ダイ・ハングリー
10.天と海と
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 横浜海上保安部はパニックに陥っていた。突然飛来した輸送用ヘリコプターCA−47JAが、包囲を破ったのだ。CA−47JAは前後2ヶ所に大型ローターを備え付けたタンデムロータ形式の大型輸送ヘリである。
 ヘリは、あっという間にホワイト・ヴィーナス号の甲板へと降りたった。
 最初は情報が交錯し、協定違反したマスコミの勇み足かと思われた。しかし、マスコミがテロリストに占拠された船舶への強行着陸までするとは思えない。大型輸送機というのもマスコミらしからぬものだ。
 とすれば犯人が動き出したに違いない。保安庁はホワイト・ヴィーナス号の通信室を必死で呼び出すのだが、一向に応答がない。それもそのはず、すでに通信室は、もぬけの空だった。
 そうこうするうちに甲板に人影が現れた。犯人たちと銃を突きつけられた人質数名。実は偽装で全員がラッツォ一味なのだが、見破られるはずはない。攻撃命令は決して出されないだろう。
 いったい身代金はどうなったんだ。保安庁では憶測が飛び交う。あきらめたのか。それとも別の犯罪の陽動作戦だったのか。いや、実は乗客の誰かを暗殺することが真の目的だったんじゃないか。
 結局結論は「様子を見る」だった。

 ヘリに乗り込んだのは17名。7人足りなかった。いずれも三十郎に倒されたのだが、チアーリ以外は状況が分からない。
 苛立ったラッツォはキリキリと歯を鳴らし貧乏ゆすりしていた。
「まあいい。遅れた奴らは置いていくまで。そうすれば分け前も増えるってもんだ」いかにもラッツォらしい考えが心中をよぎる。
「ボス、思ったことを口に出してますぜ」隣のハリソンがシラッと言った。
 あわてて口を押さえるラッツォ。しまった。俺って隠し事の出来ないタチなんだよね。って、これだから人望がないんだ。
 その時、船内から甲板に飛び出してきた人影。黒い拳法着に身を包み、一直線に走ってくる。
 あいつこそ、俺の怖れた最強の男に違いない。ラッツォは戦慄した。
「は、早く離陸しろっ」甲高い声で命令する。
 すでに予備回転していた2基のローターがスピードを上げる。巨大な鉄カゴともいえる輸送用ヘリがフワリと浮き上がった。ヘリはホワイト・ヴィーナス号を離れ海上に出る。
「だあっ」掛け声とともに三十郎がヘリめがけてジャンプした。
 オリビアが、ハリソンから取り上げたベレッタM84で狙いをつける。だが、恐怖に駆られたラッツォが、いち早くデザートイーグルの引き金を引いた。ほとんどメクラ撃ち。轟音が鳴り響き、オレンジ色の発射炎がほとばしる。
「ぐええっ」ラッツォが叫んだ。とてつもない反動に手が痙攣してしまった。意志と関係なく、指が勝手に引き金を引き続ける。
「どわわわわっ」右手に走る激痛に涙するラッツォ。
 7発全弾撃ち尽したときには、右手から肩までがビリビリと痺れていた。
 この騒ぎで三十郎がどうなったのか、誰も見ていなかった。ヘリ内には侵入していない。もしかしてスキッド(脚部)に、しがみついたのか。ハリソンが巨体を乗り出してスキッドを確認する。誰もいない。
 海面はというと、穏やかに静まり僅かな波が揺れているだけ。ここにも人影は認められない。
「弾を食らって沈んじまったに違いありませんぜ」
 ラッツォは、ハリソンの言葉に胸を撫で下ろした。
「よし、ホワイト・ヴィーナスを離れるんだ」
 ヘリは海上を飛び去っていく。
 三十郎はヘリの尾部、後部ローターとの隙間に身を滑り込ませていた。両手両足を広げて、ヤモリのようにピッタリとへばりついている。
 ようやく船べりに辿り着いたあやは、飛び去るヘリと三十郎を見守っていた。どうか三十郎が無事でありますように。
 ホワイト・ヴィーナス号から300メートルほど離れた沖合いでヘリはホバリングを始めた。開け放したままの側面を向ける。
「いよいよ、お別れのときが来たな」ラッツォは、ホワイト・ヴィーナス号を見やってニタリと笑う。
 スーツのポケットからリモコンを取り出した。まだ右手は痺れが残っているので、左手に持ち替える。
 このリモコンは、ホワイト・ヴィーナス号に部下が仕掛けた爆弾30個の起爆スイッチ。赤いボタンを押せば全ての爆弾が一斉に爆発する。ホワイト・ヴィーナス号が瞬く間に沈没することは間違いない。
 名人と言われた爆弾魔アップル・ムーンに特注で作らせたのだ。不発はありえない。
 ホワイト・ヴィーナス号が沈没すれば、救助活動が最優先される。犯人追跡など二の次になってしまうだろう。ラッツォたちは、混乱の中を悠々と国外に逃亡する手筈だ。
「キキキッ」ラッツォは目前の勝利に甲高い笑い声を上げ、リモコンを持つ左手を差し上げた。
 一方、ホワイト・ヴィーナス号の甲板では、モフセンがドタドタと駆けてきていた。肩には革のベルトで長さ1メートルほどの銃がかけられている。見たこともないタイプのものだ。
 これこそモフセンの最終兵器。NATOの兵器開発センターからの横流し品、電磁ガンの試作品だ。
 強力な電磁波を射出し、一瞬にして半導体の機能を破壊する。あらゆるハイテク兵器を無力化する究極の武器。
 電磁ガンの攻撃にあえば、ヘリなどただの鉄クズ。犯人もろとも海に沈む運命だ。
 モフセンの姿を見て、あやは慌てた。ロケット砲か何か、とてつもない殺傷力の武器に見えたからだ。
「ダメよ。三十郎がいるんだから」あやは叫んで駆け出したが、間に合わなかった。
 モフセンは腰だめに電磁ガンを構え、ヘリに狙いを定めて引き金を引く。
 息を呑むあや。静寂。何も起きない。
 ヘリは沖合いで悠然とホバリングを続けている。
 モフセンは血相を変えて引き金を何度も引く。結果は同じ。
 なんだ、オモチャだったの。あやは、ホッとすると同時にムッとした。ったく、この非常時に遊んでんじゃないわよ。
 モフセンの方は怒り心頭。くそっ、高い金出して買ったのに、この役立たず。電磁ガンを甲板に叩きつけ、地団駄(じたんだ)踏んで悔しがる。
 そんな船上の騒動を露知らぬラッツォ。
「キキキッ、千六百人を道連れに沈むがいい」大見得を切ってリモコンのスイッチを押す。
 またしても何も起きない。
 ホワイト・ヴィーナス号は、その白い巨体を穏やかな波間にゆったりと浮かべ続けている。
 唖然とするラッツォ。不発はありえないはずだったのに。歯ぎしりしながら、更にスイッチを押す。やはり反応はない。
 もしかしたら、左手で押してるからダメなんじゃないか。意味のない疑惑に捉われて、まだ痺れの残る右手に持ち替えて押してみる。もちろん無駄。
 実はこの電磁ガン、形状は銃になっているが、試作品のため発生する電磁波に方向性はなかった。無条件に半径200メートル以内の電子機器を無力化してしまう。
 つまり、300メートル先の位置にいたヘリには無効。だが、船内に仕掛けられた爆弾の起爆装置を全て無力化するには、十分の力を有していた。もちろんホワイト・ヴィーナス号のあらゆる電子制御による機能が巻き添えになったわけだが、これはやむを得ない。
 モフセンが乗客乗組員千六百人の生命を救ったことが判明するのは、ずっと時間が経ってからのことになる。
「くそー、くそっくそっ、この役立たず」ラッツォはついにキレた。リモコンをヘリの床に叩きつける。
 気がつくと部下の全員がシラーッと冷たい視線をラッツォに投げかけていた。
「フン、爆発しなくても、この程度の警戒網は簡単に突破できるわい」ラッツォは居丈高に声を張り上げ、失われた威厳を取り戻すという不可能に挑戦した。なにしろ、もともと威厳などないのだから無理に決まっている。
「沖に向かってから、西に進路をとれ」
 パイロットがヘリの方向を沖に向けようとした瞬間、機上にへばりついた三十郎が上体を起こした。
「きゃあっ」あやは悲鳴を上げた。
 三十郎がローターに巻き込まれてミンチになっちゃう。あやの全身から血の気が引いた。ああっ、これでもう2度と挽き肉を直視できないわ。広がる妄想にクラリとして船の手すりで身を支える。
 後から考えたら髪の毛が白くならなかったのが不思議なくらいの恐怖感だった。
 だが、三十郎は無事だった。真剣白刃取りの要領でローターをハッシと受け止め、見事に押さえ込んでいた。
 2基の大型ローターの片方が、強制的に急停止させられたのだからたまらない。ヘリの前部がビクンと跳ね上がる。
 ヘリの中では、さすがの強者(つわもの)どもも悲鳴を上げて転がっていた。何しろ無法者の集団。シートベルトを締めているものなど一人もいない。
 その時すでに三十郎は、ヘリを離れ海へとダイブしていた。
 三十郎が着水した30メートルほど後方に、制御不能となったヘリが墜落する。見る間に海中へと、その姿を没していく。
 少しして、ヘリを脱出した犯人たちが、あちらにプカリ、こちらにプカリと浮かんできた。
 真っ先に浮かび上がったのはオリビア。ホワイト・ヴィーナス号を目指して泳ぐ三十郎の後姿を捉えた。今度こそ始末してやる。目をギラリと光らせて、ベレッタの銃口を向けた。この穏やかな波なら外すはずがない。
 立ち泳ぎしながらオリビアは三十郎の背中に狙いをつける。引き金にかかった人差し指をグッと引こうとした。
「フギャッ」その瞬間、オリビアは海中に引きずり込まれた。何者かがオリビアのベルトに付いた豹柄の尻尾を引っ張ったのだ。
「ゴホッゴホッ」水を吐きながら、ようやく海面に戻ったオリビア。今度はネコ耳ティアラを付けたオリビアの頭に手が掛かる。
 オリビアを海中に沈め、反動で浮き上がったのはラッツォだった。
「何てことするんだ、てめえ」こうなったらボスもボケもない。再び海面に顔を出したオリビアが目を吊り上げて怒鳴る。
「ゲホゲホッ、俺は泳げないんだ」金切り声で叫び、ラッツォはオリビアにしがみつく。二次災害を呼ぶ一番タチの悪い遭難者だ。
「ええい、こら、離さんか」こうなると命あってのものだね。オリビアは必死でラッツォを突き放そうとする。
 ニャンニャンキイキイ、もう三十郎どころの騒ぎではない。
 海面での不毛な争いは果てしなく続く。