信玄上洛!旧今川家臣団の動向
戦国の巨星・武田信玄動く!。信玄の上洛は、織田と徳川を震撼させ、旧今川家臣達は運命の決断を強いられる。勝つのは武田か織田・徳川連合か?。大大名の狭間で生き残りを賭けた小勢力の戦いが始まる…。
はじめに
今川家は、戦国初期には三河・遠江・駿河の三国を支配した大大名だった。しかし、今川義元が桶狭間で破れると徳川家康が独立し、三河を失う。義元の後を継いだ氏真が、戦国武将としては実力不足である事も手伝って、今川家は武田徳川両家の狩り場となり、ついに滅亡へと追い込まれた。
そして、信玄が上洛を意図して織田・徳川との同盟が消え失せた時、徳川・武田に散っていた今川家臣達は、運命の決断を強いられ、それを新君主・徳川・武田に行動で見せねばならなかった。この時の旧今川家臣団の動向に注目してみた。
さて、今回の記事を書く上で困難だったのは、「資料の少なさ」だった。
私は静岡県焼津市(駿河国の花沢城の近く、幕末期には田中藩の支配地域)の出身だ。早い話、今川家の地元なのだ。友達も少なからず住んでいる。そういう意味で、色々と調べやすいだろうという予測もあったのだが、今の静岡は今川家というよりは徳川家ヨイショで、今川ゆかりのめぼしい史跡が余り残ってはいない。資料も本屋などで探しては見たのだが、義元の資料は有っても、今川家崩壊後の家臣の資料などはなかった。そこで、今回資料にしている本は「甲陽軍鑑」「三河物語」、そして武田信玄の特集本数冊と「戦国大名家臣団事典」である。当然だが、それでも旧今川家臣の動きを知るには資料不足である。それは今川崩壊後、今川家臣団は武田家・徳川家の重臣の家臣となり、いわば戦国の主人公である武田信玄や徳川家康から見れば、家臣の家臣、「陪臣」のため目立った動きをしていないせいもある。没落大名の家臣の悲しい所である。
さすがに考える為の資料が不足しては、満足な記事は書けない。悩んだ末、O山氏に相談した所、「その資料が無い点が問題なのだ。」と言う。信玄上洛は信玄に取って全てを賭けた勝負だった。当然、駿河の旧今川家臣団にも、何らかの指令は出されていたはず。そして、この時の駿河方面の主となる旧今川家臣団の動きを知る資料が少ない…。これこそがヒントなのだと言う。
つまり、信玄が意図的に隠して、旧今川家臣団たちに出していた指令があるのではないのか?。という疑問が出るのである。
そこで、今回のこの記事は資料の少なさを、私の考えでカバーし、前述の事を考えていく事にした。では、本題に入ろう。
武田信玄の駿河侵攻!
信玄が上洛戦を考えた時期は何時なのかは不明である。しかし、信玄なら上洛する前に自分の足元を固めるだろう。甲州一国では土地が狭く、国力が足りない。甲相駿三国同盟で、信玄が信州に侵攻するのは当然とも言えた。この結果、上杉謙信というライバルに付き合わされる事になる。ともかく、信州を支配した信玄の次の目標が「海」に向かっているのは、理解できる。甲州・信州とも「山地」である。この次は海を支配したいと考えてもおかしくはない。海を持つ国を得るという事は、「海の資源」を手に入れると同時に「貿易」や「船に関する税金」により資金を得やすい。さらに、「水軍」を持つ事で、上洛に際して「陸路」と「海路」の2つの上洛方法を選べる事が可能になる。事実、上杉謙信は、越後という京都から遠い場所にいながら、数度上洛を成功させている。
さて、海を持つ国を攻め取ると考えた時、信玄には2つの選択肢が有った。越後を取って「日本海」へ出るか、駿河を取って「太平洋」へ出るか…。
越後へ行けば、あの信玄最大の敵・上杉謙信と戦わねばならない。一方、駿河を取ると考えれば「甲相駿三国同盟」が崩壊し、今川の他にも北条を敵に回す事になる。結局、信玄は駿河侵攻を決意した。上杉を潰すよりは、今川を潰した方が、損害が少なくてすむ上に確実に駿河を取れる。という判断をしたに違いない。その理由は、三河で徳川が独立し、今川は氏真が後を継いでから戦国大名としての実力を失いつつ有ったからだ。放っておけば、駿河は徳川家が支配してしまう。と信玄は考えた。背後は尾張で、織田と同盟している徳川としては、今川領へしか攻める場所はない。しかし、この結果信玄の長男・義信が、今川義元の娘を嫁に貰っている都合上、親戚の今川を攻める事に反対し、ついに自刃するという事件が発生している。つまり、駿河を取る為に、信玄は自分の跡取り息子を死なしているのだ。また、これを知った今川も塩止めを行って武田に食料封鎖を行い始めた。しかし、信玄は徳川・織田と同盟を組み、徳川は「遠江」、武田が「駿河」という取り決めをして、徳川と連動で駿河へ侵攻、ついに今川家を崩壊させている。
この時の信玄の戦い方は、まさに「孫子の兵法」そのままに謀略を駆使し、今川の重臣二十一人を裏切らせている。今川の重臣たちも氏真では、力量不足という事を知っていた様だ。
と、書くと簡単に駿河を手に入れた様に思われるかもしれないが、実際は3回も駿河に遠征して、やっとの思いで手に入れている。信玄の執念の賜物だろう。
駿河先方衆と武田水軍
駿河を手に入れた信玄は、今川家臣団を武田家臣団に加える。ここで、武田家臣団の特徴を説明しておこう。
信玄は、支配領地の地元武士団に対して、余り国替え等を行っていない。逆に彼らの元々持っていた領地を安堵するかわりに、武田家への忠誠を誓わせている。そして、信頼のおける譜代家臣より地方軍司令官を選び各地へ派遣し、組み込んだ新家臣団の統治を行わせている。ある意味で織田信長の軍団制に近かった。たとえば、信濃先方衆や西上野先方衆などと呼ばれた。旧今川家臣団は、駿河先方衆と遠江・三河先方衆と呼ばれ、田中城や江尻城に入った譜代家臣の馬場信房や山県昌景の配下となっていた様だ。さらに、信玄は駿河を攻略すると、即座に手を付けたのが「水軍」である。これは、上洛の為というよりも「嫌でも水軍を持たねばならない。」という状況だったからである。その理由として三国同盟崩壊後、敵にまわった北条氏が水軍を持っていたからである。駿河湾の制海権を手に入れておかねば、伊豆・江戸湾で暴れている北条水軍に対抗できない。もし、北条水軍が伊豆をまわって駿河湾で暴れる様な事になれば、いくら駿河を支配しているとはいえ、駿河の海を支配している事にはならない。したがって対北条を考えれば、早急に水軍を作っておかねば、駿河支配が完了したとは言い難い。つまり、駿河防衛の為に水軍が必要だったのである。
しかし、武田家は山国育ちばかりで、有能な譜代家臣がいても、その譜代家臣に水軍をやらせる訳にはいかないという事情が存在していた。水軍という存在は「海の知識・船の知識」が必要不可欠で、山国育ちの譜代家臣では手に負えなかったのである。ここで、武田家臣団編成としては特別扱いで、「武田水軍」が作られる。特別扱いであったというのは、前述の都合で譜代家臣が外様家臣を統率するという家臣団編成が特徴の武田家の中にあって、譜代家臣が統率していないのが「武田水軍」だったからである。武田水軍大将は「土屋貞綱」である。元々は今川水軍の一人で、当時は岡部忠兵衛と名乗っていた。武田に仕える時に変名したのだろう。同じ今川水軍から「伊丹康直」がいる。その他の水軍の将として北条水軍から引っこ抜いた「間宮武兵衛」「間宮造酒丞」がいる。共に北条家の重臣である。さらに伊勢水軍から「小浜景隆」「向井伊兵衛」を駿河へ引っ張ってきている。
とくに伊勢水軍の小浜は、安宅船を持っていたので、戦力として申し分ない。
武田水軍の特徴は、武田譜代の家臣団を含んでいない事。その結果、色々な大名の家臣を集めてきて水軍を作っている点だ。「寄せ集め」と言ってしまえばそれまでだが、信玄がそんな安っぽい考えで水軍を作ったとも思えない。逆に寄せ集めである利点を生かしたのではないだろうか。船大将に旧今川家臣が選ばれたのも、駿河湾を良く知る武将を当てたと考える事もできるのだ。駿河の海の地形や目印となるモノを知り、潮の流れを把握しており、何処に行けば水軍の基地が有るかを知る者が、水軍を率いるべきだろう。海賊として安宅船まで持っている小浜の伊勢水軍も、水軍のノウハウを知る将として主力となっていたであろうし、北条水軍からの引き抜きも、当面の敵と見ている北条水軍の内情や情報を得る為に有効だ。北条水軍の戦い方をしる北条水軍の引き抜きを、信玄が行っている点は見逃せない。この点を考えるに、やはり、武田水軍は北条水軍に対抗する為に作られたと見て良い。
では、ちょっと駿河先方衆や遠江・三河先方衆、武田水軍の戦力を見てみたいと思う。
武田水軍編成
「土屋貞綱」 船十二艘
同心五十騎
(旧今川水軍)
「伊丹康直」 船五艘
(旧今川水軍)
「間宮武兵衛」 船十艘
(旧北条水軍)
「間宮造酒丞」 船五艘
(旧北条水軍)
「小浜景隆」 安宅船一艘
小舟十五艘
(旧伊勢水軍)
「向井伊兵衛」 船五艘
(旧伊勢水軍)
駿河先方衆編成
「朝比奈信置」 (旧今川家臣)
百五十騎
「岡部正綱」 (旧今川家臣)
五十騎
「岡部丹波守」 十騎
「三浦右馬介」 四十騎
「朝比奈監物」 二十騎
「三浦兵部」 二十騎
「三浦右近」 十騎
「小原」 二十騎
「庵原彌衛門」
駿河先方衆は、「甲陽軍鑑」によると9名と書かれている。
「葛山氏元」 (旧今川家臣)
駿河の有力国人で旧今川家臣である。ある時期を境に姿を消してしまい。信玄の子を養子に入れて家を存続させている。以来、御親類衆となる。謀反の疑いで、信玄に誅されたという噂もある。私としては、謀反というより信玄の葛山氏乗っ取りに引っかかったと見ている。が、真相は不明。
遠江・三河先方衆編成
「天野景貫」 (旧今川家臣)
百騎
「奥平貞能」 (山家三方衆)
百五十騎
「菅沼定盈」 (山家三方衆)
四十騎
「長篠菅沼」 (山家三方衆)
三十騎
東海方面一騎合衆
「孕石元泰」駿河一騎合衆・山県衆
現状で武田家に仕えた旧今川家臣団は、前述の通り武田家臣団へと組み込まれた。また、遠江方面で旧今川家臣団から徳川家に寝返って、徳川家臣団に組み込まれた武将もいる。
さて水軍にまつわる話しで、面白いものがあった。伊勢水軍が何故武田に仕えたのかという疑問が解けるので、紹介しておこう。
戦国時代伊勢志摩海賊衆の有力海賊に九鬼衆「九鬼嘉隆」と小浜衆「小浜景隆」がいた。共に北畠家に臣従している。しかし、九鬼衆は、志摩の海上輸送などの船に対する税金の権利などを左右できる海上権を握ろうと野望を抱くが、九鬼衆の異端的な行動を志摩の海賊衆がゆるすハズもなく、志摩海賊衆全体から圧力を掛けられ、九鬼衆は危機的状態に圧迫されてしまう。九鬼嘉隆は、ついに北畠家から離れ、織田に臣従し、織田領へ走る。
そして、織田は覇王として勢力を拡大し、ついに志摩にもその勢力を及ぼした。織田を志摩に引っ張って来たのは九鬼衆である。今度は小浜衆が危機に陥った。そして小浜景隆は、故郷を捨て志摩を脱出するのである。この九鬼衆を恨めば、小浜衆はとても覇王織田信長に臣従する事などできないだろう。そこで、天下を望める織田以外の存在…武田信玄に臣従するのである。 ちなみに、武田滅亡後は徳川家に仕え、本能寺の変で大混乱となった時に、滝川一益に仕えていた九鬼嘉隆と徳川水軍として戦う事になる。以後、九鬼と刃を交える事三回…小浜の海賊の執念というべきか…。
話しを戻そう。
駿河支配を終え、水軍もそれなりに整った時、武田信玄はいよいよ西上作戦を開始する!。
信玄の上洛戦はじまる!
元亀三年…武田軍は徳川領へ雪崩れ込む!。一年前に北条氏政は、上杉との同盟を破棄し、再び武田との同盟を成立させ、かつての同盟を復活させていた。逆に武田は、北条と同盟を結ぶ事で後ろを攻められる心配をしなくてすむ事になる。さらに、北の上杉は「雪」に閉ざされ、信州甲斐への侵攻の心配は無い。この様な状況下で、信玄は上洛の途につく。
武田軍の進撃路となったのは、信州武田領から諏訪を経由し、直接三河徳川領へ雪崩れ込むコースで、駿河を通過していない。進撃コース上に存在している味方勢力の戦力を吸収しつつ行軍し、兵力の充実を計るのが、戦国時代では普通である。こうする事で、臣従勢力の忠誠心などや実力を見るのである。また、小勢力側に取ってみれば、自己の忠誠を認めてもらう為にも、嫌でも兵力を出さなければならない。いわば、無言の圧力である。駿河を通過していないという事は、駿河先方衆は関係していなかったと考える事もできる。しかし、信玄の本隊に対して、別動隊として山県隊が動いている事を無視はできない。なぜなら、駿河先方衆は山県の同心として武田家臣団へ組み込まれているからだ。さらに山県隊が伊那を通過し三河に入るコースを取っている。信玄本隊のコースと大きく違う点は、やや西よりのコースで、三河に侵攻している点である。理由の一つに「山家三方衆」を自軍に引き込む事を考えたといえる。山家三方衆は、遠江・三河先方衆に属し、今川全盛期には今川につき、徳川家康が独立すると徳川につき、今また信玄が上洛の兵を挙げると信玄についたという経歴を持っている。いわば、振り子の如く立ち回っている。むろん、武田滅亡後は再び徳川につく。家康や信玄から見れば、とても信頼できる連中ではなかった。しかし、彼らを無視できないのは、山家三方衆が信濃と三河を結ぶ山岳地帯を支配領域としていた点だ。狭い山岳地帯での戦闘は、信玄や家康でも骨が折れる。なぜなら大兵力を展開しての戦闘が無理だからだ。また、彼らを敵にして戦っても勝利できるだろうが、山岳戦という事で、時間が掛かる。したがって、敵にするよりは、多少圧力を掛けて味方につけた方が良いという事になる。彼らの存在する位置も問題である。ちょうど武田と徳川の間に位置し、双方の力を見ながらどちらにつくか、弱小勢力ながら見極めて行く。それができる絶妙な位置に存在していた。つまり、徳川からも武田からも「味方につく」を条件に、援軍を要請できる位置にいたのである。山家三方衆という小勢力が、武田や徳川という大大名に付け入って、生き残りを計る為の最大の武器はこの点だった。
逆に信玄や家康は、この山家三方衆の考えなど百も承知の上だっただろう。そこで、彼らが裏切らないようにしておく必要がある。人質を取るのも一つの方法だが、てっとり早く自軍に加えて出兵させ、その管理下に置いておくのが有効だ。山県隊の侵攻ルート上に彼らの領地が存在しているのは、そういう意味があると私は考えている。
では、駿河先方衆と武田水軍はどのような動きをしていたのか?。
駿河の兵は、予備兵力?!
正直に言って、ここの資料が乏しい。乏しいので、私の予想で話しを進めるのでご容赦願いたい。
まず、信玄の上洛戦で駿河は信玄の侵攻ルートからハズれている。したがって、駿河の兵を動員していないと考える事もできる。信玄から見れば、駿河は旧今川の土地で、譜代家臣が少ない上、その家臣団はかつての敵である今川兵である。今ひとつ信頼に足る武将が存在しないと考える事も可能だろう。何よりも、北条氏に対する備えの予備兵力が必要である。上洛戦では、甲斐の有力武将はもとより、信濃衆・三河遠江衆も動員されている。北条と同盟し、後ろが安心と思っていても戦国時代の事である。裏切りは当たりまえ、スキを見せれば食われてしまう。その程度の事は信玄も百も承知していただろう。とするなら、いざ北条が攻めてきたという時に、北条の前に立ちはだかり、信玄本隊が体制を立て直すに必要な時間を稼ぎ出す兵力が必要。いわば北条牽制の兵力、それが駿河の兵に求められたと推測できる。
武田水軍もまた同じ。当面の敵である徳川氏に水軍はない。警戒すべきは北条水軍である。武田水軍と言えども急増で作った水軍であるし、苦労して作ったなけなしの水軍を小競り合いで消耗させる気も無かっただろう。水軍は「ここぞ!」という場合以外には使いたくなかったと思われる。したがって、上洛戦の時も動かしていない。さし当たり、海上哨戒程度の動きはしていたらしい。が、その程度である。
これは、たぶん織田軍九鬼水軍を警戒したのだろう。しかし、当時の織田軍は足利義昭による「織田包囲網」により、身動きが取れない状態だった。
九鬼水軍は織田軍として、毛利の村上水軍と戦わねばならない。結局、織田水軍は姿を現さず、武田水軍は海上哨戒をするにとどまる。
さらに、駿河の兵に求められた任務の一つに「兵站」を加える事もできる。
兵糧なくして合戦はできない。このあたりを考えない信玄ではない。孫子の兵法では、「知将は敵に食む」という事が述べられている。兵糧などは自軍の領地で調達するのではなく、敵地で手に入れるのだという意味だ。その結果、兵糧輸送に関わる輸送費や人間を削減でき、自国領で調達し輸送するより安く手に入れられる。また、敵地内で「略奪」で調達するのではなく、正当な代価を払って手に入れる事が大切だった。これも、占領した後に内政を行う事を考えての事である。信玄も三河乱入の時に、直接浜松方面には行かず、数カ所の浜松城の支城に襲いかかり、落城させている。その理由として考えられるのが、敵城の備蓄されている兵糧を狙ったと推測できる。
しかし、そういつも予想通り敵地で兵糧が簡単に手に入ると考えるのは早計だろう。信玄も何度か兵糧調達に失敗し、同盟の軍から兵糧を借りている。上洛戦においては、隣接国に味方国が存在していない。したがって、いざという時の為の予備食料は必要だろう。そう考えれば、その策源地の第一となるのは、駿河以外に無いのだ。兵糧輸送に関しても、水軍が有るため陸路で運ぶほど大変ではない。船で輸送すれば手間も時間も金も余り掛からずに輸送可能である。
つまり、駿河の兵は「信玄上洛戦の為の予備兵力であり、後方支援の為の兵である。」と想像する事ができる。
駿河の兵を安易に動員できない理由がこれになるし、水軍が積極的な行動に出ていない理由も、これで説明する事ができる。
しかし、駿河の兵が上洛戦に参戦していないと判断する訳にもいかない。駿河衆の活躍が「甲陽軍鑑」に載っているからである。
上洛戦にのぞんだ駿河の兵
旧今川家臣団…中でも駿河先方衆は、武田に臣従してから目立った功績を上げていない。功績を上げておかなければ、何時までたっても武田家での出世はあり得ない。武田家に、死に物狂いで尽くして戦い。武田家に認めて貰えれば、家が安泰となる。その働き場を駿河先方衆は求めていたと思われる。
であるならば、今回の信玄の西上作戦は、絶好の機会であるとも言える。
駿河の兵が大規模な動員を受けていないのは間違いなさそうである。それは前述してきた様に、駿河の兵に求められた北条牽制の任務が有ったからである。その中であっても、使える駿河の武将は動員している様だ。どのくらいの兵力で、誰が動員されたのかは、資料が乏しく不明である。さらに、いったい何時、何処で武田軍と合流したのかも解らない。予想を立てるにも、少々資料不足である。だが、駿河衆がいた事だけは間違いない。
信玄は野田城を落とすと、それまでの進路を北へ向けた。病気が重くなり、戦闘続行が難しくなったのが、原因と言われている。そして帰国の途中、伊那郡の駒場で信玄は死去する。その野田城の戦いと駒場到着の間で戦いがあった。東美濃の拠点となる岩村城の戦いである。岩村城は、織田軍の城である。武田軍は岩村城を包囲攻撃した。これにより、織田と武田の手切れが決定的となる(それまでは、形式上では「徳川と武田」の戦いである。)。まぁ、それ以前に信玄は信長に絶縁状を叩き付けていたが、信長が何とか同盟を維持しようとして、交渉していたのである。
その時、織田軍から偵察隊が出された様だ。これをうち破った上に、追撃までした部隊の内の一つに「岡部正綱」の部隊があった。岡部正綱は、旧今川家臣団であり、駿河先方衆の一人である。今川家が全盛期、今川義元が桶狭間で信長に討たれ、今川軍が崩れようとした時に、岡部は最後まで敵地に踏みとどまり、織田の追撃を引き受けて戦い抜いた忠臣である。また、信玄駿河侵攻の際にも、今川本城・駿府城に最後まで踏み止まり、信玄の駿府城攻略に「待った!」をかけた。信玄は、この時に岡部と交渉し、城を開城させ彼を降伏させている。が、そういう状況下でも、死を賭けて戦い抜くという岡部の忠誠心が見える。信玄は、岡部が臣従すると駿河先方衆へ加えた。きっと、彼の忠誠心の高さを信玄は買ったのだろう。三方ヶ原の戦いから、高天神城攻め、長篠の戦いと戦い抜き、高天神城が落城するまで武田に尽くし、その後徳川に仕える。
信玄の上洛戦では、進撃路で選んだ道が今川義元の上洛戦コースと同じである。従って、岡部は三河の地形や織田軍との戦いのノウハウを良く知る旧今川家臣団の一人なのである。岡部の知識は武田軍の上洛戦でも役に立ったハズであろう。
「甲陽軍鑑」では、岩村城戦の記述で、前述の事柄が載せられている。さらに、岩村城攻略後、吉田城攻撃が計画された際にも、その吉田城攻撃軍の部隊の中に「駿河勢五十騎」とある。
この駿河勢というのは、「岡部正綱」を指すのかどうかは良く解らない。しかし、甲陽軍鑑の駿河先方衆のリストの中で岡部正綱が持っていた兵力は「五十騎」であり、妙な一致を示している。この際、この「五十騎」というのは、岡部正綱隊を指していると考えて良いのではないだろうか。
したがって、上洛戦では駿河先方衆の内、岡部正綱だけは参戦していた。
不測の事態を考えた信玄
さて、まとめよう。残念ながら、上洛戦で活躍した駿河先方衆は、岡部正綱だけである。その他の駿河勢や武田水軍は活躍していない。しかし、それは信玄にとって、不測の事態が発生しなかった結果であり、おおよそ信玄の予定通りに上洛戦が展開された結果である。予定通り作戦を進めただけでもたいしたモノだが、作戦が上手くいかなかった時の為の準備も手抜かり無く、駿河の兵を動かさない事で行っていたとするなら、「さすが信玄」である。
もしも、後一年…一年だけ信玄が長生きをしていたら…。京都に立った旗は「天下布武」ではなく「風林火山」であったかもしれない。