僕は、テレビを付ける。


僕がまだ大学浪人をしていたころのこと。僕は毎晩勉強に明け暮れていた。勉強は深夜に及ぶことも多く、明け方近くまで勉強したこともあった。とは言っても取り分けたくさん勉強していたというわけではない。深夜に及ぶことが多いのは、夜に勉強を始めるから、明け方まで及ぶのは、夜が明ける直前に勉強を始めるからだ。なぜ夜に勉強を始めるかというと、それは眠れなかったからで、眠れないなら眠くなるまで勉強しようと考えたわけだ。あのころの僕は精神的にも肉体的にも病んでいたと思う。

そんな僕にもささやかだが夢があった。その当時、音楽で飯を食っていくと本気で考えていた。しかし、なにをやっても中途半端な僕に夢を実現させる力など無かった。大学に入ってからゆっくりやればいいなんて頭は無かった。昼は夢を追いかける。夜になれば勉強をするという二重生活は2頭を追うものはということわざ通り、僕の元に何も残してはくれなかった。

月日は経ち、再び気ままな学生生活が始まろうとしていたが、1年以上昼夜が逆転した生活を送っていたせいか、すぐに普通の生活を営むことなどできなかった。友人からの誘いに朝の10時集合と聞いたときには驚きを隠せなかった。「早すぎる――」率直な感想だ。なんせ、12時より早く起きたことなどなかったのだから。

そんな僕は漫画ともテレビともゲームとも1年ぶりの再開を果たしたのだが、おもしろくもなんとも無かった。僕は楽しみ方を忘れてしまっていた。興味が無いものは10分ともたない。勉強と同じだ。人間にとって興味がないものなど苦痛でしかない。望んで苦痛を味わう人などいない。味わう必要が無いならなおさらだ。

それでも僕はテレビを付けた。楽しさのかけらも無いテレビを付けた。くだらないと言ってはチャンネルを変え、ただ無下に時間だけが過ぎていった。チャンネルを回すという言葉は、昔チャンネルを変える手段が実際に回して変えていたからだろうが、僕にはチャンネルを回すという表現がピッタリ当てはまる。大体が1時間番組なのだから1時間以内に他の番組が始まるわけでもないのだが、1つの番組を1分も見ずに変えてしまう。面白い番組がないかとにかくチャンネルを回し続ける。たまにチャンネルを回す手を止めることがあるとすれば、それはCMのときだけ。CMが見たいからではなく、CMの後に何が始まるのかを確認するため。始まったらまたすぐにチャンネルを回し始める。僕はテレビが見たかったのではなくただチャンネルを回したかっただけではないだろうか。

しかし、テレビには2つの顔があるということを知った。大まかに午前12時より前と後で分けられる。違いが顕著に現れているのは、まず放送時間だ。これは新聞のテレビ欄を見れば一目瞭然だが、夕方からゴールデンタイムと言われる時間にかけて、放送時間は1時間ごとにきっちりとられ、時間の節目ごとに新しい番組が始まる。一方深夜になると、各局放送時間も開始時間もばらばらになり、いつ始まったのか、いつ終わるかなど調べなければわからなくなる。次にあげられるのは内容だ。ゴールデンタイムでは視聴者が多い、あるいは視聴する年代層が広いという理由もあってか、放送する内容にはいくらかの制限がかかる。一方深夜になれば、視聴する年代層、または人種が限定されること、見たくない番組を見る必要が無いという理由なのか、ゴールデンタイムほどの規制はなくなる。そしてゴールデンタイムは視聴率が取れる分、出演者もセットも豪華になり内容にも力を入れる。だが深夜番組はそんなに視聴率が取れるわけではないので、出演者やセットにお金をかけるわけにはいかず、内容もそれなりにがさつだ。言うならばゴールデンタイムの番組が陽で、深夜番組は陰だといえる。

僕にとってこの違いはかなり大きかった。気分によって聴きたい音楽が違うのと一緒で気分によって見たいテレビ番組も変わるのだろうか。普通のテレビ番組はまったく受け付けなかったのに、深夜番組だけは病んだ心に染み込んだ。陰だからダメだとか内容ががさつだからダメだと言うわけではないのだ。(深夜番組は面白くないから視聴率が取れないわけではなく、見たくても深夜だから見ない、本当は面白いのに見る機会に恵まれていないなどの理由があるのではないだろうか。)

むしろ深夜番組の魅力はそのがさつさにあるのかもしれない。深夜番組で人気を博しゴールデンに進出した番組は数知れないが、消えていく番組が後を絶たない。その理由として考えられることはがさつさを脱ぎ捨てきれいにまとまってしまったことではないだろうか。その番組のくだらないところがよかったのかもしれない、そうだとすればくだらない内容がまかり通る深夜番組だからこそ人気があったのだと言える。次に考えられることは、たとえ同じ番組であったとしてもゴールデンの住人と深夜番組の住人はまったく別物だということ。深夜番組では見ていたけど、ゴールデンに行った途端見なくなったと言う番組が数多くあるのではないかと思う。そうだとすれば、深夜番組の住人にはうけても、ゴールデンの住人にはうけないということがあるといこと、一概に深夜に人気の番組がゴールデンで人気とは言えないということだ。

さて、この当時僕の心に染み込んだ深夜番組だが、「堂本剛の正直しんどい」「トリビアの泉」「怪しい××貸しちゃうのかよ」「やるヌキ!」「Channel@」「トリック」「給与明細」「タレコミ」などだ。現在も放送されている番組があるが、そのほとんどがその当時始まったばかりの番組だ。これらの番組は、何をやっても満たされなかった僕に心の底から笑いを与えてくれた。お腹を抱えて笑うということを教えてくれた。

今では見なくなってしまったが「正直しんどい」や「怪しい××」そして「トリック」はお気に入りだった。特にバラエティーに囲まれた中、異彩を放つ「トリック」は大のお気に入りだ。深夜に本格的ドラマというのは本当にインパクトがあった。テレビは元より、ドラマとなれば余計見る機会はないのだが、深夜という特殊な環境はドラマさえも面白くさせた。

僕が見ていた「トリック」、正確には「トリック2」だが、恐らく関東地方では金曜深夜ドラマとして始まった番組だと思う。福岡では日曜の深夜1時から放送があっていた。そんな時間にドラマがあること自体驚きだが、さらに驚くことに「トリック2」は再放送だった。

僕はいつものようにひたすらチャンネルを回し続けていた。すると何やらドラマらしきものがあっているではないか、ドラマ自体そんなに驚くべきものではない、チープでふざけたドラマや、はるか昔にやっていたドラマならいくらでも放送されているからだ。訳の分からない映画ならなおさらたくさん放送されている。だが僕が見たものは先に述べたそれとは明らかに違うオーラを発していた。そのドラマとは「トリック」だ。何が違うかというと、それは深夜のオーラじゃないということだ(「トリック」に限ったことではなく金曜深夜ドラマは大体そう思う)。なぜそう感じたかと言うと深夜ドラマで感じるようなチープさや適当さを感じなかったから、出演者が知っている俳優が多かったからだ。そういう訳で僕は、「トリック」に深夜のオーラとは違うオーラ、具体的には、ゴールデンで放送されてもおかしくないのではということを感じていた。

次の日になり、僕はすぐに新聞のテレビ欄を見た。そこに記されていたのは「トリック2(再)」の文字。「トリック」すら聞いたこと無いのに2で、しかも再放送だ。僕は「あんな時間に再放送して誰が見るんだ」「トリックって一体何なんだ」と思っていた。

僕の中で再放送とは月〜金まで毎日放送されるもので、夕方の4時か5時に始まるものを指していた。だが、次の日の新聞を見ても、そのまた次の日の新聞を見ても「トリック」の文字を見つけることは出来なかった。「トリック」は再放送のくせに、普通のドラマと同じように1週間に1度しか放送されていなかった。そうなればなおさら「1週間に1度わざわざ再放送を見るなんて」と思ったが、よくよく考えればそれは本放送を見た人の考え方で、一度も見たことが無ければ本放送だろうが、再放送だろうが然して違いは無いのだ。

そうして僕は「トリック」を見始めたのだが、それからたくさんの「トリック」が製作された。「トリック1」「トリック2」「劇場版トリック」「木曜ドラマトリック」

仲間由紀恵は堂本剛主演のドラマ「君といた未来のために」や、リング0などでも知っていたので、「トリック」でブレイクしたなどと聞いたときは驚いた。そして「トリック」と一緒にブレイクした人はもう1人いる。「トリック」の主題歌を担当していた鬼束ちひろだ。だが鬼束ちひろを知ったのは「トリック」ではなかった、「月光」がドラマの主題歌として使われヒットしたということは知っていたが、それが「トリック」だと知ったときは驚いた。鬼束ちひろの歌は好きだったのでよく聞いていた。だが、「トリック2」の主題歌「流星群」が出たときも「トリック2」の存在は知らなかった。「流星群」の後いくつかシングルが発売された後に「トリック2」に出会い、そこで初めて「流星群」が「トリック2」の主題歌だと知った。それでも僕は鈍かったのでまさか「月光」が「トリック1」の主題歌だったなんて思いもよらなかった。まさに鬼束ちひろにとっても、「トリック」にとってもお互いに欠かせない存在なのだと感じた。「木曜ドラマ」のときにエンディングで鬼束ちひろの曲が流れたときには本当に感動した。深夜のときほど内容は面白くは無かったが、エンディングに鬼束ちひろの曲が流れただけでよかった。それだけで深夜にテレビを見ていたときの新鮮な気持ちにもどることができた。「トリック」と鬼束ちひろのセットでいつでもあの日に帰れると思った。

先日2005.11.13(日)に再び「トリック」が放送された。どんなに売れても変わらない出演者たち、くだらない内容に懐かしさでいっぱいだった。またあの日、あの時みたいに毎週「トリック」が見たいと思っていた。そして「トリック」はエンディングを迎えた。当然エンディングテーマは鬼束ちひろだろうと思っていた。最近レコード会社を移籍し、めっきり新作も出なくなったが、そこは「トリック」と鬼束ちひろの中だ。是が非でも鬼束ちひろを使ってくるだろうと思っていた。だが違った。エンディングはJoelleという知らない人だった。

これだけで思い出が消えてしまうわけではない。移り変わりの激しい芸能界にあっていつまでも同じメンバーで行く方が難しいのはわかっている。だけど鬼束ちひろの欠けた「トリック」はどこか切なく、寂しかった。

今度は「トリック 劇場版2」がある。まだ「トリック」が終わらずに続いていることは本当に嬉しい。機会があればまた、ドラマとして放送してほしい。そしてなにより「トリック 劇場版2」には主題歌として鬼束ちひろを使ってほしい。

今ではすかっり深夜番組も見なくなった。だが、ゴールデンタイムの番組も見ない。1日にテレビを付ける回数が減ったように思う。それはテレビが面白くないからではなく、他に楽しめることが出来たからだ。

人は何かにすがって生きるものだ。人は心の拠り所とできるものがあれば生きていける。それは趣味であったり運動であったり仕事であったりと人それぞれにあって形も様々だ。深夜番組も例外ではない。

もし、あなたが何かに躓くことがあったなら、壁にぶつかってしまったなら、心の拠り所を探して欲しい。一度立ち止まってじっくり周りを見て欲しい。その時に染み入る言葉や物事は、きっとあなたを変えてくれるから。苦しみからあなたを救ってくれるから。

「本を開けばあの日に帰れる」「音楽を聴けば思い出す」たったそれだけで人は明日に踏み出せる。テレビは僕にそう教えてくれた。

僕は躓いたとき、テレビを付ける。あの日に帰り、再び明日に踏み出すために。

僕は、テレビを付ける。



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