「百聞は一見にしかず」

「百聞は一見にしかず」

 小池二三夫

次郎長翁を知る会の会報
「次郎長」第15号より H15/6/12発行


・・・・・・・・は じ め に・・・・・・・・

文化があれば地名は残るー清水の名と固く結びつく次郎長ー

これは、「次郎長翁を知る会」の会長竹内宏氏が「会報第15号」で述べられたタイトルである。
ここで竹内氏は「平成15年4月1日、合併により清水市という都市名が消えたが、果たして清水という名がずっと残るだろうか。
かっての江尻が、いつの間にか消え、忘れ去られていったようになるのは気が滅入る。
博多や難波の例に見るように、地域にしっかりした文化が根付き、多くの人がその文化に憧れれば、そこの地名は永遠に残るはずだ。清水の名と固く結びついている清水次郎長を大いにアピールし清水の名を残そう」と、述べている。

(荒神山での記念撮影)
・前列中央が竹内宏会長。会長の左上が筆者小池二三夫氏(平成14年10月2日)

百聞は一見にしかず


小池二三夫


 次郎長の会の旅行に参加すると、びっくりするような小話や新たな発見、目から鱗が落ちるような事実にあたることがあります。特に私の大好きな稗史(はいし・裏話)の勉強に大いに役立つので、毎回この旅を楽しみにしています。

 昨年“秋の史跡探訪ツアー”でも収穫が多くありました。荒神山の決闘のある事実です。
 時こそ慶応二年(1866)四月六日の荒神山大祭当日、桑名の穴太徳と神戸の長吉のテラ銭をめぐって起きた縄張り争いである。この争い中に長吉方の吉良仁吉が鉄砲に撃たれて重傷(後に死亡)を負ってしまった。
 荒神山観音寺境内には、浪曲師広沢虎造の筆になる「吉良仁吉之碑」が立ち、本堂前には、仁吉使用の三度笠と道中合羽、それに何と仁吉を撃った時の火縄銃まで展示されていた。

 それはそれとして、私の一番勉強になったのは別のものであった。

 喧嘩が始まった時には、仁吉は長吉方二十二人の先頭に立って穴太徳側百三十人へ突っ込んで行った。山の上手に陣取った穴太徳側の後方には、高く太い松の木があり、枝の上で鉄砲の上手な子分が、待ち構えていたのであった。
 先頭を切る仁吉めがけて、一発発射。しかしそれは横へそれてしまった。射手もふるえていたのであろう。その最初の一発が、境内のほぼ中央に位置する鐘楼の四本柱の一つに当たってしっまた。

 四本柱の一つに、小指大の穴があり、深さは三センチ程。私は小指を入れて中を探ったが、鉛の玉は中にめり込んでしまっていた。鉛玉の入った角度を調べてみると、上向きのほぼ四五度であり、松の木の上より発射されたことが実証できた。
 指に歴史を感じた時であった。

 しかし今は松の木はなかったので、念のために寺の奥さんに聞いてみたところ、たしかに戦前までは大きな松の木が立っていたとのことであった。
 残念ながら二発目が、先頭で戦う仁吉の左胸を撃ちぬいたのであろう。悲しい歴史のひとこまであった。

合 掌


(注)穴太徳(あのうとく)(安濃徳とも云う)に伊勢の荒神山観音寺の縄張りを奪われた神戸の長吉(かんべのながきち)は寺津の間之助に助っ人を頼みにきた。間之助は高齢のため代わりに吉良の仁吉を助っ人に頼んだ。折りしも寺津には、黒駒の勝蔵を追っていた清水一家の大政、桶屋の鬼吉、法印大五郎、大瀬半五郎、増川仙右衛門の面々が大勢草鞋をぬいでいた。仁吉と兄弟分の一同は、相手方に黒駒の勝蔵が加勢していることもあり、仁吉に助力して、寺津の港から伊勢へ向かったのである。

穴太徳側の鉄砲の弾丸のあと。〜〜〜仁吉を撃ったと云われる火縄銃。

上の写真は 小島よしゆきさんのホームページからお借りしました。

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