑えつけられても闇の中で息づくでしょう。
善、悪、という分別はあるのでけれど、あるものはある、ということも動かせないか、と感ずるのです。
我ながら、どうも困った人間ですな。
> 病気なんて
> 雪みたいもん
> そのうちとけちゃうんだから
おわかりのように、表の意味は「善」ですけれど、少年「ゆうき」は、当初から「雪」との音韻の縁を持ちます。keitoさんの仕掛けだったのか偶然だったのか、それは分かりませんが、これも怖い名前でした。
「ゆうきなんかとけてしまえ」
という呪いを歌っている、そこまでは申しませんが、何かはある、と思います。とも、または人の心の中には。
・・・・・
続く結ですけれど、このようにまで転で書いてしまいましたので、もうあっさりでいいのでは、明暗の均衡は十分もう保たれる、というのが私の予想、または期待でした。それとも、なりがたい救いをれいむさんはもしかしたら書けるのだろうか、という期待もかすかにはありました。これはもちろん酷な負担でしょうからほんとにかすかです。
お母さんの帰宅した夜の場だろうか、病人をほったらかしにした姉は母親にぶたれるのかな、など想像しました。
子供を三人も生んで、親父はどこに行ったんだ、・・・なんて、妄想の先で憤慨したり (爆)
結の章
簡単には読みとけない、壊れそうな、という結だと思います。あるいは、均衡の破綻する寸前で凍らせてみたような、とでも言うべきでしょうか。
> 「なんで・・とけちゃわなかったのよぉ・・・」
ということは、病は消えなかった、のでしょう。
遡れば、
> あかいバケツと松ぼっくりの雪だるま。くろくて太いまゆげ。
> でも、ここからじゃ見えない。
その雪だるまは、「あの日」できあがったそれであって、「この日」幼い弟の臨終のとき、ともの心に見えた幻影である、ということのように私には読めます。
過去と現在の二重写しの歌い出し、冴えた技巧、と小さな衝撃をともない響きました。
> 「ここにカマクラつくるの」
> ちっちゃなその石をみて、ケンタが泣き出す。
もう私個人の思い込みに過ぎないかと不安ですが、「石」とは何かと考えれば、流れからいけば「墓標」としか思えません。カマクラの中で、姉と二人の弟がひとつのともしびをあたたまる。一人の弟はたましいとしてだけれど、という凄みまである絵は、悲痛と言うよりは、慈愛、救済という気持ちを呼んでくれます。
ここまでで、同じような装飾をまとわされた、「あの日の雪だるま」と「姉弟の家としてのカマクラ雪だるま」が印象に刻まれるのですが、
> かえってきたらいつの間にか
> 松ぼっくりがおっこちて
> まゆ毛だけになった雪だるまがわらっていた。
この雪だるまは、どちらのそれなのだろうという謎が浮かびそうなところで、透明な幕がおりてゆきます。
「姉弟の家としてのカマクラ雪だるま」なのだろうか。としたら、どこから「かえってきた」のか。「家」としての見立てがあるのだから、「かえってきた」という意識は不思議ではないのでしょうけれど。
「あの日の雪だるま」なのだろうか。学校や外出から帰宅するときに、ということなら不自然はないのですが、物語の時制としては不思議です。追想なのだろうか。
二つの雪だるまの二重写し、と素直に感じ取るのだろうな、といわば曖昧に、窓枠の氷雪がとけてゆく際の景色のようなラストイメージのまま、ともたちや雪の街の匂い、空の色を、私は想いました。
繊細微妙。
独特な余情がありますね。
「やまい」という主題には美しすぎる、いや、冬の美として順当、など、ここでも惑います。
起承ところがり、転でとどこおった雪玉の物語が、いくつかの結晶をきらめかせ、過ぎ去る季節として放散してゆく。という姿なのでしょうか。