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青い薔薇の血族
一章 第一日
1.闇の予兆
 神代真紀は身長一六五センチ、ポーランド人の祖母を持つ日本人離れした容貌の持ち主だ。卵形の顔にすっきり通った鼻筋と肉感的な唇。瞳は、よく見ると紫色を帯びて神秘的な輝きをたたえている。
 真紀は、都内の大学を卒業して出版社に就職した。コミック誌とミステリーノベルを二本柱とする中堅どころだ。
 この出版社が、新たな試みとして情報誌を発刊したのが二年前のことである。
 その際に編集長となった幸田洋介(こうだ・ようすけ)が、筆の立つ真紀を総務部から引き抜いた。マスコミに興味のあった真紀にとって嬉しい誘いだった。
 最初はアシスタントとして雑務をこなし、今は一本立ちして産業や科学情報を担当する記者になっていた。今日も山梨にある植物研究所を取材する予定だ。
 真紀はベッドから出た。部屋は女性らしく整頓され清潔な雰囲気。
 真紀の住むマンションは、白レンガの洒落た外観で女性の住人が多い。セキュリティ・システムがしっかりしていることも人気の一因だろう。
 難点は駅から少々遠いことと、その割には家賃が高めなことだ。
 駅前の繁華街を抜けて住宅街に入ると人通りはめっきり少なくなる。実際に事件が起きたという話はないが、帰宅が夜遅くになったときは心細くなることもたびたびだった。それが強迫観念となって真紀にあのような夢を見させるのだろうか。
 夢のディティールを思い出せない以上、原因を分析することもままならない。
 とにかくシャワーを浴びて汗を流そう。脱衣場のミラーに映る真紀の顔。気のせいか少しやつれ、精気を失って見えた。
 現代人は皆、ストレスをためながら日々の生活を送っている。真紀自身は現状の生活に特別な不満を持っていないつもりだ。
 それでも日々の生活に、どこかで疲弊しているのかもしれない。たかが夢に不気味な予兆を感じてしまうのも、そのせいだと思いたかった。
 真紀は汗ばんで体に張りついたパジャマを脱ぎ、熱いシャワーを浴びた。少しさっぱりした気分になる。意識にかかった靄(もや)が晴れていく気分だ。それでも食欲は出ない。
 悪夢にうなされるようになって、どれくらい経つだろうか。真紀はバスタオルで身体を拭きながら、壁のカレンダーに目をやった。ノーマン・ロックウェルの描いた人の良さそうな老人が微笑みかけてくれる。
 三週間くらい前からだ。毎日というわけではないが、この一週間ほどは頻度が高くなっている。
 たかが夢くらいで落ち込んでたら生きていけないぞ。真紀は自分自身を励ます。気を取り直し、せめてもの栄養補給に野菜ジュースを飲むことにした。

 真紀の勤める二階堂出版は神田に小さなビルを構えている。少々古ぼけてきているが、一応自社ビルだ。
 真紀の担当する雑誌は、ようやく創刊二年を越えたばかりだ。肩のこらない娯楽情報誌といえば聞こえはいいが、後発のため創刊当初は苦戦を強いられた。
 会社として初めての試みゆえ、スタッフとしても試行錯誤の繰り返しだった。そこそこの発行部数を保てるようになったのは、せいぜいこの半年だ。それでも創廃刊を繰り返す業界にあっては健闘といえるだろう。
「お早うございます」真紀は自分自身の気持ちを引き立てようと、大きな声で挨拶しながら編集室に入った。ブラウンのスラックスとジャケットにベージュのシャツといういでたちだ。
「よーっす」真っ先に応えたのは入り口に近い席の吉岡章二(よしおか・しょうじ)。
 大柄で顔も体も丸っこい。趣味で集めているアロハシャツ姿。ヤシの木のバックに夕日をあしらった柄だ。
 吉岡は駆け出しのカメラマンで、今も愛機の手入れに余念がない。今日は真紀と同行して植物研究所を取材する予定だ。
 取材内容は青い薔薇。この話題は今、一大センセーションを巻き起こしている。
 昔から青い薔薇を作り出した者は巨万の富を得られると言われてきた。あまたの者が挑戦して誰も成し遂げることができなかった青い薔薇の創造。その青い薔薇が遺伝子工学によって生み出されようとしている。
 青い薔薇の報道に対する反響は、日本国内よりも海外のほうが大きかった。薔薇が咲く瞬間は世界中に衛星中継される予定だ。
 青い薔薇の開花予定は公式発表であと七日、一週間後の午後十時に迫っている。時間が狂わなければよいのだが。なにしろ世界中に向けての衛星中継だ。関係者は戦々恐々の状態だろう。
 その少し奥で返事する代わりに、にっこり笑って小さくお辞儀したのが校正担当の中津良子(なかつ・よしこ)。
 ダイエット中で食事抜きなのだそうだが、その分以上に間食が多い。給湯室の冷蔵庫に大量のデザートをキープしている。現に今もプリンを賞味中だ。
 離れた席では記者仲間の谷村富雄と結城信彦が笑いながら話していた。どうやら次号で特集するへんてこな民間療法について冗談を言い合っているらしい。
 窓際のひときわ大きいデスクが編集長席。朝っぱらから編集長の幸田洋介が記者の田中宏に何か小言を言っていた。編集長は苦虫をつぶしたような顔で口を尖らせている。
 いつもマイペースの田中はポーカーフェイスを決め込み、馬耳東風の構え。編集長はコーヒー好きが過ぎるせいか胃を痛めている。苦虫つぶした顔は毎度のことだ。
 真紀は思わずクスッと笑ってしまった。
 最後は電車の網棚に捨てられてしまう束の間の娯楽。それを提供するため夢中になっている気のいい仲間たちだ。
 会社の新企画を任されたのはいいが、充分なマーケットリサーチを実施するだけの企業力はない。一号ごとの反響をフィードバックして、なおかつ雑誌としての個性を失わないよう努力が続けられた。
 今思い出せば真紀にとっても戸惑いの日々。ようやく軌道に乗ってきたとはいえ油断はできない。発行部数が落ちれば廃刊の運命が待っている。自分たちの雑誌を守ろうと奮戦する、頼もしい戦友たちなのだ。
「さあーて、行きまっか」吉岡が手入れの終わったカメラをバッグにしまいながら、ひょうきんな声をあげた。
 その声に気づいたのか、編集長が席を立ち近づいてきた。
 ようやく開放された田中が編集長の肩越しにニヤッと目配せしている。
「神代くんたち、今日は青い薔薇の取材だったな。早いもんだ。開花まであと一週間か」
 幸田編集長は、自称薔薇作りのセミプロだ。今はマンション住まいゆえ鉢植えだけの生活に甘んじている。いずれ郊外に庭付き一戸建てを買い、老後は薔薇を育てて過ごすのが夢だという。
「遺伝子操作なんてのは人間のおごり高ぶりみたいで、どうも気にくわなかったが、おかげで青い薔薇が拝めるとは。いや、バイオテクノロジーってのも捨てたもんじゃないね」
 編集長は感慨深げに遠い目をして言った。正直言って似合わない。
 今度は吉岡が真紀に目配せして立ち上がった。編集長の薔薇談義が始まらないうちに出発するためだ。普段は私語厳禁をモットーとする編集長だが、薔薇の話になると、その長いこと。
「じゃ、行ってきます」
 二人は飛び出すようにオフィスを出て行った。
 取り残された編集長は、あたりをキョロキョロと見回す。中津良子と目が合った。
 良子は思わず、しまったという面持ちになる。あわてて顔をそらすが後の祭りだった。
 編集長は、あからさまに相好を崩して新しい餌食にと向かっていく。今度こそ心ゆくまで薔薇の素晴らしさを語るために。

 その朝、五代蘭山(ごだい・らんざん)は自室で亀卜(きぼく)を行おうとしていた。
 蘭山は著名なオカルティストであり、多数の著書が出版されている。今年で七十六を迎えるが、見事な白髪は豊かで黒い瞳は精気にあふれ輝いていた。
 亀卜とは、亀の甲羅を火であぶり、その裂け方によって判断を下す中国古来の占い法だ。周時代にはすたれたが、かっては亀卜を記すために漢字が発明されたと伝えられるほど重視されていた。
 日本においては、奈良時代から平安時代にかけて国家の重要時を定めるための神事として多く用いられた。
 本棚で囲まれた室内には香が炊き込められていた。中央には火の焚かれた陶器の火鉢が置かれ、その正面の椅子に蘭山が前かがみの姿勢で座っていた。上溝桜の枝を燃やす炎が顔を火照らせる。
 蘭山は生来の霊能者ではないが、長年の修行によって常人よりは強い霊力を得ていた。真の霊能者に比べれば赤子にも等しい力ではある。蘭山は持てる力を最大限に発揮するため、目を閉じ精神統一を開始した。
 今日(こんにち)、占いは遊戯的に誰もが行えるものとなっているが、本来の占いとは神霊の意思を聞くためのものだ。信ずるに足る結果を得るためには、神の意思と疎通する力を持った者が行わなければならない。
 従来の宗教と一線を画すため、蘭山自身は神という言葉を避け「大いなる宇宙意思」と呼んでいた。宇宙を統べる超存在は唯一のものである。宗教とは、その一つの巨大な存在に対して人間がそれぞれの解釈を加えて作り上げたものという考え方だ。
 深呼吸しながら瞑想を続ける。室内の気圧が高まり、温度も上昇してきた。霊気が高まってきた証(あかし)だ。
 準備は整った。蘭山はゆっくりと目を開き、傍らに置かれた亀の甲羅を手にした。甲羅は、厚さ約一センチの鉢形五角形に削り磨かれ、裏側にはいくつか長方形の穴が彫られている。これを炎にくべ灼熱する。
 蘭山が息を吹きかけると火勢が増し、甲羅は次第に赤く色を変えていく。表面に小さな亀裂が生じた。焼けた甲羅に、先端を細かく割いた竹片で霊泉水を注ぐ。
 弾けるような音とともに立ち昇る白い湯気。甲羅の亀裂が大きくなり、明らかな卜兆が現れた。蘭山は真剣な面持ちで亀卜の結果を読む。やがて、その表情に翳(かげ)りが生じた。
 蘭山は数週間前から大気の脈動に乱れを感じていた。最初は気のせいかと思うほど僅かな感覚だった。それが今では明らかな邪気の鳴動と化している。恐るべき凶事を予感させる暗黒の波動だ。
 亀卜の結果は蘭山の感覚が誤っていないことを示していた。邪気が西のほうから東京の何処かへ流れ込んでいることが分かった。邪気は、これから数日の間にその力をさらに増大していくと予測される。そうなれば間違いなく災いも大規模なものと化すだろう。
 どうやら自分は、その忌まわしい事件に巻き込まれる運命にあるようだ。背中に電流が走る感覚。蘭山はぞくりと身を震わせた。
 何が起ころうとしているのか。この先には自分に対する試練が待ち受けているのだろう。神秘学研究家としての好奇心だけではない。身体の深奥から突き上げてくる使命感を感じた。
 残念ながら自分だけの力では足りない。さらなる追求を続けるためには、真の霊能者の協力が必要だ。
 蘭山の脳裏に一人の女性の顔が浮かぶ。日本でも有数の霊能者。
 彼女の力を借りれば、さらに邪気の正体に近づけるに違いない。だが、うら若い女性を巻き込んで良いものかどうか。蘭山は、ひび割れた甲羅を見つめたまま思案に暮れるのだった。