ハングリー・フィスト
4.モタモタ・コンバット
「お主、すでに負けておるぞ」若くはないが張りのある声が響いた。
四階は下の二フロアと違って簡素だった。というより何もない。
奥の壁に心頭滅却と書かれた掛け軸。調度品と呼べるのは、それだけだった。掛け軸の前には白い着物の老人が正座していた。さらにその前には一振りの日本刀。黒い鞘に収められている。
「武芸者たる者、己れの感情に捉われてはならぬ」
着物だけではない、髪も、眉も、髭も、すべて真っ白。その中で漆黒の目がギロリと異様な光を反射していた。年寄りではあるが、老いは感じさせない。
「ふん、この気迫。どうやらいっぱしの武芸者らしいな」悪びれるふうもなく三十郎が言い返す。
やっぱり三十郎は感情が表に出るタイプだ。セリフとは裏腹に、顔は嬉しそうで迫力がない。
「お主こそ、只者ではあるまい。わしの階まで昇ってきたのは、お主が初めてじゃ。敵を待ち続けて幾星霜。ついにわしの出番がやってきたのじゃ」
老人は天を仰いで感涙にむせび泣き始めた。感情は見せないんじゃなかったのか。
「何でもいいから早くしてくれよ」三十郎がじれて声をかけた。
「おお、年を取ると涙もろくなっていかん。それでは加納鎮玄斎(かのう・ちんげんさい)まいる」
鎮玄斎は刀を左手にすっくと立ち、眼光鋭く三十郎を睨みすえた。調子の外れたじいさんだが、三十郎が言うだけあって、かなりの達人なのだろう。
「きえええええっ」
気合一閃、白羽の刃を抜き放つ。と思いきや、刀身は鞘に納まったままだ。
「ふぬぬぬぬっ」
鎮玄斎は顔を赤くして刀の柄(つか)を引っ張る。
「おい、どうした、じいさん」せっかくの闘気に水を差されて三十郎がむっつりと言う。
「いや、すまん。長いこと待ちすぎて刀が錆び付いたようじゃ」
おいおい、武芸者たる者、刀の手入れもしてないのかよ。雅志はあきれ果てた。横では日高が腕組みして貧乏ゆすりを始めていた。あっ、やばい。かなりイラついてるぞ。雅志は危険信号を察し、そっと日高から離れた。
「むふう、早くしてくれよ」三十郎は妙なため息をつく。
剣を抜かなきゃ、ただのじいさんだ。手を出すわけにもいかない。
「おおっ」鎮玄斎の歓声が響く。
抜けたのか。おお、目にもとまらぬ見事な居合い抜き。と思ったら本当に何もないぞ。錆びた留め具が折れて柄だけ鞘を離れたんだ。
三十郎は、あからさまにがっかりしている。日高がついにキレた。大股で進み出ると、鞘に残った刀身を覗き込んでいる鎮玄斎を一発どついた。
だめだよ、日高。いくら悪の手先でも、じいさんをいじめちゃいけない。雅志は止めに入ろうとしたが、日高も一発で気が済んだのかピヨッてる鎮玄斎を尻目に上階を目指した。
五重の塔というからには次が最上階だ。三十郎は、もう祈るような気分だ。
そして、目の前に現れたのは小太りな中年男。
雅志はテレビで見たことがあった。こいつこそ武闘派宗教団体『輝きの拳』教祖・弥勒輝一郎(みろく・きいちろう)。丸メガネの奥で細い釣り目が光る。髪の毛が後退し、ついでに額もテカッていた。確かに本人だ。
弥勒は白地に金糸で龍の刺繍を施した道着に身を包んでいた。さすが教祖、すごく高級感がある。でも残念ながら似合ってない。
弥勒は分厚い座布団にちょこんと座っていた。左手には立派な肘掛が置かれている。真ん前には茶碗の木箱。弥勒は木箱のふたを開けて、布で包まれた茶碗を取り出した。
「やい、茶碗を返せ」雅志は、三十郎の背後に身を隠しつつ叫んだ。
弥勒の細い目がキラリと光った。
「ふん、こんなガラクタ返してやるぞ」
弥勒は、包んであった布をはぐと茶碗を無造作に放り投げた。
「しょえええっ」気の抜けた掛け声とともに雅志がダイビングキャッチする。
間に合った。茶碗は雅志の手のひらに納まっていた。雅志は、それはもう大きなため息をつく。やっぱり誰が見たってガラクタだよなあ。本当に人騒がせな親父だよ。でも、それじゃこの騒ぎは何だったんだ?
「朕(ちん)の欲しかったのはこれだあっ」
弥勒は茶碗を包んであった風呂敷を差し出す。白地の中央に日の丸、その両脇に闘魂と力強く書かれていた。それにしても朕って何だ?こいつ天子のつもりか。
弥勒は風呂敷をシパパッと細長く折りたたんで額に巻く。闘魂の鉢巻をした小太りの中年男。こいつが本当に教祖か?カリスマ性のかけらもないぞ。雅志は一階の信者たちを思い出した。もしかしたら信者全員に催眠術かけてんじゃないのか。
のそりと立ち上がる弥勒。やけに背が低い。座高は高いのに、足がやたらと短いんだ。
そう言えばテレビでも、誰かと一緒に映る時は必ず壇上にいて並んだショットは一つもなかった。自分を偉く見せるためと思ってたけど、身長をごまかすためだったんだ。せこいぞ弥勒輝一郎。
「これこそ身に着けた者を最強にする伝説のアイテム」弥勒が声を張り上げた。興奮して裏声になってる。
「裏の歴史によれば、剣豪宮本武蔵の強さも、このアイテムあってこそだった」
ええっ、本当かよ。
「このアイテムを失って力をなくした武蔵は、死を恐れて剣を捨て宗教に走り『五輪の書』を書いたのだ。これがあれば朕は世界一の武道家だあっ」
見てきたように言うが、やっぱり嘘くさい。それに鉢巻で世界一って言われてもなあ。
「まあ、いいさ。アイテム使ってでも強くなきゃ困る。こっちの腹の虫が治まらない」三十郎は言い放って戦闘体制に入った。
両手を構えて、軽くステップを踏む。間髪を入れずに攻撃を仕掛けた。二連回し蹴り。空を切った。日高が思わずアッと声をあげた。三十郎が空振りしたのは、今日始めてだ。
しかも弥勒の動きは素人目にも切れがない。よろけたはずみで偶然かわしたんじゃないか。そう思えるほどだ。
会心の蹴りをかわされた三十郎は愕然とした表情。何かの間違いだ。気を取り直して再び攻撃に出た。足払いのローキック。またかわされた。隙をついて弥勒のパンチが三十郎の顎に入った。全然効かない。
三十郎の攻撃を弥勒がヨタヨタとかわし、弥勒が破壊力のない攻撃を決める。そんな攻防がしばらく続いた。うわあ、こりゃ長引きそうだ。雅志はあくびをかみ殺した。いつかビデオで見たアリ対猪木戦よりひどいぞ。
見てる方もうんざりだが、戦う三十郎はもっと嫌気がさしていた。こんな緊張感のない闘いは初めてだ。相手は間違いなく弱い。なのになぜ勝てない。鉢巻の魔力か。しかし、どう考えても最強にはほど遠い。
三十郎は、あぐらをかいて座り込んでしまった。腕組みして、しきりに首をかしげている。
ここぞとばかりに弥勒がかかと落としを繰り出す。だめだ。足が短すぎるし、ぜんぜん上がっていない。座っている三十郎の頭に、ようやく届いたという感じの一撃。鍛えぬいた三十郎には少しも効かない。ポリポリと頭を掻いただけだ。
いくら考えても結論は出ない。こうなったら、ひたすら攻撃あるのみ。三十郎はすっくと立ち上がり、ラッシュをかけた。
結果は同じ。一発も当たらない。鉢巻の効力は、だらけた闘いで相手の戦意を奪うことなのか。だとしたら恐ろしい。
「ふん、無駄無駄。貴様の動きなどお見通しだ」
弥勒が偉そうにポーズをつけた。胸を張ったつもりだろうが、たるんだ腹を突き出したにすぎない。
今の一言で雅志の頭に閃くものがあった。
「そうか、その鉢巻、最強なんて嘘っぱちだ。相手の考えを読んで次の攻撃を知る能力があるんだ」
雅志の叫びに弥勒がうろたえた。
「な、何を言うんだ。そんなんじゃないよ」声が一段とでんぐり返っている。
分かりやすい。こいつも感情が出るタイプだ。
「図星ですって顔に書いてあるぞ」日高が野次を飛ばす。
「うるさいっ。それが分かったから何だって言うんだ。攻撃が当たらなきゃ同じじゃないか」弥勒はついに開き直った。顔が真っ赤になってユデダコみたいだ。
「そうか。てことは考えなきゃ攻撃は読めないわけだ」三十郎がニヤリと笑う。
「わが魂の師は言った。考えるんじゃない、感じるんだ。水のように動け、と」三十郎が吼えた。
きっと瞳の中には炎が燃えているに違いない。でも魂の師って誰?
大丈夫か三十郎、水どころか完全に燃え上がってるぞ。まあ、考えないってのは、ある意味ものすごく似合ってるけど。
三十郎は再び得意のポーズでステップを踏み始めた。おおっ、今度はリズムがいいぞ。
弥勒の顔色が変わった。三十郎が無我の境地に入って攻撃が読めなくなったんだ。三十郎の体がゆらりと動く。次の瞬間には弥勒のこめかみに回し蹴りが炸裂していた。弥勒は一撃で床に沈んだ。って本当にこれが武闘派宗教団体の教祖かよ。弱い、弱すぎるぞ。
雄たけびとともに三十郎が跳び上がった。カエルのようにのびている弥勒の腹に決めのパンチをお見舞いする。渾身の一撃。弥勒は豚が絞め殺されるような声をあげて泡を吹き気絶した。
三十郎は、わなわなと震える握り拳を見つめている。最後の決めポーズなのだろう。でも相手が弱すぎて、とても空しい。
「くそー、くそっ、くそっ。ちっとも面白くないっ。俺が求める強い奴はどこにいるんだっ」
あっ、三十郎が壊れた。泣くなよ三十郎。晩飯おごってやるからさ。
こうして雅志は家宝のガラクタ、いや茶碗を取り返すことができた。
謎の鉢巻は燃やしてしまった。三十郎に言わせれば、闘いの駆け引きを無効にする邪道のアイテムってことだ。その三十郎は、ほとんどヤケ食い状態の晩飯の後、再び闘いの旅に出た。
それから一週間、雅志は日高と口をきいていない。クラスメートの噂では、むやみに人を殴る癖はなくなったようだ。町の空手道場に入門したって話もある。それを聞いた体育教師は、あの不良がついに改心したかと涙を流して喜んだらしい。
雅志は、実は日高が決定的に間違った道に踏み込みつつあるんじゃないかと思う。ま、どうでもいいんだけどね。
『輝きの拳』は空中分解したらしい。新聞に小さく教祖・弥勒が頭を丸めて出家したとかいう記事が載っていた。教祖が出家だって。最後までとぼけたおっさんだ。
下校途中の雅志は空を見上げてふと思った。三十郎は、この広い空の下のどこかで強い相手とめぐり会えただろうか。満足な闘いができただろうか。たった一週間前のことが遠い昔のように感じられた。
玄関をくぐると薄汚いスニーカーが目についた。
「お客さん?」雅志は廊下で出くわした父・雲光に尋ねた。
「うむ、今朝境内に腹をすかせた行き倒れがおってな、これも何かの縁と飯を食べさせた。これが千年杉三十郎といって実に面白い男で・・・」
って、やれやれ。
おしまい