めたせこいあ第四輯

「めたせこいあ」とは 

『めたせこいあ』はカルチュアセンターのテニスコート脇に亭々と佇立する大木。日本ではアケボノスギとも呼ばれ、中国名は水杉”生きている化石”として知られている。
高さは35メートルにも達し、幹の直径は2〜3メートルにも及ぶ。
一途に高みを目指す力強さ、飾らぬ孤高の姿には風格さえ感じさせるものがある。

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山梨友五郎追悼号

     ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ は じ め に ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 本号編集のさなか平成15年5月5日朝、山梨友五郎さんが亡くなられたと長尾さんから電話があった。
 本会の前身「カルチュア短歌会」のオーナーでもあり会の重鎮だった友五郎さんの突然のご逝去により、第四輯は急遽『山梨友五郎追悼号』となった。

 

山梨友五郎という人 

マイペースな生活は朝食10時から、昼食16時から、夜の食事は21時頃から。果物、黄粉、ホーレン草、小松菜、牛乳、その他、合せて20種類以上、ラジオを聞きながらゆっくりたべる。
 丸首シャツ等は洗いざらしの布の薄くなったのがお気に入りで、破れそうな古い物を大切に着ていた。
 靴下は上部のゴムを全部取り除き、ゆるめにしてから履く。要するに身体を締めつけない。総て物事を合理的に考えて生活をしていた。
 赤ん坊が泣いていても、自己主張しているといってそのままにしておく。
 外見なぞは気にしないで、人に笑われても「人は人だ」と、平然として自分を見失わない。
 和製エジソンといわれ普通の人から見れば変人である。      (山梨 公子)

              ----------山梨友五郎略歴----------
大正2年(1913)4月21日、静岡県庵原郡(現、静岡市清水)高橋生まれ。静岡県立庵原中学(現、清水東高等学校)卒。
中学在学中に自動点灯機を考案する。時計の時報に関する数々の実用新案を取得する。
代表的なものに「自動時報装置ベルタイマー」がある。
平成13年(2001)潟с}ベルの会長を退く。平成16年(2004)5月5日逝去。

山梨友五郎作品集

九十の春を生きおり

●・・・・・その唄は高峰三枝子がよく歌つた「湖畔の宿」でフラットが多い・・・・・・・H12・6

●・・・・・T字帯Tは英語のTか甲乙の丁かどちらか迷ふ          ・・・・・・・H12・07

●・・・・・天を突くメタセコイアの巨木なり人間どもに切り刻まれぬ     ・・・・・・・H12・09

●・・・・・両鬢をピンと結びし少女らの横飛びざまにラケットを振る     ・・・・・・・H12・09

●・・・・・せはしなく過ぎゆく日毎歌できぬそれが歌になるもう出来た  ・・・・・・・H12・10

●・・・・・壺のゆりその花床に落つる音バサでもなければグシャにも非ず ・・・・・・H12・12

●・・・・・隆司よ隆司 了俊和尚泣きながら枕経を読みつぎにけり     ・・・・・・・H13・02

●・・・・・くま蝉の遠鳴きしきる朝まだきこらへ放尿しつつ聞きをり     ・・・・・・・H13・09

●・・・・・風呂上り鏡に見つけし背の丸み摂理にあれどがつくりとせず  ・・・・・・・H13・11

●・・・・・いささかの後ろめたさは許されよ老いて若きにルンバ踊らす  ・・・・・・・H13・12

●・・・・・卒寿かや詰めた息をばふつとはくよろこびあるや八頭身の女  ・・・・・・・H14・01

●・・・・・久しぶりの雨音聞きつウツラウツラ…アラまう十時になつてしまうた・・・・・H14・02

●・・・・・半年をかけて習ひしルンバなりパートナーひとつたがへし大会  ・・・・・・・H14・03

●・・・・・大勢の見まもる中の初をどり違へてとがむはいささか酷よ    ・・・・・・・H14・03

●・・・・・「勇み足」「もの言ひ」などと相撲放送やまとことばの響きうれしも ・・・・・・H14・04

●・・・・・年老いて呆けるは神の慈悲なるや死ぬる恐怖は曖昧模糊に   ・・・・・・・H14・05

●・・・・・ピンクレディの「けい」四十四歳が結婚とふ小さな記事を妻に見するも ・・・H14・08

●・・・・・彩いろいろのステンドグラス背なにして神父ながなが教示垂れ給ふ ・・・・H14・12

●・・・・・江戸の世に謎の浮世絵師とふ写楽「シャラクサイ」とのつながりあるや ・・H15・02

●・・・・・神様に賽銭を投げてあげるのは無作法だと思ひませんか     ・・・・・・・H15・03

●・・・・・湿疹の背を掻く手を「孫の手」とよくぞ言ひけりああ気持ち良し   ・・・・・・・H15・05

●・・・・・「水ばなが出るやうになつた」と妻いへる「お年を召したあかしですかね」・・H15・06

●・・・・・上下の入れ歯はづして水につけいざや眠りて明日に生きん    ・・・・・・・H15・07

●・・・・・ヤンキースの松井秀喜のインタビュー話したあとの口一文字   ・・・・・・・H15・11

●・・・・・松井選手ひとえ瞼のおかほだち小泉総理もそうですかねえ    ・・・・・・・H15・12

●・・・・・年老いて良しと思へり若き頃自己流のギターを憶えたること    ・・・・・・・H16・02

●・・・・・オルガンを二、三曲ひきギターにて七、八曲をこなしてひる飯   ・・・・・・・H16・03

●・・・・・若き頃五十まではと思ひしが今九十の春を生きをり         ・・・・・・・H16・04

           (平成12年6月から16年4月までの作品から抜粋)

弔辞と追悼文

       

弔 辞

 謹んで山梨友五郎様のご霊前にお別れの言葉を捧げます。
 四日の夕方入院されたと伺い心配しておりましたが、五日の午前一時五十五分に急逝されたと報せを受け、あまりの突然のことに言葉がございませんでした。ご家族の皆様も信じられない気持ちで一杯のことと思います。
 ご自分はもとより、ご家族様も健康管理を充分になされて大丈夫と思われていたことと思います。
 九十二歳のご高齢とは思われない若々しいお顔で温和なお人柄がにじみ出てお会いする度に私も心が温かく優しい気持ちになれました。
 平成八年八月八日よりカルチャーで短歌の教室を始めるからと、奥様の公子様からお誘いを受け、文学的才能など全くない私も仲間に入れさせて頂きました。会の名前もメタセコイア短歌会として現在も続いております。
 友五郎様は、若い時から短歌を勉強されていたと聞いておりますので、短歌が出来ない時どうしたらいいかと相談しましたら、「思ったことをそのまま言葉にして言えばよい」と、教えて下さいました。素直に思ったことを、と言われても、それが中々むつかしく、出来ない私です。
 月に一度の短歌会の時、いつもユニークな歌を詠まれました。お人柄が充分歌にも伺えて、友五郎様の短歌を詠むと、皆が自然に微笑み笑い、気持ちが和らいで会の空気もなごみました。
 五月十一日に短歌会がありますが、もうその時にはお顔も見られないと思いますと本当に淋しい限りです。  その時々の世界の情勢、ニュース、ファッションといつも若々しい気持ちが短歌にうたわれていました。みさ子様が病院で短歌を作りますかとお聞きしたら「もう種がつきた」と言われたそうです。

    それでは思い出の短歌を三首読ませて頂きます。

若き頃五十まではと思ひしが今九十の春を生きをり

年老いて良しと思へり若き頃自己流のギター覚えたること

松井選手一重まぶたのおかほだち小泉総理もそうですかねえ


最後に友五郎様のご冥福をお祈りしてお別れの言葉といたします。

平成十六年五月八日 
            めたせこいあ短歌会 
                           保 坂 和 子

追悼文

      

耳を澄ましてみよう

                            池谷 照子 
     その日はいつもより四十分程早く清水駅に着いた。「高橋」のバス停を降りる足も弾む。スリッパに履き替える時は、もう常とは違う空気が部屋より流れていた。そう、まるでコンサートの開演前の音合わせのように。
 「おはようございます。あら、まだ誰も来ていないのですか」
 そこには、膝にギターを置いた山梨友五郎様とピアノに向く山梨隆司様の姿があった。
 「おはよう」二人は笑顔で迎えてくれた。
 今日は勉強前の三十分お二人の演奏を聴かせて下さると、先月お話があったのである。
 始めよう「え、まだ私一人なのに」…「いいよ」友五郎様の目がそう返してくれる。
 「禁じられた遊び」の曲が静かに流れ、高音のピアニシモのギターの音に、映画の男の子の姿が浮かぶ。友五郎様の頼もしい御体にしてその繊細な指は力強く、時に優しく弦をつま弾き、左手は流れるように音を引き出して、哀愁に満ちたメロディーを聴かせて下さった。今までの清水での一番の至福な思い出となった。
 勉強会では、もの静かな佇まいのなか、温かいお人柄に触れ、私の拙い歌評に、目を細めて頷いて下さるその眼差しの、なんと優しいことかと、いつも感じていた。
 それは人生の厳しさと、人への思いやりが長年の風格となりにじみ出ているからと思う。
そんな素敵なお方が、花々が咲き満ちる季、春風にふうわり乗って天に昇ってしまわれた。それも突然に。悲しい。淋しい。

心臓さん八十年も打ちつづけて退屈でせう作曲を始めたの―(不整脈)

 平成八年のお歌の数々に、みんなの楽しい歌評と笑顔が、勉強会を明るくして下さった。
今日は一日中雨。雨の音を聴きながら、人はその向こうの、もっとひそやかな世界の音を聴いてみたいと思う時があるという。
 友五郎様は、天国で静かにギターを奏でているのかしら。
 耳を澄ましてみよう。

      

友五郎さん

                            山田きみ江
     今、昔の歌会のことを思い出しています。目に浮かぶ友五郎さんは、静かに静かに座っていらっしゃいます。
今は無きカルチュアセンターのお教室での歌会の時でした。ダンスのお話をとても嬉しそうに、生き生きと笑顔で話されました。三十代の若者のように、元気で楽しそうでしたね。
背筋をぴんと伸ばした長身の友五郎さん。ダンスの写真は、蝶ネクタイがよくお似合いでした。はにかみながら写真を見せて下さったことが昨日のように思われます。
遠い雲の上の国でも、タンゴやワルツを華麗に踊って、先に逝かれた貴方の大勢のお友達に見せてあげて下さい。楽しい音楽、リズムが聞こえてくるようです。
それから短歌のことですが、友五郎さんならではの視点から、とても九十余歳とは思えない若々しい歌を次々に発表され、私達を楽しませて下さいました。ほのかな恋の歌、風刺のちょっぴり効いた歌、他の誰にも真似の出来ない歌の数々が忘れられません。
その友五郎さんとも、もうメタセコイア短歌会でお目にかかる事が出来ないと思いますと、本当に寂しくてなりません。
目を閉じてみますと、私の目蓋には優しい羅漢さんのような友五郎さんの笑顔が、しっかりと焼きついて居ます。
友五郎さん、どうか安らかにお眠りください。そして雲の上の国から、至らない私達をお守りください。

       

樹木のような

                          和田亥世子 
     山梨友五郎様が亡くなられた。四月の歌会には、お元気だったのに余りに突然で驚きました。
毎月の歌会でお目にかかる友五郎様は、長身でおしゃれ、加えて寡黙で包容力のある魅力的なお人柄でした。
 三年前、テルサでの新年歌会の折、お得意のダンスを公子奥様と、はにかみながらも楽しそうに踊られましたが、年齢を感じさせない若々しいお姿が眩しく思い出されます。
 また、歌も自然体で、私達が気付かぬ視点からさらりと詠まれた味わい深いものが多く、その独自の感性にはいつも感心させられました。

・オルガンを二、三曲弾きギターにて七、八曲をこなしてひる飯

・ヤンキースの松井秀喜のインタビュー話したあとの口一文字 

・江戸の世の謎の浮世絵師とふ写楽「シャラクサイ」とのつながりありや


 四月歌会には若き頃五十まではと思いしが今九十の春を生きをりと詠われ、この歌が最後となってしまいました。静かな笑みを湛えながら、楽しい歌をこれからも見せてくださると思っていたのに、本当に淋しいことです。
 今、友五郎様を思うとき、大地にしっかりと根を張った樹木のような大きな人であったと、山梨家の庭に聳えるメタセコイアの姿を重ねるのです。

         

友五郎氏の歌

                           植松 法子 

 若き頃五十まではと思ひしが今九十の春を生きをり

 山梨友五郎氏最後の歌である。若い頃、結核を患ったと聞いたことがある。当時の結核は死病だと言われていた。せめて五十まで生きたいというのはぎりぎりの願いだったのだろう。それが九十歳の春を生きている、何とまあと言うところだろう。自然体に生きた功徳なのだという気がする。
 幼い頃描いていた夢は何だったのだろうかと思うことがある。エジソンのような発明家になりたいというのは、たいていの子供が一度は夢見ることだ。一発当ててやろうという気負いではない。案外子供の頃の夢をそのまま持ち続け、持ち前の好奇心と自然な発想で新しいものを考案したのかもしれない。そんなことを感じさせる氏の歌である。

 ヤンキース松井秀喜のインタビュー話したあとの口一文字

 ヤンキースへ移籍した松井を歌ったこの歌は、卓抜した一首だと思う。下句の 〈話したあとの口一文字〉の〈口一文字〉がことにいい。なんとなく見ていながら、なかなか掬えないものだ。見るべきものはきちんと見ている。〈口一文字〉という細部には脱帽だ。思わず膝を打ちたくなる一首である。

   氏ほど自由人という言葉の似合う人はいなかった。茫洋として、構えず、気張らず、あんな風に生きたい、あんな風に歌いたいといつも羨ましく思ったものだ。自在で闊達な詠み振りの歌は友五郎氏そのものである。氏という稀有な人に会えたことは、私にとって大切な宝物である。

       

友五郎氏とメタセコイア

                           長尾 朝子
 友五郎氏が逝ってしまわれた。あまりにも突然のご逝去だった。昨年卒寿を迎えられたことから、ささやかな花束贈呈の折の少年のようなやさ恥しげな表情が想い出される。
 日ごろは「目止心通」を旨とされておられるのでは、とお察ししていたのだが氏の作品に見るご本人の、なんと若やぎに充ちた楽しげな方であられたことか。それのみか諸々のことに深い造詣を秘め意欲満々の一面もあられた氏ではあった。その確たることは当時、将に瞠目の『ベルタイマー』の発明開発に拠ることである。当時、小学生だった私達は行き交う折など「科学者が来るよ」等と囁き合ったことである。
 更に私の印象に根ざしていることは戦中戦後を通し、アララギの前山周信・千葉清作氏たちと〈紫苑会〉のメンバーとして活躍しておられたことである。
 時代は足早に過ぎ、今日ご縁あって公子夫人からの提案で当会のお手伝いをさせて頂くこととなったのも嬉しいご縁であった。
 当会の「めたせこいあ」の名称も友五郎氏宅の傍えに、すっくと天空を目指し聳えていた巨木から頂けたのも意義深いことである。
 が、このシンボルであるメタセコイアが市街地の発展等、諸事情により伐採の止むなきに至ったことは並々ならぬ決断の末とうかがっている。長寿であられた友五郎氏の、この巨木に対する愛惜の情は申すに及ばず堅固なもので、暫し沈うつの日日が続いたとうかがっている。
 しかし皆さん、ご安心あれ、メタセコイアは、太陽が燦々と降りそそぐ山梨家の庭に、その年輪も定かに一米余の伐り口を残し確と存在しております。友五郎氏の面影と共に深く深く根を張って。
 心から御冥福をお祈りすると共に「めたせこいあ短歌会」の行方を見護られんことを。

以下製作中

めたせこいあ第四輯(H16/11)より抜粋

(た行から始まる五十音順)
 
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Last Update:08/03/09