天童陥落!

 織田信長の次子信雄を藩祖とする名門天童藩。奥州の平穏を願い、率先して羽州和平を進める。しかし、庄内藩は猛然と天童藩を襲撃するのだった。奥羽越列藩同盟結成前夜、東北戦争最初の戦火が燃え上がる!。

奥羽鎮撫総督府羽州先導 天童藩


 戦国時代、天下に王手をかけた男織田信長。その次子織田信雄は、本能寺の変で信長が死した後の後継者争いで、一度は担がれた人物である。この信雄を藩祖とする天童藩は、外様の小国ではあるが戦国以来名門であり、プライドは高かった。鳥羽伏見の戦いで徳川家が敗北したという事実は、奥羽を震撼させた。朝廷から天童藩にも上洛命令が下ったが、藩主織田信学は病気だったので、世子信敏を上洛させている。三月二日、天童藩に奥羽鎮撫総督羽州先導の命が下った。小藩には重い任務であった。先導とはいうものの、事実上庄内攻めの先鋒を任された様なものだからである。この時期には、当然奥羽越列藩同盟結成の気配はない。奥羽諸藩のほとんどが、隣国の大藩の態度で意志を決めると朝廷に返答しており、その中にあって天童藩は小藩ながら堂々と先導役を引き受けている。先導役として実質的に天童藩を動かすのは天童藩老中吉田大八であった。吉田大八は国学を学んでおり、幕末の動乱期には大目付の役職を辞してまで諸国を遊歴し見聞を広めた。天童藩は戊辰戦争を乗り切る為に、吉田大八を起用し老中とした。吉田大八に天童藩の命運を託したのである。それほど大八は期待された人物であった。吉田は、新新政府軍に敵対する事が不可能である事を知っていた。吉田大八の役目は名門天童藩を率いて和平への道を探し、戦争勃発を阻止する事にある。

まず和平交渉ありき……。


 総督府の方針は、徳川家とそれに関わる諸藩…会津・庄内藩の徹底的な壊滅を計ることにある。会津藩は京都守護職となり京の治安維持に任じ、庄内藩は府内取締となり江戸の治安維持に当たった。そのうち三田の薩摩屋敷を没収する事件が起きた。かくして……
 「当時在江戸の薩藩士にして庄内勢の鋒鏑に斃れたる者も少からざると共に、薩人の庄内を憎むことは長州人の会津を憎むとその情に於て異なる所なし。」
 これは、冒頭から私怨説に立っての解釈である。会津戦争や東北戦争を書くに当たり、その戦争理由を前述の説明で終わらせてしまうのは、余りに乱暴である。戊辰戦争では、戦争の直前に必ず何らかの交渉が有った。その交渉の成否によって兵乱が起こっている。その理由として、戊辰戦争は普通の戦争のように領土的野心にもとずく戦争ではなく、あくまで政治戦争であったからである。東北戦争の場合、寒河江・柴橋事件を発端として始まった交渉がこじれて戦争へと発展していった。

寒河江・柴橋事件


 ともかく、この事件の説明をしなければならない。庄内藩は、江戸警備と新徴組扶持分として幕府から羽前村山郡寒河江・柴橋の領地を与えられた。庄内藩は、この領地を徳川家からの預け地として貰い受け、代官と藩兵を送り込んだ。だが、同じ頃に明治新政府は全奥羽の幕府領を朝廷管轄下に置くと発表し、明治新政府に属する役人をこの地区に送り込んでいたのである。つまり、寒河江・柴橋は一時的に庄内藩と新政府の二重支配の状態となってしまった。朝廷側から見れば、寒河江・柴橋は朝廷の領地であり、それを庄内藩が勝手に占有してしまったという事になる。電話や無線の無い時代だから、タイムリーには上手くいかない。政権の交代時の混乱だった。しいて時間的な事を言えば、徳川家が庄内藩へ預け地として給与したのが、三月五日。明治新政府が奥羽の幕府領を接収すると発表した日は三月二十六日である。結局、庄内藩は武力にものを言わせて、柴橋代官所にあった前年度の年貢米二万三千俵を酒田へ持ち去ってしまう。新政府軍側は、西国から奥羽への遠征中である。軍資金の欠乏に苦しむ新政府軍にとって、幕府領接収による兵糧の補充は重要な事柄だった。当然、新政府軍は庄内藩に対して怒りを露わにする。一方の庄内藩は、明治新政府が領地を没収したと言っても最近のことであり、これを認めるとしても前年度の年貢米は幕府のものであり、であるならば、それは庄内藩の所有に帰すべきものだと主張した。理屈は庄内藩が正しい。だが、薩摩藩士に取っては三田薩摩藩邸に続いて二度の苦渋を庄内藩に飲まされた形になる。そして重要な事は、庄内藩はいまだに明治新政府に恭順していないという事である。戊辰戦争という、誰が敵で誰が味方か不明の混沌とした状況の中では、「朝廷に弓を引く者が賊徒」という甘い判断は出来なかった。つまり「朝廷の命令を聞かない者は、皆賊徒。」とされた。朝廷の命令……つまり新政府軍の命令に従わない者は、賊徒とされるのである。 これが引き金となり、天童藩に奥羽鎮撫総督府から命令書が出される。
 「柴橋、寒河江両陣屋ヘ庄内人数入リ込ミ居リ、最上川筋、旧年の収納米等差下レ候趣相聞エ朝命ヲ奉ゼズ、朝敵同様ノ致方ニ付キ、討手差向ケラレ候事。」
 新政府軍による寒河江・柴橋侵攻が決定したのである。

庄内藩、寒河江・柴橋より撤収す


 新政府軍総督府は、仙台天童両藩に寒河江・柴橋にすぐさま侵攻の指示を出す。大八と仙台藩の三好監物は戦争回避で意見がまとまっていた。そこで大八は仙台藩と協力し、総督軍が到着する前に庄内藩兵を寒河江・柴橋から撤退させる事を考えた。大八のかわりに仙台藩の使者が庄内藩兵の元へ急行した。庄内藩と正式な交渉を行う時間は無い。つまり、撤退か抗戦かは庄内藩兵の現場指揮官の判断に任せられる事になった。
 仙台藩の使者は、早駕籠で庄内に向かっている。しかし、途中で庄内藩兵に呼び止められた。使者は庄内藩の責任者に会いたいと申し込むと、庄内藩の勘定奉行が交渉に応じた。使者は、直ちに寒河江・柴橋より兵を引き上げさせる様に説得したが、勘定奉行には兵を進退させる権限を持っていない。だが、事は緊急を要し一歩間違えば兵乱が起こり、庄内藩が危機に陥る。これらを考慮した勘定奉行は、勇気有る決断をしている。庄内藩家老松平権十郎の名で偽の命令書を寒河江・柴橋にいる庄内藩兵の隊長に送ろうというのである。もし罪を問われれば「切腹」するまでという覚悟で、偽の命令書は発せられた。これにより、庄内藩兵は寒河江・柴橋より撤収していった。戦争は回避されたかにみえた。

新政府軍の戦略


 奥羽鎮撫総督府を統べる総督は、公家の九条道孝である。副総督も公家出身の沢為量であり、当然政治能力も軍略的能力も持ち合わせていなかった。いわば、名目上の大将である。実際に指揮を取ったのは、参謀と呼ばれている者で、長州藩参謀世羅修蔵と薩摩藩参謀大山格之助である。実は、当初の参謀には薩摩の黒田了助と長州の品川弥二郎だった。黒田は五稜郭で、榎本武揚を説得し降伏を決意させた人物で、戦後も榎本の為に奔走し、榎本助命嘆願の為に頭を坊主にしてしまった人物で、後の総理大臣黒田清隆である。品川も北越戦争勃発を非難している人物で、両者とも戦争を政治的に見る目を持っていた。この二人が奥羽鎮撫総督府の参謀であったなら、東北戦争や会津戦争も違ったものになっていただろう。しかし、二人とも奥羽派遣を辞退してしまう。その理由は解らない。ともかく、世羅修蔵と大山格之助という人事は、急遽決められた人事であった。そして、この二人は奥羽の政情を理解しないまま、強引な行動を取り続け、奥羽諸藩を混乱させた。
 戊辰戦争における明治新政府の戦略方針は、少数の薩長藩兵を各地に派遣し、その地区の諸藩を恭順させて藩兵を出させ、それを糾合していく事で大兵力を作り出す。その大兵力をもって佐幕思想の藩を威圧し、これを恭順させるというものだった。薩長と言えども所詮は二藩なのであり兵力には限りがある。信頼できる部隊を中核に、諸藩連合軍を形成する以外に方法が無い。強引な方針と言われても仕方がない。無い袖は振れぬのだ。
 中山道を進む東山道総督軍も、本営のある東海道総督軍も基本的に前述基本戦略に従って進撃した。西郷隆盛のいる東海道軍は、前述の戦略を見事にやってのけ徳川御三家尾張藩を恭順させ、徹底抗戦が予想された桑名藩を無血開城させた。そればかりか、旧幕府軍が総力を結集して防戦すると思われていた江戸城さえも無血開城させている。東山道軍も同様に、ほとんど小戦闘に終始し各地の諸藩を恭順させている。ただ、甲州では徹底抗戦を決意した新撰組残党と抗戦した。北陸道総督軍も長岡藩と接触するまでは順調だったが、頑強に和平案を提案してくる長岡藩と決裂し、大戦争に突入してしまっている。新政府軍にとって戊辰戦争は、幕府が滅び明治新政府が日本の政府であると宣言する為のデモンストレーションである。それが精一杯だった。明治新政府にとって、戦争による薩長兵の損耗は、身を切るより痛い。諸外国は虎視眈々と日本を植民地化しようと狙っている時なのである。戦争で武力を損耗してしまったら、諸外国に対する押さえが効かなくなるからだ。だから、新政府軍は必ずしも戦争を望んではいなかった。新政府軍は新政府軍で平和的に恭順してくれれば、それで満足だったのである。この方針に伴い、奥羽総督府も少数の薩長兵で奥羽に乗り込んでいった。奥羽の諸藩は、朝廷に対し「近隣の大藩の動向で、意志を決める」と返答している為、奥羽総督軍は奥羽の大藩である仙台藩に目を付けていた。仙台藩が新政府軍に着けば、奥羽諸藩は雪崩を打って新政府軍に恭順すると見ていたし、そうなれば会津庄内両藩も戦闘意志が萎え、戦争せず奥羽を鎮撫できると観測していたのである。だが、世羅と大山は当の仙台藩を完全に味方に付ける事が出来ず、この失敗が尾を引いた。

奥羽鎮撫総督府の失敗


 仙台藩を始めとする奥羽諸藩は、最初は新政府軍に協力的であった。それは、戦争を回避し明治維新を受け入れる意志があったからである。ともかく、戦争だけは起こしたくないというのが奥羽諸藩の意向だ。誰とて死にたくはないし、賊軍にも成りたくはないのだ。だが、世羅修蔵と大山格之助はその意向を理解しなかった。奥羽諸藩と共に政治的に連携を取るという努力をせず、ただ闇雲に朝廷の名を出し、奥羽諸藩を無理矢理動かして奥羽の鎮撫、つまり朝廷の命令を聞かない会津藩や庄内藩を処理しようとしたのである。彼らの言う通りに行動すれば、戦争に突入する。奥羽諸藩は、戦争を回避する為の代案を提示したが、世羅と大山はそれを政治的に活用する事はなかった。ただ事務的に拒絶したのである。世羅と大山は、奥羽鎮撫がなかなか進まない原因は、奥羽諸藩の過剰な穏健論にあると考えてしまった。この為、会津や庄内での戦争を回避しようとすれば、その藩は朝廷を軽く見ていると勘ぐってしまったのである。そして、朝廷の重さを実感させるため、奥羽諸藩に強引な命令を連発し、無理矢理にでも言う事を聞かせようとした。こういった失策を続けた為、主力の仙台藩は新政府軍に疑惑を持ってしまい、奥羽諸藩に混乱をもたらし、奥羽鎮撫総督府に不信感を抱かせてしまっている。この結果、後に世羅修蔵は暗殺され、仙台米沢両藩主導で奥羽越列藩同盟結成され、会津戦争へと続いて行く。大山格之助もまた、羽州戦線において天童藩を巻き込んで戦争に突入していく。庄内藩をめぐる東北戦争は、大山の配慮の足りない政治交渉と軍事行動が引き金になったと言えるだろう。

恨みを買う吉田大八


 奥羽鎮撫総督府討庄軍は、天童に到着した。吉田大八は、総督軍の早い動きに当惑しつつも接待に努めている。だが、その一方で総督軍は一方的に少数の部隊を柴橋・寒河江地区に派遣していた。この軍事行動は大八ら先導役の知らない所で進められた。庄内藩は、柴橋・寒河江からの撤収を進めているハズであり、そこに少数の血気にはやる新政府軍が襲いかかれば、庄内藩は戦争を決意してしまう。それどころか、新政府軍部隊は少数である。庄内藩に撃退される事は目に見えていた。この軍事行動は、総督軍の戦略戦術眼の無さを証明するもので、派遣部隊に何をさせたいのか理解に苦しむ。
 派遣部隊にいた仙台藩士の機転で、これを知った大八は、いち早く使者を柴橋・寒河江に送った。使者は庄内藩が撤収を完了しているという事実を持って大八に報告している。あわやという所で、戦争は回避された。総督府は、庄内藩兵がいない事から、この部隊に柴橋・寒河江陣屋の接収を命令した。
 総督府の強引なやり方は、奥羽諸藩の反明治新政府感情を煽る事になってしまった。この結果、総督府に仙台藩の事情を説明し、戦争を回避すべく尽力していた但木土佐、三好監物、坂本大炊の三人に対する弾劾状が出されてしまう。この三人は、総督府下参謀(大山格之助と世羅修蔵)に内通し、仙台藩の機密を漏らし、恩賞に預かろうとしているという内容の弾劾状である。四月四日、それまで吉田大八と共に戦争を回避するべく尽力してきた三好監物は失脚した。吉田大八にいたっては、庄内藩が疑惑を抱いてしまう。総督府の討庄計画は、天童藩の吉田大八が進言して進めているのだと勘違いしたのである。庄内藩は吉田大八を指導者としている天童藩そのものを疑い始めた。この結果、一度は柴橋・寒河江地区から撤収したものの、国境付近の軍備を増強するという方針に定まってしまう。吉田大八ら和平派の思惑を無視するかの様に、羽州の軍事的緊張は高まって行く。

庄内藩徹底抗戦を決意す


 庄内藩兵による国境守備の強化。この情報を得た総督軍は、庄内藩が戦争準備を完了する前に、奇襲攻撃を掛け、庄内領内に侵攻するという早計な作戦を立てる事になる。秋田藩への出兵要求は出ているものの、秋田藩も戦争回避を望んで和平案を採りつつある。秋田藩は奥羽にあって勤皇色が強い藩だが、それでも戦争は避けたい。つまり秋田藩からの増援の有無が微妙な状況だった。新政府軍の奇襲攻撃は本格的な戦争の開始を宣言したものだが、その為の兵力がまったく足りていない。奥羽総督府で信用できる部隊は、相変わらず薩摩長州両藩部隊だけであり、仙台藩や天童藩、勤皇色の強い秋田藩でさえ現時点では、出兵するかどうかは微妙であった。
 ともかく、総督軍は天童を立って新庄へ本営を移した。清川奇襲部隊は、薩摩長州両藩兵と先導役となった新庄藩兵を合わせた二百名前後である。四月二十四日最上川を舟で下り、清川手前の土湯で上陸した。近隣の農婦が異様な部隊を見つけ、庄内藩兵に連絡した。これにより、庄内藩兵は新政府軍の奇襲に気が付いたが、新政府軍は高所に陣取って攻撃してきた為、不利な戦闘を強いられた。不意打ち攻撃は一応成功したのだが、新政府軍側は少数であり増援が無い為に清川の維持が出来ない。一方、庄内藩兵は清川が戦略的拠点である事を承知しており、不利な戦いでも粘りに粘った。庄内軍の増援が駆け付け、近隣の農民達も加わって戦闘を続行した。結局、新政府軍側の作戦は成功し、一度は清川を奪取したものの兵力の無さから清川の維持が出来ず、新庄へ撤退するハメになっている。一方、庄内藩にとっては新政府軍側に宣戦を布告された様なもので、もはや徹底抗戦以外に進むべき道はない。清川戦で、新式洋銃の威力を知った庄内藩は、洋銃輸入に力を入れると同時に、古い軍略を捨て、洋式の大隊編成に軍制を改めるなど、清川戦で得た知識を生かす努力を続ける事になる。また、会津戦争と違う点は、農民達が庄内藩支持にまわった点である。会津戦争では、新政府軍の道案内を会津の農民が引き受けていたのに対し、庄内藩では農民が進んで庄内藩兵を支援した。新政府軍にとって清川戦が何の意味があったのは、私には理解しかねるが、少なくとも庄内藩にとっては新政府軍との徹底抗戦で藩論が定まり、軍制改革の推進、領国住民の支持の取り付けなど得たものが多かった。
 

天童失陥!


 清川戦により、庄内藩は徹底抗戦を決意、まず手始めとして新政府軍の先導役である天童藩を屠り、大奸賊吉田大八を処刑するという方針をうち立てる。大八が庄内藩を救おうと奔走した事を、庄内藩は知らない。新政府軍の先導役である天童藩と吉田大八は、庄内藩にとって羽州に戦乱を導いた敵であった。庄内藩兵は、一度は撤収した柴橋・寒河江に再度侵入、天童城のスキを伺う。
 一方、庄内藩兵が柴橋・寒河江に侵入し天童を攻撃する可能性が大きいと知った吉田大八は、急遽新庄から天童に帰藩した。大八の羽州和平は、完全に水泡に喫した。もはや、庄内藩を相手に戦うしかない。だが、天童藩はわずか二万石の小藩に過ぎず、城も陣屋というべきで、防御力は極めて低い。しかも、戦線は延びきっており、戦線を維持する新政府軍の兵力も全くない。増援は期待できなかった。新政府軍も天童危機の報に触れて無視は出来ず、天童に援軍を送るべく仙台藩、一ノ関、八戸の各藩に出兵を要請したが、仙台藩と一ノ関藩は出兵を拒否、八戸藩は遠距離に位置しており、とても天童防衛戦には間に合いそうもない。新政府軍は最後の予備兵力であった筑前兵を天童に送るしかなかった。
 閏四月四日、庄内藩は全戦線で攻勢に出た。突破点という箇所がなく、どこが主攻なのか決めていないという作戦上の欠陥もあったのだが、それ以上に新政府軍の失策が大き過ぎるため問題にならなかった。薄い戦線を次々と突破され、庄内藩を支援する庶民によるゲリラ部隊が天童藩領内で決起し、天童藩の防衛線はズタズタになる。天童藩兵は、本城の危機を察して天童城に帰城していく。その後を庄内藩兵は兵力にモノを言わせて押しに押した。。少数の天童藩兵は、天童藩への恨みで凝り固まった庄内藩兵の雪崩の様な攻勢に耐えられなかった。とても持ちこたえられない。城が重包囲される前に、織田家藩主家族を落ちのびさせ、最後の防戦を行った後、天童城を自焼藩主を追って逃げるしかなかった。天童藩は領地を追われてしまったのである。
 なぜ羽州和平を進めていた天童藩が本領を失ってしまったのだろうか。その理由は一つしかない。羽州新政府軍の戦略戦術眼の無さが原因である。どう贔屓目に見ても言い訳が聞かないほど愚かな行動を取り続けたツケを天童藩は支払わされたと言うべきだろう。

吉田大八死す!


 庄内藩主酒井忠篤自身は、いまだ新政府軍を敵にまわす事に躊躇している。庄内藩兵が天童藩を覆滅させた事を知ると「やり過ぎである。」として、撤退を指示している。この結果、庄内軍は戦線を拡大させず自領に撤収する事で戦線を縮小、兵力の集中配備が出来ているのに対し、新政府軍側は失地回復とばかりに天童に兵を派遣、兵力など無いのに戦線だけを拡大させている。
 吉田大八も危機に陥っていた。庄内藩の軍事行動は天童藩を屠る事よりも、吉田大八を処刑する事に主眼が置かれていたからだ。天童落城にともない、庄内藩兵は大八の捜索を開始した。庄内藩の大八に対する恨みは、軍事行動を取らせるほど大きくなっていたのである。大八は庄内藩の探索を上手く逃れて長州藩兵と合流した。長州藩兵を率いていたのがあの桂太郎である。この長州桂太郎隊と共に、大八は天童領に戻り、失地を回復したのだった。
 九死に一生を得た吉田大八だったが、彼の不幸はこれから始まる。奥羽越列藩同盟が結成されてしまったのである。反薩長を掲げ、新政府軍敵対を決意した奥羽諸藩同盟に天童藩も参加した。参加せざるを得なかった。天童藩は小藩であり奥羽諸藩全てを敵にまわす事など到底できない。だが、庄内藩は奥羽越列藩同盟の総意という形で、吉田大八の引き渡し要求を天童藩に突きつけたのである。天童藩は重臣会議の結果、吉田大八の自決と決したのであった。
 大八は「官軍先導役を辞し、奥羽越列藩同盟に参加した事で、初志を棄てた。奥羽は天朝の敵となった。これで己の役目は終わったが、天童藩の方針は間違ってはいないない事を証言したい。それまでは生き恥を晒すつもりだ。」と、自決を暗に拒否する言動をしている。だが、天童藩自体も生き残らせなければならない。大八は逃亡を続けていたが、全奥州の何処を探しても大八が身を置く場所は全くない。自首を決意し名乗り出ざるを得なかった。大八は、奥羽諸藩が自分に着せた濡れ衣「大八が姦謀を弄し、奥羽を混乱させ兵乱を起こさせた」という罪を断固否定し、「奥羽の平穏を願ってはいるが、混乱に陥れたというのは、まったくの捏造である。」と主張し続けた。
 六月十六日、吉田大八は切腹した。
 「己が己の方針が正しいという信念で死ぬのでいいが、羽州の重荷は生き残る者が負う。」と友人に語っていたという。
 吉田大八の死後、奥羽越列藩同盟は各地で敗退していった……。羽州戦線では、秋田藩の奥羽越列藩同盟からの離脱があり、庄内藩と本格的な戦闘を開始する。新政府軍側の失策もあり、庄内戦線では庄内藩が連戦連勝した。だが、会津が降伏する事で、庄内藩も降伏せざるを得なかった。戦後、天童藩も賊軍として減封処分を受ける事になる……。