会津鶴ヶ城城南方面・飯寺の戦い

 会津鶴ヶ城は、伊地知正治の白河口官軍による急襲の前に、籠城戦に突入した。ここで、問題にしなければならないのは、会津藩側は、まったく籠城の準備が出来ていなかったという点である。会津軍主力は、各国境に張り付いており、予備兵力である白虎隊等の二次戦力で対応せざるを得なかった。これはまだ良い。最低限の兵力(それでも少なすぎるが…)は城にあったのだから。最大の問題は、籠城戦用の兵糧が城外に有った事である。これは会津藩の不手際と言わざるを得ない。通常、備蓄米はその性質上、城内の倉に備蓄されるべきである。が、太平の世の中で籠城戦という危険が少なかったからであろうか、会津藩は大半の備蓄米を城下町の倉に貯蔵していた。これが、白河口官軍の急襲で、城内へ輸送できなかったのである。この結果、会津藩は籠城戦での「兵糧攻め」を恐れて、会津藩正規軍以外の部隊の鶴ヶ城入城を拒絶するという手段に出た。この結果、旧幕脱走軍などが鶴ヶ城籠城に参加しようとしても、会津藩は城に部隊を入れず、しかたなく城外の色々な場所に散ってゲリラ戦をせざるを得なくなってしまっている。また、会津軍主力は鶴ヶ城危機の報を受けると、城への帰還を目指して国境から帰ってくる。当然、国境の戦線は維持できず、官軍が四方から殺到する事になり、会津軍は奥羽越列藩同盟の援軍にすべてを賭けた籠城戦となる。が、兵糧不足と武器弾薬の不足は解決できず、これが後々尾を引く事につながった。

籠城戦は最後の手段


 「城」という守る為に作られた要塞は、「防衛戦」で絶大な効果を防衛側に与える。攻撃側に取って、敵が城に籠もるという事態は、攻撃側に絶大な負担を強いる。したがって、「防衛戦」において「城」は拠点となるのだが、逆に「城が落とされれば、終わり。」である。つまり、防御側は籠城したからには、絶対に勝たなくてはならない。
 籠城戦において、防御側が勝利するには2つの方法がある。1つは「援軍」を待つ事。2つ目は「敵が弱体化する」のを待つ方法である。どちらも「待つ」事から長期戦となる。一方、攻撃側は長期戦を強いられる。短期決戦に持ち込んで力攻めしても良いが、相当の犠牲を覚悟しなくてはならない。攻城戦の最も有効な作戦は「兵糧攻め」だと言われている。これは、戦国で城攻めを得意とした「豊臣秀吉」が、得意とした攻城戦法が「兵糧攻め」であり「水攻め」であった事で証明済みだ。
 この事実を踏まえて、会津戦争に話しを戻そう。
 会津軍が「官軍が兵糧攻めを行う」事を恐れるのは当然だ。したがって、会津軍は「補給線」の確保に必死になる。一方、官軍は官軍で圧倒的な戦力で会津軍を鶴ヶ城に追い込んだまでは良かったが、鶴ヶ城を包囲するには戦力が足りない。包囲できなければ兵糧攻めは出来ない。実は籠城戦初期段階では、前述の状況により戦況は膠着してしまう。官軍としては、一刻も早く兵力の増強を行い、鶴ヶ城を包囲してしまいたい所だ。会津軍に取っては、官軍が鶴ヶ城の北と東を勢力圏とした事から、なんとしても西と南方面は官軍の侵攻を防いで、補給線を確保しておきたい。籠城戦が始まってから、この鶴ヶ城南郊で会津軍と官軍が野戦を行った理由がここにある。

長岡の蒼き龍・河井継之助示した道


 長岡藩にあって、常に先進的な指導者の立場にあったのが河井継之助である。藩の財政改革でその実力を発揮し、戊辰戦争では「第三者の立場を守って中立」を宣言、その一方で強力な武器を調達し、その装備は官軍に劣ってはいない。軍事面では、朝日山の攻防で官軍初めての大敗北へ追い込み、官軍が長岡城を落とせば、奇襲によりこれを奪回するという大活躍を見せた。幕末に英雄・英傑は多数でたが、これほど軍事面と政治面で大活躍した人物も珍しい。しかし、継之助の活躍もむなしく長岡城は、官軍に再奪回され長岡軍は敗走した。これは、継之助がどんなに頑張っても、増援に継ぐ増援が可能な官軍とそう簡単には兵力の増強を望めない長岡軍の差の結果である。長岡敗走の最中に、継之助は長岡藩兵の取るべき道を示している。
 「会津も永くはもつまい。今後、ともにすべきは庄内だ。君らは努力して他藩からあなどりを受けぬようにしてくれ。奥羽の諸藩もいずれは敗亡の運命となろうが、機を見て幼君をスネルの汽船に乗せフランスへ渡航せよ。スネルには三千両渡してある。数年もフランスにおれば天下の形成も一変する。」  とこれからの戦況と明治新国家の将来を予測している。さらに、
 「世の中は大変面白くなってきた。これからのことは商人が早道だ、思い切って商人になりやい。」  と従者に言ったという。
 この後、継之助の予想通りになっている点は見逃せない所だ。彼が死ぬのは慶応四年八月一六日である。白河口官軍が母成峠の会津軍を破って、会津領へ怒濤の如く攻め寄せたのが八月二十一日である事を考えれば、継之助のこの発言は会津が籠城に突入する前に言った事になる。
 ともかく、継之助の発言には無視できない点がある。それを考えてみよう。まず、奥羽同盟が白河城を奪回できず会津領の東側の諸藩が官軍により敗北させられたとはいえ、奥羽の大藩と言われる会津藩・仙台藩・米沢藩は健在であり、むろん庄内藩もだ。庄内藩は奥羽越列藩同盟が結成される前に、会津藩と「会庄同盟」を締結している。会津藩とならんで、強力に官軍に抵抗する事が見込まれていた。さらに、会津と庄内の地理的条件がある。会津は山国であるが、庄内は海岸を持ち港がある。この差を継之助は考えたに違いない。状況的に考えれば、会津藩は過去の経歴からの理由で、死に物狂いで戦うだろう。しかし、山国ゆえに補給線の確保が難しい。補給が続かなければ、一方的に攻撃され脱出もままならぬ内に負けてしまう。(これが、旧幕脱走軍が会津を捨てて仙台に脱出した理由である。)一方、庄内は海岸を持つが故に、外国の闇ブローカーを通じて補給が可能だ。事実、継之助が「幼君をフランスへ亡命させる。」という意図からの発言であるから、裏を返せば前述の事は予想できる。さらに「奥羽の諸藩もいずれは敗亡…」という部分から、会津藩は敗北する。会津藩が負ければ列藩同盟は崩壊する。同盟が崩れれば、庄内一藩だけで生き残るのは無理だから、いずれは庄内も負ける。と継之助が予想している。その上で、フランスに渡って数年も立てば、日本の様子も変わり長岡藩兵の生きる道も見つかると言っている。そして、その最も早道は「商人になる事」である。あっさり「武士をやめろ」と言ってる点は先見の明だろう。なまじ、「武士道うんぬん」とか「逆賊の汚名をそそぐ」などに固執せず、あえて「これから生きる道」を示している点で見逃せない。実は前述の2点に固執すると視点が「日本から離れられない」という事になり、薩摩藩長州藩が作る明治政府の下で、自由を奪われ不遇な目に遭わされる可能性が有った。それでは、長岡藩が新しく生まれ変わる事もできず苦しむ事になる。  私が、少ない継之助の言葉の中で、無視できなかった点がこれである。
 これだけの予想を指導者から受けた長岡藩兵は、国こそ失ってはいたが他の奥羽諸藩より状況を判断する上では有利だったに違いないと思う。

山本帯刀の戦略


 長岡藩で忘れてはならない人物が、この山本帯刀である。
 長岡藩家老職にある山本家に養子に入った人物で、門閥の上士の出である。上士というと、どこの藩でも保守的思想を持ち、自藩第一主義の人物が多い中、彼は改革派の継之助の良き理解者であった。継之助が活躍できたのも、彼がいたからである。戊辰戦争では、継之助を補佐し、長岡藩の大隊長として活躍した。
 長岡陥落後は、継之助と同じ八十里越えで、会津へ向かった。その理由は会津に長岡藩主・牧野忠訓がいたからだが、八月下旬には会津から米沢へ向かった。これに合わせて長岡藩兵も藩主を追って、その多くは米沢へ向かったが、山本隊だけは会津藩支援の為に鶴ヶ城へ向かっている。
 この行動は、継之助の指示と違っている点で注目できる。
 継之助の様にスパッと過去の因縁をアッサリ断ち切って、物事を考えられる人物ならいざ知らず、山本帯刀は門閥藩士の出であり、戦争に負けたと実感できていなかったか、まだ勝つチャンスが有ると考えていたか…。
 奥羽越列藩同盟は、危機的状態に有ったが、崩壊した訳でもない。つまるところ会津藩が攻め寄せる官軍を撃退できれば、息を吹き返す可能性が高かった。逆に会津が落ちれば、文字通り奥羽越列藩同盟は崩壊するだろう。戊辰戦争で勝とうと考えるなら、庄内ではなく会津で勝たなくてはならない。
 そして、会津が勝つ可能性は皆無ではなく、会津が粘って戦争を冬まで持ち込み、雪で官軍の動きを止めてしまえば、遠征軍である官軍は「寒さ」「雪による行動の困難」「雪による物資の補給困難」などにより、苦戦は免れない。餓死や凍死が出始めれば、一度は会津を見捨てようと考えていた仙台藩や米沢藩も、勝つチャンスと見て出撃する可能性が高い。背後を仙台藩や米沢藩で突けば、官軍が敗北を喫する可能性は高かった。海でも、冬まで粘っていれば榎本武揚の旧幕海軍が援軍を乗せてやってくる。旧幕海軍が来援に来れば、海路で新潟港を攻撃し、これを奪回して外国との貿易港を確保した上で、長岡を奪回する事も夢ではなくなる。もちろん、会津攻撃の戦略拠点「白河城」を官軍のスキを突いて太平洋方面から上陸し奪回してしまえば、戦局は一変してしまうだろう。大兵力を持つ官軍といっても、後方の守りも重要という認識が日本に普及していない時代である。鶴ヶ城攻城戦の頃には、最前線ではない白河城周辺には、それほど強力な部隊が存在せず、少数の守備隊が存在していただけだ。
 山本が考えていたのは、前述の事ではないだろうか。良く、山本の死に様から「武士らしく、会津と運命を共にしたかった。」などとアッサリ書かれがちだが、藩主がそういう覚悟を決めていたならともかく、この時に藩主は米沢にいるのだから、武士道うんぬんで死にたがっていたなら、藩主と運命を共にしただろう。つまり、山本は戦争に負けるつもりはなく、戦略を考えた上での会津救援だったと私は考えている。

問題は補給線の確保


 薩摩軍中村半次郎の率いる官軍日光口支軍は、九月六日には飯寺を占領しており、支軍本部を置いて戦闘態勢を取っている。この日光口支軍も補給線の確保が上手くいっていない。
 実は戊辰戦争当時は、補給線確保という考え方自体が、日本の軍隊に余り知られていなかった。この為に、官軍も奥羽同盟軍も補給線を余り考えずに戦争したため、たびたび失態を演じている。日光口支軍の場合、白河口官軍(伊地知部隊)と連絡を取る為に、中村半次郎自身が護衛部隊を率いて出向いていった。そのスキを佐川官兵衛の率いる会津軍に突かれて、同盟軍の攻撃を受け、せっかく運び込んだ物資を同盟軍に奪われている。また、飯寺を確保したとはいえ、後方の安全を確保していなかったため、たびたび後方の補給隊が襲撃を受けている。飯寺の戦いの後の話しになるが、補給に困った支軍は、補給線を官軍が支配している会津〜勢至堂〜白河方面に変更した。この為にさらに手薄になった田島方面を高田にいた会津軍の佐川官兵衛隊に再占領されてしまっている。以後、田島方面は会津軍城外部隊の一大拠点として機能してしまい、官軍は鶴ヶ城落城まで苦しめられる事になる。
 一方、会津藩は包囲されていない南方面を補給線として守り通す事が勝利条件だ。しかし、日光口官軍が飯寺を占領した為、高田方面などの南方面の補給線が切断された形となっている。会津藩としては、この日光口官軍を撃退し、高田方面との補給線をつなげたい。会津藩は「鬼の官兵衛」と言われた猛将・佐川官兵衛を派遣し、物資の調達を計る事になる。その任務は官軍の後方を脅かし、官軍の補給物資を奪取する事であった。佐川隊は九月八日に鶴ヶ城を出撃する。

飯寺の戦い!


 官軍は飯寺での失敗を繰り返さないために、日光口支軍本部と薩摩、黒羽、宇都宮、館林、中津、今治の各藩に飯寺を守備させている。対する会津軍は、国境から戻ってきたと思われる正規部隊、そして長岡から会津救援に来た山本帯刀の率いる長岡兵である。会津正規の部隊は、数日前に飯寺を襲撃し、官軍に一泡ふかせた部隊で、高田に後退していた部隊である。途中で、物資確保を任務とする佐川官兵衛隊と出会うが、佐川はあくまで「官軍後方で、敵の物資を奪取する」という方針を曲げず、結局高田方面へ去っていってしまった。高田方面に敵がいないのは、それまで飯寺攻撃に襲撃した部隊が出撃した場所が高田である事で証明済みだ。確かに、佐川隊が高田を拠点に暴れた為、鶴ヶ城包囲網の後方を脅かされ、官軍は手こずったが、結果から言えば佐川隊も鶴ヶ城が完全包囲される事で城へ帰れなくなり、物資を奪って城へ運び入れるという目的が達成できないでいる。つまり、「補給線の確保」に失敗しているのだ。
 すでにこの時期、会津藩の北に位置する米沢藩が官軍に降伏し、いよいよ会津藩は北、東の同盟諸藩を失ってしまう。
 会津兵は九月八日、飯寺の官軍に対して攻撃を行った。目的は、飯寺を占領し高田方面との補給線を確保する事である。会津兵は、右翼隊、中央隊、左翼隊、そして長岡兵三小隊からなる左迂回隊と部隊を分け、飯寺の官軍諸部隊に襲いかかった。最初に攻撃を開始したのは、会津兵中央隊と右翼隊である。当日は雨天と朝霧が発生しており、官軍は不意を突かれた形である。
 官軍側は、即座に陣地に入って防戦している。さすがに奇襲の効果が有ったにしても陣地に入られては、そう簡単には攻められない。さらに飯寺の東や南(会津軍は飯寺の南にある一ノ堰から進軍)は、原野や畑ばかりで開けた土地であったため、適当な遮蔽物が無い事もあり、攻めあぐねた様だ。
 戦闘が進むにつれ、官軍側は会津兵が少数である事に気が付き、薩摩兵と黒羽兵が最前線を守る今治兵の増援に部隊を投入、今治兵の陣地を強化すると共に、攻める会津兵の側面へ回って側面から攻撃を行った。これにより、会津兵右翼隊の攻撃は頓挫し、退却する。
 会津右翼隊が崩れた事で、今治兵薩摩兵、黒羽兵の連合部隊は、苦戦を続ける館林、中津兵の増援に駆けつける。陣地の館林、中津兵も苦戦したが、会津兵も陣地を抜けず苦戦、これに増援に駆けつけられてはたまらない。ついに、会津兵は全面撤退へ追い込まれる。

山本帯刀の最後


 主攻を勤めていた会津兵に対して、山本の率いる長岡兵は、いわば助攻である。戦闘に置いて、主力部隊の戦闘行動を行いやすくするための戦闘を行う事が助攻の役目である。従って、主攻が敗れ去った時、助攻である長岡兵は危機的状態とならざるを得ない。
 山本隊は、左迂回隊として大川沿いを北上し、官軍の背後に回り込み、南方面から攻める会津兵と共同して官軍を挟撃するという作戦だった。もちろん挟撃を行うにしても兵力不足である。つまり、飯寺奪還は会津兵にまかせ、山本隊は、南から攻める会津兵の対応に追われ北を手薄にした官軍に襲いかかって官軍を混乱させる、陽動部隊であると考えられる。もちろん、敵の背後を取る以上、山本隊は文字通り「敵中深く入り込む」ことになるので、発見されればひとたまりもなかった。だが、当日の「朝霧」という天候が幸いして、迂回行動に成功し官軍の背後を取る事に成功している。ただ一つ計算違いが有るとするなら「会津兵惨敗」という結果だろう。
 山本隊が攻撃に移った時は、まだ会津兵は完全に破れていなかった為、南方面からは銃声が聞こえる。山本帯刀に取っては予定通りの行動と判断していただろう。山本隊は宇都宮兵の守る陣地に攻撃を開始する。他の部隊は会津兵に対応して動いていた為に、宇都宮兵は苦戦、支軍本部に援軍を要請する。支軍本部は援軍を認め、宇都宮兵の左翼に援軍が出現すると、たちまち山本隊は危機に陥った。
 さらに、黒羽兵が増援に現れて山本隊の側背に出てきた。山本隊は、これを味方の水戸脱走部隊と間違えてしまう。実は、山本隊と水戸脱走部隊との間で、相互援助の約束があり、それで水戸脱走部隊が援軍に駆けつけたものと勘違いしたのだ。
 これで、山本隊の運命は決まってしまう。至近距離から黒羽兵が射撃を開始し、山本隊は完全に官軍に包囲されてしまう。この事態で、山本隊は自分たちが危機的状態である事に気が付くが、もはや部隊は大混乱でどうしようもない。
 いかに北越戦争で生き残ってきた屈強の長岡兵といえども、これではたまらないだろう。これで、山本隊は完全に壊滅してしまう。
 官軍は山本帯刀に降伏を進めたが、山本はこれを拒否、ここで山本帯刀はその人生に終止符を打った。

会津戦争での補給のツケ


 案外意識されていないが、会津戦争で「補給」という地味な活動が、実は重大になっている事に気が付いて貰えたと思う。会津藩は、兵糧の少なさから会津兵以外の兵を鶴ヶ城へ入城させなかった。これが会津を応援してきた旧幕脱走軍の信頼を失う原因でもある。そして、その旧幕脱走軍も会津藩に期待しているモノの一つに「補給」という一面が有った。これが籠城戦に入り期待できなくなると、会津藩を捨てて仙台へ脱出する理由となっている。銃を持っていても銃弾が無ければ戦争にならない。まして餓死する訳にもいかない。
 東北戦争全体で考えて見てもいいだろう。例えば、まだ北越戦争の時に、新潟港を官軍の敵前上陸の前に奪われてしまった同盟軍は狼狽している。理由は簡単だ。奥羽越列藩同盟諸藩で、諸外国と貿易し洋式小銃を手に入れるには、正式に開港されている「新潟港(実は新潟港は正式には開港していない。同盟軍が単独で開港させた港である。)」と「函館港」の二カ所だけだった。だから、この二つの港が戦略拠点となっている。中でも新潟港は奥羽地方にある唯一の貿易港の為に、その重要度は高かった。この新潟港を官軍に落とされてから、同盟軍の洋銃の補充や弾薬の補充が非常に難しくなってしまっている。さらに、榎本武揚の旧幕脱走海軍も奥羽越列藩同盟崩壊により、行く当てが無くなると、真っ先に「函館占領」に向かうのは、函館港が開港しているからだ。確かに、榎本は「蝦夷開拓」の夢を持っていたが、何を置いても函館五稜郭に本部を置いたのは、これが一つの理由である。

佐川官兵衛暴れるが…


 さて、補給とそして補給物資を運ぶ補給線の確保は、戦争で重要な意味を持つ事は、前述の通りだが、当時の指揮官たちにこれを望むのは無理だったらしく、同盟軍も官軍も補給(戦国の昔から小荷駄隊)はするが、補給線の安全を欠く戦いを行った。官軍もアレだけの諸藩軍勢を統括しておきながら、補給部隊の記録がほとんど無いという現状から考えても、官軍総督部では「補給の面倒まで見ていない」と「戊辰役戦史」では書かれている。補給は藩兵を出した藩が、その分の食い扶持は出していると考えて良さそうだ。これは同盟軍も同じだった様だ。したがって、部隊の行動は、藩という単位で行われ、他の藩と共同混成部隊を作るのは難しかったと思われる。
 飯寺の戦い以後、官軍の物資奪取に燃える佐川官兵衛は、補給線確保に少数の兵しか出していない官軍のスキを突いて、物資を強奪し城内に運び入れている。官軍主力は、鶴ヶ城の会津軍主力に睨みを利かせなければいけない都合上、後方で佐川隊が暴れ回っても表だって討伐に出れないのだ。結局、日光口支軍を指揮している中村半次郎は、補給線を変更せざるを得なくなり高田方面からの補給線を廃止している。この結果、佐川隊がさらに暴れ回る事になり、高田から田島を無戦闘で再占領し、たびたび官軍の物資を奪った。官軍の越後口官軍の到着で兵力の増強を計った官軍が、城を完全包囲し、この田島・高田と鶴ヶ城の補給ルートを切る事で、佐川隊が今度は物資不足に陥るまで、この混乱は続いてしまっている。佐川の失敗は、物資を得る事を目的として行動しているが、その行動は「山賊」と何ら変わらない点だ。長期的に考えなければいけなかったのである。長期的に補給物資の維持を考えたなら、補給線の安全を確保する為に飯寺の戦いに応じて、大兵力をつぎ込めただろうし、物資の調達も「敵が運んできたモノを奪う」というナンセンス(これが後方攪乱を狙った作戦行動ならいざ知らず)な行動は取らなかったのではないだろうか。付け加えるなら、物資不足の佐川隊は城に戻れず、自部隊の補給のために、さらに官軍の物資奪取に燃え、官軍の後方攪乱には大きく成果を上げていた事だけは、ここで書いておく事にする。