天険 母成峠
慶応四年八月二十一日……。明治新政府軍は、会津藩が各地の国境警備の為に兵を分散させている隙を突き、一挙に会津本城鶴ヶ城を攻略しようとした。侵攻ルートには、大軍の移動に適した母成峠が選ばれる。会津軍も母成峠防衛の為に、大鳥圭介率いる幕府伝習隊と土方歳三率いる新選組など佐幕派最強部隊をこの戦線に投入していた。大鳥圭介は、その兵力の少なさを気にしていたが、やむを得ず三段の陣地を築いて厚い防御線を構築する。大鳥圭介に与えられた使命は、国境に散っている会津主力部隊が帰還するまでの間、天険母成峠で、敵の侵攻を食い止める事にある。兵力的にも武装的にも自分達の方が劣勢である以上、勝利は難しい。大鳥は、おそらく時間を稼ぐ事が使命の第一とし、敵を撃破する事は二の次と考えたはずである。自然と「遅滞戦術」という防御戦術が採られる事になったと思われる。遅滞戦術とは、適度に戦い、すぐに後退する事で決戦を避け、兵力を温存しつつ時間を稼ぐ一方、戦線を縮小して兵力の集中をするという戦術だ。ここで一番マズイのは、乾坤一擲の決戦で敗北し、自軍部隊が四散して新政府軍が何の抵抗も受けず会津城下に雪崩れ込まれる事である。それだけは避けなければならなかった。大鳥達が籠もった三段陣地は、前述の作戦構想に基づいて作られたものと私は考える。第一線が突破されても第二線に後退して戦えるという防御戦術で、当時にはまだなかった「縦深防御」という新戦法だった。又、彼の率いる幕府伝習歩兵は、鳥羽伏見の戦いから戦い続ける歴戦部隊で、旧幕最強の歩兵隊である。さらに、同じく新選組も各地で新政府軍と死闘を展開し続けた部隊で、率いるのは戦鬼土方歳三であった。
一方、新政府軍も負けてはいない。こちらも西郷隆盛すら一目置く智将にして勇猛、薩摩の伊地知正治に、天才的野戦指揮官の板垣退助、後に日露戦争満州軍総司令官となる大砲の大家、大山弥助(大山巌)と揃っていた。政府軍は、会津侵攻の前に諜報活動を行って、会津軍の動向をしっかり調査している。ここで大鳥圭介が、母成峠に三段の陣地を築いている事を知った。伊地知や板垣にとって大鳥や土方らは、もはや宿命のライバルである。母成峠を攻める政府軍は、元々東山道総督府軍と呼ばれ、関東から大鳥脱走軍を追撃し続けた部隊だったのだ。大鳥と戦うこと数度、それだけに大鳥圭介がただ者ではない事を知り抜いていた。大鳥が作った分厚い三段陣地……これを聞いた大山弥助は、母成峠攻撃に大砲を集中して使用するという作戦を提案する。これまた当時になはかった新戦法だ。当時の大砲は、あくまで歩兵隊の補助を行うだけの存在だった。だから大砲は撃つものの、それはあくまで歩兵戦闘の補助に過ぎず、敵陣地を破壊する為に使用されたりするだけだった。ところが大山弥助は、この各隊に分散配備された大砲を掻き集め、大砲による集中砲火を実施して勝敗を決しようと考えたのである。それは「砲兵が耕し、歩兵が進む」という後の、塹壕戦の考え方に近かった。
新政府軍は、兵を三方に分けて主攻正面と両側面から会津旧幕軍を攻撃しようと動いた。第一陣地に籠もっていた会津兵と幕府伝習隊は、新政府軍が攻撃してきたら適度に戦闘を行った後、第二陣地線に後退している。これを敗走と記録する資料もあるし、それを読んだ研究者が、「指揮官が大鳥ではなく土方だったら、こんな醜態にはならない。」などと解説していたりするが、とんでもない勘違いである。さっさと後退したのは、敵の大砲隊が射撃を行う前に後退し、第二線の兵力と合流する事で、兵力の集中を計り戦闘力を高めるという作戦だからだ。大砲という兵器は移動するのに時間がかかる。第一陣地を攻撃しようとしていた新政府大砲隊は、大砲を移動し、射撃する為の準備が終わった所で、敵に逃げられた様なもので、また第二陣地の敵を砲撃する為に、大砲と馬を繋げて移動しなけれなならなくなった訳である。第二陣地では、真正面の敵に対して優勢とまではいかないが、善戦したと言って良いだろう。地の利を生かして敵の侵攻を食い止め続けている。土方歳三率いる新選組も猛威を振るっている。しかし、今度は側面を突かれて劣勢に陥ってしまう。新政府軍の得意作戦で、別動隊を搦め手に廻して側面攻撃を仕掛けようとしていた。敵に側面を突かれ会津・二本松・仙台といった藩兵が浮き足立ち、崩れてしまった様だ。そこで大鳥は、第二陣地を捨てて第三陣地に後退し体勢を立て直そうと試みる。大鳥にとって不幸だったのは、この第三陣地に下がって防戦を始めた時に新政府の大砲隊が射撃を開始した事だった。第一陣地でスカされた大砲隊は、第二陣地を攻撃するために移動していたが、大砲を展開できる土地が無く、第二陣地への攻撃が出来なかった。所が第三陣地に大鳥軍が下がった為に最適地が見つかり、当初の予定通り第三陣地に籠もる大鳥達の頭上に砲弾の雨を降らせたのだ。第二陣地を引き上げる際に逃げ腰となった兵が、真っ先に浮き足立った。それに巻き込まれる様に伝習歩兵も逃げ腰になってしまう。こうなっては、大鳥といえどもどうしようもなかっただろう。第三陣地での防戦も集中砲撃で粉砕され、幕府伝習歩兵と新選組はちりじりになって敗走する事になる。
大鳥圭介と幕府伝習歩兵
さて、白虎隊の話しをする前に、少々幕府伝習歩兵に関して考えてみたい。幕府伝習歩兵とは、徳川幕府が作った近代軍隊である。指揮を取るのは大村益次郎と同じ適塾で蘭学を修行した大鳥圭介だ。兵学も蘭書を読み、フランス顧問団より教わっている。この人物は、「戦下手」などと言われたりもするが大きな間違いが有るように思われる。安藤太郎という人物の言葉に「実戦は実に下手だ。兵を語るのは上手だが兵を用ふるは下手だが、大将の器があつたといふのは大鳥様が配下を派して戦はすと不思議と勝つ。自分が出ると負ける。」という評価がある。部隊指揮官に大きく二つのタイプがあり、一つは弾丸の飛び交う最前線で、兵の先頭に立って指揮する実戦指揮官と、最前線には出ずに、総司令部で地図を睨みながら、伝令からの報告だけで的確に状況は判断し、各部隊に作戦司令を出す司令官タイプだ。大鳥圭介は、明らかに後者のタイプだ。兵学書によって戦略戦術理論を頭で知っている大鳥は、戦略という大きな戦いをやってのける能力を持っている。逆に最前線に大鳥が出ていっても理論で戦争するタイプの大鳥では戦機を逃してしまうだろう。実戦指揮官は、戦場の雰囲気や事象から突撃時や引き時、つまり戦機を判断しなければならない。こればかりは、兵学書や訓練で学べるものではない。どれだけ実戦経験を積んできたかによるのだ。代表的な人物が土方歳三である。京都の修羅場をくぐり抜け、多くの戦場を戦い抜いた土方歳三の戦機を読む能力は並ではなかっただろう。逆に、土方が総司令部で命令を出す立場であれば、近代戦理論をキッチリと学んでいない土方では大敗をしてしまうだろう。司令官に必要な戦略戦術の理論は、西洋兵学を基礎から学んでおかないと身に付かないからだ。また、伝習歩兵隊の創設には大変な苦労話が伝わっている。徳川幕府は、最初に旗本を兵として歩兵を作ろうとしたが失敗した。旗本達は、「武士道」に反する西洋兵学を拒絶したのだ。まず、銃を持ちたがらない。銃は足軽という下級武士の武器であり、旗本達の上級武士としてのプライドを傷つけるだけであった。下級武士と同一扱いされたと不満を露わにし、歩兵調練に欠席する者が続出するという始末だった。出席したらしたで、外国人教師から訳も分からず、「地べたに這い蹲って銃を構えろ」と言われてそれがまた不満の種となる。「武士に対して地面に這い蹲れとは何事か!。」という訳だ。現代の我々から見れば、敵弾を避けるために、なるべく低い姿勢で射撃するのだと解るが、当時の武士意識はそれを許さなかった。結局、幕府は旗本を歩兵にする事を諦め、百姓町人そして博徒といった武士意識を持たない者を雇い、歩兵としたのである。彼らは根が武士ではなかった。だから忠義とか武士道の為といった理由で戦っていた訳ではない。簡単に言えば、明日の飯代を稼ぐ為に今日働いているという感覚に近い。特に、博徒や無宿人といったならず者達に取ってはまたとない就職口だったのだ。彼らにはまともな就職口など全くない。そんな彼らは歩兵隊に居続ける以外に生活のアテが無いのである。これは、長州藩の誇る奇兵隊にもまったく同じ事が言える。奇兵隊は維新成立後、順次解体されていくが、解雇された奇兵隊士が、集まって「解雇反対」の反乱を企てるという事件が起こっている。そして、もう一つ問題がある。何しろ幕府伝習歩兵や長州奇兵隊の主力はならず者を多く含んでいるからその兵は乱暴である。ある会津郷土史家が長州兵が会津戦争で乱暴狼藉を働いたと声を荒げているのと同様に、四境戦争の時、長州領大島に上陸した幕府歩兵の乱暴狼藉も凄まじいものがあった。彼らが乱暴狼藉を働くのは、根がヤクザ者だからであろう。しかし、戦争となれば彼らが武士よりも強かったのも事実なのである。弱兵の目立った仙台藩においても、新政府軍を恐怖のどん底に陥れた細谷十太夫の率いたゲリラ部隊カラス組も、ヤクザの集団であった。
幕末時代で、最も健全な武士団を保持していたのは薩摩藩と会津藩だけだと私は思う。そして、その二つの武士団が戊辰戦争と西南戦争で粉砕される事で、日本から武士という名の特権階級が消滅する事になる。幕府歩兵隊に関しては、最近『幕府歩兵隊(中公新書)』という本に詳しく書かれているので読んで見て欲しい。
会津白虎隊
「母成峠破れる」という悲報が鶴ヶ城に届いたのは二十二日の午前五時頃だった。軍議の結果、日橋川に掛かる橋を破壊して最終防衛線を構築、会津藩兵主力が鶴ヶ城に帰還する時間を稼ぐ事となった。少年兵からなる会津白虎隊のも召集が掛かり、ついに最前線に送り込まれる事になる。ここで、会津藩兵の近代化について考えてみよう。会津藩は武士道教育に熱心であった。それは作家早乙女貢氏に『会津士魂』と銘々され、他の藩の武士とは区別されてしまう程の質の高い武士教育だった様である。会津藩も鳥羽伏見の敗戦後、経験から刀や槍ではなく、西洋兵学と銃でなければ戦争が出来ないことを覚る。急遽、それまでの古い長沼流軍学を捨て、旧幕脱走軍に混じっていた幕臣やフランス人軍事顧問団を呼び寄せて、軍制改革した。藩士を年齢別に分けてそれぞれ、年齢の高い順に玄武隊・青龍隊・朱雀隊・白虎隊と命名している。さらに各隊を身分によって分けている。白虎隊ならば士中一番隊と二番隊、白虎寄合組一番隊と二番隊。そして白虎足軽隊という風である。年齢別に部隊を編成する事で、より機能的にはなった。しかし、やはり身分の壁は越えられなかった様だ。白虎隊と言ったら士中一番二番を指す事が多い。何故なら、藩主の直臣である上級藩士の家の少年達で編成されている為に、その分記録がはっきりしているからだ。一方、足軽隊の方の記録はほとんどない。これは藩士の家臣である足軽は、藩主にとっては陪臣で、身分が低い故か、雑用任務の為にバラバラに使われていた形跡があるからだ。部隊としての行動を取ったかどうかも解らない。ただ、会津藩兵への歩兵訓練は失敗していたもしくは、シッカリと訓練しきれなかった痕跡が見受けられる。会津武士は死を恐れなかった。徳川家の旗本の様に戦いそのものから逃げる様な醜態は晒さなかった。それは会津武士道精神の賜物であったろう。その反面、伝習歩兵隊の項で書いた様に、武士のプライドが邪魔をして西洋兵学の訓練の時に、教官に猛然と刃向かう藩士が多くいたらしい。『白虎隊(文春新書)』の中で、会津藩士達は訓練の際に脇差しを離さなかった。何故なら「教官の中には、自己の意に適せざる者あれば、ただちに鞭を加うるがごとき無礼」を働く者がいた。教官といえども無礼を働いたら斬る決意で脇差しを離さなかった。と著者である中村彰彦氏も書いている。だが、教官達にしてみれば、「自己の意に適して」貰わねば困るのだ。「地べたに這い蹲れ」と命令したら、地べたに這い蹲ってもらわなければ匍匐前進の訓練も出来ない。いちいち「武士に対して地べたに這い蹲れとは何事か!」と反抗されても教官の方が困るのである。そして中村氏は、白虎隊の少年達の方が飲み込みが早く柔軟思考で教官から酷い目に遭わされなかったと少年達を誉めいる。それもそのはず、少年達にとってみれば、つい先日まで泥んこになって遊んだり、お堀でスッポンを捕まえたりしていたのだから地面に這い蹲る事への抵抗感が無い。その上、「年長者の言うことに背いてはなりませぬ。」と教えられてもいる。少年達にとって「先生」である西洋兵学の教官の言う事に素直な気持ちで従っていたと思われる。ところが、大人になってしまっている会津藩士たちにとって、教官達は「年長者」ではなかった。つまり、会津軍の軍制がフランス式に切り替わっていても、依然として会津士魂といわれた会津武士精神は残っており、それ故に西洋式歩兵戦術の訓練度は低かったと見るべきだろう。
武装面において会津兵は一般的に前装式ミニエー銃を装備していた。白虎隊には、ヤーゲル銃が配備されている。『白虎隊(文春文庫』を書いた中村彰彦氏は、この本で士中二番隊がヤーゲル銃という低性能銃ではなく、マンソー銃という後装式ライフル騎兵銃を装備していたとしている。その理由は、召集が掛けられた時、士中二番隊の少年達は、戦場に出る直前にヤーゲルの使い難さから別銃を要求し、「馬上銃」を受け取って戦場に出ていったという記録がある為であるという。中村氏は、馬上銃とは騎兵銃の事であるとして、日本が輸入した騎兵銃五種を示している。カラバイン騎銃・スペンサー騎銃・マンソー騎銃・ドライゼ騎銃・スタール騎銃の五種だ。そして、消去法で白虎隊が持っていたのはマンソー銃という後装式ライフル銃と判断し、それ以後の戦闘経過を考察している。この為に、士中二番隊の火力(戦闘力)が高くなり、滝沢本陣への出陣に二番隊が選ばれたとか、初期の射撃戦において白虎隊側が優勢であったという根拠としているが、ここに一つとても大きな落とし穴がある。騎兵銃は、上記五種だけではないのである。そして最も多く使用された騎兵銃は「二ツバンドミニエー銃」だった。ミニエー銃というのは、ミニエー弾を使用する銃の総称として付いた名で、通常の歩兵銃であっても騎兵銃であっても、ミニエー弾を使用すれば全部ミニエー銃と呼ばれていた。しかし、それでは困る事もあったらしく、大きな銃(銃身の三カ所をバンドで締めている)を「三バンドミニエー」、小さな銃(銃身が短いので二カ所をバンドで締めている)の方を「二ツバンドミニエー」と呼んでいた。会津藩はこれらの前装式ミニエー銃を標準装備としている。大きな銃とは通常の歩兵銃だ。小さな銃とは馬上で使うために銃身を小さくした騎兵銃の事なのだ。つまり、二ツバンドミニエー銃は騎兵銃なのである。私は、白虎士中二番隊が装備していたのは、この二ツバンドミニエー銃だと考えている。何故ならば、ヤーゲル銃とミニエー銃は共に前装式で銃の操作にさほどの違いはない。ミニエー銃の方が手軽に弾込めが出来る程度だ。ところが後装銃となると、弾込めの仕方が全然違う。銃の整備の仕方も違うし、弾丸だって専用の薬莢(カートリッジ)を用いる。これだけ取り扱いの違う銃を、戦場に出る直前にいきなり渡されても「銃の操作が解らない」と悲鳴を上げるのがオチである。実際、上野戦争で長州兵がいきなり渡されたスナイドル銃(後装ライフル銃)で戦場に赴き、銃の操作が解らず逃げ帰ってきたという。士中二番隊が便利そうに射撃戦を行っている事から、白虎士中二番隊が後装式の新鋭ライフル銃を装備していたという中村氏の説はここでは否定しておく。
敵軍の城下突入を阻止せよ!
天険母成峠は破れた!。そして、猪苗代城陥落との知らせが飛び込んでくる!。しかし、会津藩主力軍は今だ国境から帰還していなかった。会津城下はガラ明きだった。城下の住民達の避難も開始されたばかりである。この状態のまま城下に政府軍が雪崩れ込む事になれば……。会津藩は戊辰戦争中最大の危機を迎えていた。断固敵軍の進撃を食い止めなければならない!。その使命を果たす部隊の一つとして白虎士中二番隊に出撃命令が下される!。藩主松平容保も自ら滝沢本陣に出撃し、陣頭指揮を取るという。初陣にして最後の戦いと気負う少年達は、威風堂々と滝沢本陣へと出陣していく。白虎士中一番隊も行きたいとゴネたが。軍事奉行黒河内式部に「城に残って、喜徳公(会津藩世子)を守護せよ。」と窘められるという一幕もあった。こうして、藩主自ら陣将を従え鶴ヶ城から出撃していく。二十二日午後一時頃の事である。
滝沢本陣で、家老田中土佐と桑名藩主松平定敬らと合流。長岡藩兵も援軍に駆け付けていた。鬼官兵衛と言われた会津の猛将佐川官兵衛も指揮下の奇勝、回天、敢死、誠忠の各隊を率いて十六橋へ向かう。が、佐川の出陣は遅すぎる感じがする。なぜ遅れたのか資料が無い。猪苗代を占領した新政府軍が最後の障害である十六橋確保に動くことは必至だった。勝敗の鍵を握るのは時間だ。一方、十六橋の会津寄り方にある戸ノ口原から、援軍の要請が届く。しかし、援軍に出せる様な部隊など無い。戦闘部隊のほとんどが日橋川の最終防衛線構築の為に出払ってしまっている。そして藩主容保公の護衛の為に、滝沢本陣に留まる白虎士中二番隊の少年達に視線が集まる事になる。午後二時……士中二番隊に、戸ノ口原に進出し防御に当たれとの指示が出され、少年達の実戦投入が決定された。だが、その頃新政府軍も動いていた。十六橋の会津軍に対し、薩摩藩川村純義による怒濤の電撃戦が開始されていたのだ。
激突!
新政府軍は疲労困憊していたという。母成峠で伝習歩兵を破り、猪苗代城を攻略して同地を占領した薩摩兵達は、今日はここで泊まりだと思い、各々夕食の支度を始めていた。所が、指揮官の川村純義がそれを見て一喝した。薩摩藩士の誰もが驚いたという。川村純義隊に属している川村景明(後に元帥・陸軍大将)の回想である。川村純義は、猪苗代城の抵抗が意外に少なかった事を疑問に思っていたという。猪苗代城で決死防戦しないからには、別の場所に防衛線を作っている。それは十六橋しかないと見切った川村は、兵を休ませる事を棚上げして進撃を決意したのだ。会津軍に防御態勢と整わせてはならない。川村隊が十六橋に向けて急進撃を開始する。その一方、会津軍奇勝隊が十六橋に取り付き、橋の破壊を試みていた。十六橋は石橋で破壊に時間が掛かっていた。そこに急行してきた新政府軍川村隊が到着してしまう。後装式ライフル銃で奇勝隊に猛攻を加えてこれを撃破。川村隊は十六橋を難なく確保し、とうとう会津軍が設定していた最終防衛線日橋川を突破した!。二十二日午後四時頃の事である。新政府軍は、戸ノ口原に進出を開始する。新政府軍の侵攻を阻止する障害地形は、もはや滝沢峠だけであった。会津主力部隊は今だ鶴ヶ城に戻ってきていない。白虎士中二番隊の使命は、戸ノ口原で敵軍の進撃を阻止するにあった。少年達は塹壕に籠もり、敵軍を待ち受けている。この少年達に新政府軍は猛然と襲いかかっていった。白虎隊の史料に飯沼貞吉が残したモノと、酒井峰次が残したモノの二つがあるが、どうも記述に食い違いがあり、お互い別々に行動していたと考えざるを得ない部分がある。したがって、この時白虎士中二番隊は最低でも部隊を二つに分けて部隊展開をしていたと推測される。酒井の所属した隊と、教導篠田儀三郎に率いられ飯沼貞吉が所属した部隊だ。兵力が少ないだけに部隊を二つに分け、広く兵を展開していたのだろう。会津の義勇軍敢死隊も駆けつけて防御している。夕暮れから行われたこの戦闘は、日が暮れる事で自然休戦となった。白虎隊は夜を徹して防御線に張り付く事になる。この戦闘で中村彰彦氏は、酒井の記録に「我に利有り」という記述が有る事から、白虎隊が優勢であったとし、その原因は、後装式新鋭銃を二番隊が持っていたからだとしているが、先にも書いたように後装銃を持っていた事が疑わしいので、ここではその説は取らない。私が思うに「我に利有り」とは「我が方に、地の利有り」もしくは「敵より我の方が、有利に戦える状態だ」という意味ではなかろうかと思う。事前に塹壕を掘り陣を構え、地形を熟知して待ち伏せる会津軍に地の利が有るのは当然の事であったろう。
そして、この戦闘の夜、食料を持たずに出撃していた白虎隊の食料調達の為に、隊長日向内記が部隊を離れる。これが悲劇の始まりだった。いわば白虎隊が自刃する要因の一つとされる事件で、以後日向内記の評価が悪く言われる様になるのだが、一言言わせて貰えれば、日向内記は、実戦経験を持った指揮官であった。緊急配備された白虎隊の今後の行動指示を受けるべく本陣で指示を仰ぐ、軍議に参加するという事もあろうから、食料の為だけに隊を離れたわけではなかっただろう。だが、結果として日向は時間を掛けすぎてしまい、隊への帰還が遅れた為に士中二番隊とはぐれてしまうのだった。
士中二番隊の方はというと、敢死隊と撃ち合わせて、敵を挟撃しようとする。血気盛んな少年達は、塹壕に籠もっての穴熊戦法では物足りなかった。今度は、こちら側から積極攻勢に出ようと言うのだ。ここで教導篠田儀三郎が立ち上がり「隊長今に至るも返らず、不肖篠田、隊長に代わって指揮す!。」と宣言した。ここで日向内記が居なかった事が悔やまれる。母成峠の戦いの項でも書いたが、ここで会津軍がすべき事は時間稼ぎである。決戦を避け、少しづつ後退しながら戦い続ける事、遅滞戦術を行うべきであったと思われる。もう少しがんばっていれば、いずれ歴戦の会津主力が駆け付けてくる。実戦経験豊かな指揮官がいれば篠田をそう諭しただろう。だが、そこにいたのは血気盛んな少年達だけだった。少年達は健気にも積極攻勢、つまり政府軍に対する決戦を挑んでしまったのである。
二十三日早朝……白虎士中二番隊は、攻撃を開始した!。奇襲を喰らった新政府軍であったが、こちらも歴戦の兵揃い、状況を判断するや否や猛然と反撃を開始した。数に勝る新政府軍は人海戦術が如く士中二番隊に襲いかかり、包囲殲滅を狙う。白虎隊にも死傷者が出て篠田は撤退を決意した。しかし、それは紛れもない敗走であった。士中二番隊はチリジリに何個かの少数グループで敗走する事になる。篠田に率いられたグループは飯盛山に至り、鶴ヶ城が燃えていると錯覚して、全員壮烈な自刃という悲劇が起こる。酒井峰次のグループは、大人の指揮官が存在していた為に、篠田とは別の判断をした。酒井を始めとする少年達は「沓掛峠で、最後の決戦」と決意していたが、小隊長山内蔵人は、「敵は多く、こちらは少数。いたずらに犬死にするよりは、私に従って敵を避け、後図を計ろう」と言う。少年達は反抗した「小隊長の癖に腰が抜けたか」と怒り出す事もあった。しかし、結局は山内気迫が勝り、指示に従って後退を開始したものの、はやり途中でちじりじになってしまい、城へは少数のグループで向かった様だ。なお、その中にも飯盛山へ達して篠田達と共に自刃した者もいた。
城下突入
二十三日早朝……白虎士中二番隊が決戦を挑んでいたその頃、士中一番隊の少年達も鶴ヶ城で待機していた。入ってくる報告は味方の不利を伝える者ばかりである。午前七時、鶴ヶ城の鐘が乱打された。武家の者は城に入り、籠城戦の支度をせよという合図だ。城下に住む誰もが、まもなく我が故郷我が家が戦火に焼かれるのだと思った事だろう。城に入って無用に兵糧を食い潰してはならないと、自ら命を絶つ武家の婦女子も続出した。鶴ヶ城の籠城支度は全く間に合っていなかった。城外の蔵に蓄えてあった兵糧を城内に運び込む時間すらないという状態だったのである。住民も避難の真っ最中であった。
新政府軍は、薩摩に出し抜かれたと怒る土佐兵を先陣に滝沢本陣に進撃している。政府軍は、毎日交代で先陣を勤める約束だったが、十六橋の時は川村の薩摩隊がそのまま先陣で先走った為に、土佐藩としては十六橋攻略の功名を薩摩に奪われた形になっていたのである。会津城下突入一番槍を目指し、土佐の天才的野戦軍指揮官板垣退助が、敗色濃い会津兵に猛追撃を掛けていた。松平容保・定敬兄弟のいる滝沢本陣も危険になり、家老田中土佐が、容保に対し帰城を促すが、容保は「自ら兵を率いて、ここで決戦する!」と断言した。容保の脳裏には、燃える城下と逃げ惑う家臣家族領民が見えていたに違いない。「ここで戦わずして何が会津の藩主か!」という気持ちだったろう。田中土佐を始め、家臣達は容保を諫めた。会津兵主力が城に帰ってきたときに困るといって、容保を翻意させている。容保は、急ぎ帰城の支度を済ますと、兄上と共に戦いたいと訴える弟の定敬に「ならぬ、米沢に行き、同盟諸藩と善後策を練ろ。」と指示した。
一方、鶴ヶ城に「滝沢本陣が突破され、容保公は帰城しつつあり。」という最悪の情報がもたらされていた。すぐさま白虎士中一番隊の少年達が集められた「事急なり、滝沢に至りて老公を迎え、守りて帰城すべし。」との緊急命令が発令されている。一番隊の少年達は藩主の危機を救わんと甲賀口門へ走った。甲賀口門に至ると、馬に乗って少数の部下を従えた容保と出会う。少年達は捧げ銃の礼で藩主を迎えている。容保は少年達に「敵兵尾撃して数百歩の後に迫る。汝ら(余に)従うを要せず。この郭門に拠り、もって敵を防げ!。」と命じている。士中一番隊小隊長春日和泉は「敵をして、この郭門より一歩も入らしめず!。」と大声で返答し、少年達に指示を出し、白虎士中一番隊は、甲賀口郭門防備の任務に就く。滝沢本陣より最も最短の位置にある甲賀口郭門が破られれば、待っているのは城下の地獄絵図である。少年達は文字通り「死守」する以外に道はない。白虎隊以外にも、幼少組(十五歳以下の子供達)と老人組も甲賀口投入された。悲しい程に非力な戦力だったが、会津にはその戦力しかなかった。軍事奉行の黒河内式部も甲賀口に撤退してきた会津兵を率いて防備に就いた。この非力な戦力に守られた郭門に、新政府軍板垣退助は襲いかかっていった。武装面でも兵力面でも優勢な新政府軍に対し、士中一番隊は決死防戦を開始する。郭門の壁を胸壁に、装備されたヤーゲル銃を放った。ところが、どうやら不良品が多数混じっていたらしく発火装置が緩んだり、銃身と台がバラけてしまったりと壊れる銃が過半数だと記録されている。中村彰彦氏は、「やはりヤーゲル銃では使いモノにならない。」などと言っているが、これはもう銃の性能のせいではない。明らかに不良品なのである。会津藩も奥羽の他の藩同様に外国商人に不良品を売りつけられていたのではないだろうか。士中一番隊は戦闘を継続したが、続々と続く政府軍の前に力が及ばず、郭門も突破されてしまい、一番隊は敵中に孤立してしまう。ここで、潔く撃って出て斬り死にしようという者もあったろうが、隊長の春日が「面々ここを退避し、たとい一人となるまでも城に入り、死生君公に従うべし」という方針の元、あくまで城に帰るという決断をしている。敵の目を盗み、所々で戦闘を行いながら、士中一番隊春日小隊は城に入ることが出来ている。一方、士中一番生田小隊は、途中春日小隊とは別動した。生田小隊は、郭内から城内に入る事を諦め、一端郭外に出て遠回りして帰城しようとしたのである。甲賀口郭門の攻防戦が始まったのは午前十時。士中一番隊春日小隊が城に帰り着いたのが正午だった。まだ会津の一番長い日……八月二十三日は終わっていない……。
鶴ヶ城籠城戦!
甲賀口郭門強行突破に成功した新政府軍は、一挙に鶴ヶ城へ迫った。今だ会津主力は帰らず、城内にいるのは留守部隊のみ。一気に力攻めで落城させようと迫る。これに対して、会津軍は、ゲベール銃やヤーゲル銃、火縄銃まで持ち出して防戦に勤めていた。そこへ白虎士中一番隊春日小隊が無事帰還を果たして入城してきたのである。すでに籠城戦に突入していた。かつて蛤御門の戦いで会津軍を率いて長州軍を撃退した家老神保内蔵助を始め、田中土佐、土屋一庵の三人は自刃。軍事奉行黒河内式部は、甲賀口郭門で戦死。老臣井上丘隅も帰宅して妻子三人で自刃した。板垣退助率いる土佐藩兵たちは、会津藩に最後のトドメを刺すべく北出丸の大手門に殺到する。白虎士中一番隊春日小隊は、休む間もなく北出丸の防備に廻った。甲賀口郭門の攻防戦に引き続き、板垣退助率いる精鋭土佐兵との戦いを開始する。鶴ヶ城の大手門は、さすがに工夫してあり、真正面から一見しただけでは、どこに門があるのか解らない。この為に、土佐兵は北出丸に殺到したまでは良かったが突入口を見つけられず戸惑っている。ここまで至近距離になると性能の悪い火縄銃でも命中弾を出せるし、籠城組は城の壁に明けられた多数の銃眼から銃身だけを出して狙撃が出来る。士中一番隊春日小隊は、ヤーゲル銃をもってこの土佐兵達を銃撃している。板垣隊は城内からの集中銃撃を浴び、損害が拡大していった。さすがにたまらず、ここに至って板垣は薩摩藩兵に援軍の要請を出す。薩摩の大砲隊で城の建造物を破壊してしまうと考えたのだ。大砲隊の隊長はもちろん大山弥助である。だが、余りの激戦で大山自身が敵弾に撃ち抜かれてしまう。薩摩大砲隊は、負けじと鶴ヶ城に砲弾を撃ち込んだ。一方、鶴ヶ城も反応砲撃をしている。主力砲隊も出払っている会津軍は、会津藩大砲指南役山本覚馬の娘、山本八重が臨時に陣頭指揮を取り、城内から新政府軍に向かって砲撃を開始したのである。さすが奥羽の名城会津鶴ヶ城……力攻めで攻めに攻めた新政府軍だが、これ以上の戦闘は自軍の損害が増えるばかりと悟り、一時後退して鶴ヶ城を包囲するという作戦転換をせざるを得なくなる。会津軍は薩摩土佐連合軍の猛攻を防ぎきった。だが、やはり搦め手から密かに側面攻撃を企む部隊がまだ残っていた。長州藩兵である。どこの戦場でも長州兵は常に敵の側面後方へ回り込もうとする別働隊を作る。今回も土佐薩摩が真正面ならばと、長州藩兵は迂回移動し、会津軍が北出丸に気を取られている隙を突いて南門へ殺到した!。事実、会津は北出丸の防備に気を取られ南門は手薄どころかガラ明きだったのだ。それを聞いた会津軍は、臨時に非戦闘員を集めて進撃隊と名付け、南門を防備させている。北出丸の防戦から三の丸に戻ってきていた士中一番隊春日小隊も、休む間もなく南門防備に急派される。進撃隊は臨時部隊故に銃を全く装備していない。ヤーゲル銃を装備する士中一番隊春日小隊が力戦して長州兵を撃退し、南門も何とか守りきる事に成功する。一方、その頃、士中一番生田小隊は、愛宕山麓にいた。一端城から離れた彼らは、大迂回していたのだ。愛宕山の麓から鶴ヶ城を見たら、城は炎と黒煙に包まれている。そして、彼らもまた入城を断念し士中二番隊同様に自刃しようとするのだが、そこに偶然家老田中土佐の家臣らしき者がやってきて、入城を諦めるのは早計であるといって彼らを諫めたという。この辺り諸説あるが、ともかく彼らは、自刃を思いとどまり、一端さらに城下から離れて一泊し、翌日無事に入城を果たしている。
こうして会津の一番長い日八月二十三日は終わった。新政府軍の会津軍の隙を突いて一挙に鶴ヶ城を陥落させるという作戦は頓挫する。翌日になり、次々に入城を果たす会津主力部隊の前に、政府軍は短期決戦ではなく長期攻城戦を覚悟した。白虎隊の少年達も二十三日を無事生き残った者達で再編され、集成白虎隊(中村彰彦氏は合併白虎隊と呼ぶ)となって約一ヶ月間も続く会津鶴ヶ城籠城戦を戦う事になる。会津藩は松平定敬が向かった米沢藩からの援軍に望みを託していた。しかし、米沢藩から来たのは恭順を勧める使者だけであった。すでに奥羽越列藩同盟は崩壊していたのである。九月二十二日、ついに会津藩は降伏開城となる。