私の見た中国
『半睡半醒(バンスイ・バンシン)』



東出 隆司


 夜中に目が覚める。夜中なのか明け方なのかもはっきりしない。目を開けず
ともまだ夜が明けてないのは感じで解る。一体何時なんだろう。何か夢を見て
たようだ。喉の渇き。トイレにも行きたい。空気がひんやりしてる。きっとま
だ朝早いのだろう。今見ていた夢の所々を思い出す。つながらない筋書。何で
こんな夢を見たんだろう。夢というやつはそういうもんさ、と納得させる。ハ
ッキリしない頭。霞がかかったような頭。そのくせ色んな事が次々に浮かんで
は消えてく。考えは飛躍し纏まりがない。どれも短くて、一貫性がない。今、
心配事に心砕いていたと思ってたら、突然、奇抜な着想が思い浮かぶ。なんで
こんな事にもっと早く気が付かなかったんだろうと、今思い浮かんだ着想の妙
に一人悦に入ってる。そうかと思えば、今見たばかりの夢の記憶の欠落した部
分がやけに気になる。いくら考えても思い出せない。奇妙な夢。とぎれとぎれ
の場面。最後の方はまだ覚えてるが、この先が知りたい。もう一度眠ったら続
きが見れるだろうか。まだ目を開けずにいる。開けたところで暗いのは解って
る。それよりもう少しこの状態のままいたい。ボンヤリした頭で、時折とって
も良い考えが思い付く。睡ている自分を見ているもう一人の自分がいる。もう
一人の自分は醒めている。どれくらい長いことまどろみの中にいるのか。とっ
ても長いようにも思えるし、ほんの数分のようにも思える。夢うつつ。何処ま
でが夢なんだろう。醒めてる自分も本当は夢の中の登場人物かも。とすれば、
そう考えている自分は誰なんだろう。                  

 そろそろ目を開けようか。でも、この心地好さ。勿体ない。もう少し夢心地
を楽しみたい。前にもこんなことがあって、こんな風なことを考えてた。それ
は何時のことだろう。つい昨日のことのような気もするし、ずっと昔のことの
ようにも思える。考えが堂々巡りを始めた。微かな明かりが感じられる。夜明
 けが近いらしい。鼻孔を擽る匂い。空気の中の僅かな湿気。肌で感じるひかり。
緩やかな空気のながれ。かすかな物音。                 
 劇中劇を見せられたような不思議な感じ。靄が、陽が昇るのにつれて少しず
つはれて、回りの様子が見え、向こう岸の景色が見え出すように、頭の中が徐
徐にハッキリしてくる。                        
  ここまできて、ハタと気が付く。どうやらここは自宅ではないらしいことに。
だとすれば、何処だろう。道理で。鼻孔をくすぐる空気が違う。目を開けずと
も部屋の大きさの違いも分る。匂いも。音も違う。そうだ、旅先だ。    
  何処だろう?日本を発ったのは何日前だ?昨日は何処にいた?今日の予定は?
段々に現実に引き戻される。今更もう先程の夢路には戻れまい。目まぐるしく
色々なことを考えてるような、そうでもないような。           
 寝返りを打つ。いつもと違う枕。観念して薄目を開ける。やはりそうだ。高
い天井。分厚いカーテン飾りのない部屋。外の明かりがほのかに見える。再び
眼を閉じ、惰眠をむさぼろうとする。今いまの夢うつつの世界を暫く反芻して
いる自分。                              
 旅先でこうして朝を迎える。この頃、時折自宅にいても朝目覚めの際、旅先
と錯覚し慌てる。                           

 しばし、このまどろみを楽しむ。取り立てて、急ぎ起き出す用とてない。今
日は何をしよう。そろそろこの街を離れ何処かへ向かおうか。残された日数と
相談しなくては。                           
 その時、突然廊下からの大声で叩き起こされる。『カン・ウェイ・イエ!』
女性の声。近くの部屋の連れを呼ぶ。怒ってでもいるかのような語調。折角、
気持ち好くていたのに。こんなに朝っぱらから何事だ。少し間をおいて又、叫
ぶ。『カン・ウェイ・イェ』と。私の泊まるホテルは余り高級でないせいか、
こういう経験は度々ある。安普請のせいで、外の声もよく聞こえる。でも、あ
んなに大声なら大概どんな造りでも聞こえてくるだろう。とすれば、高級ホテ
ルだってこんな事がありそうなもんだ。いや待てよ、構造上の問題なんかでは
なさそうだ。高級ホテルは行儀の好い客が多いから、廊下で大声を出す客はい
ないからじゃないの、と気付く。                    
 半分寝ぼけてる割にはどうして仲々、良いところに気付くんじゃないの、と
一人満足。そう言えば、最近では彼等も、部屋の電話を使って連絡する事を覚
えたらしく、この手の人も少なくなった。内線を使えば好いのに。結構冴えて
る。                                 

 その時、又もや更に大声が。音からすると、「康カン衛業ウェイ・イエ」て
な字だろう、と当たりをつける。ますます冴えてる。当ってるかどうかは分ら
ないが。ややあって、何やら話し合ってる。「カン・ウェイ・イエ」のお出ま
しらしい。二言三言話し合ったと思ったらもう終わったらしい。人騒がせ。夫
婦だろうか。同僚だろうか。どうでも良いことだが、気にかかる。中国の人は
夫婦でもお互いを呼び合うのに、フルネームで呼ぶ。勿論敬称なし。ハタ、と
考える。日本人でフルネーム敬称なしで呼び合うことなどあるだろうか。私の
記憶では、フルネームで呼ばれたのは卒業式の時ぐらいのものだろう。日本に
居て自分の名をフルネームで呼ばれることなど滅多に無い。いや、ほとんど無
い。それが中国の人達は我が子を呼ぶのもフルネーム。          
 どうもこれに慣れない。日本人の名は長いからだろうか。中国の人は一般に
姓が一字、名が一字か二字。一字の姓はそれだけ呼んだんでは、何とも具合が
悪い。そこで少し親しい間柄になると、姓の上に「小(シャオ)」だとか「老
(ラオ)」を付吋て、例えば「李(リー)」さんだと、若ければ「小李」、年
配者には尊敬の意味で「老李」と呼ぶ。「小」、「老」を付けたら必ず姓のみ
 添える。役熾や敬称を添える場合も姓のみで、「李科長」、「李老師」と使う。
何故か一字姓とこれら敬称は至極おさまりがいい。            
 例えば、「張紅(ヂャン・ホン)」と知り合い、「張小姐(シァオ・ジェ)」
と当初呼んでたら、いつの頃か「小姐」(若い女性に対する敬称)は止めて下
さい、と言われて以降「張紅」と呼び捨てにするようになって、むこうからも
「先生(シェン・シャン)」を取って「東出(ドン・ツゥー)」と呼ばれるように
なった。私の姓は日本語より中国語の方が呼び易いらしく、少し親しくなると
 皆、ドン・ツゥーと呼んでくれる。但し、日本人の姓は矢鱈に種類が多いので、
上手く中国語ではいかない姓もあったりする。こんな時はどうするんだろう。
なんせ、姓だけで四文字、名が三文字なんてのも珍しくないからなあ、等と呑
気なことを考えてるうちに、とうに陽も昇ってる。            

 長くなったが、これが「あなたは二十一世紀をどこで、どんなふうに迎えま
すか」の質問の答え。                         
 計画性がないのでどの街になるかは分らんが、年末年始は中国で過ごす。世
紀が替わるのにも大して感慨もない。怠惰。何処に居っても、「半睡半醒」で
いるだけ。ある人に言わせると、お前の暮らしそのものが、「半睡半醒」だと
言う。確かにそうかも知れん。代わり映えしませんが、          

 どうぞ今年もよろしく、お願いします。                

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