日光・勢至堂・鶴ヶ城南郊の戦い

会津戦争

 慶応四年八月二十三日、会津の一番長い日と呼ばれるこの日は、薩摩兵と土佐兵を中心とした新政府軍白河口総督府軍が会津白虎隊を粉砕して、会津鶴ヶ城城下に雪崩れ込んだ日である。白河口軍の侵攻は電撃的であり、会津藩の防御態勢は全く整っていなかった。会津藩は、多くの兵糧を城外に備蓄しており、これを城内に運び込む猶予すら無かった。この為に、籠城戦を開始したものの兵糧攻めにされる危険を意識して戦わなければならなかったのである。旧幕最強の幕府伝習歩兵や新撰組が、会津籠城に加わるべく鶴ヶ城入城を希望しても会津藩は拒絶せざるを得ない。何故なら各地に散っている会津藩兵主力が帰城した時、旧幕軍まで城に入っていたらとても兵糧が足りないからだ。二十六日になり、日光口の会津軍を指揮していた会津の名将山川大蔵が帰城する。すでに城は包囲されつつあったが、山川は彼岸獅子の踊りを部隊にさせて新政府軍を騙すという奇策を用いて無事に入城を果たした。会津軍の総司令である萱野権兵衛も城外出て帰城不能になっていた為、山川は若手でありながらも会津籠城軍の総司令となり籠城全軍を指揮、新政府軍の猛攻に立ち向かう事になる。すでに政府白河口軍は鶴ヶ城の北方を包囲しつつあったが、兵力がまったく足りておらず、城の西と南にまで包囲の手が廻っていない。だが、その城の南を包囲すべく驀進を続ける新政府軍の部隊があった。新政府日光口支軍だ。いままで山川が戦い続けてきた敵だった。この部隊までもが会津城下に到着すれば鶴ヶ城は完全包囲に陥り兵糧攻めにされる。会津藩は、なんとしても鶴ヶ城の南方面を補給線として防衛しなくてはならなかった。

勢至堂方面の侵攻

 新政府軍勢至堂支軍は、本来は母成峠を攻める白河口軍の助攻として勢至堂峠の会津軍を攻撃し、敵部隊を拘束もしくは会津軍に対する陽動を行う事が主任務であった。しかし、その部隊は尾張藩と紀州藩、佐賀、備前の兵からなり、尾張徳川と紀州徳川の兵が多く入っている事が特徴である。徳川御三家の兵が会津藩を攻めるかどうか…。新政府軍は、この徳川兵を母成の戦いに投入するのを避け、勢至堂支軍という形でこの方面に配備していた。この為勢至堂支軍の扱いは難しいものとなっている。勢至堂軍も母成峠を攻める本軍の支援のため会津を攻めなければならないが、同時にこれらの信用できぬ兵のテストも行わなければならなかったのである。ところが勢至堂支軍が会津領へ侵攻する作戦を練っている最中に、主力白河口軍が母成峠を突破し、鶴ヶ城城下に突入してしまったのだ。この早い展開に、勢至堂軍は完全に出遅れていた。二十四日、ともかく会津へ軍を進めなければならず、勢至堂峠に向かって進軍した。一方、この方面の防御を担当していた会津軍の指揮官は内藤介右兵衛と原田対馬だった。その兵力は約千名だ。この会津軍の元にも悲報が飛び込んできているはずである。内藤と原田は部隊をまとめ鶴ヶ城城下を守るべく、陣を引き払って撤収している。つまり、この猪苗代南岸の防備は完全に放棄されてしまったのである。新政府軍勢至堂支軍は、敵の抵抗を全く受ける事無く各峠を突破し、難なく会津鶴ヶ城を包囲する白河口主力軍と合流してしまう事になる。焦っていたとはいえ、全兵力を引き上げたのは失敗であったかもしれない。少数の守備兵を残し、敵の進撃を遅らせるべきだったろうと思う。こうしてみると、会津藩の防御計画の欠陥が浮き彫りとなってくる。母成峠という、たった一方面が破れただけで全ての方面の防備が次々と崩壊していったのだ。会津藩は鶴ヶ城城下に予備隊を全く配置していなかった。この為に、一方面が破られるとそこを補強する為の兵力がまったくないばかりか、鶴ヶ城自体を守る兵力すらなかった。最前線にいる部隊が、防備を放棄して鶴ヶ城に駆け付けなければならず、この為に会津の防備はすべて崩壊していくのである。

三斗小屋方面の戦い

 三斗小屋支軍も行動を開始する。黒羽藩兵と館林藩兵は、会津軍が守る三斗小屋村と大峠に向けて進軍した。白河から出発したこの部隊は、なんと那須高原の文字通り道無き道を進んだ。それは木こりや猟師が通過する獣道だったろう。進軍するだけでも大変な苦労だ。会津軍側は、三斗小屋方面に青龍二番寄合組中隊と青龍四番足軽中隊を配備している。その兵力は二〇〇程度という。三斗小屋支軍は部隊を二手に分けて三斗小屋の会津軍に攻撃を仕掛けている。森林地帯であり姿を隠せる事を利用して会津軍に近づき、別隊を背後に廻して奇襲した。会津軍も応戦を開始したが、背後から別動部隊が攻撃する事で混乱に陥り敗走した。こうして三斗小屋を占領した黒羽館林藩兵だが、この勢いで天険大峠も占領しようと進軍をしてみると、会津兵は大峠の防備も放棄して撤退していたため、一端三斗小屋村に帰って宿営している。八月二十六日、三斗小屋支軍は大峠を越えて会津領に侵入、中峠に向かうと、ここでは会津軍が陣地を築いて頑強に抵抗した。新政府軍は再び迂回移動して会津軍の側面を突き、一端は敗走させ追撃を開始するが、すぐ駒返し坂という場所で、会津兵が二〇〇名の戦力で、猛反撃を開始する。新政府軍側も二〇〇名なので、兵力としては互角だった。しかし、黒羽藩は新鋭銃スペンサー銃で武装していた。通称七連発銃と呼ばれるこのライフル銃は、佐賀藩と黒羽藩だけが標準装備としていた最新鋭ライフル銃だ。黒羽兵の一隊を会津兵の側面にまわらせて側面と正面からの十字砲火を浴びせて会津軍を敗走に追いやっている。この後、三斗小屋支軍は会津領に深入りはせず三斗小屋に帰っている。これで三斗小屋付近の会津軍は掃討した事になる。だが意外な問題が浮上した。補給である。この三斗小屋は非常に小さな村であり、道も小さく険しい道しかない。馬で米を運ぶ際に、普通四斗運べる所を、三斗にして運ばなければ馬が潰れてしまうという所から、三斗小屋という地名がついている程、物資輸送が困難な地域であった。いわば陸の孤島である。この為に物資が不足し始めて進軍したくても容易に出来ないという状態となっていた。仕方が無く、使者を四方に走らせて補給を要請、その補給が届いたのが八月三十日で、翌九月一日になってようやく進軍を開始して会津領内に侵入し、会津の大峠防御線を突破したのである。
この三斗小屋支軍の会津侵攻の効果は、日光口横川山王峠戦線に影響を及ぼし、この戦線を守っていた会津軍は、この三斗小屋支軍に退路を断たれる事を恐れ、横川山王峠の防備を放棄後退した。日光口支軍はほとんど戦わずして山王峠を突破するのである。

新政府日光口支軍の進撃

 日光方面の陣将山川大蔵が会津の精兵を率いて、鶴ヶ城に帰城した為、この方面の会津軍防御線も後退せざるを得なかった。それでも、会津国境線である天険山王峠まで放棄する事は出来ず、会津軍はここに陣地を構築し防御しようとする。新政府軍に山王峠を越えられれば、会津領侵攻を許すことになる。ここを守っていたのは会津兵や郡上藩の凌霜隊など百二十四人だったという。余りにも少ない兵力だった。凌霜隊とは、郡上藩が会津救援のために差し向けた部隊だ。郡上藩自体は小藩であり、単独では新政府軍とは戦えなかった。恭順せざるを得なかったが、それでは徳川家や会津藩に申し訳がないという事で、藩兵を脱走兵という形で、会津へと向かわせたのだ。これが凌霜隊であった。この悲壮な部隊は、会津藩と運命を共にすべく奥羽へと走り、会津藩兵と共に戦い続けた。会津藩も会津藩士以外ほとんど城内に入れなかったのにも関わらず、この部隊だけは特別視し、会津藩兵同様に扱って城内にも入れいている。
 一方、新政府軍日光口軍はどうだったかというと、この方面の指揮官に指名されたのは薩摩の猛将、人斬り半次郎とも言われた中村半次郎だ。後の西南戦争では、総大将に西郷隆盛を頂きその下で薩軍を動かした実質ナンバー2の地位に就いて戦っている。なぜこの人物が日光口の指揮官になったのかといえば、西郷隆盛の一声があったからである。かつて日光方面には軍略家大鳥圭介が指揮する幕府伝習歩兵と山川大蔵が指揮する会津軍の精鋭が防備に就いていた。しかも、山川の機転で会津軍が流浪軍に過ぎない大鳥脱走軍の指揮下に入るという思い切った行為で指揮が統一され、強力な旧幕会津連合軍をを形成していたのである。会津へと続く街道は山岳地帯で難路が続き、攻撃するにも酷く難しいと予想されていた。土佐の天才板垣退助をもってしても防戦が精一杯という状態だったのだ。長州の大村益次郎が新しくこの方面に日光口支軍を作り、その指揮官を誰にするのかで悩むのも無理はない。大村は西郷に「この方面を間違いなく指揮できる人物を知らないか」と尋ね、西郷は「中村半次郎ならできる。」と答えたという。こうして、中村は大抜擢され日光口支軍の指揮官となる。では、実際に彼がそれだけの能力があったのかといえば酷く疑問である。中村は粗暴だが優しく包括力があったという。それが西郷に人の上に立つのに相応しい能力と思った様だが、中村自身には西洋兵学の素養もなく一方面軍を指揮した事もない。強気な性格が災いして強引とも思える作戦を行う事になるのだ。ある意味でとても危険な人事であった。もし、半次郎の敵が山川か大鳥なら軽く撃退されていただろう。
 戦いは、中村半次郎が日光支軍に着陣する前から開始された。総指揮官不在の日光口支軍は、各藩部隊がばらばらに戦うという烏合の衆の様相を呈していたが、それでも会津藩を追って進撃を続けていた。強力な抵抗にぶつかったのは、山王峠の入り口横川である。ここで、前述した会津兵や凌霜隊が強固な防御陣地を築き守っていたのである。「会津領に一歩たりとも敵を入れるな!。」少数ながらもその士気は高かった。

会津藩の横川山王峠防衛戦

 日光口支軍の兵力は、薩摩兵が一二四人、安芸藩四一九人、佐賀藩三〇〇人、中津藩一四八人、今治藩一三八人、人吉藩六六人、宇都宮藩五個部隊に砲隊二個部隊、黒羽藩四個小隊、館林藩三個小隊で、総計すると二千に達する規模である。大兵であるといっても烏合の衆ではどうしようもない。八月二十五日、まず安芸藩が他藩兵との連携を全くとらず単独行動で進撃した。安芸藩は四百人を越える兵を持っており、藩単独で攻撃を出来ると考えた様だ。ところが、ここの地形は日光街道が走っているとはいえ山岳地帯であり、非常に狭いく長い隘路(トンネルの様な一本道。兵力を広く展開出来ないため、少数で守るのに非常に適した地形)になっていた。そこに会津兵たちは強固な陣地を構築し待ち構えていたのだ。その地形的防御効果は想像以上に高い。安芸藩兵たちは、正面に砲隊を配置、両サイドの丘陵に登って会津陣地を攻めた。だが戦場が狭く、思う様に兵を展開できない。会津藩兵達も激しく射撃を始め、安芸兵の進撃を食い止め続けた。安芸藩兵は攻めあぐね、結局夜になった事で撤兵せざるを得なかった。こうして第一次横川防衛戦は会津側が陣地を守りきる事に成功している。八月二十八日、安芸藩が主導して二回目の横川攻略戦が開始される。今度は、増援で到着した宇都宮兵との合同作戦だ。作戦は、正面に宇都宮兵を置き、安芸藩は両サイドの山岳に登り、横川より高い場所から撃ち下ろそうというものであった。結局、戦場が狭すぎてこういう作戦にならざるを得ない。宇都宮兵は、果敢に会津陣地正面に進出し攻撃を開始する。両側の山々に安芸兵が展開するまで、敵の目を引き付けておかなければならない。会津軍も激しく抵抗し、正面の宇都宮兵に猛射を浴びせた。その間に安芸藩兵は会津陣地を見下ろせる高所に到達、部隊を展開し眼下の会津兵に向けて攻撃を行った。さすがの会津兵も三面包囲を受け、地形的にも不利な立場になった事を覚ると弱腰となり、なんとか撤退をしようと下がり始めた。それを見た宇都宮兵が、ここぞとばかりに突撃を敢行、追撃戦を開始した。勢いにのって新政府軍は会津を追撃し、天険山王峠を突破、会津領糸沢を占領した。最初の横川戦にくらべ、会津藩兵は呆気なかった。しかも、横川よりも強力な抵抗があると予想された山王峠の反撃も微々たるものであった。実は、会津軍はすでに撤退に移っていたのである。会津軍の主力も凌霜隊も後退して横川にはいなかった。これは、新政府軍三斗小屋支隊が、三斗小屋方面にある大峠を突破して会津領に雪崩れ込んだ為、横川にある会津軍は後方撤退路を遮断される事を恐れ、この防備に有利な天険山王峠を捨てて後退せざるを得なかったのだ。

大内峠の戦い

 八月二十九日、新政府日光支軍は会津領に侵入し田島を占領する。一方、会津軍も日光口守備隊である会津藩小山田支隊が田島と大内の間に陣地を構築、新政府軍の来襲に備えた。翌三十日になり新政府軍は大内峠に進撃を開始した。会津兵も攻め寄せる敵に猛射を始め、山岳の為に兵を展開できない新政府軍宇都宮兵を苦しめた。芸州兵が援軍要請を受けて駆け付けると、宇都宮兵が狭い戦場全面に兵を展開して戦闘中だった。しかも芸州兵が兵を展開する場所がまったく無い。ともかく戦闘に参加する為、戦場の側面にある山の山頂目指し、道無き道を登っていった。山頂に着くと、眼下に会津兵の陣地が見下ろせるという攻撃には絶好の位置に出ることができた。ここから攻撃を加えて会津藩兵の撃破に成功した。会津軍には砲が配備されていなかったらしく新政府軍の大砲に悩まされていた様である。ともかく、会津軍を撃退し新政府軍は大内村を占領した。いよいよ会津平野への最大の関門大内峠の攻略戦が始まる。ここの地形は、大内峠を越えると少し下って鞍部に達し、峠から一キロの所にすぐ火玉峠があるという非常に厄介な地形で、二つの峠が連続している最大の難所であった。会津軍もまた最大の防御拠点と知っており、日光方面守備軍に援軍を派遣し、徹底防戦の体勢をとって待ち構えていた。会津藩小山田支隊全軍と小山田直属隊(兵力三〇〇〜四〇〇)、唐木砲隊、脱走探索隊、凌霜隊に加え、会津から増援として到着した部隊高木弘三指揮する青龍足軽小隊、横山伝蔵隊、御普請方備えに会津藩の義勇諸隊である義勇隊、報国隊が配置されている。新政府軍の先鋒は肥前佐賀兵。谷底を伝わって前進するも両側は急峻でとても登れない。しかも谷頭上の山頂には会津軍がいる。完全な狭隘路で、会津藩兵にしてみれば、敵が一列に並んでいる様なもので、敵を先頭から順に流れ作業の様に撃ち倒せばいいという非常に防御に適した地形だった。正面攻撃など自殺行為の何者でもない。肥前藩は時間が掛かってでも迂回すべきと判断し、道など無い山中に足を踏み入れていった。続く二番手芸州兵もやはり迂回すべく兵を分進させている。とにかく道幅が全くなく兵多しといえど戦闘展開出来ないのだ。この後、後続する新政府軍は真正面から会津軍との戦闘に突入、そのまま六時間もの間、峠の中腹で釘づけにされ、まったく前進できなくなってしまった。肥前迂回隊は大内峠の横に広がる山の山頂目指して進んだが、ここにも会津軍の備えがあって戦闘を開始し容易に前進できなくなってしまった。勝負を決めたのは芸州迂回隊であった。芸州兵は上手く迂回に成功。鞍部に達し、会津軍の後方に潜り込んでいた。芸州兵は会津軍が本部を置いていた一軒家を急襲放火した。会津兵は後方の本部が燃えた事に驚き、背後に敵がまわった事を知った。これは会津軍にとって退路を断たれた事を意味する。焦った会津軍は撤退戦を開始、退路を確保する為に、芸州迂回隊に猛然と襲いかかった。これには芸州兵がたまらず、簡単に撃退されてしまうが、芸州兵は会津軍が逃げ去った後の六石山腹の陣地を占領して、大内峠から逃げようとする会津軍と対峙、退路を完全に遮断した。一方、会津軍の敗勢から勢いを得た日光支軍が後方から追撃を始め、前に芸州兵、後ろに新政府軍の挟撃を受けた会津軍は山中に逃げ込んで壊乱状態となってしまった。この後、新政府軍は火玉峠に進撃、会津兵は存在せず難なく大内火玉両峠を抜く事に成功した。峠を抜くと、そこから会津鶴ヶ城の城下町が見えたという…。この後、新政府軍は会津軍を追撃し栃沢村を占領するも、ここを引き上げて大内村へ撤収している。

会津軍最後の砦、関山攻防戦!

 「大内火玉両峠危うし!」この急報が会津藩首脳部に達し、会津藩も焦りだした。もし新政府軍日光支隊に会津平野南方への進出を許せば、包囲が緩い鶴ヶ城南面をも包囲されてしまう。補給線がまったく確保できなくなるのだ。会津藩は旧幕脱走軍の別伝習隊と回天隊を増援に差し向けた。別伝習隊は、フランス式調練を受けた歴戦の歩兵隊だ。しかし、この部隊が大内峠に到着する前に大内峠は陥落してしまい、やむなく関山周辺に集結しつつあった会津軍へ合流した。会津軍は新政府軍が撤収し放置された栃沢を再占領し防御の備えを固めた。
 一方、新政府軍日光口支隊も総司令官の中村半次郎がようやく到着、三斗小屋支隊の合流もあり戦力を増強。九月一日、中村は早速軍議を開いた。やる気満々の中村だったが、諸藩の兵は山岳地帯の連戦と会津の焦土放火作戦で雨風を遮る建物もなく野ざらしに露営してきた為、まともな休息も取れず疲労で疲れ切っていた。この為に休息を臨む声が上がっていたが、中村は疲れた兵を督励して一戦する決断をする。翌二日、第一陣に芸州と太田原兵、第二陣に肥前佐賀、第三陣に宇都宮兵という序列で、関山への攻撃を開始すべく進撃してみると、予想外にも栃沢が会津軍に再占領されていた。この為に、まず栃沢攻略から開始しなければならなかった。会津軍は高所に陣を築き激しく防戦、またもや道が狭く兵を展開できない新政府軍芸州兵は、前回と同じように迂回作戦を始め道無き山中を進んで会津軍を攻撃、撃退している。これに大きく時間を食われた新政府軍は、いよいよ関山に接近した。関山を突破されれば後は平坦な会津平野で防御する場所がない会津軍に取って、ココは最後の防御拠点であった。会津兵も必死である。決死防戦に出た会津軍の前に、新政府軍は攻めきれず夕刻を迎えて栃沢に引き上げざるを得なかった。しかも栃沢は防御に適さなかった為か、再び栃沢からも引き上げて火玉峠まで退いてしまい、それを見た会津軍は再び栃沢を再々占領してしまうという失態まで起こしてしまう。これでは何の為に芸州兵が苦労したのか解らない。少なくとも少数の警戒部隊を栃沢に残すべきだった。新政府軍の中村は再び軍議をし、多くの部隊が休息を望む中で、強気の中村は強引に戦闘継続を決断、翌三日に第二次関山攻略戦を開始する。この時中村は「これだけの大軍で敵を破ることができない筈はない。休みたい者は休め。自分と共に戦いたい者は付いてこい。」と言い放ったという。しかし、山岳の狭隘路の戦いである。兵力差は戦場の地形効果で打ち消されていた。戦場が狭く、大兵力を有効に戦闘展開できないのである。猛将中村半次郎の判断の甘さだったろう。結局、芸州兵と太田原兵、肥前佐賀に休憩を取らせ、他の部隊を三隊に分けて攻撃前進する事にした。右翼隊には黒羽一個小隊。本道東側の山々を経て関山東側の山頂より敵を攻撃する。中央隊には薩摩半隊と黒羽兵一個小隊と砲二門、館林三個小隊と砲一門を持って本道より攻撃前進。左翼隊は黒羽二個小隊と薩摩半隊で、本道西側の山々を経て関山を西側から攻撃する。火玉峠の守備と戦術予備として中津兵と今治兵を置く。三方より関山を包囲攻撃するという作戦を立てた。三方よりといえば聞こえは良いが、左翼隊と右翼隊は道無き山中を強引に突き進むのである。
 栃沢に進撃してみると、やはり会津軍が守っている。しかし、会津軍も両側の山々からも進撃してくる新政府軍を見るや、包囲される前に素早く撤収した。中央隊は狭い道を密集状態で進み攻撃を開始。会津陣地に向けて銃撃戦を挑んでいると、会津藩の槍隊が突如側面より突入してきた。薩兵も刀を抜いて白兵戦に突入し、撃退できたものの新政府軍の陣はすっかりかき乱されしまった。隊伍を整えて関山攻撃に移るのに多少の時間を要している。右翼隊の黒羽兵の進撃も遅れていた。道がない上に当日は雨が降り進み難かった為だ。関山近くに達した時、山頂に会津軍の備えがあり開戦。一個小隊という小勢力である上、地理に不案内とあっては無理な進撃は出来ず、遅々として前進できない。左翼隊の方は、予定通り山頂に達したが、山幅が広く敵が延々と陣地に籠もって抗戦している為、左翼隊も広く兵を展開せざるを得なかった。今度は戦場の広さに対して兵力が足りなかったのだ。広く兵展開して攻撃しても、攻撃の重点がない平押しでは容易に進む事が出来ない。やはりこちらも膠着状態になっしまう。このまま夜を迎えてしまった為、戦闘を切り上げて後退、一夜を明かす事になった。翌四日、再び関山攻撃を続行した。前日の戦闘から兵力が少なかった右翼隊に新たに宇都宮一個小隊と予備としていた中津と今治兵、人吉兵を加え、中央隊にも中津と今治兵を増員し、左翼隊にも館林一個小隊を配置した。この日の戦闘は比較的スムーズに進んだ様だ。前日の戦闘で地形を知る事が出来た事が幸いした。右翼隊は部隊を区分して次々に山々を占領し敵を北方へ圧迫。この結果、本道を進む中央隊は側面から攻撃される事無く安心して前進できた。また中央隊の砲隊も前日の戦いを反省し、中央隊の進撃を阻んだ本道両側に作られた会津陣地を砲撃、会津陣地を潰している。会津兵はこの砲撃で新政府軍中央隊への射撃が思うようにいかず、森林を使っての伏兵斬り込みも上手く出来ず、敵の足止めに失敗している。中央隊は前日のように会津の伏兵を気にする事無く前進、関山の会津軍に向かって吶喊攻撃をしている。これを見た新政府各隊も突撃を開始、会津兵は持ちこたえる事が出来ずに敗退壊乱状態に陥ってしまう。東側と関山中央が突破された事で、関山西面で新政府軍左翼隊を相手に頑強に陣地を保持していた会津軍も退路を断たれる事を恐れ、後退を開始せざるを得なかった。こうして新政府軍は関山を占領、そのまま会津軍を追撃しつつ、鶴ヶ城南西わずか五キロにある本郷に達してここを占領。ついに新政府軍日光口支軍は会津鶴ヶ城に達しその南面を圧迫、会津軍の補給線を断ち切ったのである。

猛将佐川官兵衛の反撃

 九月五日、日光口支軍は薩摩の猛将中村半次郎指揮の元、強引とも思える攻撃前進で鶴ヶ城に接近した。一方、この頃には白河口軍の手で鶴ヶ城は北および西面を包囲され、すでに籠城戦が始まっていた。国境から引き上げてきた会津兵が入城する事で、会津藩は反撃兵力を作り出す事ができ、約一〇〇〇人もの大兵を使って大反撃をしている。会津藩主松平容保は、この会津藩の命運を託し八月二十九日に鶴ヶ城西方から出撃させた。指揮するのは会津藩が誇る猛将佐川官兵衛だ。佐川は容保に対し「もし敵を追い払う事が出来なければ、再び城に入り拝謁する事は有りません。」と言ったという。死を覚悟しての戦いであった。この戦いは長命寺の戦いと呼ばれ、会津籠城戦中、会津軍最大の反攻作戦であった。しかし、佐川はこの戦いで大失態を犯す。新政府の寝込みを狙って夜が明ける前から攻撃をする作戦だったのだが、佐川は別れの杯と言わんばかりに酒を飲み、当日完全に寝過ごしたのである。作戦は日が高く昇った後に実施され、待ち構えていた政府軍の反撃を受けて敗退してしまっていた。今さら入城など出来ない佐川は、敗兵をまとめ入城せずに城外に踏み止まり独立遊撃軍化していた。この判断は大きな誤りだと思われる。佐川は意地で鶴ヶ城に帰還しなかったのである。佐川一人が帰らなかっただけならまだしも、会津藩のなけなしの反撃兵力を抱えたまま遊軍化した事の方が問題であったろう。佐川も無策に遊軍化した訳ではなかったらしい。佐川はこの有力な兵力で会津南方に進出し、新政府軍の後方を攪乱してやろうと計画していた様だ。以後、鶴ヶ城内の会津軍事局とは別に近くの部隊を自分の指揮下に組み入れていってしまう。南方へ向かう兵力を貯め込んでいたのだ。そこに薩摩の猛将中村半次郎指揮する新政府日光口支軍が到着、鶴ヶ城への補給線を遮断した。佐川官兵衛に新しい指示が下された。「南面の敵を排除し、補給線を確保せよ!。」
 会津の生命線を賭け、猛将佐川官兵衛が再び動き出そうとしていた。

会津南郊の戦い

 日光口支軍も本郷から進撃し、鶴ヶ城に接近して、飯寺付近を守っていた神保内蔵助が指揮する青龍三番寄合隊と戦闘に突入している。この神保隊長は、会津藩家老の神保内蔵助利孝の長男で、父が白河口軍と戦い自害した後、内蔵助を襲名していた。新政府軍の猛攻に押され神保隊が材木町まで下がって防戦。新政府日光口軍は、鶴ヶ城南東部材木町西側の田畑に集結した。これで日光口支軍も会津攻城戦に参加する事になり、鶴ヶ城の南面を締め上げていく。なお、一説に籠城軍の抵抗を小さくする為の逃げ道の為に南面を明けるのが新政府軍の方針であったとする見解があるが、私はそうは思わない。なぜなら白河口軍の兵力が足りず、単に包囲できなかっただけと考えているからだ。しかし日光口軍の到着で南面包囲が可能のなったのである。中村半次郎は攻城の指揮を取る白河口軍の本部に赴き、その指示を受けようと部隊を離れた。その隙を佐川官兵衛に突かれる事になる。
 佐川が指揮する遊撃軍は、会津軍の主力朱雀三番寄合隊(正奇隊含む)と朱雀士中二番と三番隊、青龍二番士中隊(朱雀二番足軽隊含む)に、進撃隊、会義隊、そして最精鋭の会津別選隊で構成されており、会津藩の決戦兵力と呼ぶに相応しい陣容であった。佐川の元に材木町の敗報が届くや、すぐさま反撃に出ている。佐川はこれらの有力な会津軍を指揮し、三方向から日光口軍を襲撃した。日光口軍の方は、連日の連戦で疲れ切っており、中村半次郎が白河口軍へ出向いていた事もあって気が抜けていたらしく、この奇襲をモロに喰らっている。まったく反撃できず一方的に佐川隊に攻め立てられて敗退し、そこに集積してあった武器弾薬食料を全て会津軍に奪取されてしまうという大打撃を受けた。白河口軍でこの急報を受けた中村はビックリして日光口支軍への帰還を急いだ。事態が容易ならざると判断した白河口軍は、特別に薩摩十二番隊を増援に差し向けるという慌ただしさだった。
 九月六日、日光口支軍は部隊を立て直すべく飯寺で集結、敵兵の掃討を行い、安全確保に勤めた。しかし、関山で壊乱した会津軍が再び隊伍を整え、鶴ヶ城に入城すべく飯寺に迫ってきていた。これらの兵がゲリラ化し、日光口軍の補給線を脅かしている。猛進に猛進を続け、掃討作戦を怠った為、日光口支軍の後方にも少数の会津軍がいたのである。本郷近辺の丸山にこの関山残党の会津軍が陣地を築いて集結した為、日光口支軍はこれを潰して補給線を確保しようと攻撃をかけた。丸山では激しい抵抗を受けたものの丸山奪取に成功、会津軍を壊乱させたが、まだ会津兵が各地に潜んでおり、これで会津南方方面が安全地帯になった訳でなかった。結局、中村は補給線を日光方面から運び込むルートを替え、白河から勢至堂と通り猪苗代南岸からのコースに変更している。中村は、日光から会津までの会津残党兵の掃討を行い、後方を安全地帯にする事を諦めてしまったのである。  九月八日になり、再び飯寺にあった日光口支軍は会津軍の襲撃を受けている。各方面から撤収してきた会津兵と越後から撤収してきた長岡藩士山本帯刀指揮する長岡兵が集結し有力な勢力になっていたのだ。この部隊は飯寺に新政府軍の拠点がある事を知ると、積極的に攻撃に出た。これが飯寺の戦いである。山本帯刀等の飯寺攻撃軍は佐川官兵衛に攻撃支援を要請したが、佐川には南方進出という目的があり、佐川は指揮下の会津部隊に飯寺攻撃に参加するなと伝達し、この会津長岡連合部隊の支援を断っている。これは佐川の判断ミスであったろう。南方進出を目指すならば、鶴ヶ城と南方を結ぶ補給連絡線を確保しなければならない。飯寺はそのルートの途上にあり、ここにある日光軍を撃破しておく必要があった。結局、佐川支隊の協力を得られないまま、独力攻撃を行った会津長岡連合軍は手痛い損害を受けて敗退、飯寺の戦いは会津軍の敗北に終わっている。長岡藩兵が潰滅、歴戦の山本帯刀も新政府軍に捕らえられてしまった。

佐川支隊の南下

 さて、その佐川官兵衛は。当初の予定通り南方に進出すべく進撃を開始している。佐川の総兵力は約四〇〇と言われ、その内訳はよく解っていないが朱雀三番士隊、朱雀三番寄合隊、朱雀二番士隊と別撰隊、三坂砲隊五隊で編成されていたと言われている。九月八日払暁に鶴ヶ城を出て進撃を開始したらしい。その目的は、新政府軍の補給物資を奪い、城内に運び込む事である。当時は、西洋兵学が浸透しておらず、補給線を軽視するのが普通であった。中村半次郎も同じで、ごく少数の護衛隊を付随させた程度である。当然、この佐川支隊に対抗すべくもない。飯寺攻撃隊から本郷に敵がいないと聞いていた佐川は、別働隊を本郷に向かわせ、自分は大内峠大内村に向かった。こそに新政府軍の補給物資が集積されていたからだ。。佐川支隊はこの大内村を襲撃し、新政府軍は戦わずして逃げ去った。大内を占領した佐川は、さらに倉谷の物資集積場所も奪取、新政府軍の補給物資を鶴ヶ城城内に運び込んでいる。佐川はさらに田島も占領し、会津南方軍の拠点とし、三斗小屋そして遠く今市にまで出ていってゲリラ活動を展開、日光支軍が苦労して安全圏にした筈の日光方面は、佐川隊の進出でまったく安全地帯ではなくなってしまい。白河にあった新政府軍を慌てさせている。しかし、飯寺の日光支軍も健在で、会津軍の補給線が安全になった訳でなく、常に危険に晒されている。これは先に述べた様に佐川の判断ミスだ。佐川も又補給物資の確保はしても、補給連絡線の重要性に気が付いていなかったのである。佐川隊の有力部隊は、単なる南方ゲリラ任務だけを期待されていた訳ではないだろう。ただの後方攪乱任務ならばもっと少数精鋭で良いはずだ。当然、鶴ヶ城南面を包囲される事を防ぎ、城の外部との連絡線を保つという重要な任務もあったと思われるが、佐川はそれを理解していなかった様である。一方、日光支軍は鶴ヶ城近郊にあったが、鶴ヶ城南面の安全を確保できる、少し距離を取った飯寺に留まり、新政府軍越後方面軍の到着を待つことになる。越後軍が到着すると、会津南面を包囲し、鶴ヶ城の完全包囲が完成。遠く南方に進出した佐川支隊は、城との連絡を絶たれ、孤立化してしまう結果となる。結局、佐川官兵衛も中村半次郎も戦いとなれば強かったが、互いに補給線や後方の安全確保を軽視し、鶴ヶ城南方は最後まで会津藩と新政府軍にとって頭痛の種となった。
 しかし、当時の戦争は西洋兵学を良く知る指揮官が少なく、補給まで気をまわせる指揮官となると奥羽同盟軍や新政府軍内でもごく少数であった事。また、明治新政府といえど諸藩連合体であり、統一国家の近代軍からはほど遠い組織である。補給は各藩単位で行われており、新政府軍総司令部の管理外にあった事などを考え合わせると、補給を軽視した事を佐川や中村の落ち度とするのは少々酷かも知れない。