柔道家・結城源心

柔道家・結城源心をご紹介します。 

・・・・・・・・・・・プロフィル・・・・・・・・・・・
明治三十一年(1898)仙台生れ
高名な石黒敬七と同じ時期、早稲田大学柔道部において名を覇す。
全日本柔道選士権に6回出場する。(内優勝預かり1回……決勝引き分け)
当時、 身長5尺6寸(約170cm)体重17貫500(約66kg)
得意技・一瞬、身を沈めての背負い投げ

石黒敬七、結城源心、二宮宗太郎というメンバーを擁した大正十年(1921)頃の早稲田は、早稲田大学柔道部の歴史上において「最も耀ける時代であった」と言っても過言ではない。

(写真は早稲田大学時代の結城源心)

1・生い立ち
明治三十一年(1898)宮城県仙台市において父源九郎、母竹代(ちくよ)の長男として生れ、源一と名付けらる。

父祖は白河結城氏の流れをくむ一族と云われ、小田原攻めに参陣しなかった為に、豊臣秀吉に所領を没収された。後に伊達正宗に召抱えられ伊達藩の一門に列せられたが、外様なるがゆえに微禄に甘んじていたという。

明治維新以後、禄を失った伊達藩士族の家とあって生活は苦しく、小学生の頃から新聞配達をして学費を稼ぎ、家計を助けながら成長した。
また、祖父清教(きよのり・伊達藩武術指南役)の血を受けて幼少から腕っ節が強かったが、決して弱い者いじめはしなかった。

小学校は五年生まで東京で学び、その後六年生から仙台へ転校するが、以後仙台二中を経て東京の豊山中学を卒業した。豊山中学卒業の前年、大正五年(1916)六月、若干十七歳と九ヶ月にして講道館柔道初段を取得した。

〜〜〜講道館柔道初段の免許状〜〜〜

柔道の始祖、嘉納治五郎講道館長師範の免許状である。

戦前の写真等資料は全て戦火により焼失してしまったが、かろうじて親戚の家に残された僅かなものが、子息源介氏の手元に現存する。

大正五年といえば、この十二月に将来の政治活動の師となる中野正剛が朝日新聞社を退社、「東方時論」という評論雑誌を起こした。


2・早稲田入学まで(その1)

* 大正五年(1916)六月 東京豊山中学在学中に講道館柔道初段を取得(十七歳九ヶ月)
* 大正六年(1917)三月 豊山中学卒業、牛込郵便局に勤務する。
*  同 年      九月 講道館柔道二段となる。
* 大正七年(1918)三月 講道館柔道三段に昇段(二十歳)
* 大正八年(1919)一月 海軍兵学校柔道教員に委嘱さるる。

柔道は、仙台二中時代に始めたが、豊山中学時代には深田道場(当時講道館の次に大きといわれた道場である)にも通ったという。

当然のことながら、苦学は連綿と続いていたが、屈することなく勉学に、柔道に、アルバイトに励む毎日を送っていた。

豊山中学五年生の秋のことである。
第21回早稲田大学柔道大会(大正五年十一月五日)が早稲田大学柔道場で行われた。 当日、午前中は部員四十数名による紅白試合。午後は各学校選手を迎えての二本勝負が行われた。

この午後の部に結城源心は、初段 結城源一、所属(豊山)として、初段 木下五郎(早中)と対戦し引き分けている。ちなみに石黒敬七は初段(講道館)で出場し、初段 吉田三郎(大道)と対戦している。

〜〜〜早稲田大学柔道大会〜〜〜


(早稲田大学柔道部百年史より「柔道」大正6年2月号掲載文)

十一月五日(大正五年)、早稲田大学柔道部は、同大学道場において、第二十一回大会を挙行した。
午前部員の紅白勝負、各各四十有余名、紅大将、依田二段、白大将、秋本二段で、紅白共に元気に奮戦したが、結局引き分けとなった。

午後各学校選手を迎えて二本勝負、無段者三十三組の勝負ありて形に移る。

投げの形、荒木榮一郎三段、森傳二段。固の形、田内眞能二段、酒巻球三二段。極の形、倉田太一四段、居藤高季二段。柔の形、木下五郎初段、四方鎌次初段。後の先、秋本元男二段、安藤誠一二段。五の形、倉田太一四段、荒木栄一郎三段、之を演ず。

次いで、活気溢るるばかりの有段者勝負あり。
早稲田一流の其活躍振りは実に痛快なものであった。左に有段者勝負の結果を挙げん。

(註)ここには有段者勝負23番の対戦表が載っている。
このうち7番目に結城源心(当時源一)、15番目に石黒敬七の名前が見られる。(赤い傍線のところ)


次いで五人掛(にうつる)。
新進の小田四段、森二段に業を取られしも流石は新進の四段、(五人掛を)見事に成功した。

尚当日、特別賞品授與者は、無段者小出英経(学習院)。中川靖三(順天中学)。黒木常吉(早大)。 有段者、藤田弘(講)。舟越廣(豊山)。澤田實(早大)。

右終りて、部長永井柳太郎氏、挨拶を兼ね・・・・・とある。早稲田大学柔道部100年史(472頁)より


 
Update:2003/06/13
Last Update:2004/09/11