D.V.
1.弥生の憂鬱(後)
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「まあ、氷堂さん。どうしたの」舞衣先生が目を丸くしている。道ばたで珍しい生き物に出くわしたような目つきだ。
 それもそのはず。普段の弥生は元気ハツラツ。転んで傷薬を塗りに来ることはあっても、気分が悪くなって休みにくることなどありえないタイプだった。
「ちょっと気分が悪くなって」弥生は、舞衣先生のあからさまな驚きように、わざとか細い声を出す。
「何か悪い物でも食べたのかしら」舞衣先生が首をひねる。
 弥生は、自分が実はけっこう食い意地が張っていることを見透かされたような気分になった。ああ、常日頃元気すぎるのも考えものね。みんな、もう少し心配してくれてもいいじゃない。
「絶対にそんなことはありません」弥生はあわてて否定した。
「なんだったら、これ試してみる?」舞衣先生は引き出しからイチジク浣腸のチューブを取り出す。
「いえ、けっこうです」思わず声に力が入る「少し横になれば治ると思いますから」
 横では恵がうっとりと舞衣先生の顔を見つめている。
 まったく何を考えているのかしら、この子は。弥生はあきれ顔だが、恵の頭の中を覗いたら、更に呆れ果てたことだろう。
 弥生はカーテンに仕切られた簡易ベッドに横たわった。
 ちょっとゴワゴワした感触のシーツは、洗いたてで清潔なものだ。弥生は、ひと息つくと、あらためて室内に漂う消毒液と医薬品の入り混じった匂いを感じた。
 恵はといえば、弥生のことなどほっぽらかして舞衣先生に声をかけている。
 白いカバーの掛け布団を引っかぶって弥生は考え始めた。
 イビリ出すって言っても、具体的にはどうしたらいいのかしら。もともと弥生は他人をイジメようなどと思ったことがない。
 弥生のクラス自体イジメが発生したことがなかった。
 そういえば中学の時、他のクラスでイジメが発生したことがあったわ。結局、被害にあった子は転校しちゃったらしい。
 あの時研究しておけば継母追い出し作戦に役立ったかもしれない。
 その当時弥生はイジメなんてイヤだなと思っただけだ。ヒソヒソ噂話をする生徒たちもいたが、彼女はその輪に加わることもなかった。
 自分が人をイジメるなんて考えもしなかったのだから無理はない。
 ああっ、それにしても。今から思えばせっかくのチャンスだったのに。問題意識が足りなかったわ。
 などと考えているうちに、いつしか弥生はまどろんでいた。
 夢の中で舞衣先生がドッジボールほどもある巨大なイチジク浣腸を両手で抱えていた。
 必死の形相で首を左右に振る弥生。舞衣先生は浣腸の尖った注入口を突き出すように踏み出してくる。
 一歩、また一歩と後退りする弥生。恐怖心に駆られ、身をひるがえして走り出す。
 舞衣先生の姿は、いつの間にか「ミザリー」のキャシー・ベイツに変わっていた。しかも身長2メートルくらいに巨大化している。
 巨体を揺らし、ドスンドスンと足音をたてて弥生を追いかけてくる。両手で持っているものも、柄の長い植木バサミに変化していた。鋭い光を放つ刃を突きだし、ジョキジョキと開閉させる。
 ああっ、これって夢なのに。頭の中では分かっている。それでも目をつりあげた鬼のような顔つきを見てしまうと逃げずにはいられない。
 もはやキャシー・ベイツですらない。牙をむき出した醜悪な化け物と化していた。
 弥生は必死で走ろうとするのだが、全身がスローモーションでしか動かない。
 背後に迫る怪物も動きはスローモーションなのだが、巨大化して歩幅が広いせいか、確実に距離を詰めてきている。
 シャッ。ハサミの刃先が弥生が着ているシャツの背中を切り裂く感覚が走った。
 弥生は思わず悲鳴をあげる。
「氷堂さん、大丈夫?」
 目を開けると舞衣先生が心配そうにのぞき込んでいた。恵は、とっくに教室へと戻ったらしく姿が見えない。
 上半身が寝汗でしっとりしている。
「ひどく気分が悪いようだったら、早退して帰ったほうがいいかもしれないわ。送っていってあげてもいいわよ」
 舞衣先生は、赤い小型車で通勤している。その車で送ってくれるということなのだろう。
 恵が聞いたら、即座に仮病を使いそうな成り行き。だが、弥生は辞退することにした。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。少し休んだら気分が良くなりました。教室に戻ります」弥生は無理して笑顔を作る。
 あまり大丈夫でもなかったのだが、一人でいるよりも授業に出てクラスメイトといたほうが気分がまぎれるように思えたのだ。

 放課後、一日中ヘンだった弥生の様子を心配して理沙が声をかけてきた。弥生の父親が明日帰国することは、理沙も耳にタコができるほど聞かされている。弥生は指折り日数を数えて、その日を待っていた。それが今日になって、この変調ぶり。心配するなというほうが無理だった。
 喫茶店に入った二人はケーキセットを注文した。弥生はイチゴショートにミルクティー。理沙はモカロールにレモンティー。
 こういうとき、いつも弥生は、私の好みってお子様っぽい、と思ってしまう。よく考えると、本当に小さい頃から好き嫌いがほとんど変わっていないのだから仕方ないのだが。
 もっとも理沙が大人びているというわけでもなかった。
 理沙は、いつもキョロキョロしていて動作も落ち着かない。弥生は、そんな理沙がどことなく可愛らしいシマリスに似ていると思うことがある。
「あーあ、私なんかお母さん交換してくれるって言ったら、大喜びで下取りに出しちゃうんだけどな」一通り弥生の話を聞いた理沙が溜め息まじりに言う。
 理沙は、口やかましい母親と折り合いが悪いのだ。
 あれこれ口をはさむのも愛情表現の一つと弥生はなぐさめるのだが、本人は納得できない。
 理沙のストレス解消法は、ホテルのケーキ食べ放題とカラオケ。弥生も度々付き合わされている。
 ま、この程度で解消できるストレスなら、たいしたことないんだわ、と弥生は思っている。
 私のお母さんが生きていたら、どんなにやかましくされても嬉しいのにな。でも、本当に両親が元気なら、多分ありがたみなんか分かっていないだろう。自分も理沙の立場だったら、親子ゲンカばかりしているかもしれない。
 弥生は溜め息をついた。今の彼女にとっては、親子ゲンカすらうらやましいものなのである。
 弥生は、理沙に話したことで少しだけ気が楽になった。とはいえ何の結論も出ないことに変りない。
 やっぱり継母は追い出したいが、どうしたらいいかなかなか思いつかなかった。
 やはり、人をイジめるなんて向いてない性質なのだ。
 ようやく思いついたのは、とりあえず無視を決め込むという消極的戦法のみ。
 これすら弥生には自信がない。彼女にとって人に話しかけられて返事をしないのは失礼なことなのである。
 やだなあ。私、失礼な人間にならなくちゃいけないのかしら。考えただけでブルーな気分になってくる。

 弥生は夕食の支度にも集中できない。なんとか指を切らずにすますのがやっとだった。
 いざ夕食となって竜登と二人で食卓につく。タクアンはつながってビローンとスダレ状態。大根の煮物には芯があった。
 特別に料理上手というわけではない弥生だが、普段ならここまでひどくはない。
「ねえ、お姉ちゃん。今朝の電話、何だったの?」竜登がおそるおそるといった様子で聞いた。
 弥生はピタッと箸を止めた。彼女としても話すきっかけを待っていたのだ。
 父は明日早朝に帰国する。新しい結婚相手を伴ってだ。
 黙っているわけにはいかない。ただ、幼い弟が受けるショックを考えると口が重くなってしまう。
「あのね、あのね」なかなか言葉が出てこない。
 いつもとはあまりに違う姉の様子に、竜登の顔が緊張でこわばる。
「今朝のお父さんの電話はね。新しいお母さんを連れてくるっていう話だったの」
 竜登が泣き出さないか。弥生はドキドキしていた。それより家出しちゃうかもしれない。まさか自殺なんてことは。
「ええっ、僕たちにお母さんができるの?」竜登が顔をパアッと輝かせた。
 うう、ドライな奴。まあ仕方のない面もある。
 母の香織が死んだのが8年前、竜登はまだ2歳だった。母親の面影も、写真がなければ憶えてはいなかっただろう。
「でも外国の人なんだよ」弟の無邪気な態度に弥生は少しあせっていた。このままじゃ自分が孤立しちゃう。
「えー、そうなの。キンパツかなあー」竜登はニコニコしながら首をかしげた。
 中年オヤジか、お前は。
「知らないよ。そんなこと」弥生は苛立って声を荒げる。「どんな相手だか、全然知らないんだから」
 弥生の剣幕に竜登はちょっぴり不安になった。
「ねえ、恐いお母さんじゃないよね?お父さんが連れてくるんだから、優しいお母さんだよね」目がウルウルして愛くるしいモードになっている。
 この姿を見せられると弥生は怒り続けることができなくなる。
 竜登本人は意識してやってるわけではないのだが、弥生はズルいと思うこともある。「シュレック」の長ネコに対抗できる力技だ。
 弥生は、心に燃え上がった怒りの炎が小さくなっていくのを感じた。
 確かにお父さんが選んだ相手だ。おかしな女(ひと)じゃないに決まってる。
 でも、でも。人の好いお父さんのことたから、タチの悪い女にたぶらかされてる可能性もないとは言えないわ。弥生の頭の中は大混乱だ。
 自分としては、やっぱり新しいお母さんを認めるわけにはいかない。それが人間として正しいかどうかは別だ。
 だから竜登を巻き込むのはよそう。弥生は、そっと弟を抱きしめた。
「そうね。大丈夫。きっと良い人に違いないわ」
 ああ、本当に優しい人だったらどうしよう。私、やな奴になっちゃうんだわ。
 弥生は、今日何度目だか分からない大きな溜め息をつくのだった。