御舘の乱
戦国最強の漢、上杉謙信死亡。それは、越後の地に再び戦乱を招き寄せる事になった。上杉家の跡継ぎを巡り、景勝と景虎が相争う御舘の乱。その行方を見ていきたい。
戦国のストリートファイター
今回は、戦国の内乱特集という事で、ここでは「御舘の乱」を取り上げてみたい。戦国時代には、様々な内乱が起こった。それらの多くは家督相続上の混乱が元で発生している。織田信長も織田家同族での内乱に勝利した後、実の弟と覇を争って尾張を統一した。しかし、その織田家は本能寺の変で信長が死ぬとその家督相続争いを家臣達の覇権争いの場とされ没落していく。家督相続をいかにして上手く乗り越えるか。戦国時代というサバイバル時代を生き抜く為の智恵と冷徹さを試されるのである。
北方の守護神として越後に覇を唱えた上杉謙信が一五七八年三月十三日に突如死ぬ。この上杉謙信という武将は戦国武将の中では異彩を放つ。その行動は、某格闘ゲームの主人公そっくりで、「俺より強いヤツに会いに行く」と言わんばかりに武田氏や北条氏と戦い続け、織田家が巨大化してくればこれとも戦っている。しかも、北条氏の様に領地拡大の為に戦っている訳でもなく、武田氏の様に上洛したい訳でもない。まして織田家の様に天下統一という野心もないのである。本当に強いヤツと戦い、満足すると帰っていってしまう様な武将なのだ。しかも、家臣達が野心を持てと迫れば、「出家する」といって家出までした。「義」に熱く、毘沙門天を崇拝し、その為に「生涯不犯」を神に誓ってもいる。こういった性格は、戦国時代では通用しない事が多い。義理堅い事は、義理に縛られて能動的な行動を起こせない。チャンスとあらば味方をも滅ぼして領地を増やし、国力を高めていかなければ、いずれさらに巨大化した大名に飲み込まれてしまう。また生涯不犯も問題だ。つまりは子供を作ることが出来ない。跡取りのない大名は、家督相続の上で大混乱をきたす事になるし、政略結婚という手札を持たない事になる。子供は多ければ多いほど良いという時代なのだ。男子なら跡取り候補として、跡取りが居れば、一門衆として信頼できる家臣となる。女子で有れば、他家に嫁がせてよしみを結び、有能な家臣に嫁がせてその家臣を一門同族に加えても良い。側室を多く持って、子供を多く作るという行為は、大名の遊びや趣味ではなく、家を守る為の大事な仕事なのである。しかし、上杉謙信は自分の信念からそれを放棄してしまっていた。当然実子はいない。上杉謙信という武将は、戦場では異常な強さを発揮したが、領国の拡大や占領地に対する政策などを軽視する性格だった所を見ると、家督相続もさほど意識していなかったのかも知れない。この結果として上杉家は「御舘の乱」という大混乱をきたす事になる。
景勝と景虎
謙信には実子はいなかったが、二人の後継候補者が存在した。それが景勝と景虎の二人だった。景勝は長尾政景の二男として生まれた。母は謙信の姉だ。いわば、謙信に最も近い血を引いてはいるのだが、政景はかつて謙信に背いて反乱し破れて謙信に臣従を誓ったという経緯がある。この政景が、船遊びの最中に事故で溺れ死ぬ。事実かどうかは怪しいが。ともかく景勝十歳の時の出来事である。謙信は景勝を養子として引き取り、父親替わりとなって養育している。そして、この景勝には若い頃よりその才覚を見込まれて近従として付き従う人物がいた。その人物こそ与六兼継。後の直江兼継である。
一方、景虎の方はというと、こちらも戦国の申し子らしい人生を送ってきている。景虎は、元々「北条氏秀」と名乗っており、名将北条氏康の七男として生まれた。最初、甲相駿三国同盟の人質として、武田信玄の元に養子に入って「武田三郎氏秀」を名乗った。この同盟は破られて北条家に送り返されてから北条幻庵に養育され、北条氏が上杉氏と同盟すると、その人質として上杉に養子に入って「上杉三郎景虎」を名乗った。この為に、景虎は本人の望む望まないに関わらず北条氏と武田氏に人脈を持っていた。これを重く見たのかどうかは定かではないが、上杉の家臣の多くに人気があり、また謙信の養父でもある元関東管領職上杉憲政も景虎後継に支持している。武田氏人質時代には、彼の美貌を歌った唄まで流行るほどの美男子だった様である。つまり、何事も起こらなければ、上杉家の名代は彼が継いでいた可能性は非常に高かった。謙信は、直江政景の娘を彼に嫁がせる事で、景虎と景勝を義兄弟にしている。景勝より一歳上の景虎が義理の兄だ。謙信もまた骨肉相噛む戦国時代を生き抜いた人物で、兄弟が相争う事を義兄弟にする事で未然に防ごうとした。そして、謙信の心の中では「義」を重く考えていたゆえに、義兄弟と実兄弟は同義であった。謙信の考えでは、義兄弟となったからには兄弟力を合わせてくれるだろうと思っていただろう。むろん、そう上手く行かない事も謙信は承知の上だ。何しろ自分自身が義理の兄、直江政景と戦い勝利して今に至っているのだから。自分が死ぬまでに家督を決め、それに家臣を従わせれば良い。と考えていたのだろう。だが、その謙信は、遺言を残す暇もないほどの急死を遂げてしまうのである。
上杉後継はどちらか?
上杉謙信の意志はどちらにあったのかは謎である。謙信の行動から推察するしかない。現在一般に言われているのは、景虎を上杉家の後継に景勝を長尾家の後継にするという事だ。元々、上杉謙信は、長尾家の生まれで長尾景虎を名乗っている。それが、関東管領職の上杉憲政が、北条氏に追い立てられて長尾家に逃げてきた。結局上杉憲政は、長尾景虎を養子にする事で上杉家の家督を長尾景虎に譲る事で自らの身の安全を図り、長尾景虎は、上杉家を継いでその関東管領職の権威を手に入れ、上杉謙信を名乗っている訳である。上杉謙信として見れば、本来は長尾家であり、上杉を名乗るのは、自らの「過去の権威秩序を守りたい。もしくは関東管領という権威の保護者となりたい。」という思いゆえであったろう。つまり、関東管領職上杉家を長尾家が乗っ取った訳ではなく、力を失った上杉家を長尾家が一時継ぐ事で、保護しようとした訳である。したがって、謙信としてみれば上杉家が力を盛り返せば、その権威は元の上杉家に返し、己の血筋に近い者を長尾家の後継として上杉家の柱石とする。そういった事を考えていたのではないだろうか。そう考えた場合、景虎を関東管領職上杉家を継がせ、自分の姉の息子であり長尾家の血を引く景勝に長尾家を継がせるというシナリオは案外簡単に描ける。謙信の行動もそれを裏付けていると思われる点がいくつか有る。まず、景虎に自分のかつての名「景虎」を名乗らせており、かつ上杉性を名乗らせているのに対して、景勝の方は、「長尾顕景」を名乗らせ続けている点。景虎が上杉景虎を名乗ってから五年後にようやく景勝は「上杉景勝」を名乗っているのだ。また、春日山城の居住地は、謙信が本丸。景虎が二の丸。景勝が三の丸である。その序列からも景虎が景勝の上に居ることは明白であったし、謙信に言わせれば年齢的に考えれば義兄弟の兄に当たる景虎が上に来るのは当然だったろう。この場合、他家と違い「血(血縁)」はあまり重視していない可能性が高い。何故なら、謙信自身が上杉家の血など引いていないのだ。だから、上杉家の後継者に血の繋がりは求めない。ただし、長尾家に関してはそうではなく、しっかり血で繋がっている。長尾家の血を引く謙信としては、長尾家に関しては血を残したかっただろう。こう考えた場合、謙信の思考と謙信の行動が一致してくるのである。問題は、上杉憲政と北条氏との確執である。景虎は北条の血を引いている。北条氏は上杉家を関東から追いやり、その長男を殺してもいる。上杉憲政が景虎の後継を承知するかどうかである。憲政の真意はどうであったのかは不明だ。しかし、御舘の乱が起こると、憲政が景虎を支援し、自らの城である御舘を景虎に提供している所を見ると、謙信の説得を受け、景虎後継を認めていた可能性が高い。これらを考えれば景虎後継こそ順当だと思われる。しかし、謙信の急死はそれらを霧の彼方へ隠してしまった。明確な遺言もない。そして、謙信のこの独特な思考は、戦国時代の武将臭さを濃厚に持つ家臣団には理解されなかっただろう。彼らは謙信の強さ故に従っていたのであり、スキあらば戦国大名らしく自己の勢力拡大を狙っていた。謙信の死は、彼らを縛っていた鎖が解き放たれた事を意味し、明確な後継者がいない事は、彼らにスキを与えてしまった事になる。景虎は、その運命に巻き込まれざるを得ない立場にあった。
与六兼継の陰
景虎の人柄や性格などは謎である。彼に関する記録や資料が少なすぎる為だ。だから、彼が用心深いのか好戦的なのかは謎だ。やはりその行動から推察する他ないが、御舘の乱に関して言えば、彼の側に油断があったと言わざるを得ない。油断というよりは、景勝があまりに用意周到で巧妙だったと景勝の側を誉めるべきか。
ともかく、景虎の経歴は、北条氏康の御曹司として生まれ、武田家の人質、上杉の人質と転々と生きてきた。人質という悲運な立場ではあったが、同盟の要として粗略な扱いは一切受けなかったハズである。そういう意味では温室育ちであったろう。もちらん、北条家は常に彼の味方になってくれるだろうし、人脈のある武田も味方に付く可能性が高い。何よりも憲政が味方なのである。安心していても無理はない。さらに、景虎の安心材料として、景虎継嗣を支持する上杉の重臣が比較的多いこともある。中でも積極的に動いたのは柿崎晴家だという。晴家は、上杉氏が北条氏と同盟した時、景虎が人質として上杉に入ったのと同様に、上杉側から北条氏に送った人質という経歴があり、景虎にはそれ相応の思い入れがあったろう。景虎擁立派のリーダーとして晴家は活動していたと言われるが、別の資料では「信長との内通で謙信に殺された」とも言われ、判然としない。少なくとも、晴家の様な重臣が景虎継嗣に動いていた事だけは示唆している。一方の景勝の方は、逆に血生臭い。まず、景勝の父長尾政景は、謙信が上杉家を継ぐことに反対して反乱を企てて謙信と戦ったという過去歴を持ち、彼の死因も謙信の謀殺だとも言われているのだ。景勝を養子にしている事も、反謙信派が景勝を担いで反旗を翻す事を未然に防ぐ意味もあったはずである。それだけに、旧政景派は力を失っており、謙信に負い目がある。いわば、景勝の後ろ盾として期待できる派閥は、上杉家の中では反主流派であった。景勝は、油断すれば同族といえども排除される事を知っている。そして何よりも、何もしなかったら自分は景虎の家臣となってしまう事も……。相続権を持ちながらそれを放棄する事は、景勝の野心が許さなかったのだろう。そして景勝には、景虎をいかしにして引きずり降ろすか……その策謀を張り巡らす智恵を持つ人物、与六兼継がいた。
若い頃より信頼し続けた兼継に、景勝が相談すれば、兼継ほどの知力を持っていれば景虎追い落としの策謀など簡単に立案できる。何しろ、後に徳川家康を相手に関ヶ原の戦いを石田三成と共に企画した一人なのである。兼継の策は、ほとんどクーデターである。しかも、クーデターを起こすタイミングは謙信死亡直後を狙っていた。
上杉謙信の死とクーデター
謙信が死ぬと、景勝側が真っ先に動いた。謙信が死んだ翌日に、柿崎晴家が暗殺されたと言われる。むろん、景勝側が殺したという証拠はないし、晴家自身の資料も少ないのでその死に様も死んだ時期も謎が多いが、この時期に殺されたとすれば、仕掛けた側は景勝であっても不思議ではない。別説では、柿崎家内部で景勝派と景虎派が争っていた。結局柿崎家は晴家の息子を立てて景勝派に味方している経緯を考えると、柿崎家の内紛に晴家自身が巻き込まれて死亡した可能性もある。何にせよ、彼の死には疑問が多い。
次に、兼継の密命を帯びていた可能性が高いのが直江家である。上杉家の重臣として活躍してきた直江家は、上杉家の奥向きの御用にも深く入り込んでいたと言われる。なにしろ、奥向き御用の総領であるはずの大名の奥方が不在なのだから仕方がない。また、困った事にその系図も怪しく、判然としないので明快に答える事は出来ないが、直江景綱が死に、その一年後に謙信が死んでいる。この時、直江家を息子の直江信綱(別説では義理の息子)が継いでいた。信綱は景勝派として動いた。父、景綱の未亡人を謙信の看病者として謙信近くに張り付け、謙信の病状を常に把握していたと思われる。その近くには兼継も控えている。この情報は、全て景勝派に伝わっていた。謙信危篤の報に接し、景勝はすばやく本丸へ入り、謙信の枕元へ座った。ここで、景綱の未亡人が、「お家の跡取りは景勝様ですか。」といった様な事を聞き、謙信の頭が微かに動いたのを見て、「お後は、景勝様です。」と言い切った。その直後に謙信が死ぬ。もはや、その段取りの良さから考えても計画的であり、兼継の性格が出ているとしか言いようがない。兼継は、謙信公の死を秘匿する為に、本丸を閉ざし、謙信が京都上洛戦を開始するために集結させた軍勢に、上洛の中止と解散を命令している。家臣に人気の高い景虎の兵力となる事を避けるためだ。
景虎の方も本丸の異変に気づき、兵三十人前後を引き連れ、自分も本丸に入ろうとするが、景勝派に本丸入城をを阻止され、結局二の丸に立て籠もらざるを得なくなる。景勝と兼継は、素早く春日山城の武器弾薬と金蔵を押さえ、上杉家の実権を押さえる一方、有力な家臣や同盟大名に、上杉家の後継は景勝と発表を行って、跡目相続を確実なものにしようとしている。事態がここまでくれば、景虎も景勝が自分の排除を行っているのだと気づく。景虎は、自分の故郷である北条家や武田家に援軍を要請した。上杉憲政も「跡目は三郎景虎を」との申し入れを行ったが後の祭り、「跡目はすでに景勝と決定」とはねつけられた。景勝は、景虎が春日山城内の二の丸に立て籠もって占拠している状態で、景虎の援軍が到着する事態を恐れ、景虎への攻撃を開始する。景虎は、謙信公の眠る本丸への攻撃は差し控える事に決し、結局春日山城を脱出。上杉憲政のいる御舘城へ走った。こうして、景勝のクーデターは成功を収めたが、景虎は生きており、その元には景虎派が結集しつつあった。御舘の乱の始まりである。
景虎側の反撃
五月十六日、景虎側に立つ東条佐渡守が春日山城の城下町に火を放って御舘に走ると、武力衝突以外に解決の道が無くなってくる。それまでは、北条高広が妥協案をもって兄弟の争いを仲裁しようとしていた。彼の言い分は、「東に強大な織田氏があり、また景虎の実家は北条氏であるので、このまま戦い続ければ、謙信公が手に入れた領地を織田家に奪われてしまう。また景虎が小田原北条の兵を越後に招く事で、内乱に他国の大名が入り込み、上杉家の勢力が減退する。」といった内容で、「上野と越後を景虎が、能登と越中を景勝が支配し、兄弟力を合わせて上杉家を盛り立てたらどうか」という妥協案を提示していた。これに対して、景勝は、「景虎は北条の者である。北条を後ろ盾にして景勝を倒し越後を得ようとするだろう。そちらの方が一大事である。そうなる前に、景虎を滅ぼす。」と言って妥協案を一蹴にした。景勝は、景虎を上杉家の者ではなく、北条の者であるという認識の立場を取った。つまり、上杉家が北条家の分家に成り果てる事を阻止する事が彼の目的であり正義であった。北条高広は、交渉決裂と判断し御舘の景虎派に加わる。さらに、本庄秀綱や堀江宗親らの諸将が景虎派に付いて景虎優勢を印象づけた。北条高広の息子である景広は、勢いにのり「景勝を攻め落とそう」と提案し、春日山城へ進軍する事になる。景虎側は居多浜・大場・府内といった場所で一進一退の攻防を繰り広げたが、景虎側に利無く、御舘に退いている。とはいえ、景勝側も勝利は得ていたが、後が続かない。とりわけ小田原北条家と甲斐武田家の援軍を恐れた。
武田勝頼買収
景虎の兄である北条氏政の元へ、景虎から状況が伝えられると、いよいよ北条勢が動き出す。九月になり氏政は、景虎救援に弟の氏照を派遣する一方、武田勝頼にも景虎の援軍を出すよう要請を発した。勝頼もまた援軍要請を受け、軍を発しようとした所、景勝からの和議が申し込まれる。
景勝派の状況は四方八方敵だらけといった状態であった。東に謙信の死を喜び、今にも攻めてこようとする織田氏があり、川中島方面に武田氏があり、上州からは北条氏が勢力を伸ばしつつある。その勢力全てが敵であった。ともかく味方を得たい。兼継は、武田勝頼を味方に取り込む事を策した。景勝は、この策を採用し武田家の取り込みに動く。勝頼の寵臣・長坂釣閑斎や跡部大炊助らに莫大な賄賂を送りって交渉を進めた。勝頼はこれに乗ってきた。武田からの要求は「黄金一万両と東上野の上杉領割譲、さらに勝頼の妹を室に迎えること。」といった武田家にとって一方的とも言える条件を景勝に突きつけている。足元を見られた形の景勝だが、飲まざるを得ない。こうして勝頼と景勝の同盟が成立し、武田軍は景勝派に味方する事になる。それを聞いた北条氏政は激怒して、それまで結んでいた北条家と武田家の同盟を破棄するに至る。さて、この勝頼の行動は、金に欲が眩んだとしか言いようがないのかもしれない。戦場働きでは定評がある勝頼だが、その内実は信玄から仕えている家老たちとは別に、自分に臣従する家臣の意見を聞く事が多い。それは、家老達が信玄と自分を常に比べられるという不満もあったろう。家老達は勝頼派閥ではなく、信玄派閥だと言っても良い。勝頼は彼らを見返す為にも、己と己自身に仕える寵臣だけで信玄以上の働きをしようとしていた。この為に常に事を焦る。今回の場合も、どうもその寵臣達に良いようにされてしまった感がする。景勝に味方して親武田派を越後に作るという目的ならば、景虎の方に味方した方が条件としては良い。北条との同盟が崩れずに済むのだ。とするならば、金と領地が欲しかったと考えられる。特に信玄時代よりも領土を拡張しようと焦る勝頼は、戦わず東上野を手に入れようとしたと考えた方が良いだろう。それでも、北条家を敵にまわすのは失態であると言わざるを得ない。ともかく、景勝は武田を味方に付けるという兼継の策は成功し、兼継は景勝の軍師の地位を確実なものとする。一方、北条の援軍は関東から越後への遠征という事もあり、動きが非常に鈍い。北条独特の欠点がここで現れている。結局、北条の援軍が景虎の元に到着する前に、景虎の方が滅ぼされてしまう事になる。
御舘落城
景勝は、断続的に景虎を攻撃し続け、天正七年二月一日、御舘を攻略して景虎軍を壊滅に追い込もうと大軍を起こした。景勝が警戒したのは景虎の背後に見え隠れする小田原北条の援軍だ。その援軍が御舘に入れば、戦いは長期化し、北条の勢力が越後に蔓延る事につながる。それだけは断固防がなければならない。北条氏政は、氏照に続き氏邦の出陣も決め景虎を支援しようと努力はしているが、肝心の氏照も氏邦も雪の為に進軍がままならず、景虎に合流できずにいた。雪解けとなれば、これら北条の大軍が越後に雪崩れ込む。景勝は、雪解けの前に景虎に決戦を挑み勝利を得なければならない。
景勝は、御舘に立て籠もる景虎と上杉憲政に猛攻を加え続けた。結局、北条の援軍は御舘に到着する事は出来ず、補給線を絶たれて孤立無援となった御舘城は、この景勝の猛攻に耐えきれず、三月十七日に落城に追い込まれる。
景虎は、やむを得ず長男道満丸を上杉憲政に預けて、景勝との和議に動く。しかし、和議仲裁の為に憲政が道満丸を連れて春日山城に向かう途中、景勝の兵に見つかり、斬殺されてしまうのである。こうなっては生き残る術は一つしかない。景虎は小田原北条を頼って落ちのびようとし鮫ヶ尾城の堀江宗親を頼った。しかし、堀江は敗残が確実となった景虎を庇って共倒れになってはかなわないと景勝に寝返る決意をしてしまっていたのだ。結局、景虎は三月二十四日午の刻、自刃する。景虎の死をもって景勝の勝利は確実なものとなり、北条氏が越後に勢力を伸ばす前に、景勝は謙信の支配していた越後の全領地を有する戦国大名として独立する事になる。
景勝、越後支配の基盤を固める
景虎の死をもって、「御舘の乱」は収束に向かう。その一方で、景勝は御舘の乱によって自分の支配体制強化に成功している。上杉謙信という一大の英雄の死は、越後に混乱を招き寄せ、家臣達の野心を掻き立てて上杉家からの独立を招く可能性があった。それを景勝派と景虎派の二大勢力の争いに転化した事で、景勝派についた家臣達は自然と景勝を主君と仰ぐようになり、かつ景勝は彼らに御舘の乱の恩賞を与える事で、彼らの主君である事を自らアピールして見せたのである。そして、景勝を主君と仰ぐことに抵抗があった家臣達は景虎派にまとまっている為に、それを滅ぼして反景勝家臣を粉砕してしまった。これで、景勝は大名としての支配体制を確立する事になる。