なぜ会津戦争は起こったのか
会津籠城戦
明治元年九月二十二日、会津鶴ヶ城下甲賀町に真紅の大毛氈が敷かれた。会津武士達の血の色とも言われるその上で、会津藩主松平容保は明治新政府に降伏開城を申し出る。会津藩士達は、この大毛氈を小さく切り刻んで持ち帰った。これを「泣血氈」という。この屈辱を忘れまいとする誓いの品である。
八月二十三日から一ヶ月もの間、会津鶴ヶ城は一日数千発という激しい砲撃に晒されている。白虎隊の死、娘子軍、老若男女を問わず、会津藩士達は鶴ヶ城に立て籠もって戦い続けた。孤立無援。助けの手を差し伸べる者もない。それは絶望的な戦いだった。
そして九月二十二日、会津藩は「降参」の二文字を城門に掲げる。ここに悲劇の会津戦争は終わりを告げた。
なぜ会津藩は、ここまで戦わねばならなかったのか。なぜそうなってしまったのか。悲劇の根源を探ってみたい。
討幕の密勅と江戸攪乱計画
戊辰戦争は、この討幕の密勅からはじまったと言って良いだろう。西郷隆盛や大久保利通、岩倉具視らの手による、討幕の秘策だ。密勅は、慶応四年十月十四日に薩摩藩と長州藩に降された。これに対抗したのが、土佐藩後藤象二郎や坂本竜馬が進めた大政奉還である。
この大政奉還によって、倒すべき幕府が消滅した為、討幕の密勅はその意味を無くし、同月二十一日に取り消しの沙汰が降っている。これが一般的な定説だ。
こうした定説に対し、『大政奉還と討幕の密勅(石尾芳久著・三一書房)』の著者石尾氏は異を唱えた。氏は大政奉還と討幕の密勅は競合しないと断言する。
その根拠は、薩摩藩側が大政奉還の動きを知っても、それを阻止しようしていない事。薩摩藩家老小松帯刀に至っては、大政奉還を精力的に推進している事だ。
このことから、薩摩藩にとって討幕の密勅と大政奉還は、一連の討幕運動の計画だったと氏は説明する。大政奉還によって徳川家から大政を奪い、討幕の密勅で薩長兵を京都へ集結させ、王政復古によって徳川幕府から完全に政権を奪取する。徳川家が大政奉還に応じなければ、土佐藩が武力討幕派になるから、どう転んでも薩摩藩は損をしない。
また石尾氏は前掲書の中で、「偽勅」か否かの問題に関し、孝明天皇や朝廷は当初から勅を濫発し、その信用性を低下させていたと指摘。「偽勅といえば、ほとんどすべてが偽勅であると断じて差し支えない」とまで言い切っている。こうした正勅偽勅の濫発を問題とせず、討幕の密勅のみを偽勅として否定する行為に疑問を投げかけた。
薩摩藩にとって、倒幕の密勅が藩兵を京へ送り込む為の大義名分に過ぎないとしても、そのまま戦争に発展する可能性も秘めている。そこで西郷隆盛は、板垣退助と薩土盟約を結び、板垣からの提案であった東西同時挙兵計画を同時に進めさせた。薩長が西の京都で挙兵したら、東の江戸を攪乱するという江戸攪乱作戦である。
江戸攪乱作戦のキーマンとなるのは相楽総三だ。彼は関東尊攘派志士として赤城山挙兵計画や筑波義挙、いわゆる天狗党の乱に参加した経歴を持つ。
『史談会速記録』の板垣退助談話によれば、西国諸藩の志士に遅れをとっている関東の志士達は、新たな関東挙兵計画を練りつつ、逃亡生活を続けていたらしい。彼らは寺田屋事件で尊攘派志士を粛正した薩摩藩を疑い、薩摩藩より土佐藩の方が安全と、江戸にいた板垣退助を頼った。土佐藩主山内容堂が徳川家擁護派と知っている板垣は、藩としてではなく、個人として彼らを庇う事にしたようだ。
薩土盟約を結んだ際、板垣は相楽総三ら関東志士たちを薩摩藩で預かって欲しいと要請。西郷は承諾した。こうして相楽等は薩摩藩邸に移っている。
慶應三年十月頃、西郷隆盛は伊牟田尚平と益満休之助、相楽総三に江戸攪乱を命じた。相楽総三などの関東尊攘派は、元々関東挙兵計画を立てて同士を集めていたから、西郷の語る東西同時に挙兵をチャンスと見て、飛びついたのである。
大政奉還と会津藩
大政奉還を会津藩はどう考えていただろうか。『京都守護職始末2(山川浩著・東洋文庫)』によれば、十月四日、後藤象二郎自身が会津藩説得のためにやってきたという。会津藩側からは外島義直と手代木勝任、上田伝治らが出て対応している。後藤は、会津藩も大政奉還に協力して欲しいと要請したようだ。
徳川慶喜も会津藩主松平容保を呼び、土佐藩の建白が行われれば、これを採用すると伝えた。会津藩主松平容保はこれを英断だとし、会津藩士達にも聞かせたという。これを読む限り、会津藩は大政奉還を受け入れている。
前掲書によれば、大政奉還後、会津藩は京都守護職のままで良いのかという疑問が会津藩内で持ち上がった際、容保は「政権を返上したといっても、再び徳川家に再委任される。それを知っていながら、職を辞するは軽率だ」と判断して守護職を継続した。
この事から、会津藩は大政奉還しても、再び徳川家に大政が委任され、今まで通り幕府は続くと考えていたよいだ。これが徳川慶喜をはじめ、佐幕派の一般認識だった。だから会津藩の考える大政奉還と、土佐藩後藤象二郎らの語る大政奉還とでは、多少その意味が異なる。土佐藩の大政奉還は、将軍家が大政を返上し、朝廷を中心とした議会制政権を発足させる事だ。これに対し会津藩や徳川慶喜の考える大政奉還は、これまでの政治的失敗をリセットする事が目的である。返上された政権は、天皇からの命令という形で再び徳川家に与えられ、新生徳川幕府として再出発するという事を想定していた。
長州軍上洛開始!
ともかく、十月十四日に討幕の密勅が出され、同じ日に大政奉還も行われた。朝廷は、大政奉還を受けて討幕の密勅を二十一日に取り消している。だが密勅取り消しは薩長二藩には伝えられず、薩長兵は京都へ向け出発した。
長州軍が上洛の途についた事を知った会津藩は警戒を始めたが、大政奉還直後であり、京都守護職といえどおいそれと藩兵は動かせない。
長州藩は、禁門の変以降朝敵指定を受けている。倒幕の密勅を得て兵を出したものの、まだ朝敵のままなので、京都市内に兵を入れる事は出来ず、京都近郊に着陣した。朝廷内は、長州藩を寛大に処する意見で、ほぼ一致している。もちろん薩摩の大久保利通や岩倉具視の政治工作の賜物だ。しかし朝廷といえども徳川慶喜の了解無しに、この重大事を決定する度胸は無かったようで、慶喜に長州赦免について伺いを立てている。慶喜は、
防長の御処置について御尋とあらば、予て仰出されし如く、衆議を尽くされたる上にて仰出さるべしと奉答せん、若し又真の御英断にて仰出されなば、別に申すべき事も候はず(『徳川慶喜公伝4』渋沢栄一著・東洋文庫)
と答えたという。『徳川慶喜公伝』によると、慶喜の返答を受けて、慶応四年十二月七日に摂政邸にて公家衆の会議が行われている。そして翌八日、慶喜の希望通りに上洛してきた諸大名や重臣を集め、長州赦免問題に関する会議が行われた。
この日の会議には、徳川慶喜をはじめ会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬も呼ばれていた。慶喜は病で参加せず、「召すこと再三に及びて尚応じ給はざりき。肥後守(会津藩主)・越中守(桑名藩主)も亦朝せず、諸大名も多くは重臣をして代りに朝せしめたり」と『徳川慶喜公伝』にある。『京都守護職始末』によると、会津藩主松平容保の欠席理由も病だ。
一会桑と言われた彼らが揃って病気というのも不自然である。たぶん仮病を使ったのだろう。三人がしめし合わせたというより、慶喜が仮病を使ったので、会津桑名両藩主も遠慮して仮病を使ったのかもしれない。ただ容保だけは自分の名代として、家老上田学大輔を会議に参加させている。
この会議で長州赦免が決定し、官位を元に戻されて朝敵指定が解かれた。さらに遠ざけられていた岩倉具視や、八.一八の政変で京を追われた尊攘派公家衆の罪も解かれる。容保の心底いかばかりか、かつて命懸けで京から追い出した政敵の復権を、座して見る他に手が無かった。
私は、慶喜を始め容保や桑名藩主松平定敬は仮病など使うべきではなかったと考えている。堂々と論陣を張って、真っ向から対決すべきではなかっただろうか。
この三人の他にも欠席した大名がいた。薩摩藩主島津忠義だ。王政復古に備え、会議を休んだのである。岩倉邸の人の出入りも激しくなっていた。王政復古クーデターを行うすべての準備が、急ピッチに進んでいたのである。
後藤象二郎は、王政復古を九日ないし十日まで待てくれと必死に掛け合ったが、それは聞き入れられなかった。すでに後藤の力では、薩長の勢いは止められない。己が主君山内容堂にすがる他に手立てが無かった。その容堂が京都へ到着したのは、この日の夕刻である。後藤から王政復古クーデターの事を聞いた容堂は、「島津何者ぞ!これ、ほとんど天子をはさんで四方に号令するの前兆なれ。いわんや、二百年来の政権をなげうちたる前将軍を朝議に召さず、且つ、既往を咎めて、会桑のみに帰国を命ずる如きは、不公平の極みなり!」と激怒したという。
王政復古決行!
八日夕刻から始まった会議は翌九日の払暁終わった。辰の刻(午前八時)頃に会議参加者が退朝すると、変わって薩摩、福井、土佐、芸州、尾張の五藩の兵が殺到、御所は閉鎖され、それまで御所九門を警備していた会津藩兵は取り除かれる。摂政と幕府の廃止が宣言され、総裁・議定・参与の三職が置かれた。こうして朝廷主導による新体制に移行したのである。
会津桑名両藩に対しては、御所警備の解任が通達され、帰国が命じられた。これが王政復古だ。
これに対し、会津桑名両藩兵は元より幕臣達の怒りは収まらない。数百年に渡り大政を担い、今回は自ら進んで大政奉還した徳川家に、天皇や朝廷は大いに感謝し、引き続き大政を徳川に委任して然るべきだと叫んだ。土佐藩の後藤象二郎も坂本竜馬もそんな事は言っていないのだが、彼らはそう思い込む事で、大政奉還に納得していたのである。大政奉還は形ばかりで、幕府はまだ続くのだと。ところが王政復古が行われ、彼らの甘い考えは打ち砕かれてしまう。
その夜の小御所会議で、土佐藩山内容堂の怒りが爆発した。土佐藩が血眼になって成し得た大政奉還、平和的変革を夢見ていた容堂にとって、この王政復古は薩長による権力簒奪としか見えなかったからだ。堂々と論戦を挑む容堂だが、岩倉具視の反論に口を封じられ敗北。そして徳川家の辞官納地が決定してしまう。
薩長を中心とする尊王倒幕派は、徳川家が諸大名最大の力を保持し続ける事をもっとも恐れていた。議会制を取るといっても、当面は大名会議制だ。領地の一番大きい大名が、名実共に政治の主導権を握る。このまま徳川家を残しては、新政府は徳川の傀儡になり幕府時代と何ら変わらない。それを阻止するには、徳川家を徹底的に弱体化させねばならなかった。
松平容保にとっても大きなショックだっただろう。これまで決死の覚悟で守ってきた会津藩担当の御所蛤御門及び唐門は、土佐藩兵に取って変わられた。激昂する会津藩士達と、討幕を叫ぶ薩摩藩士を前に、京都は一触即発の状態になってしまう。
江戸攪乱中止命令
さて、王政復古の時点で勢力はどうなっていたか見てみよう。討幕派は薩長の二藩。土佐・福井・芸州・尾張藩は、薩長と共に王政復古に協力しているが、最終的には徳川家を含めた議会制政治へ移行する事を考えている。対して徳川家と会津桑名両藩は、幕府継続、もしくは徳川家をトップとする議会制を考えていた。
こうして見ると、徳川家を徹底的に潰すというのは、薩長二藩だけである。芸州藩は、薩長芸同盟を結んで討幕派だったが、平和路線に転換した。福井藩は徳川親藩だし、尾張藩は徳川御三家であり、会津桑名藩主の実の兄である徳川慶勝が藩主である。こうした事から、王政復古を単純に討幕派が起こしたクーデターと結論してしまうのは、本質を見余る元だと思う。逆にこの情勢下で強引に徳川家を追い詰めると、土佐など他の四藩が徳川側に味方する恐れがある。だからこそ西郷隆盛は、江戸にいる薩邸浪士に江戸攪乱を命じ、徳川家が自ら朝敵になるよう仕向けたと言われるが、これは全くの嘘だ。
西郷にとっての江戸攪乱計画は、討幕の密勅に連動した作戦だった。西の京都で挙兵したら、江戸にいる同士が攪乱を行って徳川家を全力で戦えなくする。東西同時挙兵を意図したものだ。ところが、討幕の密勅は大政奉還を受けて十月二十一日に取り消された。だから江戸攪乱を行う意味も無くなっている。討幕の密勅が取り消された四日後に、薩摩側は江戸の浪士に江戸攪乱の見合わせを通達した。
爾來御壮昌奉賀候。當地意外之形勢に立至り、小子も先頃浪花より歸京、無事罷在候。乍憚御安意可被下候。右變態に付、君公早々御上京被爲在候様、朝命相下り、小松家(帯刀)、西、大(西郷・大久保)にも同敷歸國相成、來月中旬迄には、御上京可被爲在候に付、其節三士(小松、西郷、大久保)も御供にて上京可有之候に付、云々之事件、御見合可被成候。東西繰違にては、大に不宜。尤何事も諸侯會盟之上、朝議相居候節にも相成居申候。此旨伊地知正治申談、早々御懸合申上越候。以上。
十月廿五日 自京都
吉井幸輔
益滿休之介様
薗田正平様
『近世日本国民史・第六十六冊』(徳富猪一郎著・明治書院)
薩摩藩吉井幸輔は、京都の情勢を「意外之形勢」と江戸に知らせ、「東西繰違にては、大に不宜。」として、江戸攪乱の見合わせを書き送っている。西国での討幕挙兵がキャンセルになった以上、東国の挙兵も待てと言うのは当然だ。さらに相楽達が挙兵をやめなかった事から、王政復古の翌日十日に重ねて江戸攪乱中止を命令した。
幕府は尾州、越前へ被仰付、尚此上侯列に下り、罪を奉待候段、申上候處、周旋の筈に御座候。右之通幕は筋立候へば、議定邊には被召出候半。会桑は幕府へ御任せ相成、幕府より帰国可為致との事。蛤御門は被免。跡は土州へ被仰付候。長州も粟生光明寺迄千余人出張、父子(毛利敬親、廣封)之處も、官位復舊、入洛も被免候。右大変革に付ては、禁門西へ人数繰込、護警衛可仕旨、五藩へ被仰付、六門内外五藩人数繰込、大騒ぎ、面白き事に御座候。先今日は、戦には相成不、幕、会の處も、至而静に控居候付ては、云々之義、誰ぞ東下可致候間、其内今形御鎮静被下候様、御一同へ宜御伝言可被下候。先づは右御報知為可申上早々如此に御座候。以上。
十二月十日(慶応三年)
吉井幸輔
益満休之助様
薗田正兵衛様
『近世日本国民史・第六十六冊』(徳富猪一郎著・明治書院)
吉井は「誰ぞ東下可致候間、其内今形御鎮静被下候様」つまり、誰か江戸に向かわせるから、それまでは鎮静、おとなしくしていろと薩邸浪士に言っている。こうした文書を急ぎ江戸薩摩藩邸の浪士に送った。このように大政奉還から王政復古にかけて、もっと言えば討幕の密勅が中止された後、薩摩藩は江戸攪乱計画の停止を江戸の薩摩藩邸に通達している。だから、よく言われる王政復古の後、江戸の徳川方を煽って旧幕軍を暴発させ、朝敵にしてしまうという謀略など無いのだ。
武力討幕派の挫折
一方、会津桑名両藩は大激怒した。特に長州藩が許されて入京し、御所の警備を始めると怒りは最高潮に達する。
皆は口々に「討薩」を叫び、今にも薩摩藩と衝突する勢いを見せた。王政復古の後、会津桑名両藩主をはじめ会桑両藩兵、旧幕兵は二条城に集結し、御所を取り囲む薩摩福井土佐芸州尾張の五藩と睨み合って、一触即発の状態だったという。
慶喜は、先手を打つ形で朝廷からの命令を待たず、京都守護職と京都所司代の廃止を決め、これを受け入れた両藩主は病気を理由に辞職する。さらに十一日、長州兵が入京すると慶喜は会津桑名幕府兵を全員二条城に閉じ込め、城の外に出る事を禁じた。
武力討幕を阻止し、徳川家を新政府に招こうと工作を勧める福井藩の松平春嶽や徳川御三家の尾張藩主徳川慶勝は、徳川側が暴発する事を恐れて度々二条城を訪れ、主戦派を抑えようとしている。松平春嶽は親藩であったし、徳川慶勝は御三家にして、会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬の実の兄なのだ。彼らは徳川家を守る為、実の弟達を守る為に決死の工作を続けていた。
徳川慶喜は、朝廷工作を尾張福井土佐の三藩に任せ、自らは会津桑名と長州を引き離す為に大坂城に移っている。
主戦派を京都から引き離し、鎮静化させる事が慶喜の役目だったろう。大坂に下がった旧幕府軍だったが、薩摩憎しの感情が収まる気配はない。京都では、会桑兵の帰国を巡って、薩長二藩と土佐尾張福井藩三藩の激しい論戦が起こっていた。実はこの時期の薩長はかなり旗色が悪い。
小御所会議によって徳川家の辞官納地を強引に決めたものの、その後土佐藩や福井藩の巻き返し工作が功を奏し、決定事項のほとんどが骨抜きにされている。岩倉具視までもが平和革命派に寝返るという始末だ。岩倉は天皇を頂点とする政権が誕生するなら、戦争という危険を犯す事は無いと言い出した。
辞官納地に関しても、官位は朝廷に返上するものの元将軍を名乗る事を許され、かつ将軍の格式も維持された。納地も徳川家だけが領地を差し出すのではなく、すべての大名がその石高に応じて差し出すと修正されてしまう。その結果、徳川家の領地は大幅に残される事になった。岩倉は、これらを徳川慶喜が神妙に受け入れ、軽装にて(武装せずにという意味)上洛し奏上するならば、ただちに徳川家を新政府の参与として迎えるとまで言い出す。
岩倉は和戦両用策を取っている。薩長は討幕主戦論のまま待機させ、福井藩や土佐藩に和平路線を進めさせた。岩倉は必ずしも薩長に組みしていた訳ではない。岩倉の頭にあった事はただ一つ。天皇と朝廷を中心とする統一国家である。徳川だろうと薩長だろうと権力を渡す気などさらさら無かった。
このまま事態が推移すると、徳川家は薩長とほぼ同格の参与という立場で、新政府入りする事になる。西郷や大久保は、この岩倉具視に対して強く抗議した。鳥羽伏見が起こった時、彼らは岩倉にこのような文句を言っている。
三日坂兵北進の報急なるに及び、薩長二藩は更に兵を増遣し、開戦の決を岩倉前中将に迫れり。曰く「去年九日以来、断然叡慮を以て徳川家の処置・并に会桑の進退等御達あるべきに、其事行はれず、遂に尾越二藩の周旋となりしは、失計の第一なり。辞官・納地の二件に関し、尾越土三藩の異論を制する能はざりしは、失計の第二なり。廟謨既に二大事を誤りしさへあるに、今又徳川家に上京を命じ、参朝はいふまでもなく、議定職をも命ぜられんとす、これ更に代三の失計を重ぬるものなり。此形勢を挽回するの道は、唯勤王無二の藩をして、決然として干戈を動かさしむるにあるのみ、宜しく開戦の策を決し給ふべし。又徳川家が外国に諭示せる書中に、君家の事を挙げて悪事とし、己の罪を措いて他を兇暴と称せるは、捨置くべからざる大事なり。宜しく朝議に附して其罪を匡さるべし」と。前中将三条前中納言と議して戦を許さず、暫く後命を待たしむ(大久保利通日記。戊辰日記。岩倉公実記)。
(『徳川慶喜公伝4』渋沢栄一著・東洋文庫)
薩長の朝廷工作は、すべて岩倉具視を起点して行われる。その岩倉が武力討幕を捨てた以上、薩長には為す術が無い。薩長側は最後の意地とばかりに、会津桑名兵帰国の件にしがみついていた。逆に言えば会津桑名兵が帰国し、徳川慶喜が軽装で上洛すれば、戊辰戦争は起こらなかったし、徳川家も明治政府の参与となっていたのだ。
薩摩藩邸焼き討ち事件
このように王政復古以降は、親徳川派のペースで政局は推移していた。ところが、江戸の方はそんな事情が解るはずもない。特に相楽総三を筆頭とする関東尊皇派は、お構いなしに動いた。『相楽総三・赤報隊史料集』(西澤朱美編・マツノ書店発行)に収録されている史料『薩邸事件略記』によれば、「十二月一隊ヲ甲州ニ、一隊ヲ野州ニ派遣シ四邊ヲ擾亂セムトス若シ幕府歩兵ヲ派遣スルニ及バヽ其虚ニ乗シ江城ヲ屠ラムトノ畧ナリ」とあり、薩邸浪士たちが挙兵計画を進めていた事がわかる。十月二十五日に薩摩藩の吉井が出した関東攪乱の見合わせ命令は、十二月までには届いていたはずだ。それでも彼らは関東挙兵計画を推し進めた。この計画もまた薩摩藩が考えた作戦ではない。関東尊攘派が長年暖めていた作戦である。
甲州、相州、野州の三箇所で挙兵を行い、幕府軍が鎮圧に出向いた所を残りの浪士で江戸城を乗っ取る作戦だったという。天下の江戸城が、浪士の集団が数百集まったぐらいで落とせる訳がない。だが、この作戦は実際に決行された。三隊に別れた浪士達は、各個撃破の憂き目に合って失敗している。
挙兵計画が失敗した浪士達は、十二月中旬あたりから幕府御用商人を襲うようになった。これに乗じ、江戸の盗賊も薩邸浪士に偽装し、犯行を重ね始める。江戸の治安を預かる庄内藩はもちろん、ただでさえ大政奉還や王政復古で苛立っている幕臣達の神経をさらに逆撫ですることになった。もちろん薩摩藩は、この浪士の暴走を放っていた訳ではない。王政復古翌日の十日に、薩摩藩吉井幸輔は江戸攪乱を停止させようと、二度目の書簡を江戸に送った事は既に述べた通りである。
こうした薩邸浪士の挑発に乗ったのが、主戦派の小栗忠順だ。徳川慶喜が討薩に立ち上がらない事に対しても、彼は苛立っていた。天下の徳川幕府の兵力をもってすれば、薩長など恐るるに足りない。薩摩藩邸を焼討ちして戦争を起こしてしまえ。戦争が起こってしまえば、上様の腹も決まる。小栗はそう考えた。
これに反対したのが勝海舟である。勝は、戦争を起こす事に徹底して反対し、小栗と対立した。だが二十三日頃には、ほぼ薩摩藩邸焼討ちに決まったようで、激怒した勝は辞職願を叩き付けている。その書に曰く「小吏天下の大勢を知らず、已れに佞するを悦び、其説に逆ふを悪む。今哉狎邪之小人、家邦を危くず。(『近世日本国民史・第六十六冊』(徳富猪一郎著・明治書院)より抜粋)」とある。ここで勝が言う小吏とは小栗忠順の事だろう。
勝が辞表を叩き付けた二日後の二十五日、薩摩藩邸は庄内幕府の兵に焼き討ちされた。それが大坂の幕府軍へ飛び火し、鳥羽伏見の戦いが勃発する。まさに勝海舟の危惧し、小栗の思惑通りの展開となっていく。
鳥羽伏見の戦い
再び京大坂に目を移す。大坂城に移った旧幕軍だが、鎮静するどころか益々主戦論になっていた。
幕臣主戦派は、王政復古そのものを無効と主張する。若年寄並平山図書頭(敬忠)や大目付戸川伊豆守、目付榎本対馬らは、その不満を朝廷に訴えようと、徳川慶喜の名で「挙正退奸の上表」を作った。その内容は、王政復古を取り消し、クーデターを起こした君側奸(薩長)を排除すべしという。
草成るに及び、之を諸藩に示して兵を徴す。其副書には「別紙御奏聞状、屹度御差出相成るについては、思召に感激せる面々は、人数召連れ早々上坂致さるべし」と記せり。戸川伊豆守は上表をもたらし、十八日の夜を以て入京し、戸田大和守によりて之を総裁宮に上らんとす。大和守大いに驚き、「明朝まで熟考すべし」と答へ置き、十九日密に之を岩倉前中将に告ぐ、前中将曰く、「今や尾越の二藩徳川内府を暁論し、反正の実効を挙げしめんことに力むるの際、此表を上らば、朝議必ず出師問罪に決し、二藩の周旋水泡に帰せん、余暫く此表を預り置くべければ、足下は宜しく二藩と熟議して、善後の処置を講ずべし」と。伊豆守又大蔵大輔・容堂を訪ひて周旋を依頼したるに、大蔵大輔は、「熟考すべければ暫く呈出を見合はすべし」といひ、容堂は当惑の余、象次郎をして前中将に内談せしむ。前中将曰く「奏聞状は今朝既に戸田大和守より承知せり、若し彼の書面を表向披露せば万事休す、故に大和守へ申談じ、中山・正親町三条の両卿へは内々一覧せしめたれども、其余の人々へは決して示さず、余が手も握り置かんの考えなり。余をして徳川家の為に計らしめば、伊豆守自ら其表を焚き、尾越土の三老侯を煩はして大坂に赴かしめ、内府の軽装上洛して、辞官・納地を奏請せんことを勧奨するを良策とす、内府之に従はば、徳川家の社稷は必ず安全なるべし」と。此に於て容堂・大和守は大蔵大輔の邸に会し、戸川伊豆守を招きて代る代る暁論し、且公の上洛を促さしむ。伊豆守漸く納得し、上表を大蔵大輔と尾張大納言とに預け置きて、怱々大坂に帰る(丁卯日記。嵯峨実愛手記。)
(『徳川慶喜公伝4』渋沢栄一著・東洋文庫)
『徳川慶喜公伝』によれば、戦争になることを危惧した岩倉具視の手で、上表は握り潰され事無きを得る。岩倉は、徳川方の鎮静を土佐福井尾張の三藩に依頼した。ビックリした彼らは、大坂城に出向いて説得にあたっている。
大坂城内は、主戦派という名の爆弾を抱えたようなものであった。さて、徳川慶喜の真意はどこにあるのだろうか。再び前掲書を見てみよう。
公は戸川伊豆守より京都の形勢を聴取せり、越土二藩の議に従い、軽装上洛の意ましましゝかども、会桑、さては旗本の面々は之を喜ばず、寧ろ此機会に乗じ大挙入京して、君側の奸を清むべしと主張せる者多かりしかば、公いたく之を憂ひ、二十一日直書を大蔵大輔・容堂に寄せて曰く(連名なり)、「戸川伊豆下坂して御地の模様を審にし、何分にも早々入京するやうとの趣、委細承知せり、誠意を以て皇国の為に尽くさんの微□は、予て建言もなし置きたれば、此度の議とても、皇国の為とあらば、速に上京して同心協力すべきなり。されど過日大変革の際、家来ども鎮撫の為大坂へ引取り、漸く説諭を加へて鎮定するを得たるが、仮令天下の為に上京せんも、家来ども之を承りなば、一向危地に臨むが如くに思い誤りて、又々沸騰すべきは必然なり。されば此上の御尽力にて、相成るべくは御所より御用ありて召させらるゝやうには成るまじきや、然らば家来どもをば如何やうにも説得して、速に上京せん。尚委細は伊豆に申含め、玄蕃と打合はせ御細話に及ぶべければ、御諒察給はるべし。又上京の節は人数も召連るゝこと故、予て宮闕は勿論、市中末々まで、誤解して驚動せぬやう、鎮撫方御心附あるべし、余は両人の口吻に託す」とあり、戸川伊豆守之をもたらし、目付保田ニ太郎(久成)と共に二十三日入京して、之を大蔵大輔に交付せり。此趣は容堂邸集議の旨と符号する所ありければ、玄蕃頭、象二郎等は越前邸に集議し、中根雪江が大坂より持参せる奉請書案に添削を加へ、形を改めて諭書案となす。蓋し本日の三職会議に呈出せんとするなり(丁卯日記。昔夢会筆記。)
(『徳川慶喜公伝4』渋沢栄一著・東洋文庫)
これを見ると、慶喜の真意は戦争を回避し、徳川宗家の明治新政府入りを目指していた。ところが主戦論の幕臣や会津桑名両藩が薩摩との戦争を叫び、慶喜は彼らを押さえるのが手一杯で動けない状態となっていた。
慶喜の抑えも限界に達しつつある。そんな時に、江戸薩邸焼討の報が大坂に届いてしまった。江戸ではすでに開戦したというのだ。戦争が始まったのなら、もう迷う事は無いと会津桑名、幕臣達は騒ぎ出した。こうして主君である慶喜の真意を無視し、彼らは小栗忠順の思惑通りに戦争に向けて大暴走を始めてしまうのだ。
大坂城中に於ける主戦論は、日を経て益熾盛にして、若年寄平山図書守等も会桑の藩士と意見を同じくしければ、十二月の中旬には、既に諸兵を京坂の間に配置し、播州街道なる西の宮・札の辻には(中略)京軍と坂兵とは斯かる配置によりて相対し、互に機会を窺へる折しも、公は感冒にて蓐中におはしけるが、板倉伊賀守罷り出でゝ、「将士の激昂大方ならず、此まゝにては済むまじければ、所詮兵を率ゐて御上京あるより外、せんすべなかるべし。」との旨を反復言上せり。公乃ち読みかけて伏せ置きたる孫子を披きて示し、「知彼知己百戦不殆(敵を知り己を知れば百戦危うからず)ということあり。今日に於ても緊要なる格言と思ふなり。試に問はん、譜代・旗本の中に、西郷吉之助に匹敵すべき人材ありや。」伊賀守暫く考へて、「さる人は候はず」と答ふ。「さらば大久保一蔵に匹敵すべき者ありや。」伊賀守また無しと申す。公は更に同藩の名ある者数人を数へて、「此人々に匹敵し得る者は如何に。」と次第に尋ね給ふに、伊賀守も一々に考へて、「さる人物は候はず」と答えし時、公は「如何にも其通ならん、斯く人物の払底せる味方が、薩州と開戦すとも、いかでか必勝の策あるべき、結局は徒に朝敵の汚名を蒙りて祖先を辱むるのみなれば、決して戦を主張すべきにあらず」と、固く制止せられしに、伊賀守は、「台旨誠にさることには候へども、将士等の激昂甚しければ、所詮制し得べしとも思はれず、若し何処までも彼等の請を拒み給はゞ、畏けれども上様を刺し奉りても脱走しかねまじき勢なり」と申す。公聞召して、「よもや累代の主人に刃を加ふる事はあるまじきながら、脱走せんは勿論なるべし、斯くてはいづれにも国乱の基たるべし」と、深く嘆息せられけるが、十二月二十八日に至りて、薩邸焼討の飛報は忽如として江戸より達す。此報をもたらしたるは大目付滝川播磨守(具挙)勘定奉行並小野内膳正等なるが、播磨守は聞ゆる主戦論者にて、関東の形勢、討薩の已むべからざるを切論せしかば、旗本の諸隊・会桑二藩の悲憤やる方なく、上下を挙りて挙兵を公に迫れり。事此に至りては、公の力も討薩論の鋒鋩を挫き難く、空しく手を拱きて傍観するの已むを得ざるに至る(昔夢会筆記。辨事局記所載黒川嘉兵衛嘆願書。丁卯日記。○丁卯日記に二十八日を晦日に作るは誤なり。)
(『徳川慶喜公伝4』渋沢栄一著・東洋文庫)
激昂する家臣達を、慶喜はもうどうすることもできなかった。慶応四年一月三日、ついに大坂城の旧幕府軍は京都へ向けて進軍を開始する!。
これを知った薩長は、徳川を朝敵にする絶好の機会を得た。しかし、この事態になっても岩倉具視は動かない。
岩倉前中将は開戦の請を押へて之を許さゞれば、一蔵・吉之助等憤慨し、死を期して迫るに及びて、前中将の意始めて決す。乃ち四条侍従を伏見に遣りて、暫く公の入京を止めしめ(其行を果さず)、又尾張中納言・松平大蔵大輔に命じ、坂兵に、「退去せざるに於ては、朝敵を以て御処置あらせらるべし」と伝えしむ(遂に伝宣の機会を得ざりき)。且薩長土の三藩に、伏見の守を厳にして、臨機の処分を為さしめ、再び芸藩に命じて兵を伏見に出さしめ(此に至り芸藩始めて兵を出す)、彦根・大洲・平戸・大村・佐土原の五藩には、兵を大津に出して変に備へしむ、これ大津口にも坂兵押寄する由風説せるを以てなり(輦下日載。大久保利通日記。戊辰日記。広島藩事蹟要録。三世紀事略。神山左多衞在京日記。大村純熈家記。井伊直憲家記。)又「江戸に於て酒井左衛門尉の兵が松平修理大夫の屋敷を砲撃せるは、全く私鬪なれば、追て取糺の上、きつと御沙汰あるべければ、孰れも方向に惑はずして鎮静すべし、万一暴挙する者あらば朝敵たるべし」と触れらる(戊辰日記)。
(『徳川慶喜公伝4』渋沢栄一著・東洋文庫)
岩倉具視は、徳川家との戦争を断固回避すべく、最後の望みを尾張福井両藩に託した。福井藩松平春嶽が猛然と立ち上がる。このまま戦いが始まれば、これまでの工作がすべて無駄になってしまう。春嶽は尾張福井両藩の兵を緊急配備し、旧幕府軍と薩長軍の間に並ばせて、無理矢理にでも戦争を止めさせようとしたようだ。だが、これは旧幕府軍の進撃速度が早く、準備が整わず間に合わなかった。
かくして鳥羽伏見の戦いが起こる。一万五千と言われる旧幕府軍に対し、薩長はわずか三千。だが、旧幕府軍が敗北し、徳川家と会津桑名両藩は朝敵となってしまうのだ。尾張福井土佐の三藩が行ってきた平和への努力も水泡に喫し、徳川慶喜が望んだ明治政府参加という望みも絶たれた。そして、戦いは錦旗の登場で一方的な展開となり、徳川慶喜は大坂を捨てて江戸へ逃げ帰らざるを得なくなる。
現在、この慶喜を「弱虫・凡将」と罵倒する歴史家もいるが、果たしてそうだろうか。主君である慶喜を無視し、暴走したのは主戦派の家臣達だ。事実、戦わなければ薩長に勝っていたのである。徳川慶喜一人を弱虫と決め付け、主戦派の失敗を隠すが如き最近の風潮は変だと私は思う。また徳川慶喜の回顧談にはこうある。
公 自身を刺してもやるという。それでもよいからならぬと、もう一つ上へ出たらどうなるかということをたびたび考える、どうも始末がつかない。
(慶喜を刺し殺してでも開戦するという主戦派に対し、私を殺しても良いから戦うなと言ったらどうなっただろう。という徳川慶喜の回想部分)
江間 今日となって申し上げますとたいへん恐れ入りますが、あの時の想像話を忌憚なく申し上げますれば、上様がどうしてもならぬとおっしゃれば、もうやむを得ぬ、非常な手段をしても薩州を討つつもりだったのです。会桑はもちろん、幕府でも竹中丹後などの戦論家は・・・
公 それで二条の城から大坂へ引き上げる時、手代木がまず遊ばして御覧遊ばすがようございましょう。私などは拝見いたしましょうというようなことを言っていた。まあこれなら大きにと思っていたら、なに、どうもそうはいかない。
江間 あの時肥後守と越中守・・・、すなわち会桑の首脳を、そっと何とも言わずにお連れ出しになりましたのは誠に・・・。
公 あれは残しておけば始まる。
江間 実に危いところであります・・・。それで越中守に、あの時貴方がなぜお帰りなすった、残念な話しだと申しましたら、上様がちょっと来いとおっしゃるから、何かお庭廻りでもなさることと思って、兄と両人無頓着に御供をした、それっきり桜門から八軒屋へ・・・、というような話でありました。あれはもう会津はもちろん、旧藩では誰一人知っていなかったのでございます。此方は一同の家来ども、今は進撃の号令が出るであろうと、勇み立って刀の鯉口を寛げて待っているところが、誰いうともなく、御三方ともにいずれへお出になったか、御行方が知れぬという騒ぎで、いくら力んでも、首脳なしでは何とも仕方がない。
阪谷 薩州の兵力と会桑の兵力はどんなものです・・・
江間 是非上様がやれとおっしゃれば、叩き破ってしまうに何でもないのです。神経病が付いてしまった、仕方がないから紀州へ遁げたのです。
三島 あの時大坂城は御進発になっておらぬですか。
公 私は不快で、その前から風邪を引いて臥せっていた。もういかぬというので、寝衣のままで始終いた。するなら勝手にしろというような少し考えもあった。
(注:公=徳川慶喜)
『昔夢会筆記 徳川慶喜公回顧談』(渋沢栄一編・東洋文庫)
この時、総司令官であるはずの慶喜が完全に孤立していた。
江間が語った「上様がどうしてもならぬとおっしゃれば、もうやむを得ぬ、非常な手段をしても薩州を討つつもりだったのです。会桑はもちろん、幕府でも竹中丹後などの戦論家は・・・」という部分を見ても、主君の命に従おうという意志がまったく無い。こうした家臣達を前に、主君であるはずの慶喜が「するなら勝手にしろ」と思うのも無理ないだろう。
会津藩の失敗
京都から遠く離れた江戸の幕臣はともかく、大坂城にいた松平容保が土佐や福井尾張三藩の動きをまったく知らなかった事は失態である。尾張藩主徳川慶勝は、会津藩主松平容保の実の兄だ。実の兄弟同士で情報の共有すら出来ていない。この時の容保は、多くの激昂する家臣同様、明らかに冷静さを欠いていた。実の兄さえも信じられず、情報交換を怠っていたのである。
会津藩が、戦争を起こす事に積極的だった事は、『会津戊辰戦争(平石弁蔵著・丸八商店出版部)』からも読み取れる。前掲書によれば、朝廷から「会桑両藩は帰国せよ、徳川慶喜は軽装にて上洛せよ。」と指示が到着した際、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬はこれを危ぶみ、慶喜に「大兵を以て入京するにあらずんば、(岩倉)具視の奸譎薩の權謀に陥らん」と進言したという。
会津藩は、京都政局をまったく把握していない江戸の主戦派に煽られ、感情のおもむくままに出兵したのである。
慶喜が夜逃げのように大坂城を出る際、松平容保のみが諫止したという。そして慶喜の激怒を買ったと史料『会津戊辰戦史(山川健次郎著・会津戊辰戦史編纂会発行)』にある。だが、諫止の話しは同書にしか見る事が出来ず、慶喜の回顧などには出てこない。定敬の方は、慶喜の行動を理解すらできなかったらしく、「お庭でも見て廻るのかな?」とついていったら、そのまま八軒屋へ……だったらしい。容保は多少抵抗したようだが、結局は江戸へ連れ去られた。この事実から、容保は実の兄である徳川慶勝だけでなく、同じ城にいた徳川慶喜とも情報交換を行っていなかった事が理解できよう。いや、薩長に対する怒りのあまり冷静さを欠いた容保を、慶喜は説得する自信が無かったと言うべきか。
「兵は凶器なり」と説くのは孫子兵法である。故に安易に用いてはならないと戒めている。そして「戦わずして勝つ」事が兵法の神髄だ。
鳥羽伏見の敗因は、戦わなければ勝っていたにもかかわらず、安易かつ無計画にこの「凶器」を使用した事にある。薩摩憎しと冷静さを欠き、情報収集を怠ったまま軍隊を出発させてしまった。ましてや総大将である慶喜が孤立し、手足となるべき軍が勝手気ままに動いているようでは、いかに大軍を擁していても勝てる訳がない。
会津藩は、まぎれもなく主戦派だった。故に戊辰戦争という戦乱を起こした当事者と言われても、言い逃れはできない。薩長も戦争を望んではいた。だが、彼らは武力衝突を阻止しようとした岩倉に止められて、京都防備以外の行動を封じられている。これに対し、旧幕府軍は大坂から京都へ軍勢を向かわせるという戦争への具体的な行動の結果、戦争が起こった。それ故に、戊辰戦争は旧幕府軍側から起こした戦争と言えるだろう。勝てば良し。負けた以上、その罪を問われる事になる。それは「天地入れざる朝敵」という名の重い罪であった。
徳川家の恭順と会津藩
鳥羽伏見戦争に勝利した明治政府は、徳川家を完全に屈服させるべく東征を行う事になった。この段階では、会津藩より徳川家がターゲットである。徳川家が江戸城に籠もれば、会津藩も共闘すると思われたからだ。
徳川慶喜が江戸に帰った時、江戸の幕臣達は大方が徹底抗戦論であった。その筆頭は、やはり小栗忠順である。この小栗を、慶喜は即座にお役ご免にした。小栗は戦えば勝てるといったが、慶喜は聞く耳を持たない。京都において、慶喜は政治的に勝っていた。それを潰したのは「必ず勝てる」といって鳥羽伏見に出兵した主戦派たちだ。その結果はどうか。大敗北と朝敵の汚名が徳川家に与えられ、存亡の危機に陥っている。主戦派の言う「必ず勝てる」ほどアテにならぬものはないと慶喜は思ったのだろう。
江戸での失敗は、即ち徳川宗家一族の血が絶える事を意味する。徳川宗家総領として、それだけは断固回避しなければならない。もう失敗は許されないのだ。慶喜が、まず主戦派の中心人物小栗を罷免にする事は当然だった。
小栗にかわって登場したのが勝海舟である。小栗が主戦論筆頭なら、勝は非戦論筆頭だ。小栗の主戦論に敗れて辞表を叩きつけた勝を、慶喜は起用した。慶喜と勝は、決して仲が良い訳ではない。むしろ仲が悪かった方だったろう。だが、そんな勝を慶喜は要所要所で使っている。薩摩と会津が仲違いした時の説得役、そして長州征伐停戦の際にも直接交渉役として起用した。薩長相手の交渉役は、勝にしかできないと慶喜は判断したのである。
勝は、戦いを望む危険分子を江戸から追い出し、恭順体制を創り出そうとした。私は、追い出すと見せかけて兵力の温存を謀ったと見ている。その一方で、朝廷に恭順歎願を行った。勝を起用した慶喜も、独自のルートを使って恭順歎願を行っている。
この時、会津藩は完全に主戦論に凝り固まっていた。天下の江戸城に籠城して負けるはずがない。会津藩はそう考えていたのだろうが、もうそんな次元ではなかったのだ。結局、勝に「恭順するなら国元で」と、体よく江戸を追い出された。
会津藩主松平容保は、この時素直に従い、明治政府に慶喜同様に恭順したい事を伝える嘆願書を差し出しているが、本心からではなかったろう。何故ならば、主戦派の会津藩士たちに恭順の意志が見られないからだ。山川大蔵を筆頭に江戸に残って幕府伝習歩兵に合流している。彼らは幕府陸軍に偽装し、西洋兵学の調練を始め、会津藩兵の洋式化と軍備増強に奔走していた。こうした事実は、すべて明治政府に筒抜けになっている。
一月一六日ごろの江戸城情勢を、岩倉具視の従僕が、スパイとして探索しきっていた。この従僕は、恭順論を唱えた前橋藩家老山田太郎右衛門、豆州韮山□付属柏木総蔵等と大いに示し合わせ、徳川家を平和的に恭順させようと工作していたらしい。『戊辰日記(中根雪江著)』によれば、会津桑名両藩が、主戦論を支持して動かない事や、前橋藩等が恭順論を唱えて江戸の論議が紛糾している。といった事を、岩倉具視に報告している。これを受け、岩倉は福井藩士中根雪江を呼び出し、この報告書を示して「(徳川)謝罪之道相立候へは、社稷之保存に於いて、岩倉殿死を誓つて御請合候」と語り、福井藩に徳川謝罪救済に動いてくれと要請した。鳥羽伏見の戦い直前、親徳川派として戦争勃発阻止工作を行った福井藩と岩倉の連携は、それ以後も続いていたのである。
そして、彼らの邪魔をする者は、またしても主戦論を掲げる会津藩だった。
一.前橋松平大和守等、○○會桑等之失策を□□謝罪により、徳川家之血食を謀候、前橋一藩は決議之模様なれとも、十五日までには、いまた徳川一同之大議論いは不渡、何れ十六七日中には、謝罪之説を於城中發すへしと云、
一即今徳川一家中之情態に而は、悉く十方にくれ、未た今日迄防戰の策も不立候得共、朝廷より嚴重之御沙汰有之候はヽ、皆己之死又は飢餓を優るよりして、一和するの機も相見え候、何分關東人は、名分は更に不辨候間、只々寛大を以駕馭すれは、終には前橋等之謝罪説と、會桑之戰爭説と、必二た分れになり、刃を用いすして落着すへき歟、
『史籍雑纂 第四(続群書類従完成会発行)』内収録史料『戊辰日記(中根雪江著)』より抜粋
岩倉具視は、福井藩の松平春嶽と中根雪江、前橋藩と連携して徳川家に恭順の道を選ばせ、戦わずして戦争を終わりにしようとしてた。それは福井藩も望んでいた事である。ここに江戸城内で恭順非戦論を唱える前橋藩と福井藩の連携が誕生した。徳川家家名存続の内諾を、岩倉具視から得た福井藩は、その事を前橋藩に伝えて、江戸城内の会議を恭順でまとめるよう応援を始める。恭順すれば徳川家は存続できる事を知った前橋藩は、会津桑名両藩の主戦論と真っ向から対決する事になった。
江戸城内の大議論の背景には、こうした事実がある。そして会津藩が、江戸でどのような態度であったかは、この前橋藩を通じて岩倉具視や福井藩に筒抜けになっていた。
何も知らずに江戸にいた会津藩主松平容保は、二月頃に東叡山輪王寺宮を通じ恭順嘆願書を差し出すが、これでは信用されるはずがない。「口なら何とでも言える」とばかりに「行動が伴っていない」と会津の嘆願書は無視された。福井藩主松平春嶽にも、恭順歎願の仲介を頼むが断わられ、その他の多くの藩も、会津を助けようとはしなかった。会津藩の歎願と行動が一致していない事が原因だ。
こうして江戸での会津藩の恭順歎願は全て失敗する。明治政府内においては、徳川家よりも会津桑名両藩こそ天下大乱を起こす者と認識され、徳川家の恭順派は、会桑両藩を徳川宗家を滅ぼす元凶と見た。会津藩は次第に孤立していく事になる。ここで注意して欲しいのは、こうした福井藩と岩倉具視による対徳川恭順工作が、薩長二藩には秘密にして行われていた可能性が高い事だ。薩長は薩長で、徳川を潰すべく江戸攻めの準備を進めていた。岩倉具視は、片手で薩長を江戸に向けて進撃させつつ、もう片手で福井藩と前橋藩を通じ徳川家を平和的に降伏させる工作を行っていたのである。
生け贄となる会津藩
鳥羽伏見の戦いの後から東征までの間、薩長の考えは「徳川慶喜の死謝」である。とにかく敵は徳川家だった。
特に薩摩の大久保西郷の両人は、慶喜を許す気がまったくない。薩長二藩にとって会津藩は二の次になっていた。ただし、これは徳川家への恨みというより政治的要求による所が大きい。恨みがない訳ではないだろうが、それよりも徳川家がある限り、徳川幕府復活を期待する諸藩が出るとも限らない。徳川家を完全に葬り去る事で、こうした禍根を断とうというのが薩長の考えだ。これに対して、会津桑名両藩こそが主犯だという認識がある。これはすでに述べた。福井藩主松平春嶽は、徳川慶喜から恭順仲介を依頼されていたが、その慶喜に対して「鳥羽伏見の戦いは手違いだというが、手違いならすぐに兵を引くべきだ。実際は、その後数日間に渡って戦闘が継続されている。今さらそんな言い訳は通らない」と手厳しく批判している。恭順伏罪の態度を行動で示せ、恭順歎願はその後の話だと春嶽は言うのだ。
松平春嶽の懐刀中根雪江は、前橋藩の山田太郎右衛門と計って徳川宗家救済運動を展開している。前橋藩は十七万石の譜代大大名で、関東有数の雄藩だ。この藩が徳川恭順工作の突破口と見られていた。
(前略)
一、御謝罪之御次第、此地之輿論は、舊内府公之思召より出、會桑始、閣老諸有司之内、暴發候事に關り候向、夫々に御罰?有之、御自身にも御恐縮御謹愼に而御伏罪、斧鉞を被為待候御手續と相成候へは上等也、舊内府公御懺悔無之に付。他より先つ内府公を禁錮し、指次きたる會桑始を誅罰し而後、徳川氏社稷之爲に嗣を乞ふは第二等也、徳川氏臣子に關る者、各自刑して罪を顯はし、内府公之御罪に代り御惡名を雪め可申は、臣子之當然なるへし、瀧川等之首惡は刑戮すへし、會桑君侯、たとひ事に關はらさるも、其家來よりして宗家の傾覆を醸成し、天下之大亂を引起したり、先つ家來を誅して、自らも割腹して罪を謝すへし、會桑之家來自刑して、其主の罪を贖ふ事もあるへし、會桑頑然として、其罪を知らすんは、徳川氏、或は其親族、又譜代よりして是を討伐して、朝廷天下に謝すへし、(後略)
正月廿四日 中根雪江
山田太郎右衛門様
『史籍雑纂 第四(続群書類従完成会発行)』内収録史料『戊辰日記(中根雪江著)』
前橋藩は、徳川慶喜を禁錮にしてでも恭順謝罪の道を選ぶと福井藩に相談している。それに対する中根雪江の返答から、抜粋の一部を掲載した。
この文書によれば、徳川慶喜を禁錮にするのは二の次とし、それよりも慶喜を鳥羽伏見の戦いへ導いた家臣達を誅罰する事を薦めている。徳川家存続には血の犠牲が必要だというのだ。その生け贄に選ばれたのが、主戦派の幕臣と会津桑名藩両藩だった。
勝海舟は、こうした幕府内の対立を見つつ、会津桑名両藩に、各々国元へ帰って恭順謝罪せよと命令を出している。坂本竜馬ファンであればご存じだろうが、福井藩松平春嶽と勝海舟は、昔から親密な関係にある。だがこの時、勝は福井藩の求める血の犠牲案には乗らなかった。
勝海舟と西郷隆盛の会談
勝海舟は幕末史を通じ、徹底して非戦論だった。長州征伐に大反対し、江戸薩摩藩邸焼討にも反対している。彼が平和主義者だったという訳ではない。勝が警戒した相手は諸外国だ。日本で内戦が起これば、諸外国がそこに付け入ってくる。外国軍が介入すれば、日本が植民地になってしまうという心配があった。「欧米列強が日本の狙っている時に、日本人同士が殺し合ってどうするのだ!」というのが勝海舟の一貫した持論である。徳川家が会津桑名両藩を討伐するというのも戦争だし、江戸城に籠城も戦争だ。徳川家の恭順が平和的に行われた後で、会津藩と明治政府が戦い続けても戦争になる。これは勝の持論に反するわけだ。勝は、会津藩に「国元での謝罪謹愼せよ」と指示を出して会津へ帰らせている。そこに勝の真意があると私は思う。会津藩が戦い続けるのは、徳川家があるからだ。だから徳川が戦ってこそ会津も戦う意味がある。徳川が戦わない、いや戦えなくなれば、会津藩も諦めて恭順するだろうと考えたのかもしれない。
つまり江戸城を新政府に渡してしまうまで、会津を国元に帰らせて大人しくさせる。戦う理由が無くなった会津藩もまた、徳川家に追従して恭順するだろうという予測は容易に立つ。
海舟がこうした考えをもっていた事は、その後の勝西郷会談の内容から想像できる。まず三月九日に山岡鉄舟が、駿府で西郷と事前交渉を行った。その際に示された新政府側の徳川処分案がこれである。
西四辻公業私記ニ云、勝安房、大久保一翁、山岡鐵太郎ヨリ西郷吉之助ヲ以テ段々申出候次第有之、別紙ノ通内々右三名ヘ被仰渡、九日相達ス。
静寛院宮御儀、田安中納言ヘ御含メ相成候事件モ有之候ニ付、御趣意貫徹イタシ候様一向盡力之事。
右一紙。
一.慶喜儀謹愼恭順之廉ヲ以テ、備前藩ヘ御 預可被 仰付事、
一.城明渡可申事、
一.軍艦不殘可相渡事、
一.軍器一切可相渡事、
一.城内居住之家臣、向島ヘ移リ愼可罷在事、
一.慶喜妄擧ヲ助ケ候面々、嚴重ニ取調謝罪之道屹度可相立事、
一.玉石共ニ砕ク之御趣意更無之ニ付、鎭定之道相立、若暴擧致候者有之、手ニ餘候ハヽ、官軍ヲ以テ可相鎭定事、
右之條々、實効急速相立候ハヽ、徳川氏家名之儀ハ、寛典之 御處置可被 仰付候事。
(『復古記第九冊(東京大学史料編纂所編・マツノ書店発行)』収録『復古外記 東海道戦記』より抜粋)
この中の第一條「徳川慶喜を備前藩に預ける」という条件は、山岡鉄舟が西郷隆盛と決死の交渉を行い、取り下げる事に成功した。問題は第六條「慶喜妄擧ヲ助ケ候面々、嚴重ニ取調謝罪之道屹度可相立事、」だ。新政府側もこの交渉が行われていた頃には、すでに徳川寛大論が噴出しており、大久保利通が徳川処分案をまとめていた。だから、この条件は新政府がすでに考えていた事であったろう。この中に「慶喜妄擧ヲ助ケ候面々」という部分がある。この慶喜妄挙を助けた面々とは、つまり大阪城にいた主戦派大名達の事で、会津桑名両藩や老中板倉勝静の事だ。新政府側は、徳川家に会津藩などの主戦派にも、謝罪の道を立てさせるよう要求していた。
こうした新政府の要求を受け、勝海舟は三月十三・十四日に西郷隆盛との直接会談にのぞむ。勝の返答はこの通りである。
○申請書
第一ヶ條 隠居之上、水戸表ヘ愼罷在候様仕度事、
第二ヶ條 城明渡之儀ハ手續取計候上、即日田安ヘ御預ケ相成候様仕度候事、
第三ヶ條・第四ヶ條 軍艦軍器之儀ハ不殘取収メ置、追テ寛典御處置被 仰付候節、相當之員數相残シ、其餘ハ御引渡申上候様仕度事、
第五ヶ條 城内居住之家臣共、城外ヘ引移愼罷在候様仕度事、
第六ヶ條 慶喜妄擧ヲ助ケ候者共之儀ハ、格別之御憐憫ヲ以テ、御寛典ニ被成下、一命ニ拘リ候様之儀無之様仕度事、但、萬石以上之儀ハ、本文御寛典之廉ニテ、朝裁を以被 仰付候様仕度候事、
第七ヶ條 土民鎭定之儀者精々行屆候様可仕、萬一暴擧イタシ候者有之、手ニ餘候ハヽ、其節改而相願可申候間、官軍ヲ以御鎭壓被下候様仕度事、
右之通、屹度爲取計可申候、尤寛典御處置之次第、前以相伺候ヘハ、土民鎭壓之都合ニモ相成候儀ニ付、右之邊御亮察被成下、御寛典之御處置之趣、爲心得伺置度候事。(勝安房日記・春嶽私記)
(『復古記第九冊(東京大学史料編纂所編・マツノ書店発行)』収録『復古外記 東海道戦記』より抜粋)
会津藩に関係する部分は、第六ヶ條目の「慶喜妄擧ヲ助ケ候者共之儀ハ、格別之御憐憫ヲ以テ、御寛典ニ被成下、一命ニ拘リ候様之儀無之様仕度事、但、萬石以上之儀ハ、本文御寛典之廉ニテ、朝裁を以被 仰付候様仕度候事、」という部分だ。
勝は、慶喜妄挙を助けた者達も寛大な処分を行い、一命に関わるような処分はしないで欲しいと要求している。この事から、勝海舟は江戸城と引き替えに、大阪城で鳥羽伏見の戦いを起こした主戦派幕臣、会津桑名藩や譜代老中達すべての助命を考えていた。会津藩の謝罪恭順の道筋まで、しっかり考えていたのである。しかも勝は会津藩に対して、国元で謝罪恭順せよと指示しているのだ。その通りに会津藩が行動していたなら、勝の江戸城と引き替えに、すべての争いや戦争を終わらせるという目論見は成功していただろう。
この勝の返答に対し、西郷隆盛は独断では判断できないから、一度大総督府に相談すると答え、明日の江戸城総攻撃を中止する。こうして、ひとまず勝西郷会談は成功した。
近年、会津の視点に立ち、会津を江戸から追い出した勝海舟を嫌う傾向がある。星亮一氏は、その著書の中で「勝海舟は会津を薩長に売ったのだ」と断言している。しかし、私は前述してきた事を根拠に、勝海舟が会津を売ったという氏の説には異を唱えたい。
北関東における会津藩の暗躍
江戸城が無血開城した後、会津藩は国元に帰って謹慎し、恭順していた事になっている。だが実際には、北関東を会津戦争の前哨戦と捉え、新政府軍の東北進行を阻止しようと軍事行動を行っていた。
四月十一日、江戸城が接収されると翌十二に旧幕府陸軍の大量脱走が発生する。その内、大鳥圭介の脱走部隊に多くの会津藩兵が幕臣に偽装して参加していた。その他、純義隊など大鳥脱走軍以外の幕府脱走部隊にも会津兵が紛れ込んでいる。会津藩は、建前でも恭順している事になっているから、本来彼らは会津藩士である事を秘匿しなければならない。しかし、彼らは堂々と会津藩を名乗り、独断で対藩交渉したケースがいくつかある。
会津兵の結城戦争への介入
結城藩主水野勝知は、戊辰戦争が起こると旧幕府軍側に立ち、三月一日に彰義隊付属指揮役を願い出て、徹底抗戦する決意を固めた。一方、結城藩国元は、この決定を「賊軍になってしまう」と猛反発する。勝知を排除して義叔父勝寛を擁立、藩として恭順の姿勢を示そうとした。勝知はこの国元の動きに激怒、藩内佐幕派を味方に付けて、彰義隊から得た援軍を率いて、自分の城である結城城に入ろうとする。当然、国元の家臣達は、入城するなら勝知お一人で、彰義隊の入城は認めないと突っぱねた。要求を拒絶された勝知は、自らの城を攻撃をする事になる。これが結城戦争の経緯だ。早い話が、主戦派だった藩主が家臣に捨てられ、怒った藩主が、自分の城に攻め掛かるという異常な事態になっていた訳である。
北関東は徳川家恩顧の譜代藩が多く、佐幕主戦論が渦巻いていた。結城藩だけでなく、その近隣諸藩も尊王と佐幕と分かれ、藩内抗争をしていのだ。主戦派は、こうした北関東佐幕派を糾合し、一斉決起するという計画が練られていた。結城藩主水野勝知もこうした動きを背景に動いている。会津藩には何の関係もない事件だ。だが、この事件に忽然と会津藩士が登場する。
結城藩佐幕派は、国元が恭順論になった事から、藩兵が足りず彰義隊に援軍を頼む事にした。彰義隊の中心人物天野八郎は、この要請を受けて、最初から戦争をするというのは穏便ではないとして反対する。ただし、藩主が国元に帰って家臣を鎮撫するという事なら兵を出そうと援軍を約束した。頭取の渋沢成一郎も二百人の兵を貸すと言って会談は成功する。渋沢は、
徳川家旗下の武士は最早頼むに足りない到底對抗などヽは思ひもよらぬ、此際、只會津藩だけは十分頼みにすることが出來るから、會津藩と提携し、結城、宇都宮邊の関東の要衝に戰線を張つて、大に西軍と戰はんと思ふ、然る場合にはあの近隣の諸大名は響の聲に應ずるが如く之に味方するのであろうから、水野公なども、其際之れに同盟して呉れるだろうから」
『史談会速記禄(史談会編原書房発行)』
と語り、北関東諸藩と会津藩、彰義隊の連携作戦を語っている。彼らが会津藩をここまで信頼している原因はどこにあるのか。江戸城内で抗戦論を唱えた会津藩の行動が、信頼に足ると主戦派から見られたのかもしれない。
ともかく、水野勝知は結城城に入ろうとするが家臣達に拒まれ、城攻めを決意した。
急々戰爭と云ふことになりましたが、旅先にて大砲一挺の要意さへなきには、一同大に困却して爲す所を知らなかつた、此時會津藩の田中左内氏の曰ふには、予は古河藩の老臣に知巳あり、此際止むを得ずとあれば同藩よりライフル砲一挺を借り来るべしと、勝知大に喜び、翌廿三日水野又四郎、有馬豊之助を使者とし、左内の依頼状を持して同じく會津藩の坂本源四郎も同伴して、古河藩に参りまして、某老臣と談判し、十二斤カノン砲一門と彈藥壹百發を首尾よく借入れました、序ながら申しますが、會津の田中、坂本等數人は此際小山驛に来合せ、志士としては義を以て此挙に加擔せざるべからずとて仲間入したる人々である、」
『史談会速記禄(史談会編原書房発行)』
ここで突如、会津藩士が登場し、活躍し始めるのだ。この中の田中左内と名乗る会津藩士は、京都守護職時代の会津藩公用方にその名が見える。だから他藩交渉となれば、彼が出てくるというのも納得がいく。また田中はその後、会津戦争では長命寺の戦いで、会津藩大砲隊の隊長として再登場する。さらに別の史料も見てみよう。
此の頃總州結城藩主水野日向守勝任の家老小幡兵馬等黨六十人と共に西軍に内應し、日向守の弟禊之進を擁立して其の主日向守を逐ふ、是に於て日向守は江戸に至り藩臣四十人及び彰義隊六十人を率ゐて歸り來り、入城せんとしたるも兵馬等拒んで容れず、三月十七日會津藩士田中左内、井深恒五郎等兵を率ゐて古河に至り居ること數日、二十二日小山に赴き彰義隊に合し結城城を屠らんと欲す、二十四日進軍し黎明結城を襲ひ、我が兵三十人城の側面より侵入し、兵馬等の爲め拘禁せられたる老幼男女六十人を救ひ出し、火を城内に放ち兵馬を斬り餘黨數人を斃す、城未た陥らず日暮小山に歸陣す、」
『會津戊辰戰史(會津戊辰戦史編纂會・山川健次郎著・會津戊辰戦史編纂會発行)』
『會津戊辰戦史』によれば、結城戦争に参加した会津藩士は三十人としている。この部隊が、いったいどこから湧いてきたのか不明だ。会津藩の指示で小山にいたのか、江戸から会津へ帰る途上だったのかも解らない。
古河藩は、佐幕党が多かったから、「すこぶる苦心当惑」したという。結局、この会津藩士の申し出を断り切れず、郡奉行三浦次郎右衛門元徳の計らいで、カノン砲と武器弾薬の貸与した。
この結城戦争で、水野勝知は勝利し、結城城を奪取している。したがって、結城藩恭順派の家臣達は、城から追い出された。追い出された彼らは、新政府軍にこの一件を持ち込む。『復古記』にはこう記されてる。
○總督府日記ニ云、四月六日、夜子刻比、古河ヨリ香川敬三、平川和太郎之報知來ル、昨五日、結城城中ヘ彰義隊、並會賊六十人計立籠リ、近在所々ヘ金策相働候間、祖式金八郎、館林五十人一隊、大砲一門、須坂一小隊ヲ率テ進軍之處、賊ヨリ一戦請候ニ付、及戰爭候處、賊徒敗走、城中ヘ放火ニ及ヒ、城主日向守モ脱走之事。
『復古記第十一冊(東京大学史料編纂所編・マツノ書店発行)』収録『復古外記 東山道戦記』
この史料から、この結城戦争に会津藩が関わっていると、新政府側が察知していた事実がわかる。四月五日、祖式率いる新政府軍が、結城城を攻略して奪還した。松平勝知など結城藩佐幕派と彰義隊は、城から追い出されて上野に戻り、上野戦争に参戦している。
彼らは城から逃げる際、古河から借りたカノン砲を放置していった。この大砲を新政府軍が占領品にしたのだが、これが古河藩の物だとわかって問題となる。新政府軍が、古河藩は佐幕派に協力していると疑ったのだ。古河藩は困惑して弁明に努めた。そして大砲を貸す決断をした三浦次郎右衛門が、その責任を負って切腹する覚悟を決めたという。また一説には、藩の重役から太田屋源六が頼まれ、藩に無断で大砲を持ち出したのは自分だと、その罪を引き受けたとも言われている。古河藩は佐幕派ではない事を証明しようと、積極的に新政府軍に協力し、莫大な軍資金を差し出した。こうした運動もあって、新政府軍は古河藩を強く究明する事は無かったが、この大砲問題を根拠として減封処分を行っている。
こうした交渉の中で、古河藩が大砲を貸す際の経緯なども、新政府に説明いると考えなくてはならない。つまりこの一件にも、会津藩士が深く関わっていると、新政府軍が把握していたという事だ。
関宿藩内紛ヘの会津藩士の介入
結城藩の他に、関宿藩に対しても会津藩士の介入が見られる。
『関宿志(奥原謹爾著・関宿町教育委員会発行)』によれば、関宿藩もまた結城藩と同じく、藩内が尊王佐幕の二派に割れていたという。四月九日、会津の脱藩者神部半蔵、田口敬作と称する者が来城し、久世藩(関宿藩)に対して「会津藩の脱藩者は徳川恩顧に報いんとする一団であるが、不日関宿城下を通過するので、その際は、格別の便宜を計られたい」と申し出があった。この一団とは、たぶん純義隊といった旧幕脱走軍の事である。関宿藩の藩内抗争は、これをきっかけに深刻化した。四月十二日、東海道総督府に出頭した家老杉山対軒は、下総地方の形勢等を詳細に陳述し、藩主久世広文の歎願を提出する。
その歎願には、
在所役人よりの報告によれば、会津藩の脱藩者と称する者関宿城に来り、「我が藩の脱走者の一団が関宿城下を通過するので便宜を計られたく、尚関宿藩も古河藩も、我等に協力して官軍に抵抗されたし」と申出たので即座に拒絶したが、右同様の者が近郷に潜伏の模様にて、関宿の防備をかためたく、右許容されたし。
『関宿志(奥原謹爾著・関宿町教育委員会発行)』
と防備を固める許可を新政府軍に願い出た上で、さらに新政府軍を少数なりとも関宿に派遣して欲しいと要請している。主戦派への警戒と言うよりは、新政府軍を城に入れる事で、藩内の佐幕派を押さえ込もうとした策にも見える。新政府東海道軍は、これを了承し官軍を差し向けるので関宿藩も協力するようにと命じた。
ところが、これを杉山が関宿城に帰り伝えると、藩内佐幕派が反発して大荒れになった。恭順を断固拒否する佐幕派は、関宿藩を脱走して旧幕脱走軍に合流する事を認めろと要求し出す。関宿藩は、彼らの説得を諦め、「官軍に捕まっても関宿藩士である事を言わない」という条件を付けて、彼らの脱藩を認めている。『関宿志』では、
仝年四月十九日 旗本並に会津藩の脱藩者約千五百人は、岩井駅(現在の茨城県岩井市)に屯集し、使者をもって、明二十日、我等関宿城下を通過するにつき、人馬継立(宿送り)の用意ありたし、と申し入れてきた。この為藩内は又々藩論が紛糾し、一.この脱走者は徳川家に対する報恩の義兵であるから積極的に協力すべし、二.この脱走者通過の際は拱手傍観の態度がよい、三.関宿藩の総力をあげて利根川沿岸に於て反撃すべきである、等々議論百出して収拾がつかない。
しかるに、この日の午後、薩摩藩の伊地知正治、野津七左衛門が兵二百人を率いて来城したので、家老杉山対軒は急遽出頭し、会津脱走者の要求及び藩内の状況を陳述せしに、伊地知正治より「明朝、岩井駅に進撃すべきにつき、関宿藩に於いても利根川筋の警戒にあたるよう」指示された。対軒は、この指示に副うため、佐幕論者の強硬な反対をおさえて、川筋に警戒の兵を配置した。
『関宿志(奥原謹爾著・関宿町教育委員会発行)』
と書かれてあり、会津脱藩者の申し入れから藩内紛糾が再燃し、新政府軍の兵を入れる事で、藩内をまとめていった様子がわかる。
この中で出てくる会津の脱藩者約千五百人というのは、岩井に集まった旧幕脱走軍の事で、全員が元会津藩士ではない。『茨城史林第三二号(茨城地方史研究会編)』に掲載された論文『岩井戦争にける旧幕府軍についての考察(あさくらゆう著)』によると、誠忠隊、忠義隊、純義隊、回天隊、五番〜九番隊の五つの隊に分けられていたという。彼らは当初、大鳥圭介の幕府伝習歩兵脱走部隊と合流していたが、身分や意見が合わなかったらしく、独自行動を取った部隊とされる。この内、会津藩色が濃い部隊が純義隊だ。
「純義隊」は渡辺綱之助が結成した部隊だ。渡辺自身は元会津藩士で本名を小池周吾という。戊辰年前後に幕臣として登用され、変名した人物だ。
渡辺に限らず、元会津藩士が幕臣に登用された事例は多く見られ、いずれもその場合は会津藩時代の名を用いずに新たな名前を用いている。会津藩田島陣屋御蔵入奉行江上又八の息、太郎が秋月登之介の変名を用いた事例が挙げられよう。
隊の構成は旧会津藩士よりも外国奉行別手組の有志や講武所砲術師範役吉田直次郎といった、幕臣を中心に構成されている。
『岩井戦争にける旧幕府軍についての考察(あさくらゆう著)』
あさくら氏は、同論文の中で十九日の先鋒は純義隊だったとし、関宿藩領岩井へ宿陣したと説明。関宿藩の佐幕派と連携し、城を奪って籠城するつもりだったと考察している。この事は『函館毎日新聞』明治四十五年二月七日の号に掲載された連載史料『天獄記・純義隊戦記』に記されており間違いなさそうだ。この史料によると
十九日純義隊先鋒にて同處出發五六里にして關宿領岩井町に陣す、關宿へは三里明日は城を襲ふの手筈なり(中略)此の時會藩の森何某なるもの大砲方なりしが胸を討れても猶屈せず氣を励まし三四回砲發して遂に死す。會の捕直江兵を率ゐて追撃す、豈に圖らむいや敵の飛彈胸中を三發一度に貫かれ、殘念なりと罵りて我刀を抜き自ら首をかき切て死せり
『天獄記・純義隊戦記』より
と記されており、岩井の戦いで、元会津藩士数人が戦死しているようだ。
このあさくら氏の説明を元に考えると、純義隊の中の元会津藩士が、関宿藩との交渉を行ったと考えられる。関宿藩の言う「会津藩脱藩者」が、彼らである事は間違い無さそうだ。装備も鎧や刀槍ばかりの古風な装備しかもっていない。
結局、この部隊は岩井戦争で伊地知正治の新政府軍と戦闘に突入、敗退することとなる。これで関宿藩の内紛も収まるはずだった。ところが藩内佐幕派は、岩井の戦いで新政府軍が負けたと吹聴。旧幕府軍が城を襲う前に脱出し、江戸の藩主を護衛しようと大義名分を唱えて江戸藩邸に向かった。そして、幼少の藩主久世広文を奪って、反明治政府の狼煙を上げてしまう。
藩内尊皇派は愕然となり、再び新政府に泣きついた。この件に新政府も乗り出してきたのだが、藩主奪還は上手くいかず、とうとう上野の彰義隊に逃げ込まれてしまう。彼らは彰義隊の一部隊として迎えられ、藩主を隊長とする部隊を結成、上野戦争で新政府軍と徹底抗戦する事になる。
関宿藩の内情がどうであれ、現役藩主が主戦派に協力して新政府に反抗した事は事実であり、減封処分を受けた。
結城藩と関宿藩の件に、会津藩が介入している事実は、これまで説明したように新政府軍が完全に把握している。この時期の会津藩国元では、藩主松平容保が謹愼しており、恭順の道を探していた。そんな時期に、こうした行動を取っていた会津藩士は、以外に多そうである。
結城藩や古河藩の場合は、堂々と会津藩士と実名を名乗って交渉を行っていた。関宿藩との交渉では、一応会津脱藩と名乗っていたが、その脱藩も江戸開城前後の時期であり、そうした行動を会津藩が行っている事は、前橋藩ら江戸城内の恭順派からの情報で、新政府軍は把握済みだ。
なによりも会津脱藩だといっても、徹底抗戦を唱えている以上、会津藩との関係を疑われても仕方がない。あまりに軽率な行動だと言わねばならない。こうした会津藩士たちの行動は、ついに新政府軍を激怒させる事になる。
宇都宮攻略戦と会津藩
旧幕脱走軍最大の勢力を誇ったのが大鳥脱走軍だ。総勢三千から四千と言われている。この大鳥軍は前軍、中軍、後軍の三軍編成をとっているが、その前軍が丸ごと会津藩不正規戦部隊と私は見ている。
まず前軍の総指揮官になったのが秋月登之介で、本名は会津藩士江上太郎だ。副隊長はご存じ新選組鬼副長土方歳三である。
江戸で幕臣に偽装し、西洋兵学を習った会津藩士たちは、別伝習隊という部隊を編成した。この別伝習隊の他、立見鑑三郎がいる桑名士官隊、そして新撰組残党、大鳥伝習歩兵から第一大隊を加えて前軍が形成されている。人事も部隊も会津色が非常に濃い。
この編成には、大鳥の配慮がある。徳川家が恭順している以上、補給のアテがない。期待できるのは会津藩であり、それを考慮に入れての編成なのだ。
徳川家を中心に戦略を練る大鳥と、会津藩を中心に動こうとする秋月らは、度々作戦や方針で対立した。果ては宴席で、上席に秋月と大鳥どちらが座るのかで喧嘩にまでなっている。この部隊が、宇都宮を目指して北上を始めた。
宇都宮藩もまた、藩内で尊皇派と佐幕派に別れて分裂していた。そして関宿藩の尊皇派と全く同じように、新政府軍を城下に引き入れ、藩内佐幕派を黙らせようとする。
『復古記』掲載の『總督府日記』によれば、三月三十日に宇都宮藩より縣勇記がやってきて「會賊備中高松父子、桑賊等、宇都宮城を襲ハントスル勢ニ付、援兵願度旨也、夜五ツ時、菅沼勘介参上、宇都宮迫近ニ付、援兵急々願度旨也。」と報じ、援軍要請を行った。特に縣勇記は嘆願書を持参しており、その内容を読むと、会津藩に異常な警戒心を持っていた事がわかる。
宇都宮藩縣勇記嘆願書、
近頃ニ相也、桑名之人、其他江戸歩兵之内、奉對 官軍大不敬仕候者、或水藩重臣之市川三左衛門之徒ニ至迄、領内ニ屯集爲致候風説相聞、近來ニ相成、宇都宮舊領、當時分家、大和守領分高徳村、大原村等ニ人數差出、日光山守衛抔ト唱、日光山今市宿ニ多人數入込、剰秋元但馬守、日光ニ差置候大砲借受候趣風聞モ有之、猶又今市宿蓄穀數百俵、俄ニ日光山ニ引上候抔、趣意不相分處置仕、近日下總結城城ニ一戰之砌モ、纔之人數之由ニ御座候得共、會藩之士加勢トシテ、江戸彰義隊士ト同様一戰之上、城内ニ入り、今以罷在候趣相聞候儀(後略)
『復古記第十一冊(東京大学史料編纂所編・マツノ書店発行)』収録『復古外記 東山道戦記』
この嘆願書が出された三月三十日から検討してみよう。江戸歩兵や桑名之人とは、大鳥脱走軍全軍の事だと思う。大鳥達が脱走したのは四月十一日だが、それ以前から伝習歩兵以外の幕府歩兵が脱走が相次いでおり、彼らは最終的に大鳥軍へ合流している。結城城が水野勝知に攻略されるのが三月二十五日で、新政府軍の祖式が結城城を奪還したのが四月五日だ。桑名之人というのが謎である。桑名藩の抗戦派は、江戸に残って旧幕陸軍と行動を共にしていた。脱走するのは四月になってからになる。桑名藩主松平定敬は、それより早く江戸を退去して越後柏崎に向かっていおり、家臣達も江戸に残留しない者は、陸路で柏崎に向かっていた。こうした桑名人が行き交うのを怪しんだのかも知れない。
ともかく縣は、この嘆願書の中で会津藩が暗躍しているという噂を気にしているようだ。宇都宮藩は会津藩と国境を接しており、かつ日光には慶喜の女房役だった板倉勝静が謹慎していた。会津藩正規軍が国境を固めたのは二月末頃からで、宇都宮藩が会津軍の圧力を感じていても不思議ではない。
大鳥脱走軍は、日光に向かうべく進軍していたから、北から会津、南から大鳥軍と挟撃される形になる。しかも藩内佐幕派が、こうした事実を背景に宇都宮に籠城して新政府と対決すべしと捲し立てたから、尊皇派の縣としては必死の歎願になった。早くも結城戦争に会津藩が関わっている事を知り、会津藩が旧幕府軍と連動し、宇都宮に攻めてくるかも知れぬと考えたようだ。
縣の嘆願書の後半部分で、彼は新政府を説得する為に、会津軍が本気になれば、軍備の弱い宇都宮城は落ちてしまう。そうなれば、近隣諸藩は皆会津を恐れ、会津藩に味方することになる。そうなれば、新政府軍にとっても重大事だと宇都宮城の重要性を説いた。
新政府東山道軍もこれを放ってはおけず、四月二日に香川敬三隊を宇都宮に派遣した。香川隊は二手に分かれて宇都宮に向かっている。香川隊の方は、途中で近藤勇を捕縛し、祖式隊は、結城藩落城の知らせを受けて奪還したりした。そして彼らは、四月六日に宇都宮城に入城している。
宇都宮にしろ結城にしろ、目的は藩内抗争の鎭定だから、総兵力二五〇余人と小勢力だ。ところが、四月十一日に大鳥圭介率いる伝習歩兵が脱走し、近隣の旧幕脱走軍を糾合、総勢三千から四千に膨れあがった事を知って、香川敬三が慌てた。
小山で大鳥隊と激突するも、新政府軍は小勢である。完全試合に持ち込まれて大敗北した。とても太刀打ちできない。香川は援軍要請の至急報を江戸に打診し続けた。この事実を知った新政府軍が青くなる。三千などという兵力は、中規模藩の出兵能力に匹敵する。しかもその主力は、仏式調練を受けた旧幕エリート伝習歩兵隊なのだ。
總督府日記ニ云、四月十七日、酉刻宇都宮ヨリ香川敬三ノ報知來ル、昨十六日午刻、小山宿ニ於テ徳川家來二千人計ト官軍戰爭、殊ニ苦戰之趣、八ツ時宇都宮ヘ申來候間、香川敬三、御旗ヲ報シテ出兵ニ相成候、祖式ハ臥病於結城城下甚難儀ナリ、イカリ宿ニ會兵屯集相應スルノ勢、旁以不容易ニ付、薩、長、大垣之兵ヲ操出シ呉候様トノ趣ナリ、
十七日、亥刻、小山驛ヨリ平川和太郎報知來ル、昨十六日九ツ時頃、小山驛ニ於テ草風隊ト唱フ賊徒ト一戰、勝敗不決、互ニ引分レ、一里半計相隔對陣、賊三百人計、官軍彦根一小隊半、壬生(原註、鳥居丹波守ナリ)、大砲二門、笠間(原註、牧野越中守ナリ)、槍隊三十人計ト戰フ、身方六人即死、敵ノ死傷、數多ニ有之、會ノ字ノ袖印之者モ七八人斃居候、此夜、賊ハ生駒宿ニ陣ス、小山ヨリ三里計相隔候諸川ト云フ處ニ、賊千三百人計屯集、官軍ハ小山並上新田ノ原ニ野陣ス、依之、寸刻モ早ク援兵操出シ呉レ候趣ナリ、
(中略)
戌刻、彦根藩一人、香川之書ヲ携ヘ歸報ス、其書曰、昨十七日モ及戰爭候處、何分ニモ官軍小勢不能克、遺憾ナガラ一先宇都宮ヘ引取リ候、此上ハ死守防戰之覺悟ニ候、早速御援兵無之テハ、宇都宮城モ保ツコト不能候
(後略)
『復古記第十一冊(東京大学史料編纂所編・マツノ書店発行)』収録『復古外記 東山道戦記』より抜粋
香川敬三の悲鳴のような援軍要請を受け、新政府軍は四月十七日に河田佐久馬の第一救援隊、翌十八日に薩摩藩の伊地知正治率いる第二救援隊二百八十人を派遣。またその翌日十九日に伊地知隊の増援隊として、大山弥助(巌)と野津七次(道貫)の二百名を出発させ、それでもまだ心配で、二十日には宇都宮に向け彦根一個小隊を追加派遣した。戦力の逐次投入というマズい方法をとっており、その狼狽振りが見えるようだ。とにかく急ぎ掻き集められる部隊を集め、集結完了しだい宇都宮に向けて出発させている。
この内、十九日に伊地知隊が関宿藩に立ち寄り、二十日の岩井の戦いで純義隊などの旧幕脱走軍を撃破した。
それにしても、大鳥軍に参加した会津兵達もまた迂闊過ぎだ。先の新政府軍の報告内容を見ると、「敵ノ死傷、數多ニ有之、會ノ字ノ袖印之者モ七八人斃居候」との報告がなされている。変名まで用いて徳川家臣に偽装していたのに、彼らは袖口に会津藩所属を示す印など付けていた。これでは会津藩兵だとバレてしまう。
さらに会津藩正規軍の動きも怪しさを増していた。会津国境を警備していた日向内記(後に会津白虎隊士中二番隊の隊長となる)の会津大砲隊が、国境を越えて宇都宮領内に侵入、今市に駐屯したのである。会津の越境行動を知った香川達新政府軍は、大鳥脱走軍と結託していると考えたし、事実そういう報告を新政府軍上層部にした。これでは会津藩主松平容保が隠居謹愼したり、家老達が恭順歎願しても新政府軍が信用するはずがない。
十九日、大鳥脱走軍前軍が宇都宮城を攻撃した。援軍が間に合わなかった香川敬三は、兵力が少なすぎて宇都宮城ので防戦は無理と判断。宇都宮藩藩主家族に脱出命令を出し、城を放棄して撤退せざるを得なかった。この戦いで、会津藩は参戦していないと『会津戊辰戦史』の著者、山川健次郎は説明している。だが凌霜隊の記録『心苦雑記』には、
凌霜隊にハ今市宿にて会藩日向内記隊エ合兵して都合百余人、二十一日下総国安塚と申す処にて戦争之有り、援兵の為罷越、貫義隊と合兵して、都合三百余人出張す(中略)よくよく安塚村近辺エ参り候処、最早、敵味方共引揚の跡にて余儀無く、宇都宮をさして日暮に城下エ到り
『「心苦雑記」と郡上の明治維新(橋教雄著・八幡町教育委員会発行)』
とあり、凌霜隊と会津藩日向内記隊が合流して安塚戦争に参加しようしたが、時すでに遅かったので宇都宮城に入った様子が書かれている。さらに、
五つ時過城下材木町と申す江戸街道の方ヨリ敵兵押来たり発射す、味方番兵ヨリも大小砲発放す、敵は昨夜中、密かに潜伏と相見へ、薩州・土州・宇都宮・壬生の兵凡そ五百人、味方は七連隊・八連隊・草風隊・貫義隊・会藩日向内記隊・原隊・当藩凌霜隊都合大概千三百人、城中陣営ヨリ所々エ押出し大戦争と相成る(中略)凌霜隊ニは屯所より少し脇、大手の西エ押出し発射す、日向隊にも此辺ニて戦ふ事暫くなり
『「心苦雑記」と郡上の明治維新(橋教雄著・八幡町教育委員会発行)』
と続き、二十三日の宇都宮城攻防戦の際に、会藩日向内記隊と共闘したとある。また大鳥圭介の『南柯紀行』にも、宇都宮城に会津藩大砲隊が入城し共闘したと書かれてあり、会津藩がこの宇都宮戦争に関わっていた事は間違いない。何よりも宇都宮に行けば、会津藩士戦死者の墓が今でも大切に供養されているのだ。
現在の所、最も有力な説は日向内記自身は、大鳥圭介軍の宇都宮攻撃を支援すべく進軍したが、大鳥達がいち早く城を落としたので間に合わず、今市に留まった。その一方で、日向内記配下の一部部隊が宇都宮城に入り、大鳥軍と共闘したというものである。日向内記が参戦したか否かは置くとしても、宇都宮戦争で会津正規軍が参戦した事は間違いない。それは新政府軍の方でも確認されてしまっていた。
会津藩を征討せよ
結城藩や関宿藩、宇都宮藩の要請を受けて兵を送っていたのが、明治政府東山道総督府軍だ。宇都宮藩からの通報と結城戦争の報告を受け、次のような申請が、東山道軍から大総督府へ提出された。
(江戸)城明渡シ候上ハ、大總督宮ニモ御入城被遊、民政軍務諸事御指揮被遊候ハヽ、諸軍之氣モ奮起可仕、万民之心モ安緒可仕義ト奉存候、何卒速ニ御入城ニテ、諸道之總督一同被召寄、大御軍議被爲在候様仕度候、尤江戸御處置相定リ候上ハ、迅速會城ヘ進軍可被仰出儀ト奉存候、右會賊御征討ニ付テハ、陸路ヨリハ勿論、海路ヨリモ御進軍被遊、軍艦之儀ハ徳川ヨリ差出候品ヲ御用ヒ可相成哉ト奉存候、其節ハ當道ニ於テモ、右軍艦拝借ニテ一手之人數、海路ヨリ爲進候様仕度、此儀ハ兼テ願上置候、會賊之如キハ實ニ慶喜ノ逆謀ヲ助ケ候罪魁ニテ、徳川氏之爲ニモ大不忠之者ニ候間、斷然御追討不被遊候テハ、、滿天下之士、向後、朝廷之御爲盡力仕候者ハ有之間敷ト奉存候、元來奥羽之義ハ、當道之管國ナカラ、別段鎮撫使被差立候上ハ、兎角申上候モ如何ニ御座候得共、見込之處一應及言上候、右等之義ハ、参謀諸公夫々御僉議モ可被爲在候、黄口之小兒謾リニ建言仕候段、僭越不敬、罪當万死候儀ト奉存候、誠恐誠惶頓首謹言。
四月十一日 八千丸
具 定
大總督府 参謀御中
總督府諸達留
『復古記第十一冊(東京大学史料編纂所編・マツノ書店発行)』収録『復古外記 東山道戦記』
これは、東山道軍が大総督府に対し江戸城の接収が終わったら、速やかに新政府全軍を会津征討に向かわせるべきだと提案した意見書だ。日付が四月十一と記されており、大鳥軍が江戸を脱走した日に書かれている。
この日までに入っていた会津関連の事件と言えば、宇都宮藩の縣が差し出した救援要請と結城戦争だ。さらに文中「此儀ハ兼テ願上置候」とあり、この日以前にも、会津攻めを進言していたようである。
新政府東山道総督府の主力は薩摩藩と土佐藩で、長州の主力は越後軍の方に廻っていた。会津に直接恨みをもっていないはずの薩摩土佐だが、早い段階から会津を警戒していたのである。
彼らは会津攻めに関しては、かなり遠慮がちに意見具申した。それもそのはず、会津征伐担当は奥羽鎮撫総督府の任務で、東山道総督府は管轄違いなのだ。だから本来会津征伐の事は彼らが言うべき事ではなかった。それでも強く進言したのだから、それなりの理由があったと思われる。
会津攻めを強く進言した四月十一以降、会津藩の不穏な軍事行動は次々に明るみになった。小山の戦いで、會の字がある袖印を付けた兵士が敵にいた事、宇都宮戦争での会津藩正規軍の参戦、詳しく取り上げなかったが安塚の戦いでは、會の旗が新政府軍によって分捕られている。これらは、会津藩がおとなしく恭順の態度でいた事を否定し、越境作戦を行って抵抗していた事を示す証拠となった。
徳川家の恭順以降、旧幕脱走軍には補給のアテがない。しかし、大鳥圭介脱走軍は会津を頼り、会津藩も彼らに補給を行って長期戦闘を可能とした。
宇都宮藩が警戒進言した会津藩と旧幕軍の連携が、現実のものとなったのである。新選組の永倉新八が、近藤勇と意見割れを起こし分離したが、その原因も会津を頼るか否かという事だったし、結城戦争のところで出てきた天野八郎もまた、「幕臣はアテにならない。頼るべきは会津藩」と会津藩に期待を寄せていた。
このように徳川家恭順以後、旧幕府軍主戦派が抵抗し続けた背景には、会津藩の存在があったからだと思われる。
つまり、会津藩は徳川宗家の代替として、彼らの精神的支柱となっていた。
そうした佐幕主戦派の希望を察知した明治政府軍が、彼らの抗戦意欲を失わせる為に、会津藩の討滅が必要だと考える事は自然な事だった。
奥羽鎮撫総督府と会津死謝命令
さて、ここからが本題だ。これまで説明してきた事柄を念頭に置きつつ、会津戦争の引き金を引いた奥羽鎮撫総督府と会津藩の動きを追ってみる。再び鳥羽伏見の戦い直後に話しを戻そう。
慶応四年一月十五日、徳川慶喜追討が発せられ、奥羽諸藩にその事が伝達された。十七日、仙台藩に会津藩追討の命令が下されている。
会津容保今度徳川慶喜之叛謀に與し、錦旗に發砲し、大逆無道、既に可被發征伐軍之處、其藩一手を以て、可襲撃本城之趣出願、不失武道、奮發之條神妙之至、御満足に被思召候。依之願之通被仰附候間、速に可奉追討之功之旨、御沙汰之事。
『近世日本国民史第七十一冊(徳富猪一郎著・明治書院発行)』より抜粋
命令は、仙台藩が会津征伐に名乗りをあげたので、明治政府が神妙な心がけだと言って許可を与えたという形になっていた。これに驚いた仙台藩家老但木土佐は、会津征伐を願い出た覚えがないといって、文面の変更を要求する。それが認められ、後に改めて「仙台藩一手で、会津を征伐せよ」と命じられた。
なぜ仙台藩が願い出た事になっていたのかという点について、現在もっとも知られている説が、明治政府の横暴な姿勢から、仙台藩を無理に会津に攻め込ませようとしたというものだ。これは『仙台戊辰史(藤原相之助著・マツノ書店発行)』の記述から語られた説である。ところが、実際には仙台藩側から願い出ていた。
近世日本国民史の著者徳富蘇峰は、一月十六日付の大久保利通から蓑田伝兵衛にあてた書簡を示し反論している。
一.仙臺も近々上京と申す事候處、重役上京、會津征伐一手に被仰付度願出申候。關以西は大概不日に一定可致と見込候得共、關以東甚六ヶ舖事候處、仙臺より右様願出、官軍に屬し候得ば、別て大幸之史第、巣穴を砕候儀も安かるべく、何分一體御治定の上、征東之儀にも及可申候。
『近世日本国民史第七十一冊(徳富猪一郎著・明治書院発行)』より抜粋
「關以東甚六ヶ舖事候處、仙臺より右様願出、官軍に屬し候得ば、別て大幸之史第」という部分を読むと、関東より東は難しいところ、仙台が願い出て官軍に属する事は、大幸のしだいだと手放し喜んでいる。仙台に會津征伐を押しつける謀略であったなら、こんな文章にはならないだろう。
『奥羽越列藩同盟の基礎的研究(工藤威著)』によれば、但木土佐と三好監物がこれを願い出たという。鳥羽伏見の戦いを目の当たりにして、即座に「會津征伐は仙台に」と願い出たのである。ところが、これは彼らの独断で仙台藩本体はまだ意志を決定していなかった。それで但木土佐が慌てて訂正を申請したのだろう。
仙台藩もまた、藩内が二派に割れていた。尊皇派は、会津征討を行って仙台藩の安泰を謀るべしと言い、佐幕派は徳川家に何の罪があるのか。今回の事は薩長の謀略だと言い出す。結局、仙台藩は折衷案を取り、内乱を起こすことは良くないと平和路線を模索した。そこで戦争を止める為に、仙台藩は嘆願書を京都に出そうとする。その使者が京都へ着いた時には、東征軍は関東に向けて進軍を始めていた。今さら建白書を出しても無駄だと判断した使者は、建白を行なわなかったのである。こうした仙台藩の行動は、明治政府の会津征討計画を根本から狂わせた。
二月九日、総督沢為量、副総督醍醐忠敬、参謀長州品川弥次郎、薩摩黒田清隆とする奥羽鎮撫総督府が発足する。ところが、この人事が二転三転した。原因はたぶん会津処分だ。
奥羽鎮撫総督府は、手始めに会津藩と庄内藩の処分をどうするのか、岩倉具視に質問した。岩倉が大総督宮つまり有栖川宮熾仁親王に聞けと言うので、彼らは大総督府に質問状を送っている。それに対する答かこれだ。
○手状之趣令披見候、彌御安全珍重奉存候、然ハ松平肥後、酒井左衛門謝罪之節、所置之事令承知候、於會津ハ實ニ以死謝之他無之、松山、高松杯同日之論ニハ無之候、於酒井ハ松山、高松同様之御取計可存候依テ如此候也。
二月十七日 大總督
澤 三位 殿
醍醐 少將 殿
東征総督記征討記録
『復古記第十二冊(東京大学史料編纂所編・マツノ書店発行)』収録『復古外記 奥羽戦記』より抜粋
これが有名な「會津死謝」命令である。この命令が出された後、奥羽鎮撫総督府の人事が突如入れ替わった。会津征伐より奥羽鎮撫を優先すべきだという品川や黒田は参謀から外れ、新しく世良修蔵、大山格之助が参謀となる。総督も九条道孝となり、澤は副総督に、醍醐は参謀に、一段づつ降格となった。この事から、会津武力征討強硬派の人事に変更されたと推測できる。
この命令の中で、異様に感じる部分は、やはり「於會津ハ實ニ以死謝之他無之、松山、高松杯同日之論ニハ無之候」という所だ。松山、高松藩など他の賊軍藩と会津藩は違う。会津藩は死謝のほか無いというのだ。会津藩だけが特別扱いされているのは何故か?。
そこに福井藩の徳川救済運動の影響が出ているのではなかと私は考える。先にも述べた通り、福井藩は徳川慶喜に罪が有るとはいえ、慶喜を惑わし戦争を起こしたのは会津桑名二藩だと運動していた。朝廷内でも慶喜寛大論が叫ばれた訳だが、それは主犯を慶喜から会津桑名二藩に転嫁する形で行われたと私は考えている。つまり、会津桑名二藩だけは、特別に罪が重いという訳だ。
これまでは会津藩を特別に敵視した長州藩が、この命令の背後ににいると考えられてきた。私は、これに対し薩長だけでなく、明治政府内にいる者であれば、誰が会津死謝を唱えても不自然ではなかったと思う。だから本来、この死謝の中には桑名藩も入っているはずだ。しかし、桑名藩は一月二十八日に無血開城恭順が成立していた。二月十七日に出された命令に入っていなくても不自然ではない。
では誰が「会津死謝」を命令したのだろうか?。大総督府の人事を見てみよう。大総督は有栖川宮熾仁親王、上参謀に正親町公董、西四辻公業。以上は全員公家で、まぁお飾りである。下参謀に薩摩藩西郷隆盛と宇和島藩林道顕が選ばれ、実質的には彼らが指揮を取った。宇和島藩の林に主導権があるとは思えないので、西郷隆盛一人が明治政府全軍を率いたといって良い。
『戊辰役戦史(大山柏著・時事通信社発行)』によれば、奥羽鎮撫使からの質問状が出された十六日は、大総督府の有栖川宮は大津にいた。西郷隆盛は、遠く名古屋に入っており、大総督府を留守にしていたという。だから、「会津死謝」の命令を出せた大総督府下参謀は、宇和島藩の林だけということになる。宇和島藩の林が、会津藩を特別恨んでいたとは考えられない。従って、やはり福井藩の徳川救済運動で会津藩が特別視され、会津藩になんの感情も持っていない宇和島藩士の林がその影響を受けて、深い考えも無く「会津死謝」を命じてしまったというところではないだろうか。
会津藩の謝罪
二月十一日、松平容保は東叡山寛永寺の輪王寺宮を通じて、哀訴状を差し出した。次いで会津藩家老田中土佐、神保藏之助が、尾張肥後高松等の藩を頼って謝罪歎願を行う。内容は、京都守護職拝命以来、会津藩は勤王に励み御宸翰まで賜った事、徳川慶喜が朝命を受けて上洛の途に就き、会津藩はその先供として上洛しようとした所、相手側から発砲された為、武門の習いとしてやむを得ず応戦したといった内容である。この会津藩の歎願は、歎願仲介を依頼された全ての藩で黙殺された。
明治政府は、会津藩が表面上で恭順歎願をしつつも、実際は江戸城内で徹底抗戦を叫び、江戸籠城を徳川家に薦めている事を知っている。また、確かに慶喜には上洛命令が出されていたが、会津藩には帰国命令が出されていた。朝廷から帰国を命じられている会津藩が、この命令を無視して徳川家の先供命令を優先させたというのでは、朝廷に対する謝罪歎願として成立していない。これでは、会津を庇えないと諸藩が考えるのも無理ないだろう。二月頃の会津の恭順歎願はこうして失敗した。
奥羽鎮撫総督府の迷走
三月二日、奥羽鎮撫総督府は東北に向けて出発した。その兵力はわずか五百四十六名だったという。天童藩重臣吉田大八が教導となって、海路陸奥東名浜に十八日に到着する。
史料によって奥羽鎮撫総督府の総兵力は増減するが、総じて少兵力だ。これは、明治政府軍が全力で江戸攻めに集中していた為である。奥羽に派遣できる兵力など無かった。だから大久保利通でさえ、在京の仙台藩士の「会津藩は仙台一手にて……」という申し出を聞き、手放しで喜んでいる。まず、ここに問題がある。この兵力は、最初から仙台藩をアテにして決められていた。それは但木土佐ら仙台藩士が、会津征伐を願い出た事に原因がある。もう後には引けなくなっていたのだ。明治政府は、当初の予定通り仙台藩一手にて、会津征討の実をあげようとする。一度は協力的な発言をした仙台藩に、過剰な期待をしてしまった訳だ。
ところが、その仙台藩は二派に分裂し議論倒れになっている。会津征伐を命令されたのが一月だが、二月に入っても藩内で揉め続け、奥羽鎮撫総督府が到着した三月になっても、方針が定まっていない。奥羽鎮撫使の世良や大山は、この仙台藩に失望を隠せなかっただろう。彼らが「ケツを引っぱたいてやらんと動かない」と考える事は自然で、口が開けば「早く会津へ攻め込め!」と叫んだという。
世良や大山に会津藩に遺恨が無いという訳ではない。当初、会津処分を巡って黒田と品川が対立し、人事問題に発展した。変わって「会津死謝」を念頭に選ばれた世良と大山なのだから、本人達も会津死謝を望んで、その指揮に当たったと考えるのが妥当である。だが、こんな要求を会津藩が受け入れる訳が無く、会津藩全藩士が玉砕を覚悟して抵抗する事が目に見えていた。そんな戦争に主力となって戦えば、どれほどの損害が出るか解らない。仙台藩が嫌がるのも当然なのだ。
奥羽鎮撫総督府の督促を受け、仙台藩も態度を明確にしなければならなくなってきた。だが、仙台藩の内部抗争は収まらず、小田原評定の様相を呈している。仙台藩内で会津征討論だったのが但木土佐、遠藤文七郎、三好監物、坂本大炊、松崎仲太夫、真田喜平太、安田竹之助らだ。対して反薩長を唱えたのが藩学養賢堂を中心とした人々で、その首魁が大槻磐渓、玉虫佐太夫、若生文十郎らで、會津征伐に反対する。
三好監物は、仙台藩と明治政府の間を取り持ち、鎮撫使到着後は何かと調整役になっていた。この三好が、仙台藩内部の反発から、弾劾状を出され失脚するという事態になる。これによって、鎮撫使と仙台藩の調整役が消えた。
仙台藩はこのような内部抗争を抱えながらも、鎮撫使の督促があるから形だけでも会津征討を行わなければならず、戦争準備を行って形ばかりの戦いを会津藩と繰り広げる事になる。
会津藩の武備恭順とは
会津藩の恭順の態度や抗戦意欲がどの程度有ったのか。実は私自身よく解らない。江戸から帰った会津藩主松平容保は、表面上隠居謹愼をして恭順の姿勢を保った。その一方で、軍備を古式の長沼流から仏式に替え、藩軍編成も洋式化する。横浜や新潟で洋銃を買い込み、旧幕脱走軍まで支援している。
つまり恭順を願う藩の態度とは、とても言い難い。勝海舟は、主戦派を江戸から追い出したが、会津藩はこうした主戦派を逆に会津へ呼び込んだ。会津藩側は、これを武備恭順と呼ぶ。
武備恭順の方向に藩を導いたのが、会津藩家老梶原平馬だ。彼は徹底した主戦派であり、薩長を一切認めない姿勢を取った。それこそ王政復古自体を認めていないから、今の朝廷は、薩長二藩の操り人形と見ている。頭を下げて謝罪するといっても、天皇ならまだしも薩長に頭を下げるいわれは無い。これが彼をはじめ会津藩士たちの心情だったろう。薩長側が、会津藩が納得できるところまで妥協するなら謝罪するが、一方的に朝敵と叫んで討伐するなら受けて立つ。というのが彼の言う武備恭順だった。だから和戦両用の策を立てねばならず、片手で恭順の態度を示しつつも、片手で会津藩の戦力増強を行っている。
しかし、この梶原平馬の姿勢に大きな問題がある。彼を始め会津藩士達の言う薩長側の妥協とは、つまり王政復古の取り消しに他ならない。それは薩長側に王政復古が不当であった事を認めさせる事で、そんな事は無理なのだ。だから会津藩の恭順は、とても恭順とは言えず、実質的には徹底抗戦だった。
しかし、明治政府となった薩長を相手に戦って勝つ見込みなど無い。会津藩と旧幕脱走軍だけで、江戸を攻略し京都を落として天皇を奪還し、長州そして日本最南端の薩摩を壊滅させる事ができなければ、梶原平馬の方針は達成されない。ある程度、薩長側と妥協し、戦争回避の道を探るべきなのに、梶原は「歎願書」という安易な言葉だけを出し、自らは積極的に妥協点を模索しようとはしなかった。
会津藩と仙台藩の接触
この会津藩に、仙台の使者が来たのは三月十五日の事だ。『仙台戊辰史(藤原相之助著・マツノ書店発行)』によれば、仙台藩士玉虫佐太夫と若生文十郎は、米沢藩も戦争を望んでいない事を確認し、次いで会津藩主松平容保に謁見。説得に取りかかっている。
「仙臺藩ノ厚志ヲ感謝スル旨ヲ慇懃ニ延ベ、必ズ仙臺藩ニ背カザルベキ旨ヲ反復陳謝セラレタリ」と語ったという。だが彼らは「直チニ面縛シテ降ヲ乞フガ如キ屈辱ニ忍ビザル模様アリ、玉虫若生等モ亦見ル所アリテ深クハ降ヲ勸ムルニ忍ビズ、其ノ意嚮ヲ確カメタルノミニテ歸レリ」と会津藩の心底を確認し、戦争回避は不可能ではないという手応えを得たところで満足している。この三日後の十八日に、奥羽鎮撫総督府が陸奥東名浜に上陸し、仙台藩の動きが慌ただしくなった。
四月に入って、仙台藩が行った戦争回避の為の嘆願書が、大総督府に届く。この歎願は、仙台藩に会津征討が命令された直後に書かれたもので、一端は京都まで持って行ったものの、時すでに遅しと提出をしなかったものだ。使者が白石城にいる仙台藩主伊達慶邦に、その事を報告すると慶邦は激怒した。
再び使者を立てて提出しようとするが、その内の一人が発狂し、三度目の使者を出す。四月六日に、ようやく江戸の大総督府に提出したのである。大総督府は、この嘆願書は奥羽鎮撫総督府へ差し出すべきものだとして却下した。江戸開城が迫ったこの時期、大総督府は会津派兵を検討していたのだ。
先刻は難有頂戴仕候。御厚禮申上候。陳者木戸よりの書面得と拝誦仕候處、至極尤の論にて、御入城に相成候上、會津追討に引分候て人數を増し候儀當然の事ながら、只今戰陣中に、早く其節の用意に軍勢を繰出され候御手筈出來候はヾ、無此上上策かと奉存候。第一賊膽を挫き候のみならず、朝廷の確乎たる處の御居り相立候廉相顕れ、御油斷不被為在、次第々々に、勢ひ相増候處有之、大に力強く相成候はんと奉存候間何卒先の機會を御待なく、御操出し相成候様御座候はヾ、大総督邊の御力を被増候のみならず、官軍大に勢を得候はんと奉存候間、宜敷御盡力可被下候。此旨乍忽卒御報迄、荒々如此御座候。
頓首。
三月二十一日 西郷吉之助
大久保利通様
『大西郷全集第二巻(大川信義編・大西郷全集刊行会発行)』
この文書は、三月二十一日の段階で西郷隆盛に會津征伐の意志があった事を示している。長州藩の木戸こと桂小五郎から手紙を受け取った西郷は、木戸の意見に賛同し、会津への増兵を前向きに考えている事を大久保に知らせた手紙だ。
勝から「慶喜妄挙を助け候面々」への寛大な処分をと言われた西郷だが、会津藩の武備恭順は曖昧で、その真意が見えない。新政府軍の断固たる態度を見せる事で、敵の膽(胆)を挫く、つまり抗戦意欲を砕けると西郷は考えたのである。ただし、木戸や西郷が意図している事は、あくまでも相手の抗戦意欲を削ぎ、屈服させる事だった。それは武力征伐を意味しない。なぜなら会津藩が戦わずに降伏しても、旧幕府軍の継戦意欲は失われるからだ。重要な事は、会津藩を明治政府に従わせる事であり、会津藩を滅亡させる事ではないし、無意味に会津藩士の命を奪う事でもない。兵力の増強は、戦わずして勝つ為にも必要な事だった。
ところが、奥羽派兵は大幅に遅れる事になる。江戸城接収した大総督府だったが、房総に徳川義軍府、北関東に大鳥圭介脱走軍、上野に彰義隊と旧幕脱走部隊の鎮圧で兵力が足りない。とても奥羽に増援など送れなかった。
大総督府の西郷から見れば、仙台藩の「お互い妥協し合っての和平路線」は手ぬるく見えただろう。こうなると一種のチキンレースになる。相手の兵力に恐れを無し、逃げ出した方の負けだ。西郷隆盛は、徳川家とのチキンレースに勝利して戦わずして降した。同じような事を会津にもしようとしたのかもしれない。ともかく、仙台藩の嘆願書は却下された。これを知った伊達慶邦は、しばらく無言になったという。この件に関して、奥羽鎮撫総督府はこう仙台に返答している。
有栖川(熾仁)総督宮へ建白申し上げ宮家に於て如何ように御承知なさるる共、予すでに奥羽総督に任ぜられて出張したる上は、和戦の権予にあり、しかる上は如何に他方へ周旋なさるとも詮なきことなり、もっとも有栖川宮にても御取受はあるまじき筋故早々会津へ討入るべきよう急がれよ
『東北戦争(山田野理夫著・教育社歴史新書)』
奥羽鎮撫総督府を無視して、大総督府へ直接交渉した仙台藩に対し、世良をはじめとした奥羽鎮撫使が、不快感を表したと言っていい。しかし、このメッセージにはもう一つ、重要な意味を持っている。それは九条総督が「和戦の権予にあり」と明言した事だ。会津藩と戦うも戦わぬも、奥羽鎮撫総督府に決定権がある。上位組織である大総督府ではないと言い切った。ということは、その大総督府から出されていた「会津死謝」命令は、すでに絶対命令ではなくなっていると判断できる。
会庄同盟成る
四月上旬頃の奥羽情勢は、世良と大山の強引な会津征伐路線に引っ張られた感がある。仙台藩の事情を一切考慮せず、ただ一方的に自分たちに従っていれば良いとする彼らの言動は、仙台藩を反薩長に傾けさせる事になった。
反薩長的言動を始めた仙台藩を見て、会津藩の方がその足下を見始める。態度を硬くすればするほど、仙台藩が動く。仙台藩が動けば会津藩の謝罪恭順条件は良くなる。図らずも西郷隆盛のチキンレースに、会津藩が乗った形だ。なんとか仲を取り持って平和的解決を願う仙台米沢藩は、たまったものではない。
四月九日もしくは十日、会津藩は戦力増強の手段として庄内藩を抱き込んだ。庄内藩もまた薩摩藩邸焼討事件で、薩摩藩から恨みを買っており、攻められる事を覚悟していた。渡りに舟とばかりに、会津藩の申し出を受けている。これにより会庄軍事同盟が成立した。
四月九日我が藩南摩綱紀、佐久間平介は喜徳(会津藩世子)の密命を帯びて荘内に趣き、援を請はんとして行地驛に至る、驛亭主人曰く、過刻荘内の使節大野興一左衛門若松に趣かんとして此の地を過ぎたりと、綱紀乃ち諏訪峠を越えて津川に戻り、大野に面して荘内の事情を問ひ、直ちに荘内に赴かんとするを告ぐ、大野曰く、寡君深意ありて不日に専使を發せん、余は今日貴藩に對し弊藩の敬意を表するの命を受けて來れりと、綱紀別れて荘内に赴く、至れば平介已に荘内の藩相石原平右衛門、松平權十郎等と會議し、會荘同盟し存亡を共にするの豫約成る、十日綱紀、平介、平右衛門の宅に至る、權十郎及び側用人山口三郎兵衛、菅秀三郎、國事掛和田助彌、本田安之助等先づ在り、是に於て愈愈同盟の約を結ぶ、權十郎曰く、會荘一致し然る後米澤を説き、米澤同盟せば仙臺は直ちに同盟せん、會津、荘内、仙臺、米澤同盟せば奥羽列藩の同盟ならん、然る後兵を進めて江戸城を以て本營となし、檄を天下に傳へば、兇徒を攘ひ君側を清め、手に唾して事成るべし、是れ寡君江戸に在る時よりの持論なり、故に密使を遣して貴藩に謀らしめんと已に菅秀三郎、本田安之助等に命ず、本田偶偶病に臥して發すること能わず遷延今日に及べり、今卿等來りて此の約成る何の幸か之に若かんやと、藩主酒井忠篤朝臣、綱紀、平介を城内に召し見て物を賜ふ、
『會津戊辰戦史(山川健次郎著・會津戊辰戦史編纂會発行)』
これは『會津戊辰戰史』で語られた会庄同盟の様子である。そして、たぶん会津藩が恭順を捨て、徹底抗戦、薩長排除の戦争を決意した瞬間でもあったろう。なぜならば、この会談の内容がそのまま軍事同盟である奥羽越列藩同盟の方針となっているからだ。彼らはこの後、米沢藩を説得しようとする。これを聞いた米澤藩主上杉斉憲は、会津藩主松平容保は謝罪謹愼し、米沢藩も仙台藩と共に会津藩へ寛大な処分をと周旋している。だから会津藩士たちも戦争回避の努力をして欲しいと彼らの要求を受け入れなかった。
だが、奥羽越列藩同盟の基本方針がすべて入っている会庄同盟が、このまま放棄されたとは思えない。米沢藩や仙台藩の佐幕主戦派と、彼らが秘密裏に結びついてた可能性が非常に大きい事を指摘しておこう。
会津藩は、着実に主戦論で藩論を固めつつあった。それを表に出しては、仙台米沢両藩を味方に引き入れられない。彼らの顔色を見ながら、表で恭順、裏で戦争の準備を始めていたのだ。
会庄同盟の使者は、会津藩世子松平喜徳の密命でこの同盟を成した。この喜徳は、当時まだ十四歳の少年である。藩の実権を握り、陣頭に立ったとは考えられず、その背後には松平容保がいたと見られている。つまり会津藩は、世良修蔵による恭順歎願の却下、世良暗殺を待たず、四月十日の段階で戦争を行うつもりだった。謝罪恭順の気持ちが無かった訳ではないだろうが、その努力を、ほとんどしていない。
仙台藩による会津救済運動
会庄同盟が成立した翌日の十一日、世良修蔵ら奥羽鎮撫使の圧力に耐えかねた仙台藩は、会津に向け出陣する事になった。このままだと戦争を回避できないことから、仙台藩は会津藩に若生を正使、横田官平を副使とする使者を立て、会津の恭順を加速させようとする。これは会津藩に対する仙台藩からの最後通牒でもあった。
仙台藩は、会津藩に三つの降伏条件を示している。会津二十八万石の削封、藩主松平容保が城外で謹愼する事、鳥羽伏見の戦い首謀者三名の切腹だ。首謀者三名の切腹は、第一次長州征伐の際に、禁門の変の責任を問われた長州藩が、首謀者三家老を切腹させた事を前例としたものと思われる。
会津藩内は、この条件を巡って大激論となり、なかなか答が出せない。白石城で、彼らの報告を待つ仙台藩主伊達慶邦は、さらに竹内千之助、佐藤周六ら4人を使者として会津に向かわせた。結局、会津藩は返答せず、仙台藩は会津領内に攻め込む事になる。だが、会津救済を諦めた訳ではない。戦争はあくまでも見せかけであり、対会津交渉は継続という形をとったのである。奥羽鎮撫総督府に極秘に進めなければならなかった所に、仙台藩の苦しさが滲み出ている。
仙台藩の和平交渉をよそに、江戸の大総督府に、奥羽鎮撫総督府世良修蔵からの援軍要請が入った。仙台藩が頼りにならず、その兵備も脆弱である事や奥羽鎮撫使直属の兵が少なく、会津征討が思うように進まないといった様子を知らせた内容である。この報告を受け、大総督府では本格的に会津征討に乗り出す決意を固めた。かくして十四日、薩長を始めとする十二藩に対し、会津出兵の命令が下る。だが、これをもって武力討伐決定と考えるのは早計だ。会津を降すとは、平和的降伏も含まれている。あくまでも世良の援軍要請に応じたものに過ぎない。
二十五日、ようやく会津藩からの反応があり、関宿という場所で仙台米沢会津三藩の会談が行われた。
關宿ニ於ケル談判
会津ノ使者ニ關宿ニ於テ應接セン爲、坂英力、但木土佐、眞田喜平太等ハ廿九日ヲ以テ出張、會津ノ使者五名ト米澤ノ大瀧新蔵、木滑要人、片山仁一郎等モ立會ヘリ、土佐曰ク此度謝罪降伏申シ入レノ上ハ開城ハ勿論首謀ノ首級ヲ差出サルベキカ、梶原平馬曰ク寡君城外ヘ謹愼ノ儀ハ無論ナレド首謀ノ首級ハ差出スヲ得ズ、其ノ故ハ伏見ノ役ニ關係ノモノハ大概戰死シ生殘レルハ一兩名ノミ、而モ是等ハ皆國家ニ忠ヲ盡セシモノナリ、若シ、其ノ首ヲ斬ランカ國内搖動シテ如何ナル變事ヲ生スルカモ知レズ、且ツ夫レ伏見ノ件ハ慶喜公一身ニ其ノ責ヲ負ヒ、謝罪歎願状ニモ「私一身ノ罪ニテ外將ノ誤マリニアラザル」旨ヲ記載シ朝廷之ヲ御受納相成リシ故、弊藩ノ如キヨシ罪アリトスルモ已ニ消滅セルモノナリ、更ニ何ノ問罪討伐ヲカ受クベキト、土佐曰ク首謀ノ首級ヲ差出サズトアリテハ降伏謝罪ノ取次ヲナス能ハズ、縦令取次グトモ總督府ハ決シテ許サヾルベシ、然ル時ハ貴藩ハ之ヲ如何セントスルヤト、平馬沈思シテ曰ク一國皆死ヲ以テ守ランノミ、土佐曰ク一國皆死ヲ以テ守ルと僅カニ一兩人ノ首ヲ以テ國命ニ換フルト、利害如何ゾヤ、兵馬決セズ、眞田喜平太曰ク、若シ首謀ノ首ヲ出スコトヲ肯ゼズバ、速カニ歸リ兵備ヲ嚴ニシテ待タレヨ、我ハ諸君ト旗鼓ノ間ニ見エン、元來臣子ノ罪ハ君父ノ過失ニ止マル、貴藩若シ君臣ノ義ヲ正サバ、彼ノ一擧ハ慶喜公ノ過チニアラズ、實ニ容保ノ罪ナリトコソイフベケレ、又貴殿等ニアリテハ、寡君ノ故ニアラズ、全ク拙者等ノ罪ナリトイフベキナリト、平馬默考之ヲ久シウシテ曰ク誠ニ貴諭ノ如シ、然ラバ首謀ノ首ヲ差出スベシ、サリ乍ラ鎮撫總督府ノ参謀ハ薩長ニ藩ナリトイフニアラズヤ、我ガ藩如何ニ誠意ヲ表シ首謀ヲ斬テ其ノ首ヲ出スモ禍心満腹、只管私怨ヲ報ユルニ急ナル彼等ハ更ニ又難題ヲ申シカケズトハ言ハレジ、之ヲ如何、但木土佐曰ク誠意悔悟ヲ事実ニ顯ハシ來ルニ於テ必ズ聞屆ケラルベシ其儀ハ拙者共保証スベシト、是ニ於テ平馬ハ一應肥後守ニ稟申ノ上、首級ヲモ出シテ悔悟ノ實ヲ表シ嘆願書ヲ持参スベシト答ヘテ此ノ會見ヲ終リタリ
『仙台戊辰史(藤原相之助著・マツノ書店発行)』
会談の様子はこの抜粋の通りだ。仙台藩が出した会津謝罪の三条件を巡り、激しいやり取りが行われている。会津藩梶原平馬は強硬姿勢だった。首謀者の首を差し出す件で難色を示し、それを出さねば総督府は納得しないという仙台側に、「ならば戦うまでだ」とサラリ言い切るあたり、もう抗戦を決めていたとも受け取れる。
会津側にこう言われては、和平交渉に望みを託した仙台藩の立つ瀬がない。また、平馬の恭順認識は会津藩の見解と思われるが、徳川慶喜の謝罪文に会津藩の救済も含まれているとし、慶喜の謝罪恭順が成立した段階で、会津藩の罪も消えているという論法はもう屁理屈でしかない。こうした平和解決を望まないかのような物言いを前に、仙台藩真田喜平太がブチ切れて、猛烈な反論を展開した。会津藩がそういう考えならば、早々に帰って戦争の準備をして待っていろ。戦場でお相手する。主君と仰ぐ慶喜が道を誤ったのは、側にいた家臣容保にも責任があるのだと真田は言う。
徳川家にすべての罪を擦り付けようとする平馬の屁理屈に、よどほ腹を据えかねたようだ。真田の正論を前に、反論できなかった平馬は、仙台藩の出した降伏条件をすべて飲むと承諾した。
その一方で、梶原平馬が会津謝罪恭順の道を選びかねている様子もわかる。会津藩が謝罪しても、相手は薩長だ。薩長が会津を許すはずがないと決めてかかり、謝罪に消極的であった。こうした態度から、会津藩の心底が見える。どんなに謝罪しても、薩長は受け入れない。だったら謝罪する事自体が無駄だ。というのが会津の態度だった。それこそ、首謀者三人が犬死になりかねない。仙台藩と約束はしたものの、結局この首謀者の首は、最後まで出さなかった。会津藩は、最初から謝罪恭順を諦めてしまっていたのだ。
奥羽鎮撫総督府の心底
関宿会談の行われたその日、総督府からも会津藩へ向けて公式メッセージが出された。
松平肥後追々暴動ニ候ヘ共、罪魁之義一等ヲ被宥候上ハ悔悟伏罪、御仁慈ヲ以仰候ニオイテハ、寛典ニ可被處候間、心得違無之様可致旨 御沙汰候事。(仙臺藩記)
『復古記 十二冊(東京大学史料編纂所編・マツノ書店発行)』収録『復古外記 奥羽戰記』
会津征討強硬姿勢を保ってきた奥羽鎮撫使が、ここにきて軟化してきたのだ。九条総督が世良の意見を抑えきったのか、世良自身が軟化したのかまではわからない。だが、公式な命令として「会津藩が悔悟伏罪するのであれば、寛典な処分も有る。その事を心得違いしないように」と宣言が出され、はじめて会津藩寛大処分に前向きな姿勢を示した。『世良修蔵(谷林博著・マツノ書店発行)』によると、大鳥圭介脱走軍が宇都宮城を攻略し、なおも北上中という知らせを受けた直後に出されたものだという。奥羽鎮撫使が、伝習歩兵を抱えた旧幕最強部隊と、会津藩の連合を阻止する為の離間策だったのかもしれない。また副参謀の沢為量が、伊達慶邦に「会津が降伏すれば、征伐の必要はないと明言した」とも言われている。
このチャンスを逃せば、すべては水泡と化すだろう。ほどなく会津藩梶原平馬から、会津藩謝罪嘆願書が届けられた。だがそれは、但木土佐の期待を裏切るものであったようだ。「降伏・謝罪」の文字が文面に無い上に、首謀者の処刑まで拒否したのである。会庄同盟を結び、戦争を覚悟した後の嘆願書だった事を考えると、やはり会津藩は「徹底抗戦」の態度だったと言わざるを得ない。少なくとも首謀者の首が無い事は致命的だった。明治政府は、会津に限らず徳川においても、嘆願書といった「言葉だけなら何とでも言える」というものは信用していない。謝罪恭順するのならば「実を立てろ」と、明治政府は言い続けた。実とは、つまり覚悟の程を態度で示せという事であり、家臣を切腹させるとか、藩主が単身で出頭する、もしくは藩主家族の誰かを人質に差し出すといった行動だ。結局、会津藩は最後までこの「実」を見せなかった。それでも仙台藩はやるしかない。このチャンスを潰せば、会津処分は武力を持って解決する他に手立てがなくなるからだ。この嘆願書が、会津藩ヘの寛大処分を願うものである事は間違いなく、但木土佐はこれをもって最後の大勝負を挑む事となる。
長州藩の会津寛大論
この頃、長州藩内部でも、会津謝罪に希望を託した人物がいる。桂小五郎と双璧をなす長州の実力者広沢真臣だ。
広沢は、内戦の拡大と長期化を恐れていた。戦争が長引けば、諸外国の介入を招きかねない。日本が植民地なる危険をも孕んでいる。徳川家を降した今、それ以上の戦いはすべきではないと彼は考えた。
閏四月四日、米沢藩士宮島誠一郎に会った彼は、こう言ったという。
会藩ハ徐々ト説得シ、自ラ其非ヲ悟リ翻然王化ニ帰スル様、精々尽力周旋ヲ相任ジ申スベキニ付、会藩ノ義ハ一ト先奥羽列藩ニ御任セ披下度、返ス返スモ深慮遠算取尽サレ、非常ノ大活法ヲ以テ寛仁格外ノ御沙汰披為在度シトノ趣意ヲ我藩致シ呉度云々、広沢の趣意ナリ。
『戊辰日記(宮島誠一郎著・米沢市史編さん会発行)』
これによれば、会津藩が抗戦で勢いづいている事を心配した広沢は、会津藩の抗戦論を米沢藩の手で押さえ込み、何とか謝罪歎願に持ち込んで欲しい。かつ米沢藩からも、寛大処分に関する歎願書を出して欲しいと依頼した。
意外にも、これらが達成された暁には、会津藩寛大処分を仇敵長州藩が運動するというのだ。
東北史学会発行の機関誌『歴史 第一〇七輯』に掲載された、栗原伸一郎氏の論文『米沢藩の諸藩連携構想と「奥羽越」列藩同盟』によれば、こうした長州藩の動きの背景には、明治政府内で主導的立場にある薩摩藩を追い落とそうとする動きがあり、米沢藩はこうした長州藩や土佐藩の反薩摩派と連動し、奥羽諸藩を含めた討薩同盟の構想があったのではないかと指摘した。栗原氏は、こうした反薩の動きに気が付いた大久保利通が、会津征伐を押し進める事で新政府内の討薩の動きを封じ、結束を固めていったと語る。そうだとすると、広沢はともかく薩長同盟の立役者桂小五郎こと木戸孝允が、大久保利通と手を切るとは考えられない。大久保と歩調を合わせ、会津征討派になっていた可能性が高いだろう。長州藩そのものが、広沢と木戸の二派に割れていたとも考えられる。今後の研究が待たれるところだ。
それはともかく、宮島誠一郎は長州藩広沢真臣からの内諾を得て、これを奥羽に知らせようと急ぎ帰国の途に就く。だが、時すでに遅し。宮島が奥羽に立ち戻った日は、奇しくも閏四月十九日。世良修蔵暗殺が決行され、仙台米沢両藩は、明治新政府との戦争を決意したその日であった。
奥羽全諸藩の平和同盟
会津藩の態度は、仙台藩の期待を裏切るものであった。これを奥羽鎮撫総督府に飲ませるには、別の要素を加える必要がある。仙台藩は奥羽二十七藩の重臣を白石城に集め、奥羽列藩会議所を設置した。そして閏四月十一日、会津藩の嘆願書を回覧し、仙台米沢両藩は会津藩の歎願に両藩の嘆願書を添え、奥羽鎮撫使に差し出すつもりだと公表する。これに加え、奥羽列藩の総意として、会津救済歎願書も提出したいと述べた。
集まった奥羽諸藩も、戦争となれば被害や戦費にどれだけ掛かるか解らず、できれば回避したいと考えている藩が大多数だった。この為、反対もなく仙台藩の希望は受け入れられている。これが奥羽越列藩同盟の母体となった白石会議だ。ここに会津藩の恭順歎願は、奥羽諸藩の総意となったのである。
但木土佐は奥羽諸藩の総意となれば、世良修蔵もおいそれと却下はできまいと踏んだのだろう。ただ一つ、彼の計算違いが無ければ、その通りになっていかもしれない……。
翌十二日、仙台米沢両藩主は、嘆願書も持って奥羽鎮撫総督府のある岩沼に向かった。
会津藩と仙台米沢両藩が接触し、なにやら秘密会談を行っている事を知った世良修蔵は、苛立ちを覚えたことだろう。奥羽諸藩をどう動かすか、会津藩をどうするかは、すべて奥羽鎮撫総督府の決める事である。諸藩が勝手に動くべきではない。筋論で語ればそうなるからだ。
関宿会談の報告を受けた世良は、仙台米沢両藩と会津藩の交渉は、三藩が勝手にやったことで、奥羽鎮撫使としては無視して考慮せずという態度をとった。会津藩が謝罪を望むのであれば、堂々と白川口の陣門に来るべきだと彼は言う。また、会津処分も鳥羽伏見の開戦首謀者の首と、軍備を破棄して開城する事が最低条件と語った。大山格之助も、鶴ヶ城を開城し、会津藩の武装解除を行ったら、その恭順の態度をもって松平容保の死一等を減じるべきだという考えである。
会津藩は、寛大な処分内容の決定が先であり、その内容を見て恭順か否か決めると言い、世良、大山ら新政府軍は、謝罪する気持ちあらば、謝罪が先である。処分内容を決めるのは、謝罪が成立した後の話だとした。結局、会津藩は仙台米沢藩からの決死の説得を聞き入れず、武備恭順を貫徹しようとし、奥羽鎮撫総督府も仙台米沢の運動などお構いなく、会津征討を成功させようとしたのである。
世良修蔵は、なぜ武力征伐に固執したのだろうか。私は、世良が会津征伐以外のもう一つの任務「奥羽諸藩の鎮撫」の成果をあげようとしのではないかと考えている。つまり、会津征伐とは「踏み絵」だ。
鎮撫使の命を守り、会津征伐を行う藩ならば良し、これに逆らうならば朝廷に従わない藩として討伐の対象とする。実際、会津藩を庇うなら同罪だと世良は息巻いていた。奥羽諸藩の向背を見る上で、会津征伐は丁度良い「計り」だったのである。
ところが期待していた仙台米沢両藩が、真っ先に会津攻めに反対し出した。奥羽のリーダー的な藩であるこの二藩が新政府側にならないと、仙台藩の動向を見て動こうとする諸藩もまた味方にはならない。焦った世良は、是が非でも仙台米沢両藩に会津攻めを行わせようと、より強引になったのではないかと私は思うのだ。結果的には、その強引さが反世良感情を芽生えさせ、仙台藩は世良を無視して、勝手に会津藩と交渉を始めてしまうという事態を招く。これが世良の致命的な計算違いではなかったか。
仙台藩は奥羽鎮撫総督府の配下として動かねばならない。それが世良や大山の考えである。身勝手に政治交渉を行い、会津処分まで決められたとあっては、奥羽鎮撫使の存在意義がない。だからこそ、関宿会談を認めない世良の態度も又、正しいと言わねばならないだろう。世良は、仙台藩に対して、こうした会津との交渉は、白河口陣門にて行うように。会津藩にも伝えろと命令を出す。これに対して仙台藩は、命令が出される以前に交渉し、会津の降伏謝罪を受けいれている。これから総督府へ報告に行く所だったが、行違いなってしまったと報告している。行違いと言われては、世良も帰す言葉も無く地団駄を踏んだことだろう。
さらに仙台藩米沢両藩は、会津藩の恭順交渉進展中を理由に、全部隊に休戦を命令している。こうした命令は、すべて奥羽鎮撫総督府から出されなければならないと考えている世良の神経を、思いっきり逆撫でした。
仙台米沢両藩は、世良の考えなど無視し、こちらはこちらで強引に戦争回避を押し進めたのである。世良修蔵と仙台米沢両藩は、この段階で決定的に決裂していた。そして仙台藩は、世良をたたみ掛けるべく、最後の賭けに出る。
世良、歎願を却下す
閏四月十二日、仙台米沢両藩主は、奥羽鎮撫総督九条道孝に、会津藩の嘆願書と仙台米沢両藩の嘆願書、そして奥羽諸藩の総意とする嘆願書三通を差し出した。文字通り、奥羽全諸藩の名で出された嘆願書は、奥羽鎮撫使といえども無視はできない。仙台藩は最大の圧力で勝負に出たのである。九条総督は、鶴ヶ城の開城が無い事を不満として訴えたが、仙台米沢両藩主は開城の手筈は取っている最中であり、会津藩士達の激昂が激しく、今はそれで我慢して欲しいと述べたという。この交渉は実に八時間もの長時間に及んだ。
九条総督が嘆願書受け取りに難色を示し、それを納得させる為に決死の説得が行われたのだろう。それは奥羽の総意を背景にした強訴と呼ぶべきものであった。
ただ一つ、仙台藩に計算違いがあった。強訴の相手が違うのだ。これだけの圧力をもって交渉する相手は、世良修蔵でなければならない。九条総督は会津藩の降伏謝罪を受け入れている。これを拒絶しているのは世良修蔵なのだ。結局、九条は嘆願書を受け取ったものの、世良などの参謀たちと相談するまで待てと返答を保留した。そして、仙台米沢両藩は待ってしまったのである……。
この時、世良は白河城にいた。九条総督から知らせを受けとった彼は、嘆願書をこの白河城で見ている。そこには仙台米沢両藩主はいない。何の圧力も無かっただろう。閏四月十五日、世良はただ一人で読み、一人で考え、そして一人で決めた。
今般会津謝罪降伏嘆願書ならびに奥羽各藩添願書差し出され熟覧のところ、朝敵天地に入るべからざるの罪人につき、御沙汰およばされ難く、早々討入り成功を奏すべきものなり。
『世良修蔵(谷林博著・マツノ書店発行)』
軍事指揮の原則から考えても、総司令官たる奥羽鎮撫総督に秘密で、奥羽諸藩の大団結を勝手に行うなどもってのほかであった。ましてや、会津藩は謝罪の「実」を何一つ示していない。彼等は仙台米沢両藩とは交渉するが、奥羽鎮撫使の所に直接来て、降伏謝罪を申し入れてもいないのだ。
世良は会津の恭順など見せかけだと考えている。だから世良は何の圧力もない所で、いつものように「そんな事するよりも、さっさと会津を攻めろ」と仙台米沢両藩にパッパを掛けたのだった。奥羽の総意という、より高度な政治問題となった点を彼は見落としていた。
もう一つ、見逃せないのは会津藩の動きだ。先月二十五日に、奥羽鎮撫使は、会津藩に「悔悟伏罪するならば、寛大な処分をする」と打診していた。その返答が、奥羽の総意として提出された嘆願書と同時期に、世良の手元に屆く。
新政府軍側の史料より
○松平容保ヘ達書
松平肥後追々暴動ニ候ヘ共、罪魁之義一等ヲ被宥候上ハ悔悟伏罪、御仁慈ヲ以仰候ニオイテハ、寛典ニ可被處候間、心得違無之様可致旨 御沙汰候事。(仙臺藩記)
○
御沙汰之趣難有拝承仕候得共、徳川家家名成行不見屆内ハ、謝罪仕間敷覺悟ニ御座候間、可然御沙汰奉願候、以上
閏四月十五日 陪臣 松平肥後守
總督府参謀衆中
(仙臺藩記)
『復古記 十二冊(東京大学史料編纂所編・マツノ書店発行)』収録『復古外記 奥羽戰記』より抜粋
会津藩側の史料より
「松平肥後守追々暴動に及候趣に候得共、罪魁の義一等を被宥候上は、悔悟伏罪御仁慈を仰ぎ候に就ては、寛典に被處候間心得違い無之旨御沙汰候事。」
閏四月二十五日 總督府
然るに容保斷然決する所ありて左の屆出をなせり。
「御沙汰之趣難有拝承仕候得共、徳川家名成行見屆内は謝罪仕間敷覺悟に御座候間、可然御沙汰奉願上候以上。」
閏四月 陪臣 松平容保
『会津戊辰戦争(平石辨蔵著・丸八商店出版部発行)』
これは、総督府参謀に宛てた会津藩主松平容保の公式メッセージである。重要な事柄なので、新政府側の史料と会津藩側の史料双方を掲載した。『会津戊辰戦争』掲載の方は、日付が間違っている。総督府からの指示が、閏四月二十五日となっているが、正しくは四月二十五日だ。戊辰の年は閏年で、四月の次に閏四月がある。四月が二度あったので誤記したのだろう。
このメッセージで、容保はあろうことか「徳川家の処分を見届けるまでは、謝罪しない覚悟だ」と明言した。これを世良が見ていたなら、仙台米沢の奥羽諸藩総意とする嘆願書など、考慮するまでも無く吹っ飛ぶ。何しろ、会津藩主自ら「謝罪しない」と言っているのだから。タイミングが悪すぎである。
世良が、いつこの会津藩の返答を受けたかは定かではない。しかし、世良の判断に影響を及ぼした可能性は非常に高いだろう。
仙台藩は最後の賭けに敗れたのだ。
世良修蔵暗殺計画
仙台藩と世良修蔵に意志の疎通はまったくない。お互いに信頼も信用も皆無だった。だから世良は、仙台米沢両藩が会津攻めに反対するのは、その兵備の悪さからだと思っていた。事実仙台米沢両藩は、洋式銃や洋式軍隊の整備が遅れている。会津藩も似たようなものだが、急ピッチで兵制改革を行って軍備増強を行った。こうした会津藩を恐れるあまり、会津攻めに尻込みしていると世良は思ったのである。
大総督府は薩長兵を中心に十二藩に命令し、奥羽増派を決定していた。その待ちに待った援軍がもうすぐ来る。そうなれば、仙台米沢を頼らずとも会津征伐が行えるし、強兵をもってなる薩長兵を目の当たりにすれば、仙台米沢藩も考えを改めるだろうと世良は予想していた。
仙台藩もまた「九条総督らには会津を寛大に処する気がある。それを邪魔するのは一人世良修蔵だ。」と思うようになっていた。世良修蔵は、会津藩に遺恨を持っており、復讐する為に奥羽に来た。奥羽鎮撫総督府が世良の傀儡となっていては、奥羽の平和など保てない。それならば、世良一人を排除すれば会津の恭順謝罪は受け入れられるのではないか。そんな意見が囁かれ始めたのは、一ヶ月前の四月中旬ごろからだった。
但木土佐らは、この世良暗殺計画を危険視して抑え続けた。だが、最後の賭けに出た時を境に、但木は世良は殺すべきだと考えるようになる。世良の圧力を受けてきた仙台藩士の中には、長州藩の恨みを晴らす道具になるのは厭だと思った者も少なくなかった。
これが私怨説と呼ばれるもので、会津戦争は、「薩長がその恨みを晴らそうとした。ただそれだけの戦争だ」と語られる所以となる。だからこうした私怨説は事実というより、仙台藩側が、世良を排除する上での大義名分だったと理解した方が良い。実際には、世良や仙台藩、会津藩の相互理解の欠如、協調性の無さ、情報共有の無さから発生した誤解が積み重なった結果である。
『東北戦争(山田野理夫著・教育社歴史新書)』によると、但木土佐は世良修蔵の排除に動きだし、会津征伐に出ていた部隊に解兵命令を下した。さらに、使者を会津に走らせて、閏四月二十日夜をもって白河城に侵攻、これを攻略して欲しいと依頼したという。この会津兵による白河城攻略に時を合わせて、世良修蔵を暗殺すれば会津藩が殺したように見せかけられる。こうして世良暗殺計画が実行段階に入った。
実は、会津藩が出した「謝罪しない」という公式回答も、抗戦派が仕組んだ事で、世良に歎願を却下させて奥羽諸藩の反薩長感情を煽り、薩長排除、世良暗殺に正当性を持たせる為の策謀だったという考え方もある。
これに待ったをかけたのは、同じ仙台藩の坂本大炊と遠藤久三郎だ。十七日、但木の元に来た彼らは、世良暗殺を早計だとして、再度の世良修蔵の説得を願い出た。会津攻めの部隊は解兵している。もう会津攻めはできない以上、会津の歎願を受け入れる他に手はないと説得できるかも知れないというのだ。但木は、世良を殺さずに済むならば、それに越した事は無いと同意した。坂本達は、その足で世良の元を訪れ説得を試みる。世良は解兵の件は承知している。九条総督と相談するからしばし待て。と返答を保留した。
実は、一度は歎願を却下した世良修蔵だが、その心中は揺れていたようである。というのも歎願を却下された仙台米沢両藩は、会津征伐軍の解兵を勝手に命じ、これが九条総督には無言の圧力となってのし掛かっていた。
仙台米沢両藩の解兵報告を受けた九条総督は、このような返答をしている。
会津容保降伏謝罪の儀、歎願の趣き京師へ申越すべく候間、追て何分の沙汰これあるまでは、その藩諸攻口出張兵番兵差し置き自国の境内へ引退すべく候。ただし、白河口、近辺口会境外において、浮浪の者会藩と偽り農家へ押入り、金銀盗み取りあるいは所々屯集、御領等へ種々回書などいたし候由相聞こえ候間、探索の上守衛兵をもって早々掃攘致すべく候。なお会藩よりも精々取り押さえ候様手堅く相達すべき候事。
『世良修蔵(谷林博著・マツノ書店発行)』
これを見ると、嘆願書を京都へ送るとある。しかも、当面は治安維持に専念してほしいと要請し、その藩の中に、なんと会津藩まで含まれていた。
さらに十九日、世良と醍醐忠敬参謀が相談を行っている。その内容が、世良が九条総督付の太夫塩小路刑部あてに書いた手紙によってわかるという。
引き続き御尽力察し奉り候、然は会津の容保降伏謝罪歎願書、仙米歎願書諸侯太夫連判歎願書醍醐殿より差し廻しに相なりとくと熟考致見候ところ、一旦御総督取り上げ相なり候上は、何とか御処置仰せ出でられずては相済まざる訳に候得ども、御裁許のことは当地何共御所兵また仙米の藩々弱兵よりこと起こりかくの情体とは察候。しかし去る十二日仙米二中将参陣、会津降伏謝罪歎願書差し出し、一先ず御預りに相なり候上は何とか返答致さすば相ならず。右返答も曖昧のことも申されず名儀失せざる様の返答斷然達しなされたく、ついては文言綴り取られ朝敵天地に入るべからざる罪人につき御沙汰におよびなされず、早々に討入り成功を奏すべき旨の返答書早速帰陣にて御達しなるべき旨にて相渡されその上にて世良申され候には、右御返書御達しに相なり候はば定て不服沸騰致すべく哉もはかりがたく、その節品よく御申し延べなされ前顕御達し申し候は、督府名儀の己のことにて全くはとにかく白川口へ転陣致し、早速東京大総督府参着奥羽両国の国情逐一申し延べ、事静謐の取りはからい申すべく旨品よく申し聞かされ、この場を透し白川城へ御転陣なされ候はば、官軍も追々彼の地へ繰り込みにも相成り候。左候はばさらに軍談を決し速やかに打ち入り成功を奏すべきことに候と、内外懇々申し含められ候委細承り、午前十時頃同所を発し帰陣掛り二本松本宮の間にて、醍醐家に御出逢い申し世良演舌申し上げ直ちに発し、十六日岩沼へ帰陣仕り早速道孝へ申し入れ、翌十七日それぞれ去る十二日仙米より歎願書返答、但木土佐呼び出し達せられ候ところ大いに不服のことにて、あにはからん苦労に存じ候へども先生御出懸けくだされ候はば、巨細相分り申すべくと存じ候。僕は福島にて御待ち申し候、明晩桑折へ御進みならばそれまでまかり出たく存じ候。以上
『世良修蔵(谷林博著・マツノ書店発行)』
世良は醍醐参謀との会談によって、今度の歎願書がそれまでの歎願と違って、高度な政治問題となっている事を認識する。そして会津謝罪歎願書の扱いに慎重になった。世良自身は、拒絶の態度だったが、奥羽鎮撫総督の九条は受理する方向で、事実そう動いている。奥羽の総意となれば、それを無下に扱うわけにはいかない。今さらながら、世良はその対処に苦慮した。この手紙を見ると、会津征伐軍を解兵されて会津征伐も進まず、歎願書も無下に扱えず、歎願を拒絶すれば仙台米沢両藩が激怒してどうなるかも解らないから、東京の大総督府へ赴き奥羽の情勢を直接説明して、善後策を相談する事を考えたようだ。もし、これが実現していたなら、出てくるのは大総督府参謀西郷隆盛である。江戸無血開城と徳川家寛大処分を行った西郷隆盛が、仙台米沢両藩による奥羽の総意となった会津救済歎願書をどう扱っただろうか……。だが、世良は死ぬのである。すべてが狂い始めていた。
奥羽鎮撫総督府から、歎願書を正式に却下する事を言い渡されていない内から、仙台藩側では、世良の暗殺計画が進み出している。会津藩には白河城を武力攻略してしまえと指示していた。仙台米沢両藩主は、歎願に望みを託していたが、但木土佐らは歎願提出と同時に、薩長との対決を覚悟していたと考えるしかない。
実は、仙台藩の内情は複雑で、藩内には平和的解決を願う者と主戦派がいた。二派の藩内抗争は、この時もまだ続いていたのである。平和派は歎願に賭け、主戦派は歎願など蹴られると諦めて、薩長との対決を意図した。但木土佐は、当初平和的解決を望んでいたが、世良修蔵に業を煮やし主戦論に取り込まれてしまったのである。この結果、歎願書は出したものの、その返答が来る前に世良暗殺という暴走を始めてしまったのだ。結局、世良修蔵は奥羽の総意とする強訴に屈し、歎願を受け取った。その返答に苦慮し、江戸に行こうとするのだが、仙台藩主戦派は、世良の考えなどどうでも良かったのである。
世良は「奥羽皆敵」として、奥羽諸藩を討伐する気だったのだから、世良を生かしておいても同じ事だと思う方もいるかも知れない。だが、江戸の大総督府、そして京都の太政官に行って相談するとなれば、世良の奥羽討伐方針は、それより上位にいる者によって蹴飛ばされる可能性もあるのだ。たとえば、太政官にいる長州藩士広沢真臣は会津寛大論であった。彼に相談していれば、世良の方針は潰されていたはずである。ここで世良を殺せば、その時点で戦争へ突き進む以外に道は無くなるのだ。
世良修蔵死す
世良修蔵は、仙台藩に対しては常に厳しく当たってきた。それは奥羽に来てから一貫した態度である。総督府に隠れて、会津藩と密談を行うなど、奥羽鎮撫使に対する背任行為であり、ひいては明治政府への背任である。厳しくそうした行為を禁止したりもした。
決定的だったのは仙台米沢両藩が、解兵という強硬手段に出た事だったろう。奥羽鎮撫使は、兵力の少なさから足下を見られた。九条総督は、こうした仙台米沢藩の行動を重視し、会津藩の歎願に寛大な態度を見せ始めた為、世良も無下にはできない。だが、その心中は怒り狂っていた。
世良は、江戸の大総督府に向かう前に、大山格之助に手紙を送っている。重要と思われる部分を抜粋した。
(前略)一旦総督にも右三書(会津藩の謝罪歎願書、仙台米沢両藩の歎願書、奥羽総意の願書の三書)差し返し相なり候へども、右段の訳をもって総督を要し、夕七ツ時より夜九ツ時頃詰め居り、先慶喜主上を要し奉り轍決して、会の指図と相見え悪むべきのはなはだしきなり。ついにやむをえず御取り上げに相なり候由にて、当十五日白河へ到来これあり申し候、右の訳にて総督府兵力とては一人もこれなく、押して返せば今日より両藩会に合い候様に相なり申すべく、少々にても兵隊これあり候はば押しつけ出来申候へどもとてもむつかしく、宇都宮も追々賊所々蜂起して今に来たらず大いに困り申し候。しかしながら一旦総督取り上げに相なり候を、また返す訳にも参り申さず候間、この上一応京師へ相伺い奥羽の情実とくと申し入れ、奥羽皆敵と見て逆撃の大策に致したく候につき、およばずながら小子急に江戸へ罷りこし、大総督府西郷様へも御示談致し候上登京仕り、なお大阪までも罷り越し大挙奥羽へ皇威の赫然致し候様仕りたく存じ奉り候。この歎願通りにて相免られ候時は、奥羽は一、二年の内には朝廷のためにならぬ様相成るべく、何とも仙米の賊朝廷を軽んずるの心底かたときも図かたき奴に御座候。(中略)勿論弱国二藩は恐るに足らず候へども、会と合し候ときは少々多勢にて始末にむつかしく、なるたけ二藩は穏便にして謀るべく、もっとも二藩中にも両三人ずつ外賊徒魁はこれなく主人は好人物ならん(後略)
この世良の密書と呼ばれるものは、『防長回天史』において、原本が存在せず写本のみで偽書、捏造の可能性が高いと徹底非難されたものだ。またその密書だとされるものも何通かあり、後に書き加えられたり、改竄された可能性が指摘されている。この問題は、今後の研究を待ちたい。
この手紙は、世良が大山格之助にあてたもので、わざわざ「密書だ」と言って手渡したものだという。内容を見れば、世良が会津征討が進まず、仙台米沢両藩の強訴に屈してしまった事情を大山格之助に説明している。
結局、奥羽鎮撫総督府は戦略の見直しを迫られ、世良が江戸の大総督府や京都の太政官に相談するといった報告の手紙だ。仙台米沢両藩を操っているのが会津藩だと勘違いし、故に奥羽諸藩を屈服させる程の兵力が無いと、奥羽鎮撫が出来ないという結論に至ったようである。「奥羽皆敵」や「弱国二藩」は、単なる世良の悪態に過ぎず、愚痴の一つも書きたかったのだろう。
これが世良修蔵暗殺を企む一団の手に渡ってしまう。明日には江戸に行くという世良の手紙に、暗殺団の指揮を取っていた瀬上主膳は藩上層部に相談する暇はないと、世良暗殺に踏み切った。閏四月十九日の事である。なお、世良が捕縛された際に見苦しく命乞いをしたと『仙台戊辰史』等で語られているが、これは世良を悪党に仕立て上げる為の捏造だ。正しくは、「早く殺せ」と言ったらしい。世良は河原に連れて行かれた。最後に辞世の句を詠みたいという世良に、何を今さらと無視し斬首したという。その首は直ちに但木土佐の元へ届けられた。但木は、斬首ならば彼は罪人である。川にでも捨てよと言い放った。但木土佐はこれほどまでに世良修蔵を憎んでいたのである。
この日、奥羽鎮撫総督府は、仙台米沢両藩による歎願と奥羽の総意とする歎願、会津藩の謝罪歎願を正式に却下した。言い渡された仙台米沢藩両藩は、痛くも痒くもなかっただろう。なぜなら、もう戦争を決意していたからだ。
世良暗殺後、仙台米沢両藩は薩長兵の斬殺を始めた。すでに世良を斬った以上、明治政府との対立は回避不能である。交渉の余地はなく、会津庄内に続き、軍事同盟を結び戦争を行う他に手はない。一人殺すも二人殺すも同じ事だった。そして、平和の為の白石同盟は、戦争するための軍事同盟「奥羽越列藩同盟」にすり替えられていく。奥羽の二大大藩仙台米沢に逆らえる藩は無く、秋田藩が不平を唱えたぐらいであった。あとはもう濁流のような勢いで戦争へと突き進んでいくしかない。
十九日の世良暗殺と示し合わせていた会津藩は、二十日に白河城を攻撃しこれを攻略している。同日、日光街道方面では、会津大鳥連合軍が今市に侵攻、板垣退助と激闘を演じた。会津藩は仙台米沢両藩と奥羽全諸藩というまたとない味方を得ている。もう気兼ねする必要は無かった。二十三日、奥羽列藩同盟が正式に成立、奥羽戦争そして会津戦争が始まったのである。
なぜ会津戦争は起こったのか?
会津戦争は、長州藩の会津へ対する怨念という単純な理由で、起こった訳ではない。多くの組織や派閥が、各々の思惑で動いた結果だった。これを一言で簡単に説明する事は不可能だろう。一つ一つ丹念に見る以外に無い。
会津戦争を回避するという点に絞って会津藩を見た時、会津藩の態度は戦争を回避する事よりも、戦争に向かって突き進んでいる。会津藩は、謝罪恭順の態度だったと良く言われるが、実際には謝罪歎願書を出すだけだった。仙台米沢藩からは「実」が伴っていないと批判され、首謀者の首を出すようにと具体的な要求までされている。会津藩はこうした要求を拒絶し、最後まで謝罪恭順の「実」を見せなかった。
その一方で、北関東での旧幕脱走の主戦派を支援し、他藩を明治政府と戦えと煽りもした。これらは家臣の独断と思われるが、この事実を新政府軍が知ってしまった点で、大きなマイナスと言わざるを得ない。
また、会津藩は最後まで王政復古を認めず、薩長を中心とする明治政府そのものを否定し続けている。戦争を回避する為には、ある程度妥協をしなければならなかったが、会津藩は最後まで妥協せず、薩長側との直接交渉は行わなかった。恭順を最初から諦めていたと言って良い。
会津戦争が終わった直後の明治元年十月、米沢藩士宮島誠一郎が、会津攻めの指揮をとった土佐藩板垣退助の元を訪れた。その際に、板垣はこのように語ったという。
実ハ弊藩ハ薩ト内情不和ニ有之候得共、会之伏水之暴挙ハ如何ニモ抗王師候次第ニ而、敗走後浪華カ紀州地ナリトモ一旦御ワビ申上候ハヽ、他藩ハ兎モアレ弊藩者屹度天朝江執政可致存慮ニ候処、遂ニ恐懼之姿無之、先帝御褒書等有之旨申立候次第如何ニモ強情ニ有之、頓ト今日之段ニ相成リ候次第
『戊辰日記(宮島誠一郎著・米沢市史編さん会発行)』
鳥羽伏見の直後、会津藩が即座に謝罪を願えば、他藩はともあれ土佐藩は、会津征討回避の為に動いていたというのだ。だが会津藩は、孝明天皇の御宸翰を示して自分たちが尊王である事を訴える歎願書のみで、ついに恐懼して謝罪する行動を見せなかった。板垣はこれを「強情」と言い、とうとう会津戦争になったのだと語る。
会津藩は、王政復古に対する怒り、薩長への不信から、謝罪の時期を逸した。そして、その事に気が付くことなく、戦争の道を選んでしまったのだ。
薩長を中心とした明治政府もまた、会津藩側と妥協しようとはしなかった。王政復古によって幕藩体制を否定した彼らにとり、王政復古を否定するような妥協はあり得ない。また、明治統一国家を目指す以上、明治政府の命令を聞かない藩は、統一国家の枠からはみ出る事になる。こうした事から、中立をも認めず、従う藩は良し、従わぬ藩は討伐という二択で戊辰戦争を遂行した。奥羽鎮撫総督府は、こうした方針をより顕著に進めたと言えるだろう。だからこそ、妥協せず王政復古を不当だとする会津藩はもとより、奥羽鎮撫使の指示に従わず、会津と秘密交渉を行った仙台米沢両藩を頭ごなしに叱るといった行動を取っている。ただし、この基本方針を忠実に守るあまり、仙台米沢両藩の藩内事情を一切考慮せず、強引に会津征伐をごり押しした点はマイナスだ。あまりにも政治的な柔軟性に欠けており、奥羽全諸藩を敵に廻した事は、大きな失態であったろう。
江戸の大総督府は、一番最初に「会津死謝」を命令するという迷走を行って、後の会津戦略がゴテゴテになるという失敗を犯している。その後は西郷隆盛流の「兵力を送り込んで、新政府の断固たる態度を示し、相手を屈服させる」といった戦略が、対会津藩交渉ではマイナスに働いた。
実は、こうした戦い方は、西郷の十八番である。禁門の変の時、戦わずに長州兵を引かせようと徳川慶喜は一ヶ月以上も交渉し続けた。会津藩は、そんな慶喜を弱腰と非難し、ひたすら武力で追い払おうと慶喜に訴えている。そんな中で、西郷率いる薩摩藩兵は、御所警備を理由に大挙入京し、慶喜や会津藩がモタモタしている間に、多数派工作で「武力討伐」に朝議をまとめ上げてしまう。後は簡単である。「薩摩一手でも戦争を行う」と断固たる態度を示し、対長州藩交渉を打ち切った。慶喜は、最後通牒を長州藩に突き付けざるを得なくなり、決断を迫られた長州軍が京都に攻め掛かったのである。暴発した長州軍を、西郷隆盛は予定通り武力で打ち破った。
また第一次長州征伐においても、西郷はその参謀となって、同じ戦い方をしている。大兵力を長州藩嶺境に貼り付け、要求を飲まねば攻めると脅し上げたのだ。長州藩内の保守派がこれに応じ、禁門の変の首謀者三名の首を差し出し、第一次招集征伐は戦わずして長州藩の敗北が決した。
西郷隆盛は、戊辰戦争でもまったく同じ方針を用いてる。東征軍を実際に江戸に送り込み、そして江戸無血開城を成し得た。だから、会津藩にも同じ方法が取られたのだろう。大兵力を動員し、会津の地へ送り込んだのだ。だが、会津藩はこれを受けて立ってしまう。明治政府の断固たる態度を見て、会津藩は「謝罪恭順しても、攻められるに決まっている」と諦めてしまった。
京都の太政官となると、会津征伐に対する態度がより複雑になる。明治政府の本体とも言うべき太政官は、すでに諸外国との外交を進めつつ、統一国家の土台を作る事に必死になっていた。京都から江戸への遷都など、公家衆との間で大論争になっている。こうした事情から、会津処分よりも戦争の長期化の方が問題視されていた。一方で戦争を行い戦費を払い続けながら、新国家を建設するのは難しいからだ。しかも、直接諸外国からの圧力をも受けている。
長州藩士広沢真臣などは、こうした事から会津に寛大処分を示して戦争を終わらせる事に前向きであった。その一方で、新政府内部の反薩摩派が薩摩藩の追い落としを画策し、大久保利通や木戸孝允らが、これを阻止しようとする。その政争の具となったのが会津処分問題だったとする説もあり、太政官は、会津藩をどうするのか具体案を示せなかった。
仙台米沢両藩の会津救済活動もまた不徹底であったと言える。元々両藩は藩内が尊王佐幕の二派に割れていた。この二派が、その時々により藩の動きに影響を及ぼしている。会津救済を強引に進めるならば、最後まで戦争という手段を用いず、粘り強く交渉すべきだった。ところが反薩長感情が優ってしまい、佐幕派の力が強まると感情的に世良を暗殺して、戦争の道を選んでしまう。いきなり平和解決とは逆の戦争に転換してしまったのだ。結果的に、この豹変が会津戦争の引き金となる。
怨念の会津戦争
会津戦争は、薩長が会津を恨み、どこまでもやっつけてしまおうと考えた所からはじまったと、作家星亮一氏は語る。薩長が会津を恨んでいない訳がない。だからこうした説が唱えられている訳だが、これまで見てきた通り、実際はもっと複雑である。怨念にしてしまえば、話しが単純かして解りやすい。だが、それが本質だとはとても言えないのだ。
確かに長州人が会津に怨念を抱いていた事は否定できない。世良修蔵などはその代表とされ、故に会津に対する対応が苛烈になったとも考えられる。だが、その一方で、会津藩もまた薩長を恨み、これに屈しまいと謝罪恭順の実を示す事を拒絶していた。怨念のみで簡単に語るならば、「会津戦争は、薩長が恨みを晴らそうとした」のではなく、「薩長も会津藩も、互いに相手を恨み、他藩の仲裁を蹴って会津戦争を引き起こした」と語るべきだ。
米沢藩士宮島誠一郎は、三月一六日頃、仙台藩士菅原良吉と会談した。会津征伐を命じられた両藩の困惑と共に、会津藩の罪が何処にあるのか的確に論じ合っているので抜粋を掲載する。
只所恨ハ会藩ノ不手際ニ御座候。既ニ京地ニ罷在候節ヨリ戦ヲ欲シ幾度カ発セント致シ候得共、此場合兵端ヲ開候テハ不相成ト強テ堪忍罷在候処、三日ニ至テ勘兼遂ニ会津主張ニテ彼一戦ニ相及申候。実ニ徳川氏ノ存亡ハ勿論天下治乱ノ大機ヲ抱エ候一戦ニ候処、如彼軽発シテ僅ニ一敗シテ他人ト共ニ連立東走スルトハ余リニ無味事ニ候ハズヤ。此時ニ当テハ戦争ヲ始候位ナラバ是非勝テ呉レネバナラヌ場合ニ候。勝サエスレバ朝敵ニモ国賊ニモ無之。当時ノ正邪ハ実ニ難弁、幕会ガ賊カ薩長ガ賊乎。又乍恐 今帝ガ先帝ニ被為背候哉モ難計。然レバ彼一戦勝サエスレバ此場合ニ及ザル事ハ誰モ所見ニ御座候。然バ今日ノ動揺ハ会藩ノ不手際ヨリ事起リ候義、其難義を引受候御互ハ誠ニ始末ニ余リ候事ニ御座候。
『戊辰日記(宮島誠一郎著・米沢市史編さん会発行)』
これは勝てば官軍、負ければ賊軍の論理であるが、問題は会津藩が主戦派で、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争を望んで起こした事だ。戦争を起こしたならば、勝たなければならない。と、彼らは負けた会津藩を批判している。
そんな彼らだが、彼らもまた世良修蔵を憎み、暗殺し、戦争の引き金を引いた。このように、怨念は全ての者が持っていた感情で、薩長だけが持っていた訳ではない。
彼らは互いに自己の理想と正義を掲げ、相手の理想と正義を拒絶し、戦い合ったのである。
相手を理解し、信用しようとする意志が互いに無ければ、妥協の道も見つからない。これが会津戦争が起こった根本的原因だと私は考えている。
戦争を正義で美化する危うさ
これまで説明してきた通り、薩長両藩、会津藩、仙台米沢両藩など、すべてに会津戦争の原因があった。
ところが、会津藩の主張のみを取り上げてこれを正義とし、薩長側が掲げた正義を「勝者の都合の良い歴史」と言って葬る考え方が、今の流行である。
「義に生き、不義に生きず」という美辞麗句で、会津藩の正義と薩長を不義を訴える場合が多い。その結果、会津藩が己の正義を貫いた会津戦争は正しい戦争である。故に「正しい戦争は、行うべきだ」という恐ろしい結論が導き出された。
私は、戦争を行ってでも貫かねばならない「義」など、あってはならないと考えている。個人の生き様なら、それも良いだろう。だが国家を背負った者は、そうであってはならない。なぜなら、国家が誤ればその被害は想像を絶するからだ。戦争となればなおさらである。太平洋戦争や日中戦争は、「大東亜共栄圏」という正義の名の元に行われた。だが、はたしてあの戦争は正しかったであろうか。
戦争の果てに……
会津藩、そして奥羽越列藩同盟は明治政府との全面戦争を開始した。だが、白河城が陥落した時を境に、奥羽越列藩同盟は春の淡雪の如く消えていく。元々戦争に反対し、平和を望んだ諸藩の同盟なのだ。戦いに負け続けた彼らは、恭順する事で藩の生き残りを考えるようになっていた。そして、会津藩が気が付いた時、味方は庄内藩一藩のみになっていたのである。鶴ヶ城も全面包囲され、身動き一つ出来なくなっていた。連日、数千発もの砲弾が鶴ヶ城に降り注ぎ、会津藩士の命を奪っていく。ここに至り、会津藩主松平容保は降伏を決意せざるを得なかった。
会津藩内の恭順派、筆頭家老西郷頼母は、度々恭順論を唱えて主戦派と対立している。鶴ヶ城籠城戦に突入した際、彼は「事ここに至ったのは、藩主を輔けた者の責任である」と、厳しく梶原平馬らを非難した。会津戦争を正しいとする主戦派は激怒する。
容保は、彼に伝令という大義名分を与えて、城から脱出させたという。一説では、容保は頼母が城から出た所で殺せと命じ、暗殺者を差し向けたとも言われている。暗殺者の背後にいたのが梶原平馬だった。大沼城之介と芦沢生太郎の二人を選び、頼母暗殺に差し向けている。この二人は頼母を見失ったらしく、頼母は暗殺を逃れた。筆頭家老を救う為に、見失った事にしたとも言われている。この後、西郷頼母は函館まで逃げて、そこで降伏した。
梶原平馬は、徹頭徹尾主戦論であった。会津藩を徹底抗戦に導いた立役者でもある。だが、会津藩が降伏を決意した時、彼には「会津戦争をはじめた者」としての責任だけが残された。明治三年、斗南藩として会津松平家が再興されると、平馬も斗南に移住する。だが、その直後に失踪した。一説では、会津戦争の指導者として、同じ会津藩士達が非難を浴びせた為だとも言われている。ただ、北海道根室に移住し、ひっそりと暮らして七十七歳の天寿を全うしたという。彼は二度と、日の当たる場所に出られなかったのだ……。
会津戦争終了後、明治政府は会津藩に対し「戦争の首謀者三名の首」を要求した。それは、会津戦争前の条件とまったく同じであり、重くも軽くもなっていない。しかし、この戦争で多くの家老が死んでいる事から、家老萱野権兵衛の首一つで、会津藩の降伏は認められる事となる……。
会津藩は、どこで道を違えたのだろう。
明治政府は、どこで道を違えたのだろう。
ただ戦争の悲劇だけが、そこに事実として存在している。
(幕末ヤ撃団 梅原義明)