D.V.
1.弥生の憂鬱(前)
ふう、氷堂弥生(ひょうどう・やよい)は、大きな溜め息をひとつついた。
弥生は中肉中背、しなやかな身体つきでスタイルがいい。自分で期待しているほど胸が大きくならないのが悩みという、まあ普通の高校生だ。
クリクリとした目つきで、いつもは溌剌(はつらつ)としているのだが、今日は顔をくもらせている。足取りにも、日頃の軽やかさが失われていた。
例年よりも長かった残暑がようやく去り、秋の爽やかさを感じさせる朝だった。
この夏、冷房の苦手な弥生は、むし暑い夜に悩まされ続けた。毎日が寝不足との闘い。
それが今朝になって、ようやく快眠をむさぼることができた。久々の爽やかな目覚めだったのに。
お父さんの裏切り者!
弥生の心はモヤモヤしていた。
弟の竜登(りゅうと)と朝食をとって、父の高志(たかし)からの国際電話を受けるまでは、本当に最高の朝だった。
弥生の母・香織(かおり)は、8年前に交通事故で他界していた。それ以来、弥生と竜登を父の高志が男手ひとつで育ててきた。
会社も、その事情を汲んで転勤はさせなかった。出張までひかえ気味にしてくれたらしい。
ところが半年前、ロンドンで起ち上げ中のプロジェクトに、どうしても高志の力が必要だということになってしまった。
会社にとっても、一流企業の仲間入りを果たすか、中小企業のまま終わるか、という正念場のプロジェクトだった。
なんとか半年間だけ渡英できないか、と上司に懇願され、高志としても簡単に首を横に振ることはできなかった。
話を聞いた弥生は、半年くらいだったらどうにかするから、行ったほうが良いと提案した。彼女もこれまで会社に温情をかけてもらっていたことは重々承知していた。
弥生はちょうど高校受験を終え、入学式を済ませたばかりだ。大学受験までは、まだ間がある、一息ついた時期である。
弟の竜登は小学4年生になったところだが、幼い頃から手のかからない子供だった。
幸い隣の町には叔母さんが住んでいる。いざとなったら頼ることが出来た。
というわけで父を送り出し、姉弟二人の生活を半年間送ってきた。二人とも病気にもかからず、叔母さんに心配をかけることもなかった。
そしていよいよ明日、高志が帰国するという日取りになった。
そのことも弥生の心をウキウキさせていた。この1週間というもの、朝起きるたびにあと何日と指折り数えていたのである。
高志は明日早朝着の便で帰国する。
弥生と竜登はなんとか迎えに行きたかったのだが、学校の始業時間に間に合わない可能性があった。
学業優先という言葉には逆らえない。弥生と竜登はシブシブあきらめざるを得なかった。
そこに今朝の電話。受話器をあげて父親の声を聞いたときには喜びのあまり叫び出しそうになった。
だが、弥生はすぐ不安に襲われた。今日の高志の声は、いつもと違った。
そう。言い出しにくいことがあるとき特有の口調。快晴だった弥生の心に雲がかかってきた。
まさか帰国が延期になったとか。瞬時に弥生は思い浮かべた。
「何、言いたいことがあるなら早く言ってよね」ついつい尖った口調になる。
「いや、たいしたことじゃないんだけどね」高志は妙に浮ついた声だ。「実は明日の帰国、一人じゃないんだ」
弥生はドキリとした。父親の口調からいって、同僚と帰国するとかいう話でないことは明白である。
「こちらで好きになった人ができて日本に連れて行くことにしたんだ」さらに、か細い声になっている。
高志としては別に後ろめたいわけではない。妻と死別して8年。好きな相手が出来ることに罪悪感はなかった。
それでも子供にとってショックなことは分かっている。それを思うと自然と声が小さくなってしまうのだ。
「何よそれ!」動転した弥生は思わず声を荒げた。「会社の人なの」
「いや、こちらで暮らしているフランス人なんだ。とても良い人だから、弥生も気に入ってくれると思うよ」高志は、弥生の剣幕に押されがちだ。
帰国の前日になって、いきなり切り出すなんて。明日は継母と対面しなければならないなんて。心の準備も出来ないじゃない。
もともと高志は外弁慶ともいえる妙な性格の持ち主だった。会社では敏腕課長として上司も一目置くほどの存在。それが家族を相手にすると、てんで弱気になってしまう。
なにが気後れさせるのか、言いにくいことはギリギリまで後回しにしてしまう癖があった。
楽しみにしていたディズニーランド行きが、仕事の都合で当日になって中止になったことがある。本人は4日も前から分かっていたのだ。
どうせなら早く言ってくれれば別の予定を立てられたのに。弥生は思うのだが、やっぱり高志は言い出しにくいと先送りにしてしまう。
それにしても今度のはひどすぎるわ。再婚話を帰国の前日になって言い出すなんて。
こういうときの竜登は察しがいい。いつもなら代わって代わってとせがむのだが、今日は触らぬ神にたたりなしを決め込んだ。
考えているうちに弥生はだんだん腹立たしい気分になってきた。許せない。見ず知らずの外人女に、お母さんの思い出を踏みにじられるなんて。
弥生は駅前の通りを足早に突き進む。鼻息も荒く、目を吊り上げている。
このところ父親の帰国を控えて顔の筋肉も緩みがちだった。それだけに今日の弥生はインパクトが強い。
いつも声をかけるパン屋のおばさんが思わず挨拶の言葉を呑みこんたほどだ。
授業がはじまっても弥生は全く身が入らない。
私のお母さんは一人だけよ。新しいお母さんなんかいらない。しかも外国人なんて。こうなったら実力行使で、ぜったい追い出してやる。
悶々とした気分は、思考を不穏な方向へと進めていく。
お父さんの相手は、いったいどんな女なのかしら。
オードリー・ヘップバーンみたいに華奢(きゃしゃ)だったら、私のほうが悪役に見えちゃうかな。いえいえ、そんなことで弱気になっちゃダメよ。
ああ、それより「ミザリー」のキャシー・ベイツみたいだったらどうしよう。私ぜったいに勝てないわ。
うっかり手を出したら、仕返しに足を折られて監禁されて。
弥生は妄想に浸りすぎて顔色が真っ青になっていた。
両足をギプスで固定され、ベッドで身動きできなくなっている弥生。そこに鬼のような顔をしたおばさんが入ってくる。右手には薔薇の模様が描かれたスープ皿。
目の前に突き出された皿の中には、アリ、クモ、ゴキブリといった虫がうごめいている。
ヒッと顔をひきつらせる弥生。
女は耳まで裂けた口で笑いながら虫を大きなスプーンですくう。山盛りの虫が弥生の口元に突き出された。
「おい、氷堂。どうした」
英語教師、野中の声で弥生は我に返った。全身が冷や汗でびっしょり濡れている。
「気分が悪いみたいだな。保健室で休んだほうがいいんじゃないか」銀縁メガネをかけた初老の野中は心配そうな顔をしている。
いつも元気な弥生が青白い顔をしているのを、初めて見たからだ。
「はい、そうします」どうもこの調子じゃ今日は授業に集中するなんて、とても無理。弥生は野中の言葉に乗っかることにした。
うごめく虫のイメージが頭にこびりついて気分が良くないことは嘘じゃない。
「私が付き添います」仲森恵(なかもり・めぐみ)がいち早く名乗りを上げた。
恵は、特に弥生と仲が良いという訳ではない。むしろ手を挙げかけて恵に先を越されモジモジしている浅木理沙(あさぎ・りさ)のほうが親友といえた。
恵の目的はほかにある。
ここ光稜女子学園には女子生徒憧れの的が二人いた。
一人は体育教師の陣内亜美(じんない・あみ)先生。もう一人が保健室に勤める結城舞衣(ゆうき・まい)先生なのである。
この二人は対照的なタイプだ。亜美先生はスラリとした長身で、すっと通った鼻筋、くっきりした眉に心持ち吊りあがった涼やかな目つきをしている。キリリとしたタカラジェンヌ的人気者だ。
一方の舞衣先生は全体に肉感的で、いつもニコニコしている。ちんまりとした鼻とちょっと下がり気味の目が愛くるしい。癒し系お姉さん的人気者といえた。
というわけで恵は舞衣先生の大ファン。保健室に顔を出せる絶好のチャンスとばかりに名乗り出たのである。
教室の何ヶ所かでチッという舌打ちの音が聞こえた。恵に先を越された舞衣先生ファンである。
「氷堂さん、大丈夫?立てる?」などと恵は大げさに気を使ってみせるが、その表情は少しも心配そうに見えない。思いもかけず舞衣先生に会えるというので、ポッと頬を赤らめてニンマリしている。