会津戦争日光口・山川大蔵の戦い

会津藩の逸材達

 会津戦争は、悲劇の戦争であった。薩摩藩長州藩が、時代の要求に従って封建社会を終わらせる側に廻ったのに対して、会津藩は封建社会を守る側に立ち、最後まで頑強に抵抗し滅び去っていった。幕末史をよく調べていくと、会津藩と薩長両藩とで決定的に違う点がいくつもある。西国と東国という地理的条件もその一つだが、それよりも西洋文明に直接触れる機会の回数が決定的に違っている。より多く西洋文明に触れ国際感覚を身に付け、それまでの封建的な価値観に囚われる事なく、そこから一歩前に出ようとした者達が新しい時代を作ったといって良いだろう。この点で、会津藩は薩長両藩に大きな遅れを取っており、人材面でも西欧知識を持つ優秀な人材を生かしきってはいない。このあたりに会津藩が敗者となる一要因がある。
 それでは会津藩家中で優秀な人材とは誰なのか。そのあたりから書いていきたい。会津藩には誉めるべき人材が何人かいる。秋月剃次郎、山本覚馬、神保修理、山川大蔵らである。特に名を上げた四名は会津藩が政治活動する上で、最も活用すべき逸材達であった。
 まず秋月剃次郎だが、十九歳の時に江戸に留学しており、広く他藩士たちと交流を持っていた。会津藩が京都へ出てくると、会津公用方として活躍、その人脈で薩摩藩と組み、八.一八の政変のきっかけを作ったという人物だ。文久年間の会薩同盟は、彼の活躍によってなされたと言って良いだろう。交際が広い事もあって最新の知識と時代の流れを感じることができた名外交官だった。しかし、八.一八の政変以降の最も大切な時期に、蝦夷地に左遷されられてしまう。一橋慶喜の陰謀説や薩摩と深いつながりを持つ秋月を嫌った会津藩内の佐幕派説など左遷には謎が多い。慶応三年三月という佐幕勢力が政治的に追い込まれた時期に秋月は再び京都へ呼び出され、会津外交の最前線に立つがもはや手遅れであった。
山本覚馬も薩摩とつながりを持つ藩士の一人だ。会津藩砲術指南として江戸在勤中に佐久間象山や勝海舟らに西洋砲術を学んでいる。この時に、山本は西洋とはどういったものであるか知ったはずである。会津藩が京都から大坂へ退くとき、山本は一人京都へ残り薩長への接触を試みている。それが出来る程度の人脈があった為である。しかし、鳥羽伏見の戦いで会津藩は朝敵となり、山本も捕らえられ捕虜となった。覚馬は、会津藩が滅亡していく事を知りつつも、新時代の新政府の在り方を考え、文章にまとめ薩摩藩に提出している。それらが新政府にあった岩倉具視の目に止まり、以後明治新政府に出仕して教育畑を歩いた。
 神保修理は、会津藩家老神保内蔵之助の長男に生まれた若手俊才だ。会津藩公用方として活躍した。とりわけ洋式小銃の輸入や知識導入の為に長崎に赴き、西洋文明に触れる事が出来たのは、修理にとって大きな収穫であったろう。その人脈も幅広く、特に西国諸藩に多くの友人があった。特記すべきは勝海舟とも友好関係があり、大政奉還直前の時期に、坂本龍馬にも有って意見交換をしている。まさに会津藩を代表する志士であった。だがそれが仇となった。鳥羽伏見の戦い直前、すでに官軍と成りつつあった薩長の動きを察知した修理は、慶喜や容保に対して恭順をすすめた。そして鳥羽伏見で負けるや、幕府軍敗北の責任は一橋慶喜や容保を迷わせる発言をした修理の責任と糾弾され、敗北の責任を一身に背負って自刃せざる得なくなるのだ。 さて、ごらんの通り、会津の逸材達の多くは西洋文明を肌で感じる機会を得て、かつ外交面においても多くの交際をもち西国諸藩の志士とも情報交換できる土壌を持っていた。彼らもまた時代の流れを敏感に感じ取り、それを会津藩政に反映させようと試みているのだが、なぜか会津藩は彼らの意見を入れず、逆に詰め腹を斬らせてしまったり、左遷させてしまったりしているのである。残念である。そして、最後に残ったのが山川大蔵である。

切り札山川大蔵

 山川大蔵は、神保修理とならぶ若手俊才だ。修理が外交官として政治畑を歩いたのに対して、山川は軍事畑を歩くことになる。文久三年、十九歳の時に会津守護職にある藩主松平容保を補佐すべく京に上り、元治元年の禁門の変では、会津兵を率いて活躍した。長州征伐が失敗すれば、憤激して会津藩も長州征伐に行くべきだと藩主に進言もしている。思想としては激烈な攘夷派で、会津藩士の若者達と日々攘夷論を語り合ってもいる。それだけが欠点であった。会津藩は、彼を外国見聞の旅に出させるという思い切った決断をする。慶応二年、幕府が「樺太境界議定」の為にロシアに外交官を派遣する事になっていた。その随行員の中に山川を加わらせたのである。俊才の山川に外国を見せる事で、必ずや深く覚る事があるだろう。それは未来の会津藩に必要なモノである。会津藩の英断であった。攘夷派の山川は、ヨーロッパを直に感じる事になり、その思想と思考は劇的に変化していった。長州藩でも激烈な攘夷派である井上聞太(馨)と伊藤俊輔(博文)もロンドンに行くや、西欧文明に触れて一気に開国派に転じた様に、山川大蔵も開国派に転じていった。しかし、慶応三年になると佐幕派は政治的に追い込まれてしまい、倒幕の気運が高まってしまう。外国でその事を知った山川は、急ぎ帰国し藩主松平容保に「新法の制定、西欧学問の奨励、諸制度の革新」を説いた。聞いていた容保は喜び、即座に山川を表用人に抜擢したという。山川は会津外交の最前線に立った。
 鳥羽伏見の戦いにおいて、始終藩主の近くに控えていたが、会津藩兵の敗北を知ると、容保は山川に会津藩兵を指揮せよという命令を下している。しかし、時すでに遅く兵は敗走中であり幕臣達に止められて出撃せずじまいでった。結局、鳥羽伏見の戦いは旧幕軍の大敗北に終わり、江戸に帰る事になる。

会津の偽金

 山川は、来るべき戦いに備えて一部の会津藩兵と共に江戸に残り、西洋兵学の修練に励んでいる。他の多くの藩兵は松平容保と共に会津にいち早く帰国した。山川達は、ここで仏人シャノアンから伝習を受けている。
 会津へ帰ると、すぐに軍事会計の総裁に抜擢された。長く京都の守護に当たっていた会津藩の財政は逼迫しており、戦争など出来ないほどに苦しかったのだ。山川は、この財政状態から抜けだし、軍資金をひねり出す大役を果たさなければならなかった。ここで山川は一つの失敗を犯す事になる。京都で、会津藩は藩費の不足を充填する為に、幕府に金銀貨鋳造の特許を申し入れ許可されていた。山川はそれを思いだし、貨幣鋳造を進言し採用となるのである。会津藩の軍用金は、この金によって補強されたが、それは後に「会津藩の偽金作り」と言われ、貨幣価値の暴落を招き、庶民は生活の苦しさからヤーヤー一揆を引き起こしてしまうのである。この為に、会津再興が認められて、新政府から「猪苗代か斗南」のどちらかと聞かれた時、偽金の不満から一揆が多発する会津近くにある猪苗代を避け、斗南の領地に移住せざるを得なかった。もし、猪苗代に領地を得ていたら、再興したばかりで戦う力を無くしている会津藩は、会津藩をまったく信用しなくなってしまった領民達の一揆によって滅ぼされていた可能性がある。新政府から会津藩再興が認められた時、新領地は斗南にしようと言い出したのは山川大蔵だった。彼には偽金と戦争によって荒らされた故郷の領民たちの怒りが良く解っていたのだろう。補足するが、明治新政府が会津藩を流罪にすべく斗南の土地に追いやったという事は無い。会津藩に示されたのは、斗南と会津に近い猪苗代の二カ所である。会津藩が自ら斗南を選んで移住したのだ。
山川大蔵出陣  予想された江戸大決戦は、西郷隆盛と勝海舟による江戸城無血開城によって回避された。主戦派の多くは江戸を脱走し、各地で戦いの火蓋を切ったが、徳川家を脱走した彼らの最後の拠り所は会津藩であった。明治新政府軍も攻撃目標を江戸から会津へと転換し、軍を北上させていく。いよいよ会津戦争が始まるのである。未だ、奥羽越列藩同盟結成前夜であり、会津藩にとって旧幕脱走軍だけが味方であった。会津藩は、少ない兵をすべての国境に張り付けて薄い戦線を構築した。とにかく兵が少なく、旧幕脱走軍の協力はどうしても欲しかった。そして登場するのが、旧幕最強大鳥圭介率いる幕府伝習歩兵だ。その兵力は三千に達し、中規模藩なみの兵力を抱え込んでいた。中には会津藩にも関係の深い新撰組の土方歳三もいた。この大鳥脱走軍は、江戸奪回を目指して北関東で多くの戦いを経て、徳川家康の眠る日光にたどり着いていた。日光は、会津から西街道が通っており、山王峠を越えて最短距離で関東へ進出できる道だった。会津も国境警備の為に兵を大鳥軍へと派遣していたが、指揮の不一致の為に烏合の衆の状態となっている。と言うのも、大鳥脱走軍は有力軍ではあるが、主君を持たない流浪軍である。その上に、総大将の大鳥自身が、庶民出の医者であり、歴とした武士ではなかったのである。会津藩が頭を下げるいわれはない。逆に会津藩の指揮下に入って戦うべきは、会津から補給を受けている大鳥側にあったろう。しかし、大鳥からすれば江戸奪回の為の戦いであり、会津藩の為に盾になるつもりはないのである。彼らはあくまで幕臣であり会津藩士ではなかった。結果として会津藩は大鳥軍を指揮する事が出来ず、大鳥も会津兵に命令をする事が出来ない。指揮系統の統一がなされず、部隊がバラバラに戦うという状態が生じていたのである。西洋兵学に長じた大鳥の思考と、古流兵学が染み込んだ会津指揮官との考え方の違いもあっただろう。会津藩主松平容保は、会津藩の切り札山川大蔵に日光方面の会津藩の全軍指揮を任せ、この大鳥脱走軍へと送り込んだのである。ここで山川大蔵は思いきった事をやってのける事になる。会津藩の重臣の格式と会津藩の総指揮権を持ったまま、流浪軍の指揮官に過ぎない大鳥圭介の指揮下に自ら進んで入ったのである。会津藩上級武士のプライドなど戦争には何の関係もない。西洋兵学に長じた者の能力を最大に引き出し勝利を掴む。山川の決意が見える決断だ。それはまさに西欧流の考え方であった。
 「山川子は当時会藩の若年寄なる者にて両三年前小出大和に従いオロシャに至り西洋文化の国勢を一見し来りし人にて一通文字もあり性質怜悧なれば君侯の鑑裁にて此人を遣わし余と全軍の事を謀らしめんが為に贈られたるなり、余一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり。(『南可紀行』大鳥圭介著)」
 と大鳥の書いた記録にもあり、大鳥は山川大蔵隊の合流を手放しで喜んでいる。
 こうして、総督に大鳥圭介、副総督に山川大蔵をおき、日光戦線の指揮が統一され、強力な旧幕会津連合兵団が出現する事になる。

今市侵攻戦!

 山岳の多い日光方面の戦略要地は今市である。この都市は、南下すれば北関東、東に進めば日光、北に進めば会津領という街道の交差点にある。ココを押さえれば、日光を押さえる事が出来、かつ会津への防御拠点ともなるのだ。会津藩に取っては、今市を確保すれば、北関東への進出拠点ともなり、新政府軍へ圧力をかける事が可能となる。守っていたのは大鳥圭介の宿命のライバル土佐藩の板垣退助である。
 この頃、長州藩世羅修蔵に対する不満の高まりから世羅を襲撃する準備が行われ、閏四月二十日に世羅が殺されている。これに合わせて奥羽諸藩は会津支援を掲げて奥羽越列藩同盟を結成、同時に奥羽の玄関口である白河への攻勢が取られる手筈になっていた。今市攻略もこの会津藩の攻勢にタイミングを合わせている。このあたりは、すべて閏四月二十日という日にタイムリーに起こる事件であり、世羅の処刑と奥羽越列藩同盟の結成、白河攻略奪回と今市の攻勢は、事前に示し合わせた大作戦であったと私は考えている。
 大鳥はこの時、今市を挟撃する作戦を考えた。副総督山川大蔵が第三大隊の一小隊と貫義隊、会津朱雀二番足軽隊を率いて、今市の東に部隊を送り込み、日光街道を分断して敵の退路を断ち攻撃、敵が東からの攻撃に気を取られている間に、第三大隊主力が日光と今市の街道を分断して、今市を西から攻めあげ撃破しようという作戦である。山川は陽動部隊を率いる事となった。閏四月二十一日、今市奪回を目指して各部隊が行動を起こす。山川大蔵隊は、日光街道上の森友を通過して日光街道を分断し、今市に向かって進撃、攻撃を開始した。攻撃を受けた土佐軍は、即座に応戦を開始する。すでにこの日に攻撃がある事を、調べ上げていた政府軍だったが、なぜか無警戒でいた。板垣退助が不在だった為だろうか。山川大蔵隊が打ち出す大砲に悩まされつつも、戦闘準備が出来た部隊から順次陣地に入って防戦している。大鳥の作戦では、同時に二方向から攻撃する手筈だったが、主力は大谷川を渡河するのに時間が掛かり、完全にタイミングが狂って、攻撃が間に合っていない。この為に、山川大蔵隊の単独攻撃になってしまった。土佐軍は次々に増援を東面に送り込み、陽動部隊に過ぎない山川大蔵隊を苦況に追い込んでいった。土佐軍の増援に継ぐ増援で山川隊と互角の戦闘が出来る様になると、山川隊の側面を攻撃しようと別働隊を編成し脇街道から迂回、攻撃を開始した。山川隊はモロに横撃を受け、撤退へと追い込まれる。土佐軍は山川隊を追撃、森友まで追っていった。タイミングは狂ったとはいえ、山川は陽動としての任務を果たしていた。新政府軍は完全に山川大蔵という餌に食い付いていた。問題は、伝習歩兵主力が今市に突入できるかどうかに掛かっている。
 伝習主力は、日光と今市の中間にある野口に出るべく江久保を通過したあたりで砲声を聞いている。これで山川隊が戦闘を開始した事を知ると、慌てて行軍速度を上げた。日光街道に出た所で、日光にいる敵部隊に備えて、二個小隊を割き、後方の押さえとして残し、今市攻撃を開始している。しかし、すでに山川隊は敗退しており、その砲声も止みつつあった。完全に戦機を逸していたのだ。素早く部隊を展開して今市への攻撃を強めたが、徐々に抵抗が厳しくなり、苦戦に陥っている。土佐軍側でも東方面の山川隊を追撃している最中に西方面でも戦闘が始まった事に驚き、東に寄っていた部隊を西に移動させて防戦させている。結局、大鳥軍主力の攻撃も押さえ込まれて今市攻略は成らなかった。敗因ははっきりしており、陽動部隊と主力部隊の攻撃タイミングが狂い挟撃が上手くいかなかった上、主力の方は日光への押さえとして部隊を分割しており、兵力が分散され過ぎだった為だ。そこを土佐軍が各個撃破に成功したのである。大鳥も、この点には気が付き、回顧録の中で反省している。
 「戦争敗績せしは戦の罪にあらず吾輩謀略の至らざる所なり、其故は第二大隊を余り分ち過ぎて勢を殺ぎしにあり、一番小隊を南方に向け、今一小隊を日光の抑えとなし直に敵に当りしは僅か二小隊に過ぎず、南方へ分けし一小隊をも今市と日光の間に出し予備となし置かば、仮令取るるも殿となるべきに甚だ遺憾なりと謂うべし。(『南柯紀行』大鳥圭介著)」

大鳥圭介 対 板垣退助

 今市攻略は失敗に終わったものの、白河戦線では白河城を攻略し、奥羽への入り口を塞ぐ事には成功していた。これには明治新政府軍の方が慌てて、薩摩の伊地知隊が奪回攻撃を仕掛けていたが撃退されている。新政府軍の兵力不足も続いており、奥羽同盟軍優勢の情勢が続く。大鳥も今市攻略の絶好機とは承知していたが、梅雨の影響で連日雨が降り、増水の為に川を渡れないといった不遇に見舞われている。一方、今市を守る新政府軍も奥羽情勢の悪化と、自軍の不利さを覚って会津へ侵攻せず、今市長期防衛に方針を転換している。土佐藩板垣退助も今市へ舞い戻って指揮を執り始めた。板垣なら会津藩と大鳥圭介の伝習歩兵が本格的に手を組んだ事を覚ったに違いない。板垣はこの油断ならぬ強力な敵に対抗する為、強固な防御陣地を構築し今市を徹底的に要塞化してしまう。
 五月六日、旧幕会津連合軍は、大規模な今市攻略戦を開始した。
 主力攻撃軍に伝習歩兵第二大隊(兵力二五〇)と第三大隊(兵力三五〇)、会津藩から田中隊(朱雀二番士隊、兵力八〇)と城取隊(朱雀三番寄合組隊、兵力八〇)をおき、主力の全兵力を集中的に一点に集めて敵を攻撃するという作戦だ。前回の兵力分散の愚を反省し、今度は兵力集中で敵撃破を狙った。また、別働隊に会津藩原隊(青龍寄合組一中隊)と会津猟師隊を別方面の高百に置き、日光にある新政府軍への警戒部隊とした。山川大蔵がどこにいたのかの記録が無いために良く解らないが、たぶん大鳥と共に本営にあったか、日光警戒部隊の会津軍を総括していたと思われる。
 新政府軍今市守備隊の兵力は六〇〇である。しかし、宇都宮には増援にやってきた土佐兵がいた。板垣は、大鳥が今市を攻撃してきたら、今市の兵と宇都宮の部隊で挟撃してやろうという作戦を考えて待ち構えている。今市も要塞化してあり、敵来襲に万全を喫して待ち構えていたのだった。

決戦!第二次今市攻略戦!

 五月六日、今市東側に全兵力を展開した伝習歩兵は、要塞化された今市に寄る土佐兵に猛烈な攻撃を加えた。第三大隊を中央に置き、会津藩城取隊と田中隊を両サイドに配置して攻撃を開始している。第二大隊は、予備隊として後方に拘置してある。予備隊とは、戦局が有利になった段階で勝負を決する為に投入したり、崩れそうになった時に派遣したりする重要な部隊で、大鳥は第二大隊を戦術予備としたのだ。そして、第三大隊と会津兵は今市を攻めに攻めたが、要塞化された今市を今一歩の所で突破出来ずにいた。戦局は大鳥軍優勢に推移し、正午ごろ大鳥は第二大隊の投入を開始する。全力攻撃だった。これで一挙に今市を落とせるはずであった。投入された伝習歩兵第二大隊の勇戦は凄まじく、指揮官大川正次郎と滝川充太郎は大刀を振りかざして先頭に立ち、敵堡塁五十歩ほどまで肉薄躍進している。土佐兵の方は、新手の猛攻に大苦戦に陥っている。堡塁のお陰で持ちこたえている様なものである。板垣は、今市北西を警戒していた臼砲隊を東面の増援に向かわせたが、焼け石に水だった様だ。午前中は伝習歩兵に押されっぱなしという戦局が続くが、土佐兵は粘りに粘りまくった。大鳥伝習歩兵も今一歩の所で突破できず、今市に突入できないでいる。正午になれば、宇都宮からの増援が伝習歩兵の背後を突くだろう。その時こそ反撃のチャンスと見ていた板垣退助だったが、肝心の増援が予定時間になっても現れない。このままでは大鳥の猛攻に耐えきれない……板垣は苦しんだ末、今市守備隊だけで反撃のチャンスを掴もうとする。
 板垣退助は、西方面を守っていた土佐八番隊の半分と予備隊としていた土佐断金隊を合わせた一小隊半の兵力を、今市の南面から出し、山林の中を迂回して伝習歩兵の背後を突こうと考えたのだ。これに連動し、西面日光口を守っている土佐七番隊を迂回部隊と東面を守って戦う土佐兵の中間から包囲前進させ、延翼運動による伝習歩兵翼端に圧迫を掛けたのである。板垣退助は、日光方面の兵力を引き抜いて、反撃用の予備兵力を抽出し、守勢から攻勢転移に移ったのである。この板垣退助の攻勢防御は大成功し、大鳥伝習歩兵の戦線翼端は包囲されつつあった。包囲される事を嫌った歩兵達は後退を始め、今市を攻撃する為の戦線は、次第にねじ曲がり、逆に伝習歩兵が包囲される様な形へと変化していった。ここで大鳥が戦術的な対処を行うとすれば、後方にある予備を投入し、包囲されないように自軍戦線の翼端を補強、敵の延翼運動に合わせて、こちらも延翼運動を行う事であったが、大鳥の手元には予備の部隊がまったく無かったのである。しかも、宇都宮からの新政府増援部隊が、この時になって到着してしまい、伝習歩兵の背後を突いてきたのだ。流れは完全に新政府軍に傾いた。旧幕会津連合軍は両翼包囲に陥り、後退に後退を重ね、ついには持ちこたえられず壊乱してしまうのである。

今市攻略の挫折

 大鳥会津連合軍は、会津西街道小佐越付近に集結したが、大きな損害を受けていた。一方、白河方面でも薩摩の伊地知隊が白河城を奪回していた。奥羽同盟側としては、なんとしてでも白河城を取り戻さなければならない。そして越後戦線での戦いも開始され、奥羽同盟側の兵力が足りなくなってきた。この為に、以後今市攻略侵攻作戦は行われず、逆に会津西街道入り口に強固な防御陣地を築き、日光方面は防御に専念するという方針に切り替わる。
 板垣も会津西街道からの圧迫が薄れた事で、増援として白河戦線に転戦し、日光戦線は、後続でやってきた佐賀藩兵に任せ、白河城の防衛戦に参加、戦略拠点白河城を維持し続けた。もし、今市が会津伝習歩兵が攻略していたら、今市日光戦線に土佐兵全軍が張り付く事になり、その分だけ白河城への増援が無かっただろう。奥羽同盟の白河城奪回作戦は、「敵の増援が来る前に、同盟軍三千でわずか七百名しかいない薩摩伊地知隊を粉砕し白河城を攻略する。」という作戦であった事を考えると、この板垣七百の兵力の早期増援は、白河戦線で大きな影響を及ぼし、事実奥羽同盟の白河奪回作戦は絶望的になってしまうのである。そういう意味で、今市攻防戦の影響は、決して小さいものではなかった。  大鳥の伝習歩兵の兵力集中使用という作戦は良かったのだが、予備兵力の重要性も痛感させられる作戦であったろう。一方、板垣の側にしても板垣が攻勢防御という最新戦術を知っていたとは思えず、偶然の産物だったと思われる。知りもしないはずの西洋式最新戦術を結果的に使ってしまうという板垣の凄さがここにある。土佐の天才的野戦指揮官と謂われるゆえんだ。一方、この戦いでは遅れを取ったが、大鳥圭介も負けずに、母成り峠の戦いでは「縦深防御(三段陣地の事)」という最新戦術を見せて戦っているのである。これも大鳥が知っていた訳ではなく、偶然の産物であったろう。

山川大蔵のゲリラ戦

 第二次今市の戦いが終わった後、この方面での戦いは斥候同士の小競り合いがある程度に沈静化する。というのも、大鳥軍の損害が甚大で、四個大隊を三個大隊に編成し直したり兵を休ませなければならなかった。明治新政府側も江戸攻撃の為の編成のまま転戦を重ねていたのであり、会津攻めの為の編成にし直さなければならなかった為である。両軍お互いが指揮系統の整理を行っていたのだ。
 大鳥と山川は、本営を藤原付近に置き、大原に前哨陣地を築いている。そして、兵力の少なさから本格的な攻勢は仕掛けなかったものの、小勢力によるゲリラ戦を展開している。身分に拘らない山川大蔵は、東北の山野で凶暴な熊を撃つ者や猟師による部隊の活用を考えていたのだ。会津猟師隊を率いて来たのもこの為だった。日常的に鉄砲を使って猟を行う彼らの射撃技能は非常に高く、数人で移動しながら一匹の熊を包囲し、弾丸を集中させて熊を倒す「またぎ達」の技は、恐るべき必殺戦法となって明治新政府軍を襲った。ゲリラ達は、宇都宮領に出没し、新政府の連絡線を脅かし続けている。これにはさすがに困り果て、今市の戦いから一ヶ月半の六月二十五日、新政府軍肥前佐賀藩と宇都宮藩は、連合してゲリラの根拠地である藤原・大原にある会津軍陣地への大規模攻撃を開始する事になる。この時、総督の大鳥圭介も副総督の山川大蔵も不在で、日光戦線にいなかった事が災いする。全くの不意を突かれた会津旧幕連合軍は、佐賀藩の持っていた後装式アームストロング砲に撃たれまくった。たちまち大原前哨陣地が危機に陥り、藤原の本営から増援が駆け付けたもののほとんど抵抗できずに敗北する事になる。新政府軍は、会津軍が占領していた藤原を取る事は出来なかったものの、小佐越と大原を占領している。敗報を聞いた大鳥は、大原奪回を目指して攻勢を取る事にした。新政府軍は、まだ会津への本格的な侵攻を意図していなかった為、大原占領して会津側ゲリラの出入り口を塞ぐ程度で満足し、多くの兵を後方に移してしまっていた為、大原を守る兵力が少ない。そこに大鳥軍が全力で攻め掛かっていった。大鳥は、敵を包囲する様に広く部隊を展開し十字砲火を浴びせ掛けている。今度は新政府軍は徹底的に叩かれ、小佐越と大原を放棄して敗走、大鳥はこの二拠点を取り戻すことに成功した。

会津防衛戦開始!

 この戦いの後、大鳥は会津藩に兵を休養させたいと要請し、伝習歩兵第二大隊を会津へと下がらせている。そして、休養の最中に「二本松陥落!」という情報が飛び込んでくるに及び、会津藩は大鳥に母成峠の防衛を依頼。大鳥自身が母成峠を調べてみると、戦場が広く第二大隊のみでは兵力が少なすぎると自覚、日光戦線を守っていた第三大隊をも母成に呼び寄せた。会津藩は、大鳥だけでなく土方歳三も母成戦線に投入、新撰組もこの方面の防備に就き、母成防衛に全力を注いだ。日光方面は山川大蔵が会津の精兵を率いて一手に引き受け防戦する事になる。しかし、時を待たずして山川を驚かす伝令が来てしまうのである。八月二十二日「母成破れる!会津鶴ヶ城危機!」この信じられぬ情報の前に、山川は会津の精兵を率いて一刻も早く鶴ヶ城へ駆け付けなければいけなくなってしまった。山川大蔵の後退で、日光戦線は大きく後退せざるを得なかった。会津軍の防衛ラインは今市から遠く離れた会津国境付近まで後退し、かつ小さな部隊が防備に就いている。山川隊の後退は新政府軍にとって追撃の大きなチャンスであったが、なんとこの時日光方面を統括する新政府軍の指揮官がまったくいないという信じられない状態だった。これは、会津侵攻を睨み新政府軍の改変を行った際の不手際で、日光方面の指揮官に選ばれた中村半次郎がこの方面に到着していなかったのだ。新政府軍は、各部隊が自分の戦果を拡大しようとテンでバラバラに戦い、完全なる烏合の衆であった。それでも会津軍主力が下がれば、新政府軍も前進する訳で、追撃戦というよりは、後をノコノコついていったという感じで戦線を前進させている。会津軍は、新政府軍の攻撃を警戒し、新政府軍将兵を疲れさせる為、日光街道が山岳地帯で起伏が多く、兵を休める場所が少ないことを利用、焦土戦術に撃って出る。街道沿いにある村々を片っ端から焼き払い、食料などが敵の手に渡らない様にしていったのである。この焦土戦術で街道沿いの村々の多くが壊滅し、その地に住まう民は村から逃げ散った。村人が逃げれば、大砲を運んでくれる人足もいない。雨風を遮る建物も燃え尽き、新政府軍もこの点では苦労した。会津藩の焦土戦術は日光方面だけでなく各方面に行われている。これが戦争中に地元領民の支持を失うきっかけになった形跡がある。会津領民は、会津藩を支持する者もいたが、藩に直接関係の無い者の多くは明治新政府に雇われ道案内などを行っている。また、後のヤーヤー一揆の原因の一つでもあった。会津軍の強力な抵抗があったのは国境付近山王峠の手前にある横川であった。険阻な地形を利用し会津軍が頑強に抵抗を試みている。新政府軍も戦いを挑むも一度は撃退され攻撃が頓挫している。兵を休む場所もなく、焦土戦術で焼き尽くされた村に露営している。一夜明けた八月二十八日、再び横川を攻撃した新政府軍は、今度は会津側の任意退却により難なく横川山王峠を突破している。こうして、会津軍は日光戦線を突破され、新政府軍の会津南方への進出を許してしまう事となった。山川大蔵は会津鶴ヶ城への入城を果たし、会津籠城戦の総指揮を引き受けて会津戦争を戦い抜いていくのである。