青い薔薇の血族
プロローグ
目次 次へ
 午前二時過ぎ、真夜中の街角。神代真紀(くましろ・まき)は一人家路を急いでいた。全てが死に絶えたように静まり返った街並。虫の音さえ聞こえない。ハイヒールの靴音のみが冷たく響く。
 初夏だというのに妙に冷え込む夜だ。肌寒い、というよりも身体の芯から冷えていく感覚。不吉な冷気が辺りを覆っている。
 都内とはいえ閑静な住宅地だ。真夜中に人通りの絶えることはあるだろう。それにしても静かすぎる。真紀は冷たい不安感が背筋を撫でるのを感じていた。
 たとえ寝静まった夜中でも生活の息吹は残っているものだ。この街は空気までもが重く垂れ込め、息を潜めている。
 真紀は中学時代の出来事を思い出した。真紀の故郷、岐阜県美濃。その日、真紀は友人宅で遅くなり近道をしようと墓地を通り抜けた。町外れの墓地だったが、地元の旧家である真紀の家は市街地からさらに離れて位置していた。
 幼いころには楽しい遊び場であった近所の墓地。それが日没とともに見知らぬ様相を呈していた。夜更けた墓地は、まさしく死の支配する領地だった。
 真紀は幼いころから人並みはずれて鋭敏な感覚を持っていた。霊感といっても良い。真紀は、自分を黄泉の国へと導こうとする誘いの声を聞いた気がした。振り返れば悪霊に捕えられて二度と抜け出すことができなくなるのではないか。不安に駆られた真紀は必死で墓地を駆け抜けた。
 長年の間、子供っぽい幼稚な恐怖心として心の奥底に封じていた記憶。それが、どういうわけか甦っていた。そうだ。あのときの感覚と同じだ。
 真紀は自分が墓地を歩いている感覚に襲われた。街並みは、まるで林立する墓石の群れのようだ。巨大な墓場と化した街に、たった一人取り残されたちっぽけな存在。
 孤独感のせいか冷気がいっそう増したように感じる。真紀はぶるっと身を震わせた。
 背後に何かの気配を感じた。ヒタ、ヒタ。足音、裸足の足音。犬や猫のような小動物ではない。二足歩行する巨大な何かの足音だ。真紀の直感は、それが禍々(まがまが)しい存在であることを告げていた。
 静寂は破られ、真紀はいまや恐怖の虜だった。足音は、まっすぐ自分の後をついてきている。早まる心臓の鼓動。恐ろしくて振り返ることはできない。
 激しい悪寒が全身を突き抜ける。冷や汗が背を伝うのを感じた。
 そいつとの距離は十メートルない。真紀は走り出したい衝動に駆られた。その一方で、走り出せば、そいつが一気に跳びかかってくるに違いないという強迫観念も襲ってくる。相反する思考が呪縛となって真紀の心にからみついてきた。
 自分自身を抑えようとするが、歩調は無意識のうちに早まってしまう。ヒタヒタヒタ。後を追う足音も速度を増した。
 胃のあたりが痛み出した。一度恐怖感に屈してしまえば、もう抑えは効かない。思わず小走りになってしまう。
 背後の気配も走り出す。真紀との距離が一気に縮まった。
 アドレナリンの分泌量が最高値に達し、頭の中がパニック状態になった。理性はすべて空白の中に呑み込まれていく。
 気配は真紀の真後ろに迫っていた。真紀は自分の頭を抱え込み、衝動的に叫びだそうとする。悲鳴が喉から飛び出す一瞬前、我に返った。
 気配は消え、再び静寂が辺りの支配者となっている。その支配に反抗するかのように真紀の心臓は鼓動を高鳴らせていた。死に絶えた街の中で、唯一の生を証明しようとしているかのような激しい鼓動だった。
 おそるおそる振り返った。やはり何もいない。気配の主は、いったい何処へ姿を消したのか。真紀は灰色の街の中に呆然と立ち尽くした。すべては自分の恐怖心が作り出した錯覚だったのか。
 体中が汗ばんで気持ち悪い。自分の住むマンションまであと僅かの距離だ。早く帰って熱いシャワーを浴びよう。
 気を取り直して向き直った真紀の目の前に、そいつはいた。二メートルを超す毛むくじゃらな巨体。目が爛々(らんらん)と赤く輝き、耳まで裂けた口には涎(よだれ)に濡れた白い牙が光っている。
 怪物は覆いかぶさるように襲ってきた。今度こそ真紀は悲鳴をあげた。叫び声とともに意識は白い光に呑み込まれていく。すべてが光の渦に巻き込まれ消失していく感覚だった。
 真紀は思わず飛び起きた。全身が汗にびっしょりと濡れ、口の中はカラカラに渇いている。何度目の悪夢だろうか。最近はうなされてばかりいるように思える。
 夢の内容は覚えていない。いつものことだ。今見たばかりの夢も、すでにぼやけた輪郭としてしか思い出せない。恐怖感だけが脳裏にこびりついて残っている。
 怪物に襲われる怖い夢。そんな夢は誰にでも経験があるのではないだろうか。それがたまたま続いたにすぎない。それだけのことだ。しかし、真紀はどうしても、その一言ですませることができなかった。
 悪夢の記憶は、真紀を言いようのない不安に突き落とす。悪夢を恐れる特別な理由があるという気がしてならない。
 真紀は悪夢の内容を思い返そうと試みた。どうしても思い出せない。思い出そうとすると頭の中に靄(かすみ)がかかった状態になってしまうのだ。