平成10年3月26日(木)〜
男は、パブで娘をすくい上げた。
眼が妙に大きくて顔だちにわずかに不安があったけれど、娘の立ち姿は、雰囲気があった。
今日はもう来ないのかとあきらめかけていると、やって来る。
すぐ前に来てから立ち止まる。遅刻しちゃいましたという表情と待っていたんでしょうという光を瞳に、つややかな髪の一方の房を垂らし素肌の脚をさらして短い時間の間、男を見つめた。
娘は歌う。もどかしい旋律、キュートな声音、今にもぐしゃぐしゃになりそうな子猫の心を歌う。
指先で手拍子を求める。ヘイ、ヘイと店中をつり上げる。眼鏡に背広の酔漢たちが甲高くはやしたてる。照明にうるんでいる娘のまなざしに、拳を突き上げる。
あるいは、静かに、闇黒の、地の底から噴き出してくるような、米語の歌を熱唱する。
七色の歌姫だった。
マンガの本なら私は、千冊以上持っている。
初恋の人はマジンガーZのアキラ君だもん。
ただし、アニメの方のね。
ファンタジーみたいな散文詩みたいなお話を書くのも好き。もうたくさんたまっちゃった。友達はおもしろいって言うから、いつか本にできないかなあって思ってる。
子供の頃は淋しい子だったみたい。
うす暗い部屋のすみで、童話やマンガを見て暮らしていた。ほかの子たちは明るい空の下で走りまわって、元気いっぱいだったけど、私には合わなかったみたい。お話の中でそれにかわる経験を積んだのかな。いじめっ子がいて、ブスってだけで頭をたたくんだよ。一人がたたくと、ほかの男の子も順番に並んでたたくの。だから明るい外へ出てはいけなかったんだ。
宮沢賢治の童話で、少年が裏山で寝転んで一晩を明かすっていうお話があるの。星の光や枯葉の感触も、小さな動物たちの気配も、私はあそこで体験できた。人間には、誰の間にも経験の量の差はないっていう説があるじゃない。ある人が経験したことをしていなくても、その間にこっちはその人が経験できなかった何かを経験している。全部足し算すればみんなドングリ、せいくらべだって。極端な話し、それを経験しなかったというのもひとつの経験だというのよ。
忘れられない絵本がある。いとこの所で初めて見た。喧嘩したあげくに、彼女が私にプレゼントしてくれたの。アンデルセンの人魚姫。すっごいきれいな絵だった。もう古びて、厚手の紙のすみがめくれちゃった所とかもあったけど、たまらないぐらい絵がきれいなの。こんな古い本なのに、どうして水々しくて光があふれるようなのか、かなしい色なのかって、子供なりに思った。人魚姫の肌が生きてるみたい。人魚姫は王子様に惚れちゃうんだけど、私はその絵本の人魚姫に惚れた。
おぼれたって言ってもいい。本棚の特別な場所にしまって、思い出すとそっとめくるの。人魚姫に会えるとどきどきした。長くは眺めていられないのね。悲しい行く末を知っているから。そのうちに、もう絵本を見なくても場面場面が心の中にひろがるようになった。そのたびに私は、彼女のばら色の頬をしたり、下せない決断に手をふるわせた。海草がかわいくからまって貝がらが飾りの、長くてウェーブのあるみどりがかった髪をなでるの。
人魚姫は、沈没する帆船を遠くに見て、いっぱいの海原を、気を失った王子様を抱えて泳ぐの。涙が出るぐらい、好き。何か勇気が要ることをしなきゃいけない時、いつまでたっても私はこの場面を思い出した。力がわくんだよ。そうだ、やらなくちゃって手を握りしめるの。
魔女の人魚に、薬をもらう所もいい。魔女の語り口とそっくりの声を、本当の人生でも聴いた。ああ、あれだなってわかった。
王子様は嫌い。王子様と結ばれるお姫様も嫌い。人魚姫には刺せなかったけど、私なら王子様を殺せる。人魚に戻れなくてもいい、同じ海の泡になってもいい、本当の人生なら、その前に王子様を殺さなきゃ。あんなふやけた鈍感な奴って、私、大っ嫌い。
神聖なナイフを使うのも汚らわしいのはお姫様の方ね。ぬくぬくしちゃって。あらかじめ鮫を呼び寄せておいてから、船から突き落としてやるのがいいわ。
人魚姫のお話にはきっと、どうしようもないことが語られてる。子供には酷。せつないよ。解決できないから、一生をとり込まれちゃう。そういうこともあるかもしんない。
私は違うけど。
塩水ではなく、酒の海には弱い。
薄紙を破らぬよう撫でまわすように慎重に。
たよりなく、肌が暴かれる。
貝殻が音を立て、尾びれが滴をはねた。