ミステリーとアメリカの図書館

海外ミステリーのお好きな方なら、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)という名前をお聞きになった方が多いだろう。作家、評論家などの正会員のほか、出版社や書店関係者などの準会員を含めると、会員数は二千三百人にものぼる。毎年四月末には、エドガー賞夕食会がニューヨーク・シェラトン・ホテルで開かれ、その席上で発表される受賞作は、日本にもいち早く翻訳、紹介される。まさに、アメリカ・ミステリー、いや世界のミステリーの総本山的存在である。
 が、このMWAのことを知っている人でも、マーカンタイル・ライブラリーのことをご存じの方は少ないのではないかと思う。
 MWAの本部は、ニューヨークのマンハッタンの中心部、東四十七丁目十七番地にある古びたビルの六階にあるが、実は、マーカンタイル・ライブラリーは、この地上八階、地下一階のビルの家主なのである。
 このビルにはMWAをはじめいくつかの文化団体が入っているが、マーカンタイル・ライブラリーは、このビルの地下と地上三階を使っている会員制の図書館なのだ。
 実は、私は昨年三月にMWAの会員にしてもらったので、半年ほどコロンビア大学のジャーナリズム大学院に名ばかりの客員研究員として籍を置かしてもらっていた時期に、マンハッタンの私の住むコンドミニアムに近いこのMWA本部を何回か訪ねた。ところが、このビルの六階に行くには、一階の図書館を通って行かなければならないので、行くたびに一体この図書館はどういう図書館なのかと気になったのである。
 マルセル・プルースト協会を後援するこの図書館は、純文学、ノンフィクションのほか、ミステリーなど併せて十五万冊の本を所蔵して会員に貸し出している。この内約一万二千冊がミステリーで、この中には、アガサ・クリスティーのアメリカ版の初版本の全冊をはじめ、クイーンやヴァン・ダイン、ハメットなどの戦前の名作などが多数含まれている。 会費は年間七十五ドル。これで現代ミステリーを含むすべての本が借りられるし、調べ
ものをしたければ、二階の立派な閲覧室も利用できるのだから安いものだ。
 試みに、江戸川乱歩が評論集『幻影城』の中で、倒叙ミステリーの一例として取り上げているイーデン・フィルポッツの『極悪人の肖像』があるかどうか尋ねたら、若い女性が地下の書庫から持って来てくれた。一九三八年に出たもので、未訳だし、原本を手にした人は日本でもほとんどいないはずである。
 こんなふうにマンハッタンに住んでいる時は、この図書館から時々戦前の名作を借り出して、当時の時代を懐かしみながら古びた本のページを繰ったものだった。
 ミステリーは、恐らく小説の中で昔から最も読者に親しまれているジャンルだが、これまではほとんどが読み捨ての消耗品として扱われ、研究の対象にされることが少なかった。 そのため、その文献資料は、限られた専門研究者か熱烈なマニアが収集するだけだった。戦前の探偵小説雑誌や探偵小説は、読みたくても読めないし、今では値段が高くて買うにも買えないのが実情である。
 最近まで欧米でも似たり寄ったりの状況だったのだが、大衆文化研究が盛んになり、社会学でもいわゆるカルチュラル・スタディーズの試みが注目されるようになってから、少し変わって来た。
 五年前にパリの市営のミステリー専門図書館(BILIPO)が開館、日本でも昨年四月に光文シェラザード文化財団によるミステリー文学資料館がオープンしたのもそういう新しい動きの一つといえるだろう。
アラン・ポーというミステリーの生みの親が生まれたアメリカでなぜミステリー専門図書館がないのか私はかねがね不思議に思っていたのだが、実はマーカンタイル・ライブラリーというのがすでにあったわけである。
ただし、この図書館には、ミステリーの研究・評論などの資料はわずかしかない。
が、心配はご無用。その手の本は、五番街の四十二丁目にあるニューヨーク・パブリック・ライブラリーの調査研究図書館(Center for the Humanities General Reseach Division)に数多く所蔵されている。 
 この図書館はマンハッタンの他のパブリック・ライブラリーと違って貸し出しはしていないが、二百万冊以上の蔵書を持つ実に役に立つ、素晴らしい図書館である。この図書館も家から近かったので、運動がてらよく歩いてかよったものである。
 ミステリーについては、閲覧室の入り口近くに同館の専門家の作った、主要参考文献が掲載されているリーフレットが用意されている。SFのリーフレットもあり、この図書館では、ミステリーやSFがちゃんと研究対象とされているのである。
 ミステリーの研究・評論の文献は英語だけでなく、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語などさまざまな国の資料が用意されている。この点はパリのBLIPOに似ている。ただ、ここにはBIPLOやマーカンタイル・ライブラリーのような古典的な探偵小説のコレクションはない。
 こんなふうにミステリーの資料を整備する動きが加速する中で、大学の研究者の中にもミステリーをもっと学問的にちゃんと研究の対象にすべきだという人も出て来た。
 「殺人はアカデミック」というニューズレターを個人で発行して来たハンター・カレジ文学部のB・J・ラーン教授もその一人で、この考えに共鳴するマーカンタイル・ライブラリーのハロルド・バウゲンバウム館長は、ラーン教授の協力を得て昨年五月、初めて、「ニューヨーク・フェスティバル・オブ・ミステリー」という大学教授、評論家などによるパネル・ディスカッションを中心とした催しを開催、私も顔を出したのだが、一人一万円くらいの高い会費なのに、一般市民が二,三百人も参加したのには驚いた。
 ニューヨークには、「マーダー・インク」、「ブラック・オカード」、「ミステリアス・ブックショップ」、「パートナーズ&クライム」など多くのミステリー専門書店があって、作家の署名本などを置いたり、作家を招いてさまざまなイベントも企画していて、アメリカのミステリー・ファンの層の厚さに改めて感心させられた。
 コロンビア大学の図書館では、本業の大学でのマスコミ、ジャーナリズム研究のため、レーマン・ライブラリーのお世話になったが、疲れた時にコンピューターでどんなミステリー関係の資料があるか調べたこともある。大学図書館にはミステリー関係の作品や研究・評論は、余り置いてないが、有名作家の原稿などは特別コレクションとして所蔵していることが多い。 
 昨年十月から西海岸に移り、今年の三月末までカリフォルニア大学バークレー校の日本研究センターに籍を置かせて頂いたが、同じ大学のロサンゼルス、アーヴァン校などには、ハードボイルド作家の巨匠ハメット、チャンドラー、ロス・マクドナルドなどの原稿など貴重な特別コレクションがある。
もう一つ日本と違うのは英米の大学の出版局では、ミステリーの研究・評論書を数多く刊行していることである。オハイオ州のボーリング・グリーン州立大学 のポピュラー・プレスという出版局は、ミステリー関係の研究・評論の本を専門に出していることで有名だが、例えば、昨年十一月には、オックスフォード大学出版局からローズマリー・ハーバート編のThe Oxford Companion to Crime & Mystery Writingという大部のミステリー・ガイドが出版され、日本のミステリーの現状も紹介されている。
 こういう動きを見ると、ミステリー・ブームにわく日本でももっと研究・評論が重視されてもいいなと改めて感じた次第である。

(別冊文藝春秋・掲載)


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