ダイ・ハングリー
11.夕陽の凱歌
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 三十郎はホワイト・ヴィーナス号へと泳ぎ着いた。真下から、手すりから身を乗り出すあやに手を振る。
 あやは甲板を見渡した。船べりのあちらこちらに様子を見に出てきた船員の姿があった。
「救命ボートを降ろして!早く」あやは船員たちに向かって叫んだ。
 慌てていたので日本語だったが、思いは同じだったらしい。船員たちは救命ボートの昇降装置に駆け寄った。
 スイッチボックスを開け、昇降ボタンを押す。救命ボートは一向に動かない。
 昇降機そのものは、電動モーターの動作のみで作動する。電子部品は使われていない。だが、ホワイト・ヴィーナス号の電気供給システムそのものがダウンしていた。
 事情の分からない船員たちは、しきりに首をかしげるばかり。
「何してるのよ。三十郎がおぼれちゃう」
 あやは焦燥感に捉われ声がかすれていた。海面に目を移すと三十郎の姿が消えている。
「ああっ」あやは思わず呻いて手すりから乗り出し一帯を見渡す。
 やはり三十郎の姿はない。白い船体に打ち寄せる小さな波が、わずかな泡を作っているのみ。三十郎は沈んでしまったのか。
「せっかくここまで戦ってきたのに」海を見下ろすあやの目に涙が溜まってきた。
「おお、どうした。そんな所で」
 あやの背後から低くて通る声が聞こえた。振り返ると、そこにはずぶ濡れの三十郎の姿。
 実は投錨された太い鎖を駆け登ってきたのだが、あやにはどうでも良かった。三十郎が無事でいれば十分なのだ。
 嬉しさのあまり、今度こそポロポロと涙が頬を伝わる。
 それを見た三十郎。
「おお、泣けてくるほど腹が減ったか。俺も腹ペコだぞ。だがなあ、涙は本当に美味いものを食ったときのために取っておくもんだ」
 違うんだって、思ったとたんにあやのお腹がグウと鳴った。あ、やっぱりお腹も空いてたんだ。思わず泣き笑いの表情になるあやだった。

 海上保安庁と自衛隊による輸送ヘリのピストン運行が続けられた。三時間後には乗客全員と乗組員の大半が横浜港に降り立っていた。
 そこに海上保安庁の哨戒艇に救助された犯人たちが連行されてきた。
 不運のようで悪運の強い連中だ。パイロットを含む18人全員が沈みゆくヘリからの脱出に成功。めでたく逮捕されていた。
 ホワイト・ヴィーナス号船内で三十郎に倒された連中は、意識を失ったまま発見された。すでに警察病院に運び込まれている。
 海から上がった連中はといえば、どいつもこいつもズブ濡れ。惨めな姿をさらしていた。
 ミシェルは担架で運ばれている。どうやら泳げなかったようだ。担架を持つ救助隊員が「おめえ、カッパのくせに泳げないのか」と笑ってバカにする。しかし、日本語だったため、このプライドの高いフランス人は屈辱を味あわずにすんだ。
 その後ろに続くのはハリソン。足取りはしっかりしているが、それでも大量の海水を飲んでいた。そのためジョン・ベルーシ似が、すっかり小錦似へと変わり果てていた。
 オリビアは、ラッツォとの争いでボロボロの状態。ネコ耳ティアラは海の底、豹柄のジャンプスーツもあちこち破けている。胸の大きさもイビツになっていた。右胸のパットが取れて、片側だけBカップの正体をさらけ出したのだ。
 ラッツォはといえば、更に悲惨な状態。オリビアに引っ掻かれ、顔に縦横の爪あとが走っている。
 そのラッツォが、ホワイト・ヴィーナス号から引き揚げてきたアミル・サラバンティを見つけた。とたんに顔を輝かせる。
「ヤーイ、ヤーイ、サザンクロスは海の底だ。ざまあみろ。悔しかったらヘドロを全部さらってみろヤーイ」舌を出しながらアミルに向かって叫ぶ。
 ほとんど子供のケンカ状態。もともと幼稚な性格だが、計画の失敗で退行現象を起こしたらしい。
 それを聞きつけたアミルは表情ひとつ変えない。
「フン、このバカモンめ。世界有数のダイヤを船旅に持ち歩くと思っているのか。船室にあったのはレプリカ。本物は王宮の地下金庫で100名の番兵に守られとるよ」
 さしもの鉄面皮ラッツォも、この言葉にはシオシオ。部下たちの殺意にも似た視線から逃れるように、こそこそと護送車に乗り込んでいった。
 アミルの傍らには仏頂面でモフセンが立ち尽くしていた。モフセンと電磁ガンの功績が判明するには、もう少し先の事である。
 モフセンは成人後、軍人として頭角をあらわす。数々の武勲をあげて将軍となり、アメリカ軍の侵攻を2度に渡って阻止。「砂漠の黒豚」の異名を取ることになる。
 でもそれは、ずっと後のお話。

 グレッグは眠りこけたままの状態で同僚に発見された。神聖な厨房を汚したとして袋叩きにあうが、そんなことでメゲるグレッグではない。その後も修行を続け、地元産沼ガエルの料理人として故郷に錦を飾る。
 寺田は海上保安庁をクビになり、計らずも毎日が釣り三昧の日々となった。再就職先の方は一向に見つからず、一家離散の危機を迎える。が、奥さんの書いた私小説「釣りボケ日誌」がベスト・セラーとなり窮地を脱する。余談ながら、当初言い訳を繰り返した長官も世論の批判を浴び更迭された。
 草壁は官僚の世界に嫌気がさして一念発起、ギターを抱えたさすらいのシンガーとなる。全国を股にかけて活動し「知床旅情」のカヴァー・ヴァージョンでCDデビュー。全然売れなかったが、本人は大満足である。
 クラウスは、その特異なキャラクターを生かして映画界に進出。ハリウッドで最も危険な男として、二枚目スターたちのお尻から恐れられる存在となる。
 フランク船長は、朝に船長室でクモを見つけたら、その日一日はラッキーという新しいジンクスを創作。朝食を運ぶ給仕が、船長の机にこっそりクモを置いて帰ることが日課となる。
 どれもこれも、ずっと後のお話。

 そして今、すっかり人気のなくなった「アフロディーテ」店内。三十郎は食べ放題を大いに満喫していた。
 窓からは夕陽が差し込み店内を赤く染め上げている。
 あの騒動から、なんとか無事に残ったものをかき集めた料理。すっかり冷めきっている。
 あやと他のコックたちは、大活躍した三十郎に出来れば作り立ての料理を食べさせたかった。だが、船内の全システムはダウンしたまま。やむを得ないことだった。
 三十郎のカップに、これもまた冷めたコーヒーを注ぎながら、あやは思った。得意の焼き立てミートパイを食べさせてあげたかったなあ。
 でも、まあ仕方ない。冷めたぐらい気にもしてないみたいだし。なにしろ冷凍肉かじっちゃう人なんだから。
 現に「美味いじゃないか!この料理に文句をつけて暴れる奴の気がしれん」とか言いながら涙ぐんで食べ続けている。
 それにしても、この姿はハイジャック犯を蹴散らしてヘリを叩き落した人にはとても見えない。
 あやは夕陽の差し込む窓を見た。まだこんな時間なんだ。今日一日が、なんて長かったのかしら。一生懸命ジャガイモの皮をむいていたのが遠い昔のような気がする。
 こうして思い出すと、三十郎の活躍は本当に目覚ましかった。最後まで状況は把握しないままだったけど。
 あやは、ちょっとうっとりした気分になった。頬をピンク色に染めて三十郎の横顔を見つめる。
 その視線に気づいた三十郎。
「どうした、真剣な目つきで。おお、そうか。冬眠の修業がしたいのか。だったら遠慮するな。いくらでも教えてやるぞ」
 そんなんじゃないよ。ったくもう。
                                おしまい