平成10年2月12日(木)〜


かたつむりの怪物


 一年目の彼女をよく知らなかった。
 彼女は職場に合わず、辞めたいと申し出た。
 一度叱られた。それ以来、その男が同じ室内にいるだけで、その男の声がきこえるだけで「からだが震えるような気がし、冷たい黒い水になった心がじくじく降りていく感じがした」。職場の責任者は別の部署でやり直してみないかと慰留した。
 たまに声をかけてあげた。
 「先輩」と呼ばれた。

 弟は映画の看板を見るのが大好きだった。
 上下二段で全部で二十面ぐらい映画のポスターが並んでいたと思う。弟はいつも自分で物語をつくっていた。まだ字が読めなかったんだ。
 マンガ映画の明るくて楽しそうなポスターはそりゃ好きだったわ。二人で連れてってってせがんで、映画を見たことも何回かあった。両親が忙しかったから叔母ちゃんやお祖父ちゃんに連れてってもらったんだけど、なぜだか寝ちゃうのよ。弟が。一番楽しみにしていたのが寝ちゃうんだから、はりがないったらありゃしない、とか言われた。
 でもね、どうしても見たいってだだをこねた映画があってね、それを親たちが許してくれないの。かたつむりの怪物がでてくる今で言う特撮映画。ポスターの中で渦をまいてる怪物が大きいのと小さいのと二つあって、なんだか気味悪くてどきどきしちゃうの。どうしても、生きて動いてるのを見たかった。うちに帰ると早くしないと映画が終わっちゃうようって泣き叫んで、かたつむりちゃんが見たいってしゃくりながら訴えたのに、大人たちは忙しいとか言って理解してくれなかった。
 許されなかったから気持ちは恋の域に達したかもしれないよ。看板の前に来ると涙ぐんじゃうんだから。
 誰かが同情してくれたのか、毎日言っててあんまりしつこかったからか、もうよくわからないけど、とうとう許されて見てもいいってことになった。もう魂が切れるぐらい必死に訴えたのね、きっと。うれしかった。二人でとびはねて喜んだ。でもね、大人たちはまだ相談しているの。誰が連れていくかって。明日かあさってで上映が終わるって時で、みな急には都合がつかないらしいんだ。叔母ちゃんはまだ高校生だったと思うけれど、どうせ寝ちゃうから嫌だって怖い顔してんの。
 弟に指切りさせて、今度こそ寝ないって約束させて。
 それで、しょうがない、えっちゃんに頼もうってことになった。
 えっちゃんていうのは家にいたおてつだいさんのこと。頭がちりちりしてて色が黒くて皺があって、叔母ちゃんより年上だったけど、でも、あの時はまだはたちぐらいだったと思う。でも、なんだか馬鹿なの。動作が鈍くて。台所なんかでお母さんが毎日のようにえっちゃんのこと怒っていた。はっきり覚えてるけど、えっちゃんじゃ不安だと思ったよ。でもそういうことになっちゃった。
 えっちゃんに連れられて行く時、わたし、何度も念を押した。この道でいいんだよねって。初めて行く映画館だった。
 えっちゃんはうなずくんだけど、なんだか目の光が不安そうなのよ。
 映画館には正しく行き着いた。えっちゃん、弟、わたしと並んで席にもすわれたんだ。
 でも始まってみたら、それは外国映画で、何のことかよくわからなかった。
 絵本を読む時みたいに、えっちゃんが字幕をとぎれがちにぶつぶつ読むんだけど、これもよくわかんないの。弟は早くも寝ぼけ気味。前の晩に興奮して眠れないとかよりも、あれかな、まわりが暗くなると夜だと思っちゃうのかな。しかもえっちゃんのつぶやき声。話のすじはどういうことになってるのかわたしは尋ねるんだけど、これはえっちゃんにはわかっていないの。
 映画館にはわたしたちのような子供はいなかったと思う。場違いってやつ。泣きたい気持ちでいるうちに、スクリーンにとうとうかたつむりの怪物が登場したわ。おどろおどろしくって、今も忘れていないほど目を見開いたのに、そうやって楽しもうと思ったのに、もう芯でしらけていたみたい。どきどきが、もうなかった。
 弟をゆすったけど、いったんは起きて見ていたけど、また眠っちゃうし。
 えっちゃんにもう読まなくっていいって言ってから、わたしは眠らずに最後まで見通した。とうとうちんぷんかんぷんだった。
 怪物がやられてしまったらしいのはわかったんだけど、どうしてそんなのが誕生したのか、誰がどういう勇気を出したり科学力を使ったのかとかそこらへんがちっとも伝わんなかった。
 みんな、えっちゃんがいけないと思った。
 映画は二本立てだった。帰ろうって手を引くえっちゃんをひき戻して、もったいないからもう一つも見て行こうよって言ったの。二本目が始まって、これも外国のでなんだかおもしろくなさそうだったんだけど、しばらくしたら大人の映画だってことがわかった。
 画面いっぱいに出てくるの。声をだしてさ。気持ち悪いよって、えっちゃんをせっついて、すぐ出て来ちゃった。弟はおぶわせてね。
 わたしが高校生の時、えっちゃんが部屋に来て、雨戸が閉まらないからお願い、そう言うの。お願いってえっちゃんは手を合わせるの。ちょっとしたこつで袋戸から出るのに、何度教えても覚えてくれないのよ。雨戸をてつだって、部屋に戻って、しばらくしたら、知らないうちにまたえっちゃんが背後に立っていた。どうしたのって目で見たら、わたしは今日で終わりになりました、そう言うの。言いながらまた手を合わせて、元気にしていてくださいねって言うの。
 そうなんだ、えっちゃんも元気でねって椅子から振り向いたまま言って、それで机の方を向いたわ。
 夕食の時には、もういなかった。弟も黙っていた。

 結婚はまだ早いよ、と言ったことを、彼女は拒絶の意味にとった。
 仕事がつまらない、会社をもう辞めてしまいたい、と「先輩」に訴えた。
 おだてたりなだめたりしたのだが、こわれはじめた。
 ぶきみに思えて、気持ちは冷めていった。
 彼女は、退職した。