[いのちひと匙]

ひと匙
画像は・EyesPicより

はじめに

病むときも不屈のこころそのままにしたため給う『いのちひと匙』

 山梨隆司様が一昨年旧老臘十七日になくなられました。
 二回にわたる過酷な入院治療にもめげぬ明るい折折が、お人柄が、そのまま編まれた小冊子『いのちひと匙』にあうれております。私たちは今一度、心より追悼の意を込め、その人となりに接し学ばせていただくために、全文をここに転載させていただきました。
                        合掌

いのちひと匙
山梨 隆司

いのちひと匙
                 

                         序
 何でも見てみたい。何でもやってみたい。野次馬の私は今度の五十日に わたる入院も、何か人生のイベントのように楽しんじゃった節がないでも ありません。
 勿論、楽ではない治療でした。でも娘夫婦が用意してくれたホテルのよ うな特別室の病室で、家内も娘の家に泊まり込んで病室に通い、主治医の 娘婿は毎日回診して、詳しい病状を説明してくれます。
 私にとつて勿体ないような環境で過ごすことが出来ました。それだから こそ出来たのですが、こんな小さなエッセイ歌集を病室でつくってみまし た。もとより病人の愚痴、あんまり楽しい本ではないかも知れません。
 でも、最近のガン治療の現場がどんなか、私の体験に少しでも共感して いただけるところがあつたら、こんなに嬉しいことはありません。

目 次
プロローグ・・・・・64
ガン告知 ・・・・・65
肺ガン  ・・・・・66
胸の痛み ・・・・・68
放射線治療・・・・・69
備長炭  ・・・・・71
ステロイド・・・・・72
七十六歳誕生日・・・73
食    ・・・・・74
月食・・・・・・・・76
病室の午後・・・・・77
体重・  ・・・・・78
季節   ・・・・・79
飯田   ・・・・・80

プロローグ

 また命拾いしました。
なんと私は運がよいのでしょう。
 「まだやり残していることがあると耳元でささやかれているような気もし ます。いつまでもやり残して置けば、この幸運がいつまでも続くものならこん な気楽なことはありませんが、そうは問屋が卸しますまい。

 そろそろ人生の総括を考えよという警告なのでしょぅか。今度の出来事はそ の終章の始まりなのかも知れません。これを啓示として、これからの人生の組 み直しをより有意義なものにすることが出来たら、私はガンという疫病神様に 感謝申し上げなければならないのかも知れません。

咳止まぬ胸を抱えて音立てて荒き息するもっと空気を

 四月、激しい咳に悩まされました。少し前から疲れやすい、息が切れるなど と漠然とは思っていましたが、連休の頃とうとう胸に痛みを感じるようになり ました。それはまるで骨折したような激しい痛みでした。五月、清水厚生病院 に入院していろいろ検査してもらいました0 結論が↑され、肺ガンの書を 受けたのは五月三十盲。肋骨に浸潤が見られるので手術は不適応。放射線治 ました0それはまるで骨折したような激しい痛みでした。五月、清水厚生病院 に入院していろいろ検査してもらいました。 結論が下され、肺ガンの宣告を 受けたのは五月三十一日。肋骨に浸潤が見られるので手術は不適応。放射線治 療を勧められましたが、厚生病院にはその施設がありません。県立病院に紹介 してもらつても当分空ベット待ちということです。
 おお、何たる不覚、不意をつかれた急展開でした。

ガン告知

 実はその前日、家族が先生に呼ばれていました。患者にガンの告知をするか どうかという相談です。日頃から私の考え方も理解していた家族は、即座に告 知に賛成したようです。
 そこでこれからの対策です。運が良かったことに、たまたま私の娘婿が呼吸 器の専門医だった関係から、その場で電話で相談したところ直ちに勤務先の長 野県飯田市立病院で引き受けてくれることになりました。
 つまり私が先生から聞かされたときには既に段取りが決まっていたのです。
 私は強運に感謝しながら易々とこのレールにのりました。

友言いき「運も寿命のうちなるぞ」思い出したがあいつは死んだ

 病室に戻ると看護婦に聞かれました。先生にいわれて今どんな心境ですかと。
「私やねえ。自慢じゃないが十七で結核をやって生き残ったんですよ。今更 なんということもありませんやね」
 二十歳過ぎてからは余生だよ。などと公言していた手前、少し強がっている 自分が滑稽に見えてきました。
 結核を乗り切ったのも単に解放性でなかった(結核菌が外にでなかった)と いう運に恵まれていたからでした。
 それにしても相変わらず胸は痛みます。モ〜ヒネと座薬で押さえ込んでいま す。粛然たる現実を前にして私も臍をくくってかからねばなりますまい。

肺ガン

 戦前結核が亡国病と云われていました。若者の感染が多く、しかも死亡率が 非常に高くて有為な人材が天折して行くのを、なんとも防げなかったからです。 結核は不治の病、大気、栄養、安静とただ為すすべもなく、毎日微熱と寝汗 と戦っていました。やがて、声がかれてくると喉頭結核、下痢が始まると腸結 核、背中が痛み出したら脊椎カリエス、こうなつたらもう死を待つのみでした。
 痩せて、青白い顔をしてマスクをかけ、ゴホゴホとやっていれば、人混みの 中でもその周りに、いつかスーツと空間が生まれたものです。家の中でも納 屋かどこかに隔離され、世間には極力内緒にされました。家族にとつても結核 患者がいることは、肩身の狭い事だつたのです。結核と闘うには精神的にもタ フネスが必要でした
 戦後、結核撲滅のためにツベルクリンやBCGが普及しました。今の中高年 の皆さんは多分みんな経験しているはずです。
 結核があたかも過去の病気のように思われる状況が生じたのは、ストレプト マイシンなど抗生物質が発見、普遍されてからでした。
そして、不治の病という舞台に、代わつて登場した千両役者がガンでした。 手遅れになつたら手の施しようがない点で、ガンはまさにガン。死に至る病、 人々が怖れ忌むのも当然です。
 そんな病気を、私は二つながらに経験することになつてしまいました。よく よく流行りものが好きなたちと見えます。
 最新の医学は色々なアプローチでこの病気に挑戦してます。いつかガンを過 去の病にしてしまうことができるのでしようか。

血痰のティッシュを開く看護婦の貌のひととき固まるを見き

吾が病「肺ガン」なりと告ぐる時ものいうものかな人の顔皺

父の頃は人はかく病み病みし果てやがて死ぬよりすべなかりしに

胸の痛み

 昔、『湖畔の宿』という流行歌がありました。高峰三枝子が歌いました。「胸 の痛みに耐えかねて独り占うトランプの・・・・」
 こんな痛みならもう一度してみたいくらいなもんですが、ガンが蝕む骨の痛 みときたら、それはそれは辛いものがございます。

置き場なき胸の痛みや明日は乞わん麻薬一粒増やせかしとぞ

 麻薬とはモルヒネです。こうしてともかく痛みを押さえ込んで、体力の温存 を図つているのです。痛みが気にならないような時でも、遠くに痛みが残って います。つまり、本当はやっぱり相当に痛いはずなのです。ごまかしているの です。直つたのとは違うのです。

痛むとき自然無口でいるものを人は思うらし思い悩むと

放射線治療

 六月十二日転入院。よく十三日から放射線治療が始まり、三十三回照射の予定 が立てられました。
 放射線治療というのはまるで絨毯爆撃のようなものです。悪い奴が巣くって いるところへ、とにかく滅茶苦茶攻撃をかけ、味方の犠牲もある程度忍んで最 後の勝利を勝ち取ろう、という思想のように見えます。これが現在の科学思想 の根底を成す合理主義というものなのでありましょぅか。
 最初は予防的措置も含め結構広い範囲(15cm四方位)に照射が行われました。
 リニアックという照射装置の解剖台のようなべットに横たわるとベットは 胸の高さくらいまでまで持ち上げられ.やがて機械の下に送り込まれます。技師が 二人がかりでマーカーを頼りに位置を決め、やがて足早に立に立ち去ります。広い 室内ドアが閉まって独りマグロのように横たわっていると、やがてジジジ・・と 音がして約三十秒、再び機械の頭を背中の方にセットし直して、またまた裏焼 三十秒、かくて本日一丁あがり、まことにあっけないほど簡単で痛くもかゆくも ありません。
 しかしこの時私の体の中では大変なことが起こつているに相異ないのです。
 何しろ放射線が機関銃のように雨霰と私の胸を打ち抜いていることなのですから。 症状がその様子をそこはかとなく伝えてきます。

胸ぬちの闘ひ更かや痰の血は敵の骸か吾の血潮か

 やがて発熱やら食欲不振やら体重低下やら、次々と結構きつい副作用があら われてきました。皮膚も変色してきました。
 こうして一週四〜五回、三十三回の照射は、七月二十一日、五十日目をもつ  て千秋楽を迎えたのでありました。
 三十回を終えた段階でのCTによる検査では、索状痕跡を残して影は殆ど消 滅していました。まことにラッキーなケースとなつたようです。勿論、敵は(こ れからはお友達と呼びましようか)なくなつてしまったわけではなく、何時目 を覚ますか解りません。その時はまた折り合いをつけねばなりませんが、ま、 私の五十日の闘いはどうやら一応報われたようであります。

放射線治療

 放射線を患部に照射してガンや悪性腫瘍を治療する方法で、 放射線にはコバルト60 (ガンマー線)やリニアツク (線形加速器 ・電子線) などが用いられる。

備長炭

 「HGP (赤血球の値) が低いので少し増血剤を呑んでいただきます。これ を呑むと大便が黒くなります」
 いわれてはいましたが「エーこりやなんじや」便器の底には、まるで備 長炭みたいな奴が横たわつているではありませんか。
 それにしても見事に黒い。たつた二粒のクスリが、よくぞかくもムラなく染 め上げたものである。ちょつと作品を見せたいような、いたずら心の衝動にか られました。

 スミノヨウナウンコミタコトアルカキミゾーケツザイノムト コーナルンダヨ

ステロイド

 放射線治療も五回目を過ぎた頃から、三十七・八度の熱がでるようになりま した。同時に食べるものが食べられなくなつてしまいました。
 いよいよ副作用のお出ましです。発熱すると氷枕と座薬を用いました。汗を びっしょりかいて熱は下がりますが、その間の体力消耗は相当なものと思われ ました。
 まず肺炎が疑われました。抗生物質が投与され種類を替えても効果がないこ とがわかると、副腎皮質ホルモン・ステロイドによる対策が試みられました。 これが医者のさじ加減というものでしょうか。検査データを検討しながら次か ら次と鮮やかに手が打たれたのです。
 ステロイドはさすが薬の中の薬といわれるだけあつて、その薬効たるや劇的 なものがありました。
 のんだ翌日から熱は治まりました。二・三日すると食欲も徐々に戻ってきま した。熱は放射線治療によって患部が崩壊してゆく過程だつたようです。こう して束の間の平穏期が訪れたのでした。

   
ステロイド

   副腎皮質から生成分泌されるホ〜モンや同じ作用を持つ合成物質を含め てコルチコステロイドという・本来副腎皮質の機能低下症の補充療法だった が、抗炎症作用や抗アレルギー作用が注目され、広領域の臨床に応用されて いる.連用による副作用に注意が必要である。

七十六歳誕生日

 六月二十二日は私の七十六歳の誕生日でした。娘達二人がノートパソコン用 の小さなプリンターをプレゼントしてくれました。
束の間の平穏期を利用して、私はプライべ−トニュース幸寿多小僧第六号の 編集をパソコンで始めました。これは私のガン宣言です。
 誰とでも下手に気を使うことなく、アッケラカンと病気の話ができる方が、 お互い楽だと思ったからです。
 私の病気がガンだからこそ、これからもせいせいとディスクロージャーして、 八方破れの自然体で人生を送りたいと思っています。
 私はかつて清見潟大学塾の塾長として「とことん健康に生きてすこうし臥っ てあつさり死ぬ」という美学を提唱してきました。こういう死に方が出来たら それは本人にとつても、家族にとつても、また社会にとつても最もハッピーで す。
 その為にはどう生きるか、実はこれは生き様に対する命題であります。私は 私の人生の伽として、自らに課した事になります。実践者であり続けなければ ならないのです。
 それにしても動乱の二十世紀を四分の三あまり、よく生きたものですな。最 近の世相には、生き過ぎて見たくないものまで見てしまった、という嫌いもな いではありませんが、たつた一つ不可能と知りながら見たいものがあります。
 それは、人類がどんな形で滅びるかということです。もしかしたら人類が地 球のガン細胞に変異して、非合目的に増殖を続け、地球を食いつぶして自らの 生存基盤を危うくしているのではないか、という畏れを抱いているからです。
 ま、それはそれとして七十六歳に乾杯!

  

 食  

一本ずつ箸につまみて食しけりノートには記す焼きそば少々

ひと匙の味噌汁嘗めてひと匙のいのち養う頼むに足れり

のど灼けてメロンの露さえ通さぬ日味噌汁とお粥の優しさを知る


 副作用による食欲不振は二度に分けて訪れました。最初は発熱と共に食べら れなくなつてしまったとき、次はステロイドが効いて食欲も快復し、快調の日 が四・五日続いたあと、体が無性にだるくなり口の中の皮がむけてくるように なつてからでした。五週目頃です。
 予告されていたような喉のつかえ感が生じてきたのです。ジュースさえ喉元 を通りません。熱く、そして払みるのです。メリメリと体重が落ちて、声まで 小さくなつてしまったのはこの頃でした。
 ゼリーが通った。お粥が少しはいった。僅かな食物がまるでクスリのように 体を養っているのを実感しました。食べたとたん、指先に温かみが蘇るとき、 それはまさに感動でした。
 その時期、私の命は汁物が頼りでした。病院食に味噌汁がないときは、イン スタントのお吸い物や味噌汁が、メインデイシユとなりました。

生きるとは食すことなり食すとは医することなりきわみにて知る

食欲の戻らむ気配予感せりベクトル回れ今日を境に

しやつくり

 痩せている最中、三日ほどしやつくりに悩まされたことがありました。 体内の消耗と関係あるのでしょうか。リズミカルにしゃつくりが歌を歌っ ていると可笑しいといいますが、本人それどころではありません。三日も 続いたら死ぬほど苦しい。
 メロンの冷たいかたまりを、大きく息を吸って喉の奥にぶっけるように 一気に呑み込む。どうもこれが最も効き目がありました。

 月食

 七月十六日の夜は今世紀最後の皆既月食でした。満月が南アルプスの上に昇 つてくるのが、ベットの上からちょうどよく見えます。
 八時過ぎ、食は始まりました。その始め地球の影はまるでレントゲン写真の ようでした。

蝕みて月を食する影なれや吾が肺ガンの病巣のごと

月影の衰えゆくに目をそらすやがて満ち来と知りつつもなお

病室の午後

 食欲もなく、無性にだるく、なんの意欲も湧かないとき、私の体の細胞達は 身をけずって戦っています。
 私はテレビもつけず、ただひたすらに寝る。外界の刺激を避けてひたすらに  寝る。これが私の闘いでありました。私の細胞達への応援でありました。

心地よき倦怠感に包まれて夢か現か体温計鳴る

看護婦の方言の声に目を覚ます検温の刻のたゆたいており

夢みしは少年の日のことなりし祖父も居にけり祖母も居にけり

伊那谷に花火の音のこだまする夕暮れ独り虚脱のかたまり

体重

 私の体重はここのところ六十二キロ前後で安定していたものでした。ここへ 転入院してからも、六月二十日頃までは六十キロを維持していたものです。そ れが七月十六日には五十一・五キロにまでに減ってしまいました。こりやヤバ イ いささか焦りました。
 体重の減少は放射線治療には付き物と承知はしていました。それにしてもち よつとペースが予想外でした。
 放射線はやり始めたら継続して実施するのがセオリーのようです。でもあん まりダメージが大きかつたら、少しお休みしましょうかという話さえでたくら いでした0結局、体重快復の兆しが見え始めたため予定通り実施して貰いまし た。

ひと月に九キロ痩せればヘロヘロと膝より細き我の太もも

身の細るいきおい二日で一・五キロ黙し書き付けただ黙し寝る


 計るたび、止まるところを知らないように体重が落ち込んで行くというのは、 まっこと切ないものがあります。
 腹には縮緬のような皺が広がり、腿はそげて縦に溝を刻み、尻の座布団も綿 が抜けて、とがつた尻が椅子に突き刺さる思いです。
 それだけに、下げ止まったときの安堵もまたひとしおのものがありました。
 私は極力怠けているのに、体の中ではどんなにダイナミックに細胞達の集団 的営みが続けられていることでしょう。運動して一キロ半痩せるには大変な努 力が必要です。
 僅か二日、体はいかなる目的で、いかなるプロセスで、こうも体重をそぎ落 とそうとするのでしょうか。私の体でありながら私の体ではない。私を超越し た営みの中で私の命は支えられていました。

醜とてこれが我が身ぞ二つなきこれが我が身ぞ養わんのみ

季節

 ここへ入院した六月始め、伊那路はまだ薄ら寒い日もある初夏でした。入梅、 大暑、季節の移り変わりを、病室のたつた一つの窓から見続けてきました。こ の間、五階病棟と一階の外来診察室、地下の治療室を往復する以外全く外へは 出たことがありません。
 退院の日取りを数えられるようになると、何をしようか、何が出来るか思い めぐらすことが、とても楽しみとなつてきました。

病窓に梅雨を過ごして大暑かなこの年の冬如何にあらなむ

南アルプス入道雲は沸き立ちて病室の窓静かに動く

飯田

    飯田 美しき町
    山近く水にのぞみ
    空あかるく
    風にほやかなる町

     飯田 静かなる町
    人みな言葉やわらかに
    物音ちまたにたたず

    粛然として
    古城の如く丘に立つ町
                    岸田国士

 その飯田の市立病院、縁あつて五十余日お世話になりました。市民本位のコ ンセプトが随所に感じられる病院でした。
 病室も余裕をもって運用されているように見えます。診療科目二十三、人口 十万ながら、はるかに大きな町の総合病院も及ばない高度な医療体制を準え、 人々は何時でも、直ちに高い水準の医療が得られる町、それでいて、確か長野 県の一人あたり医療費は、全国でも最低水準であつたように記憶しています。
 これは文化の問題です。経済合理主義より人間が優先しています。そこに住 む人々のライフスタイルや、価値観に根ざした姿のように思われました。町の 風格を感じました。

    飯田 心豊かな町
    ありがとう 飯田 さようなら 飯田

              二〇〇〇年八月一日 山梨 隆司 著・編

あとがきより

 本号の発行は隆司先生に、すっかり委ねておりました関係上、見送りを覚悟しておりましたが、このたびご子息の究氏によって発行の運びとなりました。
 本号を山梨隆司先生追悼の号とし、心からご冥福をお祈り致します。

             〜〜〜平成14年7月(長尾朝子)〜〜〜

更新日2008.03.14