フィクションに見るリアル〜1リットルの涙〜


僕は映画を見てもドラマを見てもほとんど泣くことはありません。理由は作り物を作り物として見るからです。これは怖い映画を見るときに学んだことですが、しょせんは作り物だと思い込むことで、実際にはありえないからと割り切って見ることが出来るのです。それによって感情移入をすることもなく涙を流すことも無いというわけです。それでも怖いものは怖いので、感情移入がどうこうという話しとは別に怖いんですが、泣ける映画の場合は、やはり作り物だと考えるとまったく悲しくなくなります。過去に1度だけケビンコスナー主演の映画「パーフェクトワールド」を見て泣いたのが唯一だったと記憶しています。

作り物ではないものドキュメンタリーや事実を基に制作されたドラマや映画の場合はどうかというと、ドキュメンタリーはかなり泣きます。動物の親子の話とかでもかなり泣きます。理由は、哀れみや同情の類でしょうか、詳しくはわかりません。その人の立場になって、自分の歩んできた人生を悔いることが多いです。「僕はなんてちっぽけなことで悩んでたんだ。世の中にはこんなに苦しんでいる人がいる。人生で1度でも経験したら一生分悲しんでしまいそうな出来事を、この人は3度も・・・」のようなパターンが多いです。これはドキュメンタリーでの話しです。同じ作り物でないといっても事実を基に制作されたドラマや映画は違います。僕にとってドラマや映画は作り物です。たとえそれが事実に基づいていたとしても一緒です。何度もやり直をして作るもの。きれいな台詞を並べるもの。それらは事実とは似て非なるものです。しょせんは人を悲しませるためだけに作られた作り物です。

前に1度、何でもいいからテレビに出る仕事がしたいと思ったことがありました。そのためにはなにか技術を習得しなければと思い立ち、すぐに身に付けられる技術を探しました。そして見つけた技術は泣くことでした。泣きの演技ができたら俳優になれるかもって思ったわけです(・・・絶対無理ですね)。その日から僕は、毎日泣く練習をしました。以外ですが、泣こうと思えば人間泣けるもんです。かなしい歌を聴いては泣き、かなしいテレビを見ては泣き。ただ、何にも無い状態ですぐに泣くのは難しいんですが、練習の甲斐あってか、結構自由に泣けるようになりました。最高記録は番組途中のCMの時、適当にチャンネルを変えて見た番組で、「町に下りて悪さをするサルの親子を捕まえて殺そうとしたら、親のサルが子供をかばっている光景」を見て30秒くらいで泣きました。本当に悲しい映像だったんで、練習は関係ないような気がしますが、僕が言いたいことは、「人は泣こうとしているから泣くのであって、まったく泣こうと思わなければ涙はでない」ということです。僕はこのころ本気でこう考えていました。

こんな血も涙もない僕ですが、最近これまでの人生を大きく変えてしまうようなドラマに出会いました。思い起こせば涙したドラマや映画もたくさんあるような気がしてきたんですが、覚えてないのでとりあえず僕が唯一涙したドラマです。それは火曜日夜9:00から放送されているドラマ「1リットルの涙」です。

僕はドラマは嫌いです。最近特に見ていませんでした。でもドラマそのものが嫌いなわけではありません。毎週毎週決まった時間に決まった番組を見ることが嫌いなんです。だから再放送は好きです。一気に見れて最高です。そんなわけで「1リットルの涙」も最初は見る気はまったくありませんでした。

なぜ「1リットルの涙」を見始めたかというと、放送が開始になるその日、僕は横になってウトウトしていました。そのときたまたまテレビが付いてて、それがたまたま「1リットルの涙」でした。僕は夢うつつのままテレビの音を聴いていました。そのとき流れたレミオロメンの「粉雪」、なんていい歌だと僕は感動しました。「寝ぼけている時に聴いた曲は好きになる」効果も相俟って、僕はドラマに、いやレミオロメンに一気に引き込まれていったのです。

ドラマが始まって30分ぐらいたってから目を覚ましました。わざわざチャンネルを変えることもないと思い、僕はそのまま「1リットルの涙」を見続けました。最初はどんな内容なのか分からなかったので、「よくこけるなぁ」なんて思っていました。まさかそれが病気の兆候だったなんて・・・、僕には知る由もありませんでした。ドラマはエンディングへと向かい、亜矢さんが病気だということが告げられました。 ”花ならつぼみの私の人生この青春の始まりを、悔いのないように大切にしたい”1話目の最後に流れた言葉です。ドラマの最終回で泣きそうになることはあっても1話目で泣きそうになるドラマなんてそうあるもんじゃありません。本当に感銘を受けました。

それから僕は毎週欠かさず見ています。最後に流れる言葉には毎週泣かされてばかりです。それはこの話が事実にもと付いた話だからではありません。僕はやはり作り物だと思っています。事実作り物なんですけど。でも、木藤亜矢さんの生涯を伝えるのに作り物だとかそうじゃないとかは関係ないです。今ちょうど放送されてる3夜連続のドラマ「女の一代記」でもそうです。その他の実在する人物を題材にしたドラマは全部そうです。重要なのは作り物なのかどうかではなくその人の人となりが伝わるかどうかだと思います。その人がどういう人で、どういう人生を歩んだのかが伝わるなら、たとえどんな方法だろうといいと思います。

ドラマの「1リットルの涙」では実際とは名前が異なります。だからフィクションなのでしょうか。この時、こんなことは言ってない、こんなエピソードはなかった。だからフィクションなのでしょうか。もしも、しゃべった言葉から何からが詳細に残ってたとして、本人と同じ役名の人がまったく同じ言葉をしゃべったとしても、誰かが誰かを演じた時点でそれはフィクションです。なぜならその人がどんなに本人に似ていても、真似をしても本人になることなんてできないから、同じ言葉をしゃべっても言い方一つでまったく違う言葉になるから。

なのに、人々は事実かどうかにこだわります。そして口々に言うのです。「この部分は事実だろう」「こんなにうまい事いくわけない」「医者がアクティブに絡んできすぎだ」「これは実話?フィクション?」と。その結果番組の最後には必ず「これはフィクションです」と表示されます。そんなことは分かってます。事実なはずがありません。もしも「この話しは実話です」なんて書いてあったらそれは嘘です。

それでも、「1リットルの涙」で沢尻エリカさんが演じているのは紛れもなく木藤亜矢さんなんです。池内亜矢というフィルターのかかった木藤亜矢さんです。それは、フィクションを超えたフィクション、フィクションであり、フィクションでないということです。たとえ嘘っぱちのエピソードでもその人を知るきっかけにはなります。そのことでその人の思いや、境遇を知ることが出来るなら最善の方法だといえます。

僕はこのドラマを見て「1リットルの涙」という本があることを知りました。そしてそれを書いた木藤亜矢さんのこと、脊髄小脳変性症という病気のことを知りました。それだけでもこのドラマには大きな意味があると思います。ドラマを作ったスタッフがこの題材を取り上げた真意はわかりませんが、たとえ「泣ける話を作れば数字が取れる」と思っていても、ストーリーや台詞が作り物でも、病気の存在は真実で、亜矢さんの存在は真実です。

ドラマを通して伝わる思い、心に生まれた何かは、作り物が作り出す真実なのかもしれません。


関連サイト
ドラマ「1リットルの涙」公式サイト
本「1リットルの涙-難病と闘い続ける少女亜矢の日記



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