悪しき運命(さだめ)のラセリア
第1部 ヴルディアの青騎士
1.街道の黒い影
運命というものは、いつ転機をもたらすのか。それは誰にも分からない。
ヴィンス・ラングホーンは、まさしく運命の分岐点へと向かっていた。
もちろん、本人は知るよしもない。
ヴィンスはバナウェイの町から、この国ギャズヌールの中核をなす都市の一つヴルディアを目指し街道を急いでいた。
空はカラリと晴れ渡り、周囲の新緑をまばゆく照らしている。気温は高めだが、心地よい風が疲れを癒してくれていた。
「よおし、今日は4時間を切って着いてみせるぞ」ヴィンスは一人つぶやくと足を速めた。
バナウェイからヴルディアまで、大人の足で普通に歩いて5時間ほどの距離である。
ヴィンスは、駆け出しの冒険者。キリッとした唇、スッと通った鼻筋。意志の強さを感じさせる顔立ちを、優しげな目つきが調和して、穏やかな印象を醸し出している。
着やせして見えるが、しなやかな筋肉を身につけており、その動きは敏捷で軽快だった。
山間の村ジャヴィスで狩人として暮らしてきた彼が、一念発起して故郷を後にしたのが3ケ月前。バナウェイの町で雑貨屋に住み込みの仕事を見つけ、準備を整える資金を貯めた。
バナウェイはヴルディアの東北に位置し、これといって特色のある町ではない。ただ、北方の辺境を守る軍の駐屯地が存在することにより経済が活性化していた。
兵隊相手の酒場も多く、人口のわりに治安が良くないという欠点はある。それが逆にヴィンスのような駆け出しの冒険者には好都合でもあるのだ。
なにがしかの仕事にありつきやすいし、名を売るチャンスも少なくない。
ようやく一週間前、ヴィンスは冒険者ギルドへの登録料を払って、初期の装備を購入した。
装備といっても皮鎧とブロードソードのみ。
皮鎧はニスで塗り固めて補強してあり、軽量のわりに強度が強く、雨もしみ込まない。新品のうちは匂いが鼻につくのが難点だが。
ブロードソードは、もちろん無銘だが、これも軽量で扱いやすいものを選んだ。
これらの出番はまだない。
なにしろ冒険者といえば聞こえは良いが、ギルドに登録したての初心者。実際に回ってくる仕事は、単なる町の雑用と言ったほうが手っ取り早いものばかり。
今日の仕事は書簡の配達だ。
ヴルディアとバナウェイの間には一日一往復の郵便馬車がある。その馬車は朝一番にバナウェイを出発してしまう。
それを逃した場合は翌日に回すか、今回のようにギルドに依頼してギャラの安い新米に持たせるか、ということになる。
特に急ぎの場合や扱うのが貴重品である場合には、馬を仕立てるという選択肢もある。ただし、かなり割高についてしまうことを覚悟せねばならない。
これでは雑貨店の店員と、たいして変わらないなあ。ヴィンスは時としてそう思う。
だが、ふてくされても仕方がない。実績を積んでランクを上げれば、回ってくる仕事も自然と質が高くなる。地道な努力を重ねるしかないのだ。
街道は、ほぼ中間の地点でドリュフォ丘陵を突っ切っている。
ヴィンスは1キロほど上り坂の続く手前までやってきた。難所というほどではないが、どちらの方向から来ても1キロほどの上り坂を越えなければならない地点だ。
両手を広げ、ふうっと深呼吸する。太陽と大地と緑の息吹が彼に新たな活力を送り込んでくれた。
「よしっ、一気に登るぞ」
ヴィンスは、さらに強い歩調で踏み出す。
半分ほど登った頃には背中に汗が流れ始めていた。
もう少しで坂の頂上に達するという地点まで来た時、ヴィンスは背後に気配を感じた。
振り返ると、遠くに疾走する馬の姿が見えた。栗毛の若馬で、乗っているのは冒険者風の出で立ちをした中年男。
緊急の配達。荷物は見当たらない。かさばらない貴重品か重要書類なのだろう。
近づくにつれ、馬上の使者の顔立ちが判別できるようになった。
ごつごつした顔の中央には曲がった鼻。太い眉の下の小さな目は、どこか凶暴そうな光を湛えている。
あまり、お近づきにはなりたくないタイプだ。
かなり年季の入った鉄鎧を身に着けている。目を凝らすと、かなり傷も多い。修羅場をくぐってきた手だれであることは間違いなかった。
馬上の使者は、見向きもしない。まるでヴィンスなど存在しないかのようだ。傍らを一気に通り過ぎて行った。
早く実績を積んで、レベル・アップしなくてはなあ。使い物にしても、せめて馬くらいには乗りたいものだ。
ヴィンスは再度気合を入れ、馬が蹴立てた土埃のおさまらぬ中を歩き出す。一気に坂の頂点に達した。
とたんに視界が開ける。前方に続く下り坂を見やって、ヴィンスは思わず呻いた。
先程の使者が、300メートルほど先で二人組の賊に襲われていたのだ。
賊は二人とも黒装束で、頭から黒い頭巾をすっぽり被っている。一人はかなり大柄で、もう一人は小柄で華奢(きゃしゃ)。男と女とも見えるが、この距離では判然としない。
この二人が体を張って道をふさぎ、馬を押しとどめていた。
少々胡散(うさん)臭さを感じさせる男だが、同業者には違いない。見て見ぬ振りというわけにもいかなかった。
ヴィンスは左手でブロードソードの鞘を押さえ、右手を柄にかけた姿勢で走り出す。
馬上の使者は二人に馬をけしかけて突破しようと試みていた。馬はいななくと後足で立ちあがった。
使者は巧みに乗りこなし、落馬することもない。なかなかの乗馬ぶりだ。
大柄な方が、もう一人をかばうかの様子でスラリと剣を抜き前に出ようとした。
小柄な方はこれを押しとどめ、自分が前に進み出て右手を上にかざす。
ヴィンスは、あと50メートルの距離まで来ていた。右手は柄にかかったまま。
我流ではあるが、幼い頃から剣の修行を続けていた。木刀を使う村祭りの勝ち抜き戦では、この4年間負け無し。
まあ、これは田舎の余興にすぎない。だが、人間を数倍上回る敏捷さを発揮する猛獣を剣で仕留める狩人としての実力。それは、年期の入ったヴェテランすら一目置くほどのものだった。
山奥に棲む肉食の猛獣ディゴラを剣で倒したことも、片手の指では足りないほどだ。
だが、人を斬ったことはない。いや、人に真剣を向けたことすらなかった。
剣の腕前には、それなりに自信のあるヴィンスだが、人に対して剣を抜くことはどうしても逡巡してしまうのだった。
現場まであと20メートルに迫ったとき、ヴィンスの意識がフッと遠のいた。
右膝を地面につきながらも、何とかこらえる。霞む目で前方を見ると、若馬の巨躯がぐらりと傾きドウと倒れこんでいく。黄色い土埃が舞い上がった。
眠りの精霊呪文。
ヴィンスは魔法防御の能力もアイテムも身に付けてはいない。多少距離が離れていたため、どうにか意識を保つことが出来たのだ。
使者は術にかからなかった。倒れゆく馬から身を翻して飛びすさり、地面に降り立つ。
そのずんぐりした体型からは想像のつかぬ素早さで剣を抜き、前に出ていた小柄な方の賊に斬りかかる。
咄嗟のことに賊は身動きできなかった。精霊魔法が利かないことが、よほど予想外だったのだろう。
使者の男は、もともと血を見ることが好きだった。ただでさえ酷薄な顔つきを醜い笑いで更に歪めている。
振りかざした剣が陽光を反射し、乾いた熱気の中で冷たい光を放つ。
だが、この悪相の男は自分の剣を血で濡らすことは出来なかった。
ぐっと呻き、剣を振りかざしたままの姿勢で立ち止まる。胸には短剣が突き刺さっていた。
大柄な方が咄嗟に投げつけたのだ。見事に柄のあたりまで食い込んでいた。
男は信じられないとでも言いたげな表情で、自分の胸から突き出た短剣の柄を凝視する。
その柄からツーッと血が伝わり、先端から滴り落ちていく。薄茶色の乾いた土にドス黒い染みが広がる。
男の全身から力が抜け、頭上の手が緩む。剣はガチャリと音を立てて地面に転がった。
続いて男自身がぐらりと揺れる。ドサリと音をたてて倒れていく。
うおおっ、ヴィンスは怒りに駆られて叫び声を上げた。少しだけ意識がはっきりしてくる。
片膝をついた姿勢から、どうにか立ち上がった。ゆっくりと剣を抜く。
始めて人に剣を向けた緊張感が眩暈(めまい)となってヴィンスを襲う。自己流ではあるが、剣の修練は村にいた頃から十分に積んでいた。
だが、たとえ目の前にいる者が殺人者だと分かっていても、自分に人が斬れるのかどうか自信がない。
小柄な方がヴィンスの動きを察知して向き直る。
どうやら改めて眠りの精霊呪文を唱えることにしたようだ。まだ完全には覚醒していないヴィンスに向かって歩み出た。右手は上にかざされている。
未だヴィンスは本来の機敏さを回復していない。魔法に対する防御手段を持たない以上、この場をしのぐには剣を投げつけて目の前の賊を倒すしかなかった。
ヴィンスは決断できずにいた。それは剣を投げてしまえば大柄な方の賊に対抗する術(すべ)を失うという戦略上の問題だけではない。
一方、大柄な方は倒れた使者に歩み寄った。襲撃の目的を果たすためだ。二人は、この使者が運んでいる書状を狙っていた。
使者は失いつつある力を振り絞って傍らに転がる剣を拾い上げた。賊のいる方向に向かってメクラ滅法振り回す。
とはいえ、それは弱々しい動作だ。大柄な賊にとって剣を突き立てて止(とど)めをさすことなど容易いことと見えた。
しかし、賊はためらった。先程は危急のことで短剣を投げつけたが、本来殺人は二人の目的ではなかったのだろう。
その時、小柄な賊は呪文の朗唱を止め、ヴィンスに警戒しつつも背後にチラリと目をやった。街道のヴルディア方面だ。
ヴィンスも、その方向に視線を向けた。白馬が土埃を上げながら猛スピードで駆けてくる。馬上には陽光を反射してきらめく青い甲冑をまとった騎士の姿。
大柄な方は、その光景に舌打ちした。
小柄な方が促す。手間取り過ぎた。計画の失敗を認め引き揚げようというのである。二人は街道を走り出て茂みの中へと姿を消した。
その素早さくて鮮やかな退場ぶりは、蛇の気配を察知した野ネズミのようだった。
ヴィンスは、ふらつきながらも倒れた男に駆け寄る。
使者は剣を握ったままだが、すでに振り回すだけの体力は残されていなかった。
土気色になった顔に脂汗をにじませ喘いでいる。
「味方だ、大丈夫か」いきなり斬りつけられてはたまらない。大丈夫でないのは分かりきっていたが、声をかけながら近づく。
使者は馬上から降り立ったとき、駆けてくるヴィンスの姿を見とめていた。
呪文のあおりを食らう人間が敵のはずはない。それどころか通りすがりの者を助けようと駆けつける正義漢。
男は自分の命が尽きかけていることを悟っていた。ここはヴィンスに賭けるしかない。選択の余地はなかった。
「すまねえ、頼み事がある」弱々しい声でヴィンスに話しかけた。
「こいつをヴルディアの領主、クローディオ様に届けてくれないか」使者は懐から封書を取り出して言った。
封書には海老茶色の封蝋がなされ、ヴィンスには分からない紋章の封印が押されていた。
何の義理があるわけでもない男の頼み。しかし、死を賭して守ろうとした書状。さぞかし重要な物なのだろう。むげに断わるわけにもいかない。
「分かった。必ず届けよう」ヴィンスは書状を受け取り、男の手を握った。
男の体温はすでに下がり始めていた。その目は急速に光を失っていく。
そこに青い甲冑に身を包んだ騎士を乗せた白馬が到着した。
使者は、この青騎士に気付いていなかった。もし、青騎士が早駆けで近づきつつあると知っていたなら、ヴィンスには違う頼み方をしたかもしれない。
ヴィンスの宿命はすでに転がり始めていたのである。ギャズヌールの明暗を賭けた戦いが今始まろうとしていた。