平成10年4月6日(月)〜
結婚の約束をした。
娘は、同じ年頃の女性が何人かそろえばまん中より少し下の方だと、若い青年なら値踏みしてしまうだろう。今風のさえが確かに不足しているかもしれない。
男には彼女の方が気持ちよく思えた。しめった肌、細いすっきりしたひとえ。
娘が腰かけて何かを読んでいる時、たとえは悪いが、似た姿を細身の仏像に見た気がするのだ。
娘は、静かにわらった。
あのころは、そうね。
いつも弟とじゃれるように遊んでた。お医者さんごっこも、弟にされちゃった。おしりをさわらせてあげたりした。
母親に手をひかれて、長い国道をどこまでもどこまでも歩いたことも覚えてる。トラックがぶうぶう通って、ほこりっぽくて。母親の左手は弟を引っぱっていた。落ち着かなくてわがままで、すぐ何かに気をとられちゃう子なの。
着いたのはたぶん田舎の田んぼだった。ほんとにのどかなあったかい風景だった。小さな川が流れてて水際まで草が生えているだけ。手すりもないやっつけ仕事みたいなちっちゃい橋があって、その木はぬれていた。母は子供たちに見せたかっただけなのかもしれない。
そよ風が吹いて水はゆらゆら流れていた。
飛んでる虫や、水の中の魚に弟は有頂天だった。でも赤ちゃんだからつかまえたりはできないの。母は橋の上で弟の背後に立っていた。
それから腰をかがめた。今まで目を輝かせて流れを見ていたのに、弟ったら急に泣き出したのよ。声をたてて、顔をゆがませて。落とされるって、わかったの。母は、一生懸命になだめた。
あれが悪かったのかもしれないな。
わたし、放浪癖が出たことある。
家を閉め出された時、女の子らしく泣いてればいいのに、ふらっと一晩、街を歩いたの。
おなかすいても持ってたの一万円札だけ。深夜営業のお店なんかなかったし、自動販売機は役にたたないし。寒くて、歩道橋の下で寝ようとまでした。
友達の家まで行こうとして、郊外の、街灯がたまにしかない長い道を歩いてたら、いきなり三匹の野良犬に吠えられた。スピッツみたい白いのが一匹いた。でもそれまでにもう肝がすわっていたのね。手をひろげてこうしてうなり返したら、キャンキャン逃げちゃった。
友達の家までたどり着きはしたんだけど、それは男の子の家だったからやっぱりやめちゃった。帰り道は淋しいなりになんだか楽しかった。一人でも大丈夫なんだ、そんなことがわかったから。
考えがひらめいて、今度は駅に行った。
始発まで待っていて電車に乗って、一往復する間、ぐっすり眠った。目が醒めたら、酔っぱらいみたいに伸び伸び寝てるの。
そうだ、あれは冬休みだったんだ。朝陽でキラキラしてる車内に、晴着の母親と女の子がいて、わたしを変な目で見てたもん。
今は、弟とだけ暮らしてる。
わたしんちは、一家離散だもの。あと兄がいるけど、みんなそれぞれ勝手に働いてるよ。
お父さんには一度だけ、東京に連れて来てもらった。お父さんはパチンコをした。映画館で時代劇を見た。バスに乗っている時、となりにすわっていた男の人は、そういう眼鏡をしていた。窮屈にかがんで、わたしの手提げを拾ってくれたの。頭をなぜてくれた。
ずっと東京だったんでしょう。その時も同じような眼鏡だったの。
その時に一度、もう会っていたかもしれないね。
おじさん。
娘に会いに行くと、待っていたのは青年だった。
弟だという。用件は、姉と別れてくれということだった。
「変態のようなことをするそうですね。たとえそうでも、お互いが好き合っていれば許されるのかもしれません。けれど、姉はバイト先に好きな人ができたって言うんです。若い人です。勝手だと思われるでしょうが、勘弁してあげていただけませんか。あなたはしっかりした職業の方だと伺っています」
「そうですね、そっちの方も長続きするとは思えませんが、まだしも安心なんですよ、僕も」
次の日の朝も、会社に行かねばならなかった。酒が残っていた。
公園は葉桜だった。
建物の間から射す陽光の中でたゆたっていた。歩きゆく街路でも緑がしみるほどみずみずしい。昨日も見た光景なのに、くやしいぐらいに美しい。
人はいつまでもこのころを忘れてはいけないのか、ということを不意に考えた。
身体と心がこのようになってもまだ目をそむけてはいけないのか、求め続けなければいけないのか、と自分に問うてみた。
若々しく生命力に満ちていることは良いことだし大切なことのはずだともう長いあいだ信じていたと思うのに、それは不自然で無理があるという気が、この時した。
無条件に降参するしかないのだろうか。それも嫌ならばどうすればいいのか、ということの、安易な答えすら浮かばなかったのだけれど。