二本松攻防戦・二本松少年隊の戦い

戊辰戦争第一の激戦

 野津道貫という薩摩藩の指揮官がいる。知勇兼備の名将と言って良い人物で、若い頃藩命をおびて江川太郎左衛門の塾に入り、西洋砲術を学んでいる。薩英戦争、戊辰戦争、佐賀の乱、西南戦争と戦い抜き、日清戦争には第二軍司令官となり、日露戦争では第四軍司令官として遼陽奉天の会戦で大活躍した。攻城野戦の第一人者と言われ、最後には元帥にまで昇進している。この名将が戊辰戦争を振り返った時、第一の激戦と断言する戦いこそ、二本松大壇口の戦いであった。そしてこの名将を苦戦させた敵の中に、二本松少年隊が加わっている。この時、二本松藩兵の主力は城下に存在せず、二本松藩は、老人や少年達だけでこの大壇口を守っていた。今回は、戦国より最強と言われた薩摩兵と歴戦の名将を苦しめた二本松藩の少年達を中心に、二本松の戦いを見ていこう。

戊辰の少年兵たち


 戦争には悲劇か必ず起こる。二本松少年隊もその一つである。戊辰戦争では、多くの血気盛んな少年達が参加し、命を落とした。最も有名なものに会津白虎隊がある。会津白虎隊も二本松少年隊も成り立ちが似ており、その行動も似ている為、白虎隊を解説すれば二本松少年隊の悲劇も解説できてしまうと思われ、これまで二本松少年隊が脚光を浴びる事は少なかった。ところが実際は立場がまったく違う。白虎隊は戦争の当事国である会津藩の少年達で作られた。会津藩は少なくても、戦争するか無条件降伏するかという決定権は持っていた。会津藩は戦争の道を選び、白虎隊は戦ったのである。これに対して二本松藩は当事国ではなく、どちらかと言えば戦争に巻き込まれた藩だ。明治新政府に二本松藩を滅ぼす意志は無いが、戦いを挑まれれば戦わざるを得ない。二本松藩も明治新政府と戦う理由は無かった。しかし、置かれた立場から戦わざるを得なかった。その二本松藩の少年達で作られた部隊が二本松少年隊なのだ。つまり会津白虎隊と二本松少年隊という二つの悲劇は、まったく別々の悲劇を物語っている。

奥羽越列藩同盟


 二本松藩を取り上げる上で、まず考えなければならないのが奥羽越後諸藩による反新政府同盟だ。奥羽越列藩同盟とはいかなる同盟なのかを少々考えてみたい。
 会津戦争は、明治新政府が会津藩の武備恭順を認めず討伐しとうとした事で起こった。なぜ恭順を認めようとしなかったのかに関して、ここでは多くの事は語らない。非常に多くの事情と誤解とが絡み合っている事だけは確かだ。ただ奥羽諸藩にとってはとても迷惑な話しだった。何故なら明治新政府と会津藩の戦争には、奥羽諸藩は何の関係もない。しかし明治新政府が官軍として戦争協力を申し込んだ事で戦争に巻き込まれてしまった。政府軍の側に立って会津を攻めるか、それとも会津とともに新政府に対抗するか選択をせまられた訳だ。奥羽諸藩は、戦争が回避されればこの苦痛の選択をせずに済むし、戦争に掛かる被害を回避できると考えた。そこで白石会議を儲けて和平への仲介者となろうとする。中心となったのは奥羽の大藩仙台藩と米沢藩である。この二藩は奥羽の総意という形で、新政府軍に和平の嘆願を行った。戦争を臨まない二本松も当然白石会議には参加している。ところが、奥羽鎮撫総督府下参謀長州藩世羅修蔵がこれを拒絶し、世羅の横暴に絶えかねた仙台藩と米沢藩は世羅暗殺を行ってしまうのである。ここで世羅修蔵に関して補足説明しておこう。世羅自身はどうも奥羽の嘆願を嫌々ながら認めていた可能性がある。世羅自身には会津を攻めるという絶対の任務があり、それが奥羽の総意でできないという事態になっていた。世羅は大山格之助に手紙を書いている。その内容をどう解釈するかで大きく違ってくる。私は「会津をどうしても攻めるならば、奥羽は皆敵と見た方がよい。奥羽全てを敵とするか、会津の恭順を認めて穏便に済ませるか江戸の大総督府と相談したい。」という感じで解釈している。世羅はこれまでにも再三に渡り援軍派遣の要請を出しているが、全てが不発に終わった。何故ならまだ江戸には彰義隊があり、江戸湾には榎本艦隊、北関東でも大鳥脱走軍が存在しており、新政府軍の方が兵力不足に陥っていた。とても東北に援軍が出せる状況ではない。奥羽諸藩の兵力で会津を屈服させる事が世羅の使命だった。しかし、世羅が持っていた直率兵力は数百でしかない。世羅からすれば、奥羽諸藩を新政府に従わせ会津討伐を実施させるならば、奥羽諸藩を威圧できるだけの兵力を送って欲しいところだ。奥羽皆敵とは、西郷ら新政府中枢に対する脅迫の意味もあったのではないだろうか。援軍をよこさないならば会津討伐は中止し、仙台米沢の意見を入れて穏健に処罰にするしかない。だが会津討伐を中止するか否かは戦略に関わる事で、世羅に与えられた権限を越えていた。だからこそ世羅は決定権を持つ西郷に会おうとしたのである。一般的には「奥羽は敵である。仙台米沢の弱国二藩は恐れるに足りないが、兵力が少ないので援軍が欲しい。その相談をしたい。」という感じで解釈されている。世羅が本心では会津を討伐したいという気持ちであったのは確かだったろう。彼は長州領大島の出身で、四境戦争の時に、彼の故郷は幕府軍に占領され略奪暴行の限りを尽くされている。当時尊皇派の間では、会津藩が幕府を焚き付け、長州征伐を行ったと認識されていた。故郷を破壊尽くされた世羅にしてみれば、徳川幕府と会津藩は憎んでも憎みきれない程の感情を持っていたに違いない。
 結局、世羅修蔵は強引に会津討伐をしようするが、奥羽諸藩総意の嘆願という壁にブチ当たり、高度な政治問題となった事から西郷に会おうと手紙を書いた訳だが、その手紙が仙台藩側に露見し、奥羽皆敵、仙台米沢二藩は弱国という文章を見られ、激怒した仙台米沢藩士の手により暗殺される事となる。白石会議という戦争回避の為の奥羽連合体は、世羅を暗殺する事で明治新政府と対立姿勢を強めた。
 仙台米沢両藩は、こうして明治新政府との信頼関係を崩してしまった。自然、奥羽独自の政治勢力を作り、薩長中心の新政府体勢を認めず、逆に圧力を掛けていこうと考える様になる。こうして和平の為の諸藩連合組織は、劇的に諸藩連合攻守軍事同盟に変貌するのである。これが奥羽列藩同盟だ。これに越後六藩が加盟して奥羽越列藩同盟となる。しかし奥羽越列藩同盟はガラスの同盟だった。元々は戦争回避を臨んでいた諸藩の連合体なのだから、戦争を前提とする軍事同盟を作っても各藩の事情によって士気が上がらない。また急造仕立てだった為、藩の目的もバラバラで統一されていなかった。仙台米沢は新時代のリーダーたろうとし、会津藩は自分の冤罪を晴らそうとした。二本松藩などの小藩は、これら大藩の動向に藩論を左右され続けている。軍事行動も各藩単位で戦っており、仙台藩兵や会津藩兵など間で部隊連携が全く取られず、烏合の衆の様相を呈している。これらの同盟側の弱点は白河攻防戦に現れ、圧倒的な兵力を持っていながら、白河城を奪われ再奪回も叶わなかったのである。

白河失陥


 奥羽同盟軍による白河奪回作戦は七回も繰り返されたが、ついに白河城を手に入れる事はできなかった。白河という場所はまさに戦略的要地であり、ここを拠点に出来るかいなかで会津戦争の勝敗が分かれたといって良い。険しい山々が連なる奥羽にあって、四本の大きな街道が交差する場所に白河城はあった。補給物資や大砲輸送で白河城の果たした役目は大きい。また政略的に見れば、同盟軍が白河城を確保している限り、その北辺にある小藩三春藩、守山藩、二本松藩の安全は確保される。たとえ三春藩が尊皇藩で裏切る可能性があったにせよ、北に六十三万石の大藩仙台と二十四万石の会津藩が存在し、白河城を押さえている限り、三春藩の寝返りはない。仮に寝返っても、三春藩が全周包囲に陥って孤立するだけである。逆に白河城が政府軍に押さえられたらどうだろうか。三春藩は、薩長軍率いる政府軍との連絡路を確保できる事になり、薩長など尊皇藩の後ろ盾(援軍)を得る事が可能となる。元々尊皇藩で、会津仙台に囲まれているが故に仕方が無く同盟軍に参加した三春藩は、自藩とその領地を守る為に仙台会津の圧力を跳ね返し、自由に行動できる様になる。守山藩とて同じで、わずか二万石の小藩では、新政府とまともには戦えない。滅びるぐらいならばと恭順論が吹き出るのは当然なのである。同盟軍にとって白河城を奪われたという事実は、戦略的な意味でも政治的な意味(同盟諸藩の結束という意味でも)からも致命傷であった。白河攻防戦で負け続けた奥羽諸藩は、一気に弱気になってしまう。政府軍を奥羽から叩き出すのではなく、いかに自藩を守るかという点を重視し始めてしまうのである。仙台藩兵は自国に退き、会津藩も自藩領の守りに入るという状態になると、三春守山といった小藩は自力では自藩を守れない事から、政府軍に恭順する事で自藩を守ろうとする。三春守山の両藩が恭順した時、二本松藩は決断を迫られ、徹底抗戦するという決断がなされるのである。

二本松危機!


 三春守山藩が恭順した時、二本松藩兵主力はどこにいたのだろうか。奥羽列藩同盟の要請に従って、二本松藩兵は日光や白河方面の戦いに出ていた。このなかで特に注目しなければならないのは白河に向かった二本松主力軍だろう。二本松主力は白河城奪回に失敗するも郡山で奥羽同盟側の坂兵団と供に白河奪回に向けてがんばっていた。ところが三春守山が恭順し、二本松と白河を結ぶ街道上の本宮を占領されるという事態になる。奥羽街道は二本松から南下して本宮、さらに南下すると郡山となっていた。つまり二本松藩主力軍は退路を遮断されてしまい、二本松へ帰る事ができなかった。仙台藩兵の様に遠く会津領を廻って帰藩した様に、二本松兵も迂回路を使って帰藩すれば良かったのだが、何故かそれをせず坂兵団と行動をともにしてる。その後、坂兵団も本宮を攻撃しているのだが、ごく一部の部隊が本宮攻撃を行っただけで、強い意志で本宮奪回作戦を展開した訳ではなかった。ここで坂兵団が行わなければならなかった事は、本宮を攻撃して回復、二本松藩との連絡路を確保するか、戦闘を避けて会津に向かい、会津経由の退路及び補給線の確保だったろう。二本松にある同盟軍と坂兵団とで本宮を挟撃する事も出来たと思われる。しかし彼らは何もせずに、ただ郡山に留まっていた。このあたりは同盟諸藩各部隊の連絡連携が取れていなかったと判断すべきなのかもしれない。彼らは今どんな戦局なのかまったく解っていなかった可能性があるわけだ。三春守山が恭順となれば、二本松が直接の攻められる危険がある。二本松城が危機に陥っていると知れれば二本松藩兵たちは必死で帰藩しようとしただろう。
 結局明治新政府軍が二本松攻略戦を開始しようとした時、二本松藩主力部隊は城下にまったくいなかった。
 新政府軍は、小浜にあった部隊と本宮にある板垣支隊主力をもって二本松攻略に乗り出す。小浜、本宮二方向より二本松を攻めるという作戦である。教導となって道案内をするのは三春兵だ。地理に詳しい三春藩の参戦により間道はすべて押さえられたと見て良い。主力部隊が帰藩していない二本松藩は、老人や農民町人、そして少年達を動員して対抗するしかなかった。会津仙台の僅かな援軍も到着していたが、兵力不足はどうしようもなく明白で、絶望的な戦いとなる事は予想済みだ。そして、この戦いに十三歳〜十六歳で編成された二本松少年隊が投入される事になる。

二本松少年隊の戦闘力


 まず最初に二本松少年隊の隊長となった木村銃太郎に関して考えてみよう。二本松藩は先進的な藩ではなく、ごく普通の藩であった。洋銃知識や西洋兵学に関しても疎いところがある。政府軍が二本松を占領した時の分捕り品で一番多いのがミニェー銃だった所を見ると、訓練度も会津藩とほぼ同じ程度と思われる。そんな二本松藩にあって輝いているのが木村銃太郎を隊長に頂く二本松少年隊である。
 木村銃太郎は、二本松藩砲術師範木村貫治の長男に生まれ、藩校敬学館でも成績優秀その頭角を現した。十八歳で江戸留学が決まるやいなや、西洋兵学を教えている江川太郎左衛門の塾に入門している。江川塾には大鳥圭介や榎本武揚らも入門している一流の西洋兵学塾であり、奇しくも二本松少年隊と戦った薩摩の野津道貫と同門だった。素晴らしい経歴といっていい。まず西洋知識が深い為、すっかり火力銃撃戦を重視し、白兵斬り合いが時代遅れの戦法と知っていただろう。また、武士道精神にこだわった多くの武士が「地面に寝転がる(匍匐前進)」という行為を「武士がそんな汚い事が出来るか!」とか、「銃を持つ」という行為に対して「銃は足軽の武器だ!。上級武士は刀槍で戦うものだ!。」と反発して西洋兵学の習得を妨げたのに対して、木村銃太郎ならそんなくだらない武士精神は持たなかったろう。つまり木村銃太郎という指揮官は、かなり優秀な指揮官だったと考えて良い。もし私が二本松藩主なら二本松藩軍総司令官を銃太郎に任せてしまってもいい。ところが残念な事に戊辰戦争当時、彼はまだ二十二歳という若さであり、その若さ故に重要な役には付けなかったと推測する。二本松藩兵の訓練でも教官になったとは思えず、補助指導員的な立場であったろう。結局、彼は彼の年齢に見合う年齢の者達の教官になっている。二十二歳よりも若い少年達の砲術教官になっていたのである。そしてこれも又効果的であった。若い少年達には、まだ確固たる武士のプライドなど持っていない。武士としては新米だからだ。少年達は銃太郎から指導を受け、寝転がれと言われれば素直に寝転がったろうし、大人ほど身分にこだわらず銃を手にしただろう。しかも銃太郎が教えた兵学は、西洋兵学なのだ。戊辰の年慶応四年四月に木村銃太郎が留学から帰藩するや、少年達は西洋砲術の訓練を開始、四月から六月にかけて、みっちり教え込まれたとすれば、急造仕立てとはいえ物覚えの良い少年達である。相当な練度になっているだろう。私の考えて言わせて貰えれば、二本松少年隊は少数ながら二本松最高の部隊である。会津白虎隊も二本松少年隊と同様に練度が高い部隊であったと思う。白虎隊が活躍できなかったのは、彼らが弱かったのではなく、会津藩の戦略そのものに失敗があり、白虎隊の運用が場当たり的になったからである。
 (ただし、歩兵訓練をしっかり受けた大人の兵や実戦を経験した兵、たとえば幕府歩兵隊や新撰組、会津藩で実戦を経験し「刀では戦えない」事を知った兵と比べた場合、少年兵は大人の兵とくらべて体力的にも経験的にも劣る為、決して彼らを差し置いて少年達の方が強いという訳ではない。洋式訓練を受けただけの兵隊の場合、大人より子供の方が素直に覚えてくれる為練度が高くなるという事である。また、少年部隊のこの欠点の為、とても野戦や夜襲などに使える部隊ではなく、少年達を戦力として使用すべき場所は非常に限られている。私が彼らを使うとするならば、籠城戦において拠点防衛を行わせるか、藩主や重臣の護衛隊としてのみ使用する。そういう意味で、少年達の練度がいかに高くとも主戦力の戦闘部隊として使う事はできない。)
 白河城の敗報が届く中、七月二十六日早朝に、少年達にも出陣命令が下される。当初会津藩の白虎隊と同様に十六歳十五歳までとされたが、十四歳十三歳の少年達も出陣を強く希望した。藩庁はさすがに十三歳という少年に戦争させる事は忍びなかったが、主力がまったくいない今、彼らに頼らざるを得ず、出陣を黙認する形で認める事となる。明日の二本松藩を背負って立つ少年達である。心中苦しかっただろう。
 二本松少年隊は、正式な部隊ではない。臨時編成の義勇軍的な部隊である。現在、戦争に参加した少年達すべてをひっくるめて二本松少年隊としているが、ここでは木村銃太郎に率いられた少年達の部隊に限定して話しを進めていくことにする。木村銃太郎隊の事を知る史料として有名なものに十三歳で戦争に参加した少年隊士水野好之の回顧録『二本松戊辰少年隊記』がある。残念ながら現物を見る事が出来なかったので、ここで参考にしているものは『二本松少年隊(星亮一著・成美文庫)』の中に収録されている『二本松戊辰少年隊記(新かな使い改め)』を使用した。この史料の中でこんな文章がある。
 「やがて一同学館に集合し、特別にライフルの大砲一挺、小銃元込と二口バンドウ、軍用金一両三分を渡され、総勢二十五人隊長木村銃太郎に従い大壇口に出陣し、向かって右手に陣を布く。」(『二本松戊辰少年隊記』)
 これを読む限り、少年達が装備していた銃は新鋭の「元込銃」となる。さらに『二本松藩史』の中にも『二本松戊辰少年隊記』を引用している部分があるので比べてみたが、前述の文章は掲載されておらず、戦闘描写のみであった。また木村隊ではないが別部隊に参加した十五歳の木瀧良行の回顧では、藩から「エンピュール二ツ盤胴の銃と軍用金五両を渡され」という文章があった。エンピュール銃は、当時エンピール銃とも呼ばれ。エンフィールド銃の事である。英式ミニエー銃とも呼ばれる。エンフィールド銃自体は前装施条銃なのだが、ややこしいことに、これを後装式に改造すると「エンフィールド・スナイドル銃」という新鋭後装銃に化ける。つまり二本松少年隊が持っていた後込銃とは、最新鋭のスナイドル後装銃である可能性が高い。
 指揮官は西洋兵学を熟知した木村銃太郎。少年達は数ヶ月間西洋戦術を教え込まれ、後装銃を装備する。少年達と指揮官の信頼関係にも文句はない。人数が二十五人と少数過ぎるという点を除けば、二本松最高の部隊と断言できるのだ。

二本松少年隊の戦い


 さて、それでは『二本松戊辰少年隊記』と『二本松藩史』から少年達の戦いを見ていこう。
 新政府軍が迫る七月二十六日、二本松少年隊にも出陣命令が下り、木村銃太郎に率いられて大壇口に布陣した。少年隊は田畑地帯に陣を構えた様で、見晴らしが良過ぎ、身を隠せる場所が無い。そこで畳を持ち出し、それを重ね合わせて即席の胸壁を築き、当番をたてて付近を巡回、警戒活動をした。実戦を知らない少年達なので、この時はまだ遠足気分が抜けず、「何となく江戸見物にでも行きたらん心地し、浮々として夜半に至れども寝られず。」(『二本松戊辰少年隊記』より抜粋)」といった感じだった。
 異変が起こるのは二十七日の事だ。突然藩庁から撤収命令が届くのである。少年達が不思議がっていると、どうやら藩庁が降参する気配だという。少年達は一様に「ここに至って降参とは何事か」と不満を露わにした。実はこの時、大垣藩からの密使が二本松藩に恭順を薦めに来ていた。二本松藩主夫人は大垣藩主の娘であり、大垣藩とは親戚の関係にあったのだ。新政府軍の中にある大垣藩士たちにとっても、自分達の殿様の娘を討つ様な事はしたくない。ある者は乞食に変装し、またある者は百姓を装って二本松藩に密書を届け、血の滲むような努力をして二本松恭順工作をしていた。また藩内の恭順派も運動して、藩滅亡の危機を避けようとしていたのである。藩内では抗戦か恭順かで大激論が交わされた。本宮を占領され、藩主力部隊を呼び戻す事も叶わず、兵力が全くない今、防御の方策も無い。戦えば確実に藩は滅ぶのである。議論は謝罪恭順に傾きつつあった。だがこれを主戦派の家老丹羽一学が覆してしまった。
 「昨三春信に背きて西軍を城中に引く、其の所行神人共に怒る所、我にして今其の輩に倣はば人之を何とか言はん。縦令西軍に降り、一時社稷を存せんも東北諸藩皆我に敵たらば何を以てか能く孤城を保たん。夫れ降るも亡び、降らざるも亦亡ぶ、亡は一のみ、寧ろ死を出して信を守るに若かずと議輙ち決す。(『二本松藩史』より抜粋)」
 こうして徹底抗戦に決まった。それは、藩滅亡を覚悟しての決定であった。ここに二本松藩の立場の苦しさが滲み出ている。奥羽同盟劣勢といえど、会津仙台米沢といった大藩は健在であり、負けが決定してた訳でもない。もし新政府に恭順すれば、仙台会津両藩は、連絡線確保の為に両藩の中間点にある二本松藩を真っ先に攻撃する事は目に見えている。だからといって主力藩兵が出払っている今の状態では、目前に迫る新政府軍には勝てない。つまりは亡びるしかない。どっちに味方しても亡びるしか無いのならば、せめて後世に汚名だけは残したくない……。まさに苦渋の選択だった。会津も仙台もいざとなったら二本松藩を滅ぼすだろうという冷徹な判断が為された事に注目して欲しい。そこには「会津と奥羽諸藩は一つ」「会津と二本松は最後まで戊辰戦争を戦った盟友」といった結果論からくる仲間意識などない。「国家に真の友などいない」と良く言われるが、まさにそんな冷徹な政治的判断があるのみだ。よく徹底抗戦した二本松藩と恭順した三春藩が比較されるが、その差はわずかでしかない。三春藩より二本松藩の方が会津仙台両藩の領地との距離が近かったというだけである。もし、二本松藩が三春藩の位置にあったならば、二本松藩は恭順の道を選んでいただろう。
 こうして軍議は一変し、二本松藩は滅亡玉砕の道を突っ走り始めた。少年隊も再び大壇口に配備される事となる。同時に二十八日、藩主丹羽長国は徹底抗戦落城を覚悟、事前に城を出て北方へ退去した。この日、郡山にあった坂兵団は本宮にある新政府軍を攻撃したが、先に述べた様に、全力攻撃ではなく簡単に撃退されている。その事が早くも少年達の耳に入っており、少年隊記には「二十八日には銃砲声さらに聞こえず、これに加え敵の集影だも認ず。しかれども本宮口、三春口すでに敗れたれば、二十九日には必ず大敵の来襲あるべしとの警報頻々として櫛の歯を挽くがことし。(二本松戊辰少年隊記)」とある。
 二十九日、ついに新政府軍は二本松に向けて進軍を開始。先鋒は薩摩十一番隊と三番砲隊で三春兵が教導となって進軍する。薩摩十一番隊の指揮官は薩摩藩辺見十郎太。後に西南戦争で薩軍に身を置き、「軍神」とまで言われた猛将で当時十九歳である。対する二本松藩は、尼子平という絶竣な高地に前衛陣地を構築し、守るのは二本松藩の軍師小川平助であった。歴戦の薩摩兵も彼の守る要害尼子平を攻めあぐねた。先鋒隊が手こずっている間に、政府軍本隊の先頭隊である薩摩十二番隊が援軍で駆けつけ、尼子平の二本松陣地に包囲攻撃を開始した。さらに薩摩四番隊が迂回、尼子平を背面より攻撃した上に、薩摩砲隊が携臼砲による砲撃まで加え、ようやく尼子平を陥落させている。薩摩兵はこの小川の勇戦ぶりを褒め称え、彼の強さにあやかるべく「その肝を食った」という伝承はこの時のものである。
 そして、いよいよ少年隊たちが守る大壇口での戦いが始まった。まず、少年達は与えられていた施条砲による砲撃を加えている。「見事にその頭上に、しかも三発までも爆発す。」とあり、見事な砲撃を披露している。榴弾は、砲弾が着地する直前に爆発させるのが最も効果的なのだ。空中で爆発した砲弾は、その爆風圧を地面へ広範囲に叩き付ける。逆に地面に落ちてから爆発した場合は、地面より上に爆風圧が飛んでいき、爆風自体の破壊力は小さくなる。最も効果のある砲撃とは、まさに敵の頭上直前で爆発させる事である。木村銃太郎が、その砲撃技術を見せつけたと言っていいだろう。撃たれた薩摩軍は、すぐさま散開して正法寺町の民家や樹木といった遮蔽物に隠れ、応戦を開始する。
 ここでも強兵薩摩兵が驚くことになった。二本松兵の射撃が非常に上手かったのだ。圧倒的な兵力をもって攻め掛かったのは薩摩兵の方であった。その薩摩兵の前進がココで再び止まってしまうのである。少年達の前にいた薩摩兵達もたまらず近くにあった民家に隠れ、少年達に向けて射撃を始めた。少年達の耳元を弾丸が掠め飛んでいく。
 砲撃戦は激しく、松林の松の木を薙ぎ倒し、田畑の土を空中へ跳ね上げる様子を、少年達の記録は生々しく伝えている。この大壇口攻撃軍の指揮官の中に、冒頭で紹介した名将野津道貫がいた。その野津が大壇口の戦いをこう回顧している。
 「薩兵一個大隊が辺見十郎太に引率せられ奥羽街道を前進し来ると、二本松の南方約十丁許の丘陵上に兵數不詳の敵兵は砲列を布いて我が軍を邀撃するのであつた。我が軍は早速之に應戦したが、敵は地物を利用して、おまけに射撃が頗る正確で、一時我が軍は全く前進を沮碍された。我が軍は正面攻撃では奏効せざることを覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退することを得たが、恐らく戊辰戦争中第一の激戦であつたであろう。(『二本松藩史』より抜粋)」
 野津は会津鶴ヶ城攻略戦にも参加しており、それでもなお「奥羽第一の激戦」と言う程だから、二本松藩の抵抗は会津藩の抵抗を凌ぐほど激しかったのだろう。実際、会津藩本城鶴ヶ城に侵攻した際、強力な抵抗を受けたのは母成峠にあった幕府伝習歩兵ぐらいで、十六橋防御でも防備準備に取りかかるのがあまりに遅すぎる等戦術上の不手際が目立つ。薩摩兵達はほとんど何の抵抗も受けず会津城下に流れ込んだ。会津藩の記録では、なんとか時間稼ぎをしようとしていたのだが、打つ手打つ手が兵力の逐次投入という一番マズイ方法を取っている上、ただでさえ少ないという兵力を、さらに各方面に分散配置していた。この様な薄皮一枚程度の会津の防衛線は、鎧袖一触で粉砕されていった。会津白虎隊もその薄皮の一枚だったのである。会津藩の敗因は「兵器の性能」と言い切る歴史研究家や作家もいるが、実際はこういった戦略戦術上のミスがあまりに多く、兵器の性能の差だけとは言えない。
 話しを戻そう。二本松少年隊の砲撃技量は高かった。薩摩兵が楯にしている民家を、大砲による砲撃で破壊する事を試みて、五軒を命中破壊に成功しているのだ。しかし薩摩兵の後続部隊が到着し、大壇口の二本松兵を包囲するかの様に部隊を展開布陣させると兵力差がじわじわと二本松兵を追い詰めた。少年達の目も血走り、激しい射撃戦を行ったが、もはや劣勢は歴然であり、それを知ってか知らずか少年達は誰もが無言で射撃に集中している。大壇口は頑強に抵抗を続け、薩摩兵の猛攻に絶え続けた。

木村銃太郎戦死す


 一方大壇口とは別方面である小浜方面から進撃した新政府軍は、二本松藩の防御線を突破し、二本松城下に雪崩れ込みつつあった。二本松藩主戦派の中心的人物である丹羽一学は、城下に雪崩れ込む敵兵を追い払うべく、兵を叱咤激励しているが、刀槍しか装備していない留守部隊だけではどうしようもない。ついに持ちこたえる事が不可能である事を覚り、自ら城に火を掛けて自刃した。二本松城の炎上で落城は決定的となり、城下は混乱状態となる。一方、大壇口にいる少年隊の劣勢も続いていた。弾避けの畳も敵弾の為にズタズタになってしまい用をなさない。弾丸の雨の中から脱出すべく『二本松戊辰少年隊記』の記録者、水野好之少年は竹藪の中に逃げ込んだ。弾丸が竹に当たり「ガラガラ」けたたましい音を立てたと伝えている。さらに竹藪の中は敵弾が障害物に当たると別の方に向かって跳ね飛び(専門的にはこれを「跳弾」という)、かえって危険だったという。水野少年は、大きな木材の陰に隠れ敵弾を避けていたが、そこに「隊長撃たれたり」という声が聞こえてきたという。木村銃太郎は、二の腕を撃ち抜かれていた。すでに撤退命令が出されており、銃太郎もこれまでと思ったのだろう少年達に集合の合図を掛けると、大砲の火門に釘を撃ち込み、敵に奪われても使えないようにするといった撤退作業に移っている。少年達が集まり、銃太郎はその少年達に訓辞を与えて撤退するつもりだった様だ。その瞬間、銃太郎の腰を敵弾が貫いた。
 「此の重傷にては到底入城叶ひ難し、疾く首を取れ」
 と言う隊長銃太郎に対し、少年達は互いに顔を見合わせて、
 「隊長の傷は浅し、肩にすがりて退却せられよ。」
 と言い寄った。信頼する隊長を失いたくないという少年達だが、戦況は切迫しており、一刻も早い撤退が必要だった。怪我を負った身での敗走は、少年達の撤退を遅らせ、犠牲を増やすのみと判断したのだろう。銃太郎は「今は無益の押問答する時にあらず、疾く々々」と言って、首を差し出したという。少年達は副隊長二階堂守衛の薦めに応じて、泣く泣く木村銃太郎の首を切り落とした。不慣れだった事もあり、手元が狂って三太刀目でようやく首を落とした。その首も少年達には重く、二人で持って逃げたと伝えられている。二本松兵達は、第二線に下がり最後の防戦を行うつもりだったが、後退してみると思いがけない光景が目に入ってきた。自分達の守るべき城が炎に包まれていたのだ。

二本松炎上!


 第二線に下がってみると、すでに城が燃えておりその方向からも攻撃を受けるという状態となっていた。正面の薩摩兵と城下に充満する新政府軍の挟撃を受けては壊滅せざるを得ない。ここで抗戦することはできなかった。二本松兵達は一挙に敗走へと追い込まれる。少年達も呆然とした。すでに城下は新政府軍の占領下にあった。自分達の城が火炎に包まれ、帰るべき故郷は敵に奪われてしまっていたのだ。どこへ行ったら良いのか解らない。こうなっては城下にいる敵兵に挑み掛かるしかない。まだ城下には少数ながら二本松兵が抵抗を続けていた。少年達もそれに加わるべく敵の占領下である二本松城下に突入していった。しかし、多勢に無勢でどうしようもない。少年隊のある者は戦死し、ある者は捕らえられた。こうして二本松少年隊は壊乱する。壊乱してもなお少年達は戦おうとした。その行動は少年らしい純粋さから出た行動だった。
 この後、二本松兵達は会津藩を頼みとして会津領に撤収、二本松領奪回を目指し母成峠の戦いに参加する。だが、すでに戦いは会津防衛戦であり、二本松奪回の為の戦いではなかった。会津藩も仙台藩も二本松藩の為に戦う余裕などなく自藩防衛に専念していった。
 私には、二本松藩と少年達の死は、大藩雄藩の犠牲となった小藩の悲劇を物語っているように思えてならない。

                         (幕末ヤ撃団 梅原義明)