"カラーン………カラーン………"


 小高い丘の上にある学校から、鐘の音が聞こえてきた。
その音色は15年前に聞いた音とまったく変わってなく美しく澄んだもので、なんだか鐘自身が喜んで鳴らしているようにも聞こえた。

1 炭鉱の街「音士別(おとしべつ)」

 北海道の内陸部、道央の空知地区。かつては至る所で石炭が産出され、わが国の高度経済成長時代を支えたと言っても過言では無かった。 当然石炭の出る場所には炭鉱ができ、ふもとには大規模な炭鉱街が形成された。夕張・美唄・芦別・三笠・歌志内などとともに、ここ「音士別」も そんな炭鉱街のひとつであった。
 音士別……正確には「神威(かむい)市音士別」である。神威市は現在人口1万5千人ほどの過疎化が進む小さな街であるが、最盛期の昭和30年 代には10万人を超えたこともあった。当時神威市内には大小合わせて約10ヶ所の炭鉱があり、なかでも本町地区の「四菱炭鉱神威新鉱」「五井 鉱業神威鉱」、日西地区の「北海炭鉱神威日西鉱」、そして音士別地区の「空知炭鉱音士別鉱」が産出量も豊富で、「神威四鉱」と呼ばれるほどで あった。

四菱炭鉱神威新鉱立坑
空知炭鉱音士別鉱立坑

 音士別地区は、神威市中心部から車で北東へおよそ30分の距離にある、自然に囲まれた土地である。開拓当初は農林業主体であったため、 人々が居住し生活していくには不向きであった。しかし昭和3年4月、森林伐採作業中に大規模の露炭層が発見され、これに目をつけた当時の 四菱・五井といった財閥が炭鉱会社を設立し、一挙に炭鉱主体の街へと変貌させてしまった。街はそれ以降発展を続け、炭鉱自体も規模の拡大 を図るなど、人口も音士別地区だけで2万人も超え神威市からの分町問題も発生したほでであった。
 ところが華やいだ期間は長くは続かなかった。石炭から石油へ、そんなエネルギー革命とともに炭鉱は次々と閉鎖され、炭鉱街は大規模な人口の流出に伴いただただ寂れて ゆくしかなかった。夕張市鹿島地区、美唄市常盤台・我路地区、芦別市頼城地区と同じように、ここ音士別もかつての賑わいは全く見られなく なった。さらには新ダム建設により水没が予定され、閉村がほぼ決定となっていたのだが、かつての住民たちによる様々な活動により、 音士別小学校を含む一部の地域が奇跡的にそのまま残る形となった。

 私はそんな音士別で生まれ、小学校卒業まで両親とともに暮らしていた。ちょうど小学校6年の時に炭坑の閉山が決まり父親も職を失い、 私の卒業と同時に札幌へ転勤したのである。私の通っていた「音士別小学校」は国道沿いの小高い丘:通称「音小(おんしょう)の丘」の上に 建っていた。3階建ての立派な校舎でグラウンドもかなり広く、奥にはテニスコートやプールがあった。そもそも炭鉱全盛期には36学級14 00人もの子どもたちであふれ返っていたという。ちなみに私が卒業する頃には、炭鉱閉山後の大規模な転出により6学級85人にまで生徒数が 減ってしまっていた。


音士別小学校

 音士別小学校(以降音小と記す)の屋上には大きな鐘があり、始業時間や終業時間など常に綺麗な音を奏でていた、と同時に音士別地区全体の アラーム時計のようなものであった。つまり消防署の正午のサイレンのように、音小の鐘の音が生活の一部となっていたのである。
 この鐘は開校当初からあったわけではない。かつて空知炭鉱音士別鉱(以降音士別炭鉱と記す)が規模拡大のために新たに開鉱した「音士別 南鉱」の近くに、「鐘石(かねいし)」という炭鉱街が形成された。聞くところによれば、岩盤を掘削した際に中でコロコロと音がする石ばかり 出てきたために、そのまま地名に「鐘石」と名付けたとのことである。その鐘石地区に「鐘石小学校(以降鐘小と記す)」があったのだが、 昭和41年の「音士別南鉱落盤事故」「音士別南鉱ガス流出事故」と相次ぐ事故により炭鉱が閉鎖され、それに伴う人口の流出・生徒の激減により 翌年音小に統合されたのである。鐘小はわずか12年という短い命で閉校を迎えることとなった。 当時は「音小対鐘小」での対抗戦がさまざま開催され、対抗戦があるたびに街中がお祭り騒ぎとなっていた。
 鐘小の閉校が決定した時、両校のPTA、児童会、職員会議では次のような事柄が案として出された。

 ・音小の空き教室を「鐘小記念館」として一般に公開できるよう整備する。
 ・閉校記念碑を校門脇に建立する。
 ・毎年春と秋の2回、音小において「鐘石探検隊」と称した全校遠足を開催する。
 ・鐘小との統合記念として、音小の屋上に大きな鐘を設置する。

 以上の4点は最終的に決定されたが、そのうち「鐘石探検隊」は毎年秋の1回だけに減らされ、昭和60年には鐘石地区の閉村により中止 されてしまうのである。鐘小の閉校式典で最後の校長となった松永欣一さん(神威市在住)は、

「音小とともに歩んだ12年間は鐘小の誇りである。」

と、涙を流しながら読み上げた。そしてその言葉は、鐘小の閉校記念碑にそのまま深く刻まれることとなった。
 鐘の設置は学校関係者だけでなく音士別地区の住民、さらに神威市全体の支援のもと鐘小閉校式典の3日前に完成した。鐘の名称は、 音士別の「音」と鐘石の「鐘」を組み合わせ、「音の鐘(おとのかね)」と名付けられた。もちろん閉校式典でその鐘の音は披露されたのだが、 この話題は当時の全国版ニュースに取り上げられるほどであった。 (つづく)

鐘石小学校
同 閉校記念碑