悪しき運命(さだめ)のラセリア
第4部 亜空間城ガルベジア
6.エピローグ
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 分けつが原の王国軍は、すでに限界に達していた。戦える兵士の数は大幅に減り、戦場に残っている者たちも疲労困ばいの状態。
 シャルムたち三人も深手こそ負っていないが、全身傷だらけになっていた。それでも一歩も退かず、地獄のような戦場に踏みとどまっている。
 そこにいよいよ退却との知らせが流れてきた。急ぎ撤退してヴルディアから向かってきている王国歩兵団に合流、体勢を立て直す作戦だ。
 それでも闇の軍勢を打ち負かせるとは思えない。おそらく、そのまま退いてヴルディアで篭城戦に持ち込まざるを得なくなるだろう。
 これが大方の予想だった。
 シャルムは、切歯扼腕した。完全に負け戦である。しかも、この状態で撤退するとなれば、果たしてどれだけの負傷者を運べるだろうか。
 ベルーカは俺が背負ってでも運ぶ。たとえ屍(しかばね)となっても、闇の魔物どもに渡しはしない。シャルムは心に誓う。
 だが、多くの者たちは生きながら闇の手に落ちてしまうに違いない。それとも我らの手で負傷者の止(とど)めを刺して、この地を去らねばならないのか。
「ウオォォォッ」シャルムは絶望の叫び声をあげる。
 その時、異変が起きた。一瞬で戦闘がやんでしまったのだ。
 魔物どもは急に勢いを失い、黒い霞に覆われて姿がにじんでいく。この世界で活動する力を失ったようだ。怨念に満ちた咆哮を残し、溶け込むように闇の世界へと帰っていく。
 すでに残り少なくなっていたサヴォイ砦の不死者たちは、いきなりバタバタと倒れ込む。そのまま本来の朽ちかけた死体に戻り二度と動くことはなかった。
 獣人たちは、グィルティズマの支配を脱していた。憑(つ)き物が落ちたような表情でキョロキョロと辺りを見回す。やがて大半の者は北の辺境を目指してヨロヨロと歩み去っていく。
 中には元来凶暴な性質の獣人もいた。その手の者たちは、すぐさま近くにいた王国兵に踊りかかる。だが、時ここに及んでは多勢に無勢。たちまち周囲にいた王国兵たちが応援に駆けつけ、返り討ちにあってしまった。
 それは、まさしくレーニャの決死の行動によって暗黒のイヴィルガルドが取り戻されたのと同時刻だった。
 ジャジールは天を仰いだ。一帯に満ちていた邪気が一掃されている。どのようなことがなされたのかは分からないが、ラセリアたちが使命を果たしたことは間違いない。
 女神ルヴァーナへの感謝とラセリアたちの無事を願って、ジャジールは祈りを捧げた。
 分けつが原では重傷者が次々に運ばれていく。戦闘が終結しても野戦病院だけは戦場の様相が続いている。
 辺り一帯が怪我人で埋まってしまった。医師も兵士も、一人でも多くの仲間を助けようと力を尽くしている。
 戦死者たちも弔わなくてはならない。だが今は生きている者たちを救うことが最優先なのだ。
 薬剤はすでに尽きていた。エルフの魔法も使い果たしている。せっかくここまで生き延びた者たちを助けることができないのか。動ける者全員が空しい焦燥感を募らせていた。
 その時、分けつが原の上空に光る球体が出現した。
 分けつが原上空を覆っていた暗雲は消え、満月が顔を覗かせている。月が二つになった錯覚に襲われる者もいた。いや、球体の放つ光は月とは比べものにならないほどの明るさ。まるで熱を発しない太陽といったところ。
 分けつが原とその周辺の森が神聖な力で満たされていく。
「おお」ジャジールは尽き果てた魔力が瞬く間に蘇えるのを感じた。体力すら回復している。
 光球が、大いなる治癒の力をもたらしのだ。すでに生命を失ってしまった者には効果がなかったが、息のある者全てが回復していく。
 戦闘を終えたシャルムたちはベルーカの容態を見守っていた。つい先刻まで彼女は意識を失ったまま高熱に喘ぎ、まさしく虫の息という状態にあった。三人はベルーカを看取る覚悟を決めてこの場に臨んでいた。
 それが今は呼吸が穏やかになり安らかな寝息を立てている。少々憔悴した容貌ではあるが、青ざめていた頬にも心なしか赤みがさしていた。
 一同は安堵の溜め息をついた。光球の力で峠を越すことが出来たのだ。
 人心地ついた面持ちでシャルムは、濡れたタオルを手に取り血まみれの腕をぬぐう。こびりついていた血が落ちる。顕わになった傷口は、すでに癒え古傷と見分けがつかなくなっていた。
 辺りを見回すと昏睡状態にあった兵士が意識を取り戻し始めている。傷が癒えて起きだす者も少なくない。
 シャルムは息を呑んだ。これほどの力をもたらすものが何なのか見当もつかない。
 分けつが原のそちらこちらでは、ゴソゴソと獣人が起き上がっていた。まだ息絶えていない獣人も少なからず横たわっていたのだ。
 どうやら光球の力は生きとし行けるものに等しく効果をもたらしたらしい。獣人たちは天空に輝く球体に神秘的な力を感じ取ったようだ。感謝の祈りでも捧げるかのように奇妙な咆哮をひとしきり上げ、やがてノロノロとした足取りで北の辺境を目指し歩み去っていく。
 光球は高度を下げ始めた。ゆっくりと分けつが原中央あたりの草むらへと降りていく。
 聖なる光の正体を見きわめようとエルフの兵士たちが駆け出す。その後尾には、高齢な外見とはうらはらな足取りで遅れまじと疾走するジャジールの姿もあった。
 好奇心に駆られてエルフたちに続く王国兵も少なくない。
 分けつが原に降りたった光球を遠巻きにして大きな人垣が出来上がる。
 皆が見守る中、光はその直径を次第にすぼめていく。その中からは気を失っているヴィンスとラセリアが姿を現した。
 光は、つなぎ続けている二人の手に向かって小さくなり、やがて消滅した。
「おお、ラセリア」取り囲んでいる群衆をかき分けて輪の中央に入ってきたジャジールが感極まって声を張り上げる。
 その声に反応したかのように二人は意識を取り戻した。結んでいた手が外れ、ヴィンスの手に握られた物があらわになる。
「こ、これは。輝くリュミナシェール!」ジャジールは立ち尽くして呻くように声を上げた。
 失われて久しいエルフの至宝、輝くリュミナシェールがついに取り戻されたのである。
 二人は立ち上がり、ヴィンスが右手を上げて輝くリュミナシェールを高々と頭上に掲げた。
 エルフたちの間から歓声が上がる。ジャジールは、数百年ぶりの涙をハラハラとこぼし女神ルヴァーナに祈りを捧げるのだった。

 使命を果たした今、ヴィンスはどういうわけか冒険者稼業に興味を失っていた。彼は、シャルムからの王国軍士官の誘いも断り、ヴルディアを北上した森に居を構え猟師として一生をすごした。
 呪いが解けゴルワデスの紋章が消えたラセリアは、アンジェスタル家の汚名を返上した。晴れてエルフ族から受け容れられる身となったが、国へは帰らずヴィンスと行動を共にする道を選んだ。
 エルフであるラセリアにとって、それはひと時の間ではあったが、彼女にとって最も思い出深い日々となった。
 輝くリュミナシェールはジャジールの手によってエルフ王アーロニウスの元に届けられた。
 一介の猟師として暮らしたヴィンスではあったが、後に将軍となるシャルムとの親交は生涯続いた。また、彼は人間とエルフとの交流にも大きな貢献を果たしたという。
 実り多き日々を過ごしたヴィンスとラセリアにとって唯一つ残念でならなかったことがある。それは、いつかひょっこり帰ってくるのではと待ち続けたバムティに再会することがついになかったことであった。
                                 悪しき運命のラセリア(完)