霧雨の館(前)
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「きゃあっ、前がぜんぜん見えないわ」沖田早苗が黄色い声をあげた。
 先ほどまで空は晴れ渡り、一帯の空気はむしろ乾燥していた。どう考えても霧が発生する天候ではなかったのだ。
 それがあっという間に辺りを濃密な霧が覆ってしまった。
 周囲の六人も、狐につままれたかのように首をひねるばかりだった。

 明邦大学山歩き同好会、といっても正式に登録されたクラブではない。
 たまたま友人同志で行ったハイキングが仲間内でイベント化して、誰が呼ぶともなしにこの名称が付けられた。
 中心となって活動する常連メンバーは数人いるが、正規の会員というものは存在しない。
 そのときどきに気の向いた者が参加する。たびたび参加する者もいれば、一度だけ顔を出す者もいた。
 本格的な登山をするわけではない。行く先は常に軽装で問題ない場所が選ばれる。それも山に限定されるわけではなく、海岸沿いをそぞろ歩くこともあった。
 今回のハイキング・コースは、発足当初からの中心メンバーである田坂明の企画だった。珍しいことに、毎回必ず参加している八重垣清一が難色を示した。今回にかぎって参加しないと言う。
 清一も明同様、山歩き同好会などという呼び名が付く前からの主要メンバーだ。
 同好会などと称し始める前から欠かさず参加していただけに、明はいぶかしがった。理由を問いただしても、不機嫌そうに言葉を濁すばかり。
 清一はムードメーカーである反面、時としてハメをはずしてはしゃぎすぎることがある。参加者の中には、一度くらい八重垣抜きで行くのも静かで良いなどと言い出す者もいた。
 だが、たまたま飲み会でこのことが話題になった。
「へえー、八重垣くんが不参加なんて珍しー。デートにでも行くのかなあ」すっかりデキあがった沖田早苗に、しつこくからかわれてしまった。
 早苗本人は気づいていないが、清一は彼女に想いをよせている。
「そ、そんなんじねえよ」やはりアルコールのまわっている清一は、大あわてで否定した。
 結局、酔った勢いも手伝い、売り言葉に買い言葉で清一は参加を宣言してしまった。

 そして当日。梅雨入りまでは、まだ少しある時期で晴天にめぐまれた。
 最終的な参加者は7名。
 リーダー格の葉山博、今回の計画を担当した田坂明、八重垣清一、沖田早苗というレギュラー・メンバーともいえる顔ぶれに、早苗の親友で今回が3回目となる永塚亜紀、初参加の長嶺愛理と広川信吾が加わっていた。
 昼になり、途中の草原でそれぞれが持ってきた弁当の昼食をとった。
 ひとしきり休憩した7人の参加者は、元気に午後の行軍を始める。天気と同じくらい皆が笑みをたたえ、にぎやかに喋りながら歩いていく。
 ただ、清一だけは、いつもと違い無口で暗い眼をしている。
「ホントにおかしいわね。なにか悪い思い出でもあるんじゃない」またしても早苗がからかう。
「そんなことない!初めてだよ、初めて!」清一はムキになってまくしたてる。
 早苗が思わず目を丸くしたほどの勢いだった。
「あーら、一緒に来た子にふられちゃった経験があるとか」後ろで聞いていた永塚亜紀が、チャチャを入れてややこしくする。
 ちょうどそのとき、どこからともなく霧が湧き出してきた。
 空気の乾燥した気候で、今の今まで心地好い風が吹いていた。まったく予想外の霧である。
 一同は信じられないという面持ちで辺りを見回す。あっという間に、ほとんど視界が効かなくなってしまった。
「なあに、大丈夫さ。このコースは、ほぼ一本道だ。脇道にさえ踏み込まなければ問題ないよ」明が声を張り上げる。
 実のところ明自身も、今まで経験したことのない気候の変化に少なからず戸惑っていた。しかし自分が企画した手前もあって、弱気なところは見せられない。
「いいか。ひとかたまりになって離れないように進むんだ。もし、はぐれたら迷わず大声を出すんだ」登山経験のある葉山博が指示を出す。
 一同はゆっくりと移動を開始した。
「うっ」30分ほど過ぎた頃、先導していた博 が突然うめき声をもらして立ち止まった。
「ねえ、どうしたの」今回初めて参加した長嶺愛理が心配げにか細い声を出す。
「迷ったみたいだ」博が、うなだれた様子でボソリとつぶやく。
「ええっ」他の者たちが驚きの声を上げ、あわてて周囲を見回す。
 ほんの先までしか見えないが、確かにおかしい。ハイキングコースのならされた広い道を歩いてきたはずだ。
 それがいつの間にか道を外れてしまった。
 気づかぬうちに森の中に迷い込んでいたのか。四方に木々が迫っている。
「どうしよう。ケータイの電波も圏外だわ」さすがの早苗も心ぼそげな声を上げる。
 あわてて皆がケータイを取り出す。
 どの機種も、アンテナマークの横には一本も立っていない。通話できるものは一台もなかった。
「とにかく南に進もう。川に出るはずだ。川に出れば、ある程度位置の見当がつく」博がポケットから磁石を取り出しながら言う。
「お、おい。その磁石は大丈夫なんだろうな」心配性の広川信吾が口を開く。
 少々声が震えている。妙な出来事の連続で、かなり怯えているようだ。
 あいにく磁石を携行しているのは博だけだった。狂っていないことを信じて進むしかない。
 重い足取りで一行は歩き出す。30分前とはうってかわって皆が黙りこくっている。
 しばらく進むと、今度はあたりが暗くなってきた。次第に日が長くなっている季節だ。日暮れ時には早すぎる。
 霧はいっそう濃くなり、湿っぽくなってきた。全身にベタリとした感触でまとわりついてくる。
 髪や服が湿り始めてきた。
 本来は各自が雨具を持参することになっている。しかし、上天気とあって折りたたみ傘一本と雨ガッパ二枚しかない。
 とりあえず、それを女性陣に使わせて再び歩き始める。
 このまま本当の夜が来てしまったらどうしよう。それぞれの脳裏に不安がよぎり始めた。
 そのとき一行はいきなり開けた土地に出た。目の前の霧の中に、黒い巨大な影が立ちふさがっている。
 何かの建造物だ。近づくとなかなか立派な造りの洋館と分かった。
 壁や屋根がかなり痛んでいる。長い年月使われていないことが一目で見て取れる。
 霧雨はさらに大粒となり驟雨(しゅうう)といってもいいぼどになってきた。
 ここで雨宿りしたほうが良さそうだ」博が玄関のノブに手をかける。
 カチャッと音がしてドアが開いた。
「あっ」開けた本人が驚きの声をあげる。
 確認のためノブを回してみたが、まさか開いてるとは思っていなかった。緊急のこととして窓を破る覚悟でいたのだ。
 先客がいるのだろうか。博はおそるおそる屋内をのぞく。真っ暗闇で何も見えない。
 博はナップザックから懐中電灯を取り出す。明も懐中電灯を携帯していたが、電池切れしてはまずいので同時には使わない。
「中を一通り確認するまでは離れないようにするんだ」博は一同に指示すると屋内を振り向き「誰かいますか」と大きな声を出した。
 玄関を上がった正面に小机が置かれ、ベージュ色の電話器がのっていた。
 早苗がツカツカと靴を履いたまま上がり込む。受話器に積もったホコリを払って耳に当てたが完全に無音である。
 フックをカチャカチャと指で押してみても、やはり反応はない。
 つられたように亜紀が携帯を確認する。こちらも相変わらず通信不能だった。
 返事はない。カビ臭い匂いがツンと鼻をつく。よどんだ空気が立ち込めている。
 床を照らしてみる。うっすらとホコリが積もり、足跡はない。
 もしかしたら、かなり以前に管理人だか清掃人だかが来て、それ以来開けっ放しになっていたのかもしれない。
 それでも念のため全室チェックしておくことにした。
 玄関の次は広間になっていた。壁の電灯スイッチを押してみるが何の変化もない。
「キャアッ」突然、愛理が悲鳴を上げた。「だ、誰かいる」
 広間を照らす懐中電灯が作るボウッとした明るみの隅に顔が浮かび上がっていたのだ。冷たい表情の美少女。
「なんだ。落ちつけよ。絵じゃないか」明が大きな声を出す。
 博がその顔に明かりの中心を持っていく。確かに壁に飾られた肖像画だった。高価そうな木の額縁に入れられている。
「ヒャアッ」清一が情けない声を出して尻もちをついた。
「何やってんだよ。絵だって言ってるじゃないか」明はあきれ顔だ。
「い、いや、つまづいただけだ」清一は言い訳するが、動揺のあまり声が上ずっている。
 やはり今回の清一は様子がおかしい。だが、一同にそんなことを気にかける余裕はなかった。