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No. 1:火縄銃
No. 2:ゲベール銃
No. 3:ヤーゲル銃
No. 4:ミニエー銃
No. 5:エンフィールド銃
No. 6:スナイドル銃
No. 7:ドライゼ銃
No. 8:シャスポー銃
No. 9:スペンサー銃

No. 1

戦国古来よりの和銃の代名詞!

火縄銃(前装滑腔銃)

DATA

田布施流の鉄砲(銘:江州国友彦右衛門知忠)
口径:12ミリ   全長:1320ミリ   
弾丸:丸弾

堺筒(銘:巻張摂州住藍谷権右衛門)
口径:12ミリ   全長:1290ミリ
弾丸:丸弾

 火縄銃は、鉄砲鍛冶によって制作される。この為、砲身には制作者の銘が刻まれる事が多い。さらに各地の鉄砲鍛冶によって鍛造されていたので厳密な規格というものがなく、寸法はまちまちだった。弾丸の重量が呼び名になっており、「三匁五分筒(一般的な足軽に支給されたもの。口径12ミリ)」とか「十匁筒(武士の私物に多い。名士筒。口径19ミリ)」と呼ぶのが普通である。

 弾丸発射の方法は、まず銃は簡単に言えば筒である。この筒に発射火薬を入れ突き固める。次に丸い弾丸を入れ突き固める。火皿にも火薬を乗せ、火皿の蓋を閉じておく(火皿の火薬は筒に込めた火薬と違い、非常に発火しやすい上に皿の上に有る為に風雨で吹き飛んでしまう。これを防ぐ為に蓋を閉める。)火縄に火種を付ける。いざ射撃という時には火皿の蓋を開けトリガーを引く。すると火縄が火皿に当たり、火種は火皿にある火薬に点火され、点火された火は火皿と筒内部へ続く穴(火穴)を通って発射火薬に点火される。発射火薬が爆発し、丸い弾丸が筒の外へ押し出されて射撃となる。射撃終了後には、火薬の燃えカスを取り除いた後に同じ作業をする。もっとも実戦では手間を省き、燃えカスを取り除くという作業を行わないで、そのまま連続射撃していた。しかし、常に火種を持ち歩かなければならず、後装銃ほど手軽に弾込めも行えないという欠点も持っている。弾丸も丸弾の為、射程50メートル程度まで直進するものの、それ以上の目標を狙った場合は、野球のカーブやシュートの様になって弾丸が直進しなくなってしまう。

 戊辰戦争では、洋銃を装備していなかった藩や古来からの兵法にこだわった藩では使用されたが、運用面や性能で洋銃に劣っている為に主力兵器にはなれなかった。

 火縄銃のカラクリ(機関)には、大きく分けて「外カラクリ」と「内カラクリ」が有る。他にも色々とカラクリのタイプが存在している様だ。簡単に言えば、火縄を火薬に打ち付けるバネが銃の外にむき出しになっているか、銃内部に収まっているかの違いがある。また、点火火薬に「雷汞」(一種のカンシャク玉の様なもので、衝撃で爆発する鋭敏な火薬である)」を用いた和銃も生産されていた様だ。

No. 2

幕末の基本となった洋銃。国内にて大量生産!

ゲベール銃(前装滑腔銃)

DATA(ゲベール銃の一例)

歩兵銃(インハンテリー・ゲベール)
口径:17.5ミリ   全長:1499ミリ   重量:4キロ
弾丸:丸弾

騎銃(カラベイン)
口径:17.5ミリ   全長:1090ミリ   重量:3.34キロ
弾丸:丸弾

 幕末の洋銃と言えば、まずゲベール銃の名を上げる事が出来るだろう。高島秋帆が輸入したのが始まりである。秋帆が洋銃の性能をアピールしていく内に、日本でも普及していった。前装滑腔銃であり、幕末初期では火打ち石を火縄のかわりに使った「燧石式(火打ち石式、フリントロック式とも言う)」の点火機で、発射火薬に点火し弾丸を撃っていた。火縄と違い火打ち石を使用する事により、火縄銃の様に常に火種を携帯する必要が無くなり、運用上非常に扱いしやすくなった。文久年間ごろに多くは「雷管式」に改良されるか破棄された様である。なぜ雷管式に改良したのかというと、火打ち石を用いる事で天候に左右され難くなっていたとはいえ、強い風雨が有ればやはり火花が飛び散ってしまい使えなかったからである。雷管は「キャップ」とも言われ、小さな金属製のキャップに発火しやすい火薬を詰めたモノである。引き金を引くと、撃鉄が雷管を叩き、その衝撃で火薬が発火、それが発射火薬に引火爆発し弾丸が発射される。これで、天候に関わらず銃が撃てる様になった。これを「パーカッション式」と呼んでいる。戊辰戦争で使用されたゲベール銃の多くは、雷管式ゲベール銃と思われる。

 しかし、ゲベール銃が旧式である事には違いはない。前装銃丸弾丸という事では「火縄銃」と同じだからで、当然火縄銃の欠点は受け継いでいる。また「ゲベール」とは、オランダ語で「小銃」を意味する単語である。当時の日本では「洋銃=ゲベール銃」と考えられていた様である。この為、単にゲベール銃と言っても色々な銃が存在しており混乱する上、旧式であるが故に戊辰戦争の主力兵器にはなり得ない銃であった。外国人ブローカーに騙されて買わされた例も有る。国内においても、ゲベール銃は火縄銃に変わる鉄砲として各地の鉄砲鍛冶によって生産され、国内だけで十分間に合うほどであった。が、その結果、火縄銃と同じように銃の大きさや口径がマチマチで、名前はゲベール銃だが性能は違うという奇妙な状況を作り出してもいる。当然、弾丸の大きさも鉄砲によって違うため、弾丸の製造も鉄砲ごとに行わねばならず、運用面でも火縄銃の欠点を受け継いでしまった。資金の無い藩では、「安い洋銃」としてゲベール銃を買う例も有った。

No. 3

会津白虎隊が装備した悲劇の銃!

ヤーゲル銃(前装施条銃)

DATA(ヤーゲル銃の一例)

口径:17ミリ    全長:1145ミリ   腔綫:7条
弾丸:丸弾・椎実弾

ヤーゲル・ビュッス銃
口径:15ミリ    全長:1040ミリ   腔綫:7条
弾丸:丸弾・椎実弾

 ゲベール銃は命中精度があまりに粗雑だった。そこで、各国は狙撃用に猟銃を採用していた。これが「ヤーゲル銃」と呼ばれる銃である。「ヤーゲル」とは「猟師」という意味の単語で、文字通り「ヤーゲル銃」は「猟銃」という意味である。したがって、これまた一言にヤーゲルと言っても、色々な性能のヤーゲル銃が存在している。

 ゲベール銃とどこが違うかというと、銃身にライフル(施条、螺旋状の溝の事)が刻まれた事が上げられる。これにより、弾丸に回転を与えられる様になり、ジャイロ効果で直進性が増し、より遠距離に真っ直ぐに射撃できる様になった。弾丸は初期には丸弾を使用していたが、後に椎実弾を使用する様になる。しかし、銃身内にライフルを刻んだ事と丸弾から椎実弾になった事で、弾込め作業が格段に難しくなってしまった。なにせ、つるつるだった滑腔銃に対して施条銃には溝がある。これに発射火薬を詰め、椎の実型の弾丸をまっすぐ込めて突き固めなければならない。当然途中の溝に引っかかったりして、弾込めがゲベール銃より大変になったのである。戊辰戦争では主力兵器にはならず、次のミニエー弾を使用する「ミニエー銃」に主役を渡す事になる。

 日本に輸入されたヤーゲル銃の多くはオランダ製であった。ヤーゲル銃には長いタイプと短いタイプのヤーゲル・ビュッス銃が有り、ビュッス銃の方が多く使われたと思われる。というのも小さい小銃(たとえば、騎銃)は、当時の日本人の体格に有っており、扱いやすかった為に好まれて使用されていたからである。

 また、『会津戊辰戦争』によると、白虎隊士は「武器は、日本刀を紐にて肩より提げ、脇差をたばさみ、沸国製のヤーゲル銃を携へ、弾薬蓋をつけた革帯を締めたものである、火縄銃などは一挺もなかつた。」とあり、白虎隊がフランス製のヤーゲル銃を使用していたことが解る。

No. 4

戊辰戦争の標準小銃!

ミニエー銃(前装施条銃)

DATA(ミニエー銃の一例)

オランダ製ミニエー銃
口径:16.6ミリ  全長:1410ミリ                 腔綫:4条
弾丸:椎実弾(ミニエー弾)

アメリカ製ミニエー銃
口径:14.5ミリ  全長:1410ミリ(三ツバンド)1195ミリ(二ツバンド) 腔綫:3条
弾丸:椎実弾(ミニエー弾)

 前装銃にライフルを入れ、弾丸を椎実弾に変えて性能はアップしたが、弾込め作業に問題が有った。この問題を解決した画期的アイデアが「ミニエー弾」である。フランスのミニエー大尉は、椎実弾の底部に木栓をはめ込み、発射時にガス圧によって木栓が弾丸中に押し込まれ、スカート部が拡張してライフルに食い込ませるという弾丸「ミニエー弾」を発明した。ミニエー弾であれば、口径より少し小さい弾丸であっても、木栓が拡張してライフルに食い込み、弾丸に回転を与えるため、従来の弾丸よりも格段に弾込め作業が簡単になる。ヤーゲル銃の時のように弾込め中に、ライフルの溝に弾丸が引っかかる等という問題が解消した。この画期的な発明は即座に世界に広まり普及する。ミニエー銃とは、つまりミニエー弾を使用する小銃の総称である。

 したがって、世界各国でミニエー銃は製造され、またメーカーによっても性能に違いが出てくる。命中精度でゲベール銃と比較すると、三百歩の距離における命中度は、100発撃ってミニエー銃が44発の命中に対して、ゲベール銃はわずかに7発である。

 戊辰戦争では、官軍の標準小銃として前装ミニエー銃が採用された。すでに後装銃が市場に出回っていたが、値段が高い事と同一の銃を大量に使用した方が、補給や運用面で混乱を避ける事ができる。

 江戸城占領を境に、前装ミニエー銃は順次「後装ミニエー銃(スナイドル銃やアルビニー銃)」に改造され使用された。後装ミニエー銃は、別名「元込めミニエー銃」とも呼ばれる。後装銃は、発火装置の究極の形である「カートリッジ(薬莢)」を使用する。発射火薬と雷管、弾丸を一つに組み合わせたカートリッジを使用する。これにより、先から弾丸を込める必要が無くなり、銃の後ろからドンドン弾丸を銃に込めて射撃出来る様になった。

 官軍に続いて、会津藩など佐幕派の大藩で採用されており、長岡藩でも標準小銃として採用されている。逆に言えば、戊辰戦争ではミニエー銃が兵器の基準であると言える。しかし、官軍は江戸城占領後に「後装銃」に転換しているのに対して、奥羽諸藩の多くは「前装銃」を使用している。同じミニエー銃だが、性能には格段の違いがあった。

No. 5

先込め銃最後の傑作!

エンフィールド銃(前装施条銃)

DATA

歩兵銃
口径:14.66ミリ 全長:1250ミリ 重量:3.88キロ 腔綫:5条
弾丸:椎実弾(ブリチェット弾)

騎兵銃
口径:14.66ミリ 全長:940ミリ  重量:3.11キロ 腔綫:5条
弾丸:椎実弾(ブリチェット弾)

 ミニエー銃を改良し、英国軍隊が採用した。ミニエー銃と違う部分は、火門を保護するための火門蓋が用心鉄の鋲から鎖で結ばれている点と、使用弾丸がブリチェット弾と呼ばれ、木栓を用いず、弾丸の裾がガス圧のみで自然に拡張するように薄くなっていることである。

 他のミニエー銃と混同して使用されてしまった為、ミニエー銃と記述されたりもする。慶応3年になってから、やっとミニエー銃と区別される様になり、エンフィールド銃またはエンピール銃と呼ばれた。一時期ミニエー銃と混同されていた事から、戊辰戦争ではブリチェット弾ではなく、ミニエー弾をも使用されていたと思われる。最も、やろうと思えば後装銃(後装銃は、ほとんどカートリッジ式である。)に無理矢理火薬を詰めて丸弾を撃っていたという記録もあるので、ブリチェット弾を使用しなかったとしても、ミニエー弾であれば問題なく撃てるだろう。

 イギリス製ミニエー銃とは、つまりエンフィールド銃の事である。明治6年以降は、後装式のスナイドル銃やアルビニー銃に改造された。

 戊辰戦争では、上野彰義隊がエンフィールド銃を装備していたと言われている。ちょうど、官軍がスナイドル銃なのど後装式銃の採用に踏み切った次期で、上野戦争では、長州藩兵が後装式の操作方法を知らず、後方へ逃げてしまったという事もあった。

 先込め雷管式小銃の弾込めは、まず銃を立てて火薬を銃口から入れる。火薬は当初は粉末のまま入れて突き固め、弾丸を入れていた。しかし、後に火薬を包んだ紙製の「ハトロン(又はパトロン)」が輸入され、この紙製の火薬筒を込める様になった。舶来品だけでは間に合わなくなり、佐賀藩では火薬筒の自作製造に踏み切っている。火薬を搾杖で圧し、たまご形の弾丸を銃口から入れる。この弾丸は口径より小さいので、銃を下に向けると弾丸が落ちてしまう。これを防ぐ為、和紙を口でかんだものを弾丸を入れた後から銃口から入れて、搾杖で圧した。この他にも、火薬筒と弾丸が薄紙で密着されたものも有り、これを使用すると、射撃動作はいっそう早くできた。いわば佐賀藩特製前装銃用カートリッジである。さすがは官軍随一の技術を持つ佐賀藩である。

No. 6

戊辰戦争後半の主役。官軍の後装銃の代名詞!

スナイドル銃(後装施条銃)

DATA

歩兵銃(1866年英国製三ツバンド)
口径:14.7ミリ   全長:1375ミリ   重量:4キロ  腔綫:3条
弾丸:椎実弾

歩兵銃(二ツバンド)
口径:14.7ミリ   全長:1232ミリ             腔綫:5条
弾丸:椎実弾

歩兵銃(本邦改造三ツバンド・スイブロン式)
口径:14.5ミリ   全長:1400ミリ             腔綫:3条
弾丸:椎実弾

 分類から書くとスナイドル銃は「銃尾開閉型莨嚢式銃」である。後装式には大きく分けて「薬室分離型」と「銃尾開閉型」が有る。薬室分離型とは、銃身と薬室が接合部で2つに分かれているモノ。現在の薬莢式リボルバー拳銃が薬室分離型である。銃尾開閉型は、銃身と薬室が同一体で、ただ銃尾の尾栓(筒の尻の部分)にあたる部分が遊底(弾丸を込める部分の扉)になっていて、自由に開閉できる。莨嚢式とは、その遊底部分が横に開くタイプの事。「刻煙草の容器に似ている」ためにこの名がついた。

 1864年英国政府は、前装式エンフィールド銃を安価に後装式に改造しようとして研究を重ね、1866年に新しい形式を決定した。これをエンフィールド・スナイドル銃と呼んだ。この形式は、前装銃を後装銃に改造するのに最も適しており、戊辰戦争でも多くのミニエー銃が改造され、スナイドル銃に生まれ変わっている。

 当然、スナイドル銃の性能は改造前のミニエー銃によって異なる。「元込めミニエー銃」とは、つまりスナイドル銃を指している。

 長州藩薩摩藩共に、英国から買ったミニエー銃(エンフィールド銃)を所持していた為、江戸城占領後にミニエー銃をスナイドル銃へと改造使用している。官軍主力兵器となったスナイドル銃は、その威力を会津戦争で発揮した。対する会津藩は、前装ミニエー銃が主力兵器で、苦戦を強いられている。

 後装式銃では、弾込め作業で銃身を立てて行う必要もなく、射撃姿勢を崩すこと無く弾込め出来た。当然、弾込め作業の失敗等は、カートリッジ使用の為に少なくなる上に、弾込め作業も素早く行えた為、射撃戦では有利に戦闘を行うことが出来た。

 スナイドル銃は、国産の一三年式村田銃が開発されるまで、日本陸軍の準正式銃として配備されている。という事は、西南戦争での官軍側の主力兵器だった。西南戦争では、このスナイドル銃のほかにも官軍はエンフィールド銃を使用してる。薩軍は、スナイドル銃・ミニエー銃・エンフィールド銃・スペンサー銃など多彩に使用しているが、予備銃が少なく小銃や弾薬の補給に苦しんでいる。

No. 7

世界最初のボルトアクション小銃!

ドライゼ銃(後装施条銃)

DATA

歩兵銃(1862年式三ツバンド)
口径:15ミリ 全長:1340ミリ   重量:5キロ   腔綫:4条
弾丸:椎実弾

騎兵銃(1862年式)
口径:15ミリ 全長:790ミリ    重量:2.7キロ 腔綫:4条
弾丸:椎実弾

歩兵銃(1870年式三ツバンド)
口径:15.4ミリ 全長:1350ミリ 重量:5キロ   腔綫:4条
弾丸:椎実弾

 ドライゼ銃は、「銃尾開閉型回転鎖閂式」に類別される。回転鎖閂式とは、遊底の槓桿(銃尾部分にあるテコ状ののも)を回転して、固定してあった円筒鎖体(銃身内後部を閉鎖している円筒形の部品)を後退させて銃尾を開く、あるいは槓桿を前進させて回転させ、銃尾の開閉を行う機構の事。別名「槓桿回転式」、俗にボルトアクションと呼ばれる機構を指している。遊底の開閉機構では、最も確実な機構で現在の銃にも使用されている。

 1841年にプロシアの技術者ドライゼが開発した世界初のボルトアクション銃が、このドライゼ銃である。
 遊底が円筒形で、内部に撃鉄や撃針、コイル発条等が組み込まれている。特に撃針は、通常の銃と違い弾薬筒内の装薬を貫いて、弾履にある雷汞を打撃して発火射撃する。この為、撃針に細い針が用いられており破損しやすかった。(トリガーを引くと、撃鉄がバネで撃針を強く叩き、弾薬筒内の装薬を貫いて弾丸の裏にある雷汞を叩く。雷汞は衝撃を受けて発火爆発し、装薬も誘発して爆発し、弾丸が発射されるという訳)

 弾丸は、特殊な「ドライゼ式紙薬莢」で、弾丸の径は口径より小さく、弾丸後端を包んでいる紙製の弾履とライフルにより弾丸に回転を与える様になっている。

 我が国では、別名で「ツンナール銃」あるいは「火針銃」とも呼ばれていた。戊辰戦争以外にも西南戦争でも使用されている。

 DATAで紹介したドライゼ銃の他にも、口径12.6ミリのタイプや口径14ミリ、14.5ミリの銃が輸入されていたらしい。

No. 8

幕府伝習歩兵が装備していたと言われる幻の最新式銃!

シャスポー銃(後装施条銃)

DATA

歩兵銃
口径:11ミリ   全長:1300ミリ   重量:4キロ   腔綫:4条
弾丸:椎実弾

 1864年に、フランスでドライゼ銃を改良して開発された「銃尾開閉型回転鎖閂式銃」に分類される小銃。フランスはこのシャスポー銃を軍用銃として採用。フランス皇帝ナポレオン三世は、慶応二年十二月には徳川幕府へ二千挺を贈っている。

 このシャスポー銃二千挺を貰い受けた徳川幕府陸軍は、急速に武器転換が行われ、標準装備がミニエー銃からシャスポー銃へと移った。と言われてきたが、最近の学説では江戸城の蔵の中で眠り続け、ついに最後まで使われなかったというが主流のようだ。

 鋼製の銃身を持ち、遊底に槓桿をそなえ、これを右方に倒して銃尾を開閉する事ができる。遊底には遊頭・ゴム塞環・撃鉄・撃針・抽弾子およびコイル発条が仕込まれている。弾丸は重量24グラム、装薬量5.5グラムで紙製の弾薬筒に入れ、布を糊で固めた底に爆粉を付けたもので、重量31.5グラムの中心打式の紙薬莢である。

 間違いなく当時の最新式小銃で、人気が有った。あまりの人気のために、偽銃がだいぶ輸入されていた様である。
 戊辰戦争では、徳川家陸軍幕府伝習歩兵の標準装備だったと言われる。この説に従えば、薩摩藩長州藩のミニエー銃標準装備と比べると、幕府伝習歩兵が幕末最新最強の部隊と言って過言ではない。鳥羽伏見の戦いにおいて、「薩長の最新式銃に対して、性能の劣る銃を使っていた旧幕府軍が敗北した。」と記録された本が存在するが、記述が正確ではない。徳川家と限定すれば、徳川家は薩長より高性能銃で武装していたのであり、会津・桑名等の旧式銃で武装していた佐幕諸藩をまとめて旧幕府軍と記述してしまった為に、徳川家が性能の悪い銃で武装していたという誤解を生んでしまった様である。こうしたシャスポー装備説に対し、近年古銃研究家の浅川氏等は「シャスポー銃未装備説」をとり、幕府伝習歩兵がシャスポー銃を装備していなかったとする説が唱えられている。

 江戸城無血開城した当日、抗戦派に属した歩兵奉行・大鳥圭介は、このシャスポー銃で武装した徳川家最強の幕府伝習隊二個大隊を率いて江戸を脱走。北関東で戦闘を開始した。官軍も大鳥脱走軍を叩く為部隊を派遣したが、その全容が明らかになると次々に増援部隊を派遣しているが、それでも大鳥脱走軍と戦うには兵力不足だった。幕府伝習隊は、旧幕部隊を吸収しつつ北上し、会津戦争や函館戦争で有力戦闘部隊として戦った。しかし、シャスポー銃という最新式銃であった点が弱点となり、補給面での不安が付きまとった。シャスポー銃の紙薬莢弾丸は、輸入に頼っていた為に開港している港が無ければ補給が難しかったのである。大鳥は紙薬莢の自作に踏み切った様だが、デキは悪かったらしい。また、紙式薬莢の為に湿気に弱く、不発弾も多かった。こうした「シャスポー銃装備説」に対し、「フランスから貰ったシャスポー銃のすべてが、江戸開城の際に新政府軍に接収された」という論文が出され、大鳥脱走軍がシャスポーを持っていなかったとする説の根拠になっている。
(この項目は、当初シャスポー銃装備説をとっておりましたが、2010/5/22に本文を修正、シャスポー銃未装備説も含めた両論併記とさせていただきます)

No. 9

元込七連発銃の名を持つ最強の銃!

スペンサー銃(後装施条銃)

DATA

歩兵銃(三ツバンド)
口径:12.5ミリ 全長:1187ミリ 重量:4.6キロ  腔綫:6条
弾丸:椎実弾

騎兵銃
口径:12.5ミリ 全長:940ミリ  重量:3.85キロ 腔綫:6条
弾丸:椎実弾

 連続的に射撃できた銃で、「七連発銃」の異名で知られる。また「スペンセル銃」と記述される事もある。
 1860年に発明された銃尾弾倉式の連発銃で、アメリカの南北戦争で活躍した。銃の分類としては「銃尾開閉型底碪式銃」である。底碪式とは、用心鉄(レバー)が槓桿兼用となっており、これを下げる事で尾槽内の底碪が下がって薬室が開かれるタイプの銃の事。今で言う「レバーアクション」である。アメリカ人に好まれた形式らしい。

 銃身は鋼製で、銃床は前床と尾床の二つに分かれ、鋼製の尾槽を間にして結合されている。弾倉(マガジン)は、床尾端(ストックまたは肩当て部)の装填孔より管によって尾槽に連結され、弾薬筒の装填後、管底にコイルスプリングを持つ鋼製の弾倉管を挿入する。弾薬筒はこの弾倉管スプリングによって順次薬室内に押し込められていく。射撃準備は、撃鉄を起こし、槓桿を押し下げると、底碪が開きながら下へ降りて薬室が開き、同時に発条によって弾薬筒が装填され、槓桿を戻せば閉鎖される。これで、射撃可能となる。つまり、今までは一発一発を、いちいち弾を込める部分の扉を開いて、弾込めし、また扉を閉めて射撃していたのに対して、スペンサーは扉を開く(手元のレバーを下げる)と、スプリングの力で自動的に弾丸がセットされるので、扉を閉めたら射撃可能となる。弾倉には7発入るので、7発は連発できる訳である。ただし、機械的に弾込めをしているという事は、弾込め時に機械的に弾込めが失敗する事もある。これは比較的に多発したらしく、その信頼性はボルトアクションに劣っている。スペンサー銃には、単発と連発をスイッチできる機構を備えていたため、使用者はつとめて単発射撃を心がけていたらしい。

 戊辰戦争では、このスペンサー銃は驚異的な威力を発揮して、会津藩を始めとする奥羽同盟軍を苦しめた。とはいえ、官軍といえどもスペンサー銃は高価な兵器で、標準装備という所まではいっていない。戊辰戦争時、スペンサー銃を標準装備していたのは、佐賀藩と黒羽藩だけである。佐賀藩はこのスペンサー銃を駆使して庄内藩と戦い、庄内藩兵を苦しめた。

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